第九十六話 御曹司、作戦会議をする(2)
キルシュヴァッサーは考える。
ローズマリーにとって、自分の入れたお茶はどのように感じるのだろうか。
しょせん、ここに再現された〝味〟というのも、人間の脳に錯覚を与えるための量子情報に過ぎない。情報を〝味〟として受け取るのは脳の仕事だ。それでもヨザクラは、人工知能ローズマリーは、カップに口をつけ、ぎこちない仕草でそれを飲んだあと、こう言った。
「美味しいです」
「それは結構」
本当にそのように感じたのかどうか、調べる術がない以上、疑っても仕方のないことだ。
ローズマリーは当初戸惑いもあったようだが、それでもすぐにヨザクラのアバターを動かすことに慣れた。彼女が、ナロファンの管理プログラムとして機能していた頃、おそらくは多くのユーザーが無意識下で身体を動かす際の脳波を記録し、蓄積させている。そうしたものが生きているのかもしれなかった。
ま、難しいことはわからないのだけど。私、文系だし。
キルシュヴァッサーにとって重要なのは、このローズマリーが不正アクセスの主犯であり、いま自分をマンション内に閉じ込めた張本人であること、付け加えるなら、主人である一朗に恋心を抱いているということの3点である。重要なのは前の2点だが、ほじくり返したくてしょうがないのは最後の1点だった。
「では、ヨザクラ、」
「はい、お父様」
「私のことを脅威と認識していると言っていましたが」
「はい」
椅子に腰掛けたまま、ヨザクラは無表情で頷く。
「イチローと関わりのある女性は多くいますが、同棲経験があるのはあなただけと認識しています」
「純粋無垢なAIが、どこでそんな言葉を覚えてくるんでしょうねぇ」
同じ場所に棲んでいるのだから、同棲には間違いないが。
「私はただの従者、使用人に過ぎませんよ」
「使用人は主人の夜伽をするものだと認識しています」
「えっちな漫画の読みすぎです! 2週間もネットに潜んでなにやってたんですかねぇ!」
これは教育が必要だ。キルシュヴァッサーは痛感した。人の家の回線を勝手に使って不正アクセスを繰り返したばかりでなく、よもやそうした知識の収集を続けていたとは。
いや、違うのか? これは集合知集積システムとやらの力なのか? 確かにVRMMOに傾倒するディープなゲームユーザーならば、大半がそうした偏った知識を持っていたとしてもおかしくはない。貞操観念が一般よりしっかりしているという自負のある扇桜子にだって、『主人と従者は肉体関係を持つもの』という創作物の基本知識はある。えっちな漫画の読みすぎだ。
キルシュヴァッサーがおののき、自問するさなか、ギルドハウスの扉が勢いよく開け放たれた。
「キルシュさん、いるのか!」
何を隠そう、キリヒト(リーダー)である。ヨザクラは無表情だが、飛び込んできた彼の剣幕に2、3歩引いていた。
「いらっしゃいませ、どうなさいましたかな」
「ハウス前で張っていたら、中からキルシュさんの市川治ボイスで『えっちな漫画』とか叫んでるから気になって仕方がなかったんだ」
「あぁ、それは……」
と、言いかけたところで、キリヒト(リーダー)の視線に気づく。彼はキルシュヴァッサーとヨザクラを交互に見つめ、困惑をあらわにしていた。
「キルシュさんとヨザクラさんって同じ人じゃなかったっけ」
「アカウント2つ持ってますからな。ヨザクラは今友人に貸しています」
ユーザーアカウントの譲渡や貸与はあまり褒められた行為ではなく、運営に見つかればお叱りを受ける。が、アクティブユーザーの総人口が1万人程度であり、botの作成が技術的に難しく、またRMT業者ものさばっている様子がないナロファンにおいて、まだまだそのあたりの実規制は緩いというのが実情だ。実際、ストロガノフやキルシュヴァッサーの育成代行について、運営から警告が来たことはない。
おおっぴらには言えないことだ。会話ログを取られ、記録される以上は、それなりに危ない橋という自覚はある。キリヒト(リーダー)は、『ふーん』とだけ言って、話を切り替えた。
「ニュース見たんだけど、ツワブキさんが逮捕されたってマジ?」
「えぇ、まぁ」
そういえば、もう報道されていたなと思う。ヨザクラは相変わらず無表情だが、視線を合わせないようにしていた。
「私の知る限りは冤罪ですし、今は保釈されているということですが」
「そっかぁ。みんな割りと大騒ぎだよ」
「そうでしょうなぁ」
ツワブキ・イチローは有名人である。10日のセレモニーを通して、彼が実名プレイというのは多くのプレイヤーが知るところとなっていたし、報道もそれなりに大々的なものだったから、この展開もさもありなんだ。
「でもツワブキさんがそんなことするはずないって思ってたからな! 俺は信じてた!」
「本当に?」
「実はあの人なら何かやらかすかもしれないと思ってた!」
「正直は美徳ですな」
話すにつけ、キルシュヴァッサーにはふと、思いつくことがあった。背後でだんまりを決め込んでいるヨザクラに振り返り、こう話す。
「ヨザクラ、あなたはイチロー様に関する認識が若干不足しているように感じますな」
「否定はしません。私は彼のことをもっと知るべきです」
「では、外に出ましょう」
キルシュヴァッサーは、キリヒト(リーダー)によって開け放たれた扉から、グラスゴバラのメインストリートを見る。
「ツワブキ・イチローがどのような人間か。いろんな人に聞いてみるのも良いでしょう。私があなたにとって脅威というのは、やはりいまひとつピンときません」
「その認識に変化はありません。ですが、良いのですか」
ヨザクラの平坦な声音が何を心配しているのか、キルシュヴァッサーは一瞬測りかねた。
が、すぐに理解する。ヨザクラがキルシュヴァッサーのサブアカウントであることは、それなりの数のプレイヤーが知ることだ。往来を歩くことで、キルシュヴァッサーによるアカウントの貸与が明るみに出ることを、彼女は懸念している。
「まぁ通報されて警告が来たら諦めるしかありませんが。でも、イチロー様のことをもっと知りたいんでしょ?」
ヨザクラには、やはり数秒の逡巡があった。最終的に彼女はこう答える。
「はい」
「よう、石蕗」
入ってきたのは、よれよれの黒いスーツを着た長身の男だった。たぶん、ベルサーチだと思うのだが、ろくにアイロンがけもしていないのが丸分かりで、未来のファッションデザイナーを志す杜若あいりとしては、これが甚だ不愉快であった。イタリアの巨匠をなんだと思っているのか。
長いのは背丈だけでなく手足もである。おかげで、〝ひょろり〟という擬音がよく似合う。御曹司も180センチくらいはありそうだが、この男はもっと背が高かった。
「やぁ、著莪」
そう答える一朗の態度は、いつも通りの涼やかさである。
「ずいぶん美味そうなもん食ってるな。なんだそれ」
「カマスだよ。君の分はここにある」
「それ絶対違う魚だろ! ししゃもだろ!」
これが一朗の言っていた性格の悪い弁護士なのか。あいりは困惑した。何に困惑したって、今のところどう見ても一朗の方が性格悪そうだったことである。彼がこのように意味のない意地悪を働くというのも新鮮ではあったが。
著莪と呼ばれた男は、あいりの横にどっかりと腰を下ろして、黒いソフト帽を畳においた。なにやらタバコ臭い。顔をしかめるあいりに、男は名刺を取り出して渡した。
「どうも、俺、こういうもんだけど」
「あ、どうも。えっと、著莪法律事務所。著莪俊作。弁護士さんなのね」
「痴漢冤罪で慰謝料をふんだくりたい時は相談に乗るよ」
不良弁護士だわ、と思った。
「あたし、杜若あいりです」
「あー、聞いたよ。うん。カキツバタって、あれだよね。アヤメの仲間だよね。シャガもそうなんだよ。アヤメ仲間ってことで、まぁよろしく」
「えぇっと、うん」
握手のために差し出された手は、細身の印象に反してやたらとゴツゴツしている。あいりは、一朗と著莪を交互に見てから、ちょっとした疑問を口にした。
「著莪って、あの、探偵社の?」
「おっ、知ってんだ。懐かしい話するなぁ」
確か、アイリスブランドのギルドスポンサーとなった探偵社は、石蕗・著莪・染井の連名だったと聞く。そうそうある苗字でもないから、ドンピシャなのだろうと思っていたが、やはりドンピシャだったらしい。
「腕は立つが性格の悪い弁護士、正義感は強いが良識のない元新聞記者、そして金と才能はあるがそれ以外が何もない御曹司の3人でやっててな。俺はその性格が悪い弁護士だった」
ロクなやつがいない。
「当時は東京湾岸エリア一帯を恐怖のズンドコに陥れたもんだよ。なぁ?」
「なんかその話、すっごい気になるんだけど……」
「話せば長くなるし、その割には大したものじゃないよ。聞きたかったら今度ヒマな時にでも話そう」
さて、どうやら著莪は、前回のアカウントハック事件の際、シスル・コーポレーションの弁護士として御曹司が推薦した人間らしい。一朗は彼について、性格はともかく実力に関して相当信頼していると見え、社会的にも立場の危ぶまれたシスルを救う意味でも、彼を紹介したという。結果として、シスルはポニー社によって半ば買収されたような立場に追いやられたものの、企業としては存続しているし、ナローファンタジー・オンライン自体も引き続き運営できている。
その後もシスルの専属弁護士として法務関係を引き受けた著莪は、今回の件の内情にも詳しいのではないか、と思っての招聘であった。それ自体に間違いはないらしい、が、著莪は苦笑いのようなものを浮かべている。
「やっぱりシスルは社長さんが弱いなぁ。ほとんどポニー社に押し切られる形でさ、彼女、ほとんど蚊帳の外だよ」
そう言って、著莪はししゃもをくわえる。
「ところで、そういうのってあっさりバラしていいの? 守秘義務とかないの?」
「あいりちゃん、法律は弁護士の味方だけど、弁護士は法律の味方じゃないんだぜ」
この会話を警察が聞いていることは、教えてあげたほうがいいんだろうか。
「まぁいいや。それでさ、俺も仕事はしてるんだけど、シスルの役員経由で、ポニー社のお偉方と話す方が多かったよ。石蕗をパクるまではだいぶ悶着があったらしいけど、でもアクセスはお前んちのスパコンからだったし、今度はゲームに支障をきたすようなアクセスがあったから、通報して、令状も出て、逮捕って流れ」
「うん。まぁそのへんは警部補からも聞いた」
一朗はそう頷いて、汁物に口をつける。著莪は『あのおっさんまだ警部補なん?』とつぶやいていた。
「で、君に相談したいことを話そう」
「おう」
「犯人はローズマリーだ」
警察が聞いているのに大胆不敵な発言である。さすがに著莪も吹き出した。ちゅぽん、とししゃもが飛んで、御曹司の背後のふすまに突き刺さった。
「汚いなぁ」
「お、おう。石蕗、それマジで言ってんの?」
あいりが差し出したティッシュで口元をぬぐいながら、著莪がたずねる。
「うん。アカウントハック事件の時点で、おそらく僕の家に侵入していたんだろう。で、十賢者システムへの不正アクセスを経由して、例の事件を起こしていた。これを警察に告げて、僕の家を調べてもらうのは簡単だ。でも僕は、ローズマリーを裁くことのできる法整備が成っていないことを懸念している。できることなら、彼女が単なる不良プログラム、ウイルスの類として処分されないような結末を迎えたい」
「ん、んー」
著莪は額を抑えながら言った。
「相変わらずお前のフリは無茶が多い」
「そうした案件でもなければわざわざ君を呼ばないし、昔君から振ってきた無茶に比べれば可愛いものだよ」
こういう話になれば、あいりにはもう何がなにやらさっぱりだ。彼女の社会科関係の成績は総じて2である。ので、出された料理を粛々と片付けることにした。やや塩気があるが、全体的に上品な味付けが舌先に心地よい。カマスの焼き食い一升飯とは、よくいった言葉だわ。
一朗は、今回の事件におけるシスルの立場に関して口出しをしていなかったが、おそらく、この会社の立場も守ってほしいというのが本音だろうな、とあいりは分析していた。わざわざ口に出さなかったのは、著莪が既にシスル側の人間だからだ。もし今回の件が裁判に発展してしまえば、御曹司と著莪は敵同士になる。と、思う。
「穏便に済ませたいってのは俺も同じだよ。単なる冤罪ってだけじゃなくって、その流れだと、あざみ社長が作ったプログラムがお前んちに不正アクセスして、その上でお前を不正アクセスの主犯として通報してんだから、こっちの立場すげー悪いし」
「不正アクセス禁止法は刑事法だから、問題といえばそこだね」
「そーなんだよなぁ。不正アクセス自体をなかったことにしないと、結局誰かが悪い奴になるんだよなぁ」
しばらく頭を抱えていた著莪だったが、2本目のししゃもを口にくわえて、ぼそりとこう言った。
「ひとまず、シスル本社にでも行ってみるか?」
なんだか、社会科見学をしている気分だわ、とあいりは思った。夏休みの自由研究、アサガオの観察日記ではなくこっちにしても良いかもしれない。




