第九十三話 御曹司、怒る
一朗とあいりは、結局徒歩で三軒茶屋にある一朗の自宅までやってきた。いかにもといった高級住宅街に、やはりいかにもといった作りのマンションである。あいりは『はぁー……』と、ため息なんだか感嘆なんだかよくわからない息を漏らして、その建物を見上げた。
「これ、全部あんたん家?」
「僕の家は最上階と、あと一部だけ。他はいろんな人に貸してる」
「ふーん」
いろんな人、というのが、つまりどういう人なのか。あいりは聞かないことにした。一階のロビーから出てくる、サングラスをかけた住人は、テレビでよく見かける類の人物な気がしたし、こういうところを突っつくのもあまり趣味ではない。いろんな人というのは、いろんな人なのだろう。しいて言えば〝おカネのある人〟か。アイリスにはしょせん無縁な話である。
「芙蓉さんは住んでないの?」
「そういえば住んでないね。部屋に空きはあるし、本人が借りたいといえば断る理由はないんだけど、そういった話を切り出されたことはない」
「ふーん」
そう言えば、と一朗は思い出した。
桜子には、ついつい保釈された旨を連絡しそびれてしまった。いきなり帰ったら驚くだろうし、今からでもアイリスを連れて行く旨でも伝えておくべきだろうか。そう思って取り出したスマートフォンに、ちょうどその桜子から着信があった。正確には、一朗宅の家電話からである。
ひとまず出る。
「もしもし」
『あ、一朗さま! よかった繋がった! 繋がりました!』
さてどうしたことだろうか。いつもの桜子に比べて落ち着きがない。
『警察に電話したら保釈されたって言うから、驚きましたよう』
「連絡が遅れてすまないね。何かあった?」
『実はあの、セキュリティシステムにまた異常が出たみたいで……』
「うん?」
一朗の表情に、にわかに翳りがさした。彼はロビーに備え付けられた監視カメラを睨みつける。まさかとは思うが、いや思っていたが、よもや、そういうことであったとは。具体的に異常とは何が起きているのか、ひとまず桜子に説明を促す。
彼女の話では、まず外に出ようと思ったら家の鍵が開かなかったらしい。このマンション、電子制御のオートロック式であるからして、システムに誤作動があれば確かにそういうことは起こり得る。他の住民の出入りに支障がないところを見ると、マンション全体で起きていることではないらしい。だが、これでは桜子は外に出られないし、一朗たちは中に入れないことになる。
ちらりと後ろのあいりを見れば、首をかしげていた。申し訳ないが、彼女に桜子の手料理を振舞う機会は遅れることになりそうだ。
『どどど、どうしましょう一朗さま。パスワードもなんか間違ってるっていって入力効かないですし。私、このまま一生ここで過ごすんですか?』
「ナンセンスナンセンス。落ち着いて桜子さん」
一朗は、いつも通りの涼やかな声音で彼女を嗜める。
「まずは、えぇと、捜査員のメモ帳だっけ。それはまた取りに来る可能性があるけど、物理的に内外で遮断されているからまず渡せないね。以前使ってた、秘密書類用の小型エレベーターがまだ生きていると思うから、それで下に送っておいてほしい。彼らが取りに来たら僕が渡そう」
背後でまったく事情のつかめていないあいりが『なんでそんなのあんのよ』と突っ込んでいた。
『私がもっとスリムだったらこれに乗れたのに……』
「10×40×80の桜子さんは見たくない」
どうやらまだだいぶ錯乱しているらしいな。無理もないか。このマンションの物理的な堅牢性は、ほかならぬ桜子がもっともよく知っているはずだし。セキュリティの誤作動だけならばいざ知らず、管理画面への進入も受け付けないとなれば、やはり事情はただ事ではない。第三者の故意によって、パスワードが書き換えられたということである。目的はわからないが、犯人に心当たりはあった。
『で、ど、どうしましょう一朗さま』
「そうだね。桜子さんは言いつけた通り、いつも通りの一日を送ること。僕は君をそこから出すために、いろいろと手段を講じてみようと思うんだけど、」
『はい』
「まずは、犯人に事情を聞いてみよう」
『はい……はい?』
一朗は、再度ロビーに設置された監視カメラを睨みつけた。セキュリティシステムを掌握されているとなれば、あのカメラも彼女の目となっているのは間違いない。カメラだけではないか。一部の制御システムや、個人宅にそれぞれ引かれた回線を除けば、このマンションにおけるネットワークはすべてひとつのものに体系化されている。
「どうせこの会話も聞いているんだろう、ローズマリー」
『えっ、な、一朗さま? なに……』
事情がわからず困惑する桜子の声が、ノイズと共に少しずつ薄れていく。一朗は目を細めた。桜子の声は完全に聞こえなくなり、しばらくの静寂の後に、抑揚のない、平坦な女性の合成音声が響いてきた。
『イチロー』
「やぁ」
やはり、彼女だったか。一朗は心の奥底で嘆息する。
先日の、アカウントハックの一件。シスル本社のサーバー内から逃走した人工知能〝ローズマリー〟である。どこかに息を潜めているとは思っていたが、まさか自分の家だったとは。石蕗一朗の生涯においても、稀に見る不覚と言えた。
一朗の家にはVR技術研究のための大容量サーバーマシンとスーパーコンピューターを導入している。彼女を構成するプログラムを稼働させるには充分すぎる環境だ。ローズマリーは、一朗に対して好奇心以上の〝興味〟を持っているらしく、それを考えれば、展開は動機に関してはごく自然に思える。
「僕の家からシスルのサーバーに不正アクセスを行ったのも、君かな」
『はい、私です。イチロー、ご無沙汰しています』
「うん、久しぶり」
この時点に来ると、事情が飲み込めないどころではないあいりが、必死に聞き耳を立てようと顔を近づけてきていたが、ひとまず放置する。
「不正アクセスの件については、あとで聞こう。君に自由な振る舞いを促したのは僕だし、まぁ、君が悪意をもって行った行為でないのはわかる。少しばかり厄介なことにはなってしまったけど、何とかならない範囲ではないからね」
聞き耳を立てていたあいりの動きが、ぴくりと止まった。一朗の言葉端から滲む、微細な感情の繊毛を読み取ったのかもしれなかった。
「でも、桜子さんを閉じ込めた件についてはやりすぎだと思う。彼女を解放して欲しいんだけど」
『その要請には、即座に対応しかねます』
「へぇ」
一朗は監視カメラを睨みつけた。
「理由を聞かせてほしい。君の問題についても、僕の問題についても、彼女は関係ないと思うんだけど」
『お答えしかねます』
「つまり、君の勝手ということ?」
『はい』
どうしたものだろうか。一朗は目を閉じてしまった。
ローズマリーが何を思ってセキュリティシステムを掌握し、一朗の家にロックをかけたのかはわからない。やろうと思えばマンション全体の機能をいじることも可能であるはずだが、そうしないということは、一朗を家に入れない、あるいは、桜子を家から出さない為だ。その理由を、ローズマリーは語るつもりがないらしい。
今回の件で一朗が逮捕され、桜子の話では捜査員もやってきた。ローズマリーが彼らを外敵とみなし、二度と進入できないようにと思ってやっているのならば、理解できなくはない。だが、話せないということはそうでもないらしい。しかしこれでは、桜子は完全に監禁状態にある。一朗としては、これがあまり愉快な話ではない。
「ひとまず、桜子さんを出すつもりはないんだね」
『はい』
ならば、仕方がない。
「ローズマリー。君が自分の意思をもって、自分の思うままに振る舞うことは、僕が君に教えたことだ。そして同時に、ふたつの相反する意思がぶつかる危険性についても、説明はしたと思う」
『はい、記憶しています』
「だから、えぇと、そうだな。この件に関して、おそらく君にとっては重要だと思う情報を話す」
一朗は、いつもと全く変わらない涼やかな声音で、しかしはっきりとこう告げた。
「君は、僕を、怒らせているかもしれない」
若干の沈黙があった。一朗は、監視カメラの方を見ない。しばらくしてから、ローズマリーの声があった。
『イチロー……』
「以上だ。もし君が良かったら、桜子さんにはちゃんと待っているよう伝えて、昼食を一緒にとれないことを謝っておいて欲しい。家にある食材は自由に使ってもらって構わないから、ご飯はしっかり食べることと、あとは運動不足にだけ気をつけるようにと」
『イチロー』
「強硬手段に出るつもりはないし、君の意思は極力尊重するつもりだ。君が桜子さんに直接危害を加えることはできないしね。そこは心配していない。ただ、さっき言ったことに関しては、覚えておいて欲しい」
一朗はそれだけ言って、通話を切った。ローズマリーなりの弁明や、弁解はあったのかもしれないが、今はそれに付き合うつもりにはなれなかった。危惧されるのは、このことでローズマリーの態度が余計に硬化することであったが、その場合の最後の手段だって、一朗にはないわけではない。ただ、自分の中に芽生えた珍しい感情に関しては、ローズマリーにきちんと伝えておかなければならない気がした。
「すまない、アイリス。時間を取らせた」
「いやまぁ、別に良いんだけど」
携帯をしまいながら隣の少女に謝罪する。彼女も複数の感情が入り混じった微妙な顔をしていた。一番強いのは〝怪訝〟だろうか。
「あんた、怒ってんの?」
「ちょっとだけ。君にも事情を説明しなければと思うんだけど、話せばいろいろ長くなりそうだ」
「まーいーわよ。どうせ暇な夏休みなんだし」
一朗は大きく息を吸って、吐き出した。一回の深呼吸でだいぶ感情がクリアになる感覚がある。
「アイリス、君はいつも怒ってるからわかると思うんだけど」
「あたしはハルクか」
「怒るとお腹がすくね。昼食にしよう」
一朗が駐車場の方に歩き出すのを見て、アイリスも追いかける。おそらく何が起きているのか理解していないであろう彼女だが、一朗がたびたび視線を送っていた監視カメラに対して、少しだけ手を振って離れた。
「しかしアレよね。あんた、いつか女を泣かすと思っていたけど」
「それ、前も聞いた」
「それだけ信頼があるってことなんでしょーが」
果たしてローズマリーは泣いているだろうか。一朗は、ふと湧いた疑問について考えてみたが、今日は何やら靄がかかったように答えは出なかった。
「なんだったんだろう……」
途中からノイズが混じって聞こえなくなった受話器を、桜子は置いた。
どうやら一朗は、今回の件についておおよそ真相を掴んでいる様子である。だったらそれで、良いのだが。少なくとも、勝手に部屋に入り込んだ変質者が、勝手にパスワードを書き換えて自分を監禁したとか、そういうオチではないのだし。ならば大人しく救出を待っていればよろしい。まるで塔に囚われたお姫様だ。ガラでないと言ってしまえば、そこまでだが。
さて、幽閉状態であるとは言えど、一人で過ごすとなればこの家はなかなか快適である。もちろん、メイドとしての職務はきちんと果たすが、仕事が終わってもナロファンはできるし、未消化のアニメもあるし、箱で積んだままのガンプラもあるし、お腹が減ったら御飯も作れる。風呂もあるし、ジム設備やプールもあるんだから、気楽にいこう。
桜子は、家事を再開することにした。
一朗が最後に言った、〝ローズマリー〟という単語が気になる。人名だろうか。あの会話を聞いていたということは、盗聴器でもしかけてあったのだろうか。それともやはり、部屋に潜んでいる変質者なのだろうか。いやいや、それならば一朗はもっとはっきりと彼女に危険を告げるはずだ。
部屋の掃除を始めていた彼女の耳に、電話の着信音が届いた。静かな室内でいきなり鳴り出すのだから、ちょっと背中がびくりとする。桜子は箒を持ったまま、一番近くの電話器(石蕗邸には合計12箇所に設置されている)を取った。通話ボタンを押す。
「はい、お電話ありがとうございます」
『…………』
受話器の向こうから最初に得られた反応は、無言である。
「え、えっとー……」
『…………』
「あのー……?」
『…………』
なんだか怖い。
桜子はホラー映画が好きだ。それも、こうドロドロとした恐怖を掻き立てる、ジャパニーズホラーが好きだ。だが、自分でそれを体験したいとは思わない。よりにもよって、主がどこにいるかもわからない、この状況で。
『突然、お電話をかけて申し訳ありません』
聞こえてきたのは、平坦な合成音声だった。女性のものである。
「あ、はい。どうも」
『私は、ローズマリーです』
「ああ、あなたがそうなんですね」
安心すると同時に、先ほどとはまた別の、恐怖じみた感情が背筋をはい登ってきた。
ローズマリーとは、一朗の言っていたローズマリーなのだろうか。そうだとすれば、このセキュリティ異常の一件の犯人ということになる。そのローズマリーが、わざわざ電話をかけてくる意味とは、なんだろう。そもそも、なぜ合成音声なのだろう。
『あなたは、キルシュヴァッサー、及びヨザクラのプレイヤーですね』
突如そのような話題を振られて、桜子は面食らった。まさかのナロファンの話である。
「え、あ、あの。えぇと、あなたは?」
『私はローズマリー。偶発的に、あなたと2人きりになる機会を得られたので、このような手段に訴えました。私は、あなたと対話を行う必要があります』
奇妙な言葉遣いだ。意図してこのように話しているのか、あるいは、癖のようなものなのか。判別がつかない。だが、浮かび上がった数々の疑問符は、桜子の脳内から徐々に恐怖を追い出していってくれた。
「理由を聞かせていただけますか?」
桜子がたずねると、やはり数秒の間があってから、ローズマリーはこう答えた。
『私が、あなたを脅威として認識しているからです』




