第八十六話 御曹司、守られる(2)
尻尾の先端部は敏感であったらしい。巨獣は飛び上がらんばかりに身を弾けさせ、悲鳴にも似た咆哮をあげた。ついでとばかりに足先に力を込め、ぐりぐりっとやってから離れる。狭苦しい山道において意外なほど軽やかに、巨獣はその身を反転させた。充血した瞳が、アイリス達を睨む。
幼少のみぎりより気性が激しく、敵も味方も鬼のようにこしらえてきた彼女である。小学校の通信簿で『もう少し相手を気遣った言動を心がけさせてください』と書かれた杜若あいりの挑発スキルは、先日のパチロー事件、ギルドスポンサー事件を経て完全に覚醒した。鬼畜アイリス。外道アイリス。その能力は、例えプログラムによって制御されたモンスターのヘイトコントロールに際しても、遺憾なく発揮される。
しかし、言葉による挑発は意味を為さない。アイリスは腕を腰に当て、巨獣の前に仁王立つ。相手はでかい。とにかくでかい。アバターの身長はだいぶサバを読ませているものの、リアルのあいりは背の順で前から数えたほうが早いくらいだったので、その巨体はそれだけで驚異である。でかい奴は敵だ。
アイリスは、ヨザクラの言葉を思い出し、正面から巨獣を睨みつけた。腕に魔力を宿し、《ウィンドカッター》を放つ。立て続けに、1ダメージと3ダメージ。相変わらずしょぼい。近づいてきた巨獣は口を開き、素早く首を動かしてきた。飛び退いてよける。顎が閉じ、牙と牙が虚しく打ち鳴らされる。
モーションを見極め、逃げに徹すれば死ぬことはない。アイリスのやるべきは、時間稼ぎなのだ。巨獣の興味がこちらへ向いている間に、ユーリが向こう端まで走っている。もう一度尻尾を踏みつけてやるためだ。とりあえず尻尾踏ん付けで時間を稼ぐというせせこましい作戦に出る。
巨獣の牙やら、前脚による叩きつけやらを回避しているうち、巨獣が再び悲鳴のような咆哮を上げる。身体を持ち上げ、ユーリの方向に振り向く。瞬間、野太い尻尾の横凪が、眼前をかすめた。
「ひぇっ!」
思わず変な声が出る。
「あ、あぶなっ……!」
鍛冶師のスキルで防御性能を底上げしているとは言え、アイリスのレベルと筋力では装備できる防具もたかが知れている。顔のひと振りで苫小牧を葬り去ったところを見るに、尻尾にちょこっと当たっただけでも致命傷をもらいかねない。
しかし、尻尾はこちらを向いた。アイリスは覚悟を決めて、再びその先端部を踏みつける。悲鳴が上がった。だが、その直後、やはりアイリスは自分の浅はかさを悔いるハメになる。
先ほど彼女をビビらせたばかりの尻尾が激しくのたうち、暴れだした。アイリスは飛び退かざるを得ない。尻尾を踏んでヘイトを稼げば良いという、簡単な話では当然なかったのである。直後、巨獣は地鳴りのような咆哮の後に、勢いをつけるように二本足で立ち上がった。
「うっ、うそっ……!」
やや前傾姿勢ではあるものの、いざ立ち上がってみると、割としっくりくるシルエットである。
なぁんて、のんきに寸評をするような余裕は、アイリスにはなかった。立ち上がったままの姿勢で、大きく開いた口元に、光が収束していくのがわかった。やばい、と思った。ひとまず全速力で、足元に駆け込んでいく。向こう側からユーリも走ってきた。
口元からの熱線が放たれ、地上部を旋回するように焼き払う。まるでアレだ。そう、ゴジラだ。怪獣は絶えずビームを吐き続け、そのまま顔面を空へと向けた。射程無限のレーザーブレードを振り回すようですらあった。
ビームにはオブジェクト破壊属性があるらしい。スタッフが丹念に組み上げたであろう山脈のフィールドが、ビームのひと凪でポリゴンの残骸と更地に変えられていく。世紀末的な光景だった。アイリスとユーリは、怪獣の股ぐらで抱き合いながらそのスペクタクルシーンを見守っていた。
「あたし、ひょっとしてヤバい奴に喧嘩売ったのかしら……」
「今更だし、いつものことだと思う」
「そうよね」
あのビームの射程が知れないというのも厄介だ。御曹司たちがどこを歩いているのかは知らないが、いつどこで直撃を喰らってもおかしくはない。
「ユーリ、何分経った?」
「まだ1分ちょっと」
「な、長いわ……!」
怪獣が、その巨体を支える後脚で、ゆっくりと歩き始める。アイリスたちは踏み潰されないよう全力で駆け出した。距離が数十メートルに達したところで、再び怪獣は前に倒れこみ、四足歩行へと形態を戻す。全速力の十数秒が、たったの一瞬でゼロに戻った。
強敵を前にして、ユーリの表情が険しくなる。
「かくなる上はアイ、私も肉弾幸で……!」
「だめ、だめよ! どんな手段を使うとも言ったけど、友達が目の前で死んじゃうなんて絶対だめ!」
「それって、散った8人は友達じゃなかったってこと?」
「みんな友達よ。忘れてただけだわ!」
彼らにとってどっちが良かったかは聞いてみないとわからないな。
「とっ、とにかく。戦うわよ」
アイリスは、意味のないファイティングポーズを取りつつ、眼前に迫る巨獣の顔を睨みつけた。時間は稼げているのだ。あと3分ちょっと。いつ死んでもおかしくないこの戦いを、最後まで生き抜く。
「ここで諦めたら芙蓉さんにだって顔向けできないわ!」
「わたくしがどうかしました?」
「ひゃあっ」
驚いたり怯えたり覚悟を決めたり驚いたり、忙しい少女である。
アイリスが振り向くと、そこには芙蓉めぐみが立っていた。いつログインしてきたのかはわからないが、さすがにゲストIDは便利だ。ワープフェザーが機能しないこのフィールドへも直接飛んでこれるとは。
「ふ、芙蓉さん……。来たのね……」
「お仕事は大丈夫なんですか?」
「ちょっと時間が取れたので来ましたの。いれても1時間くらいかしら」
芙蓉は、この場にヨザクラやキリヒツがいないことをさして疑問にも思わない様子で、アイリスにまずたずねた。
「で、ココさんはどんな方でしたの?」
「え、えぇと、それはその……」
アイリスは一瞬答えに窮してから、背後に荒い鼻息を感じ、それどころではないことを思い出す。まずは状況を理解してもらうために、芙蓉の視界から退いてみた。彼女の目の前にも、怪獣の顔面が姿を見せたはずだ。さすがの芙蓉も、これには驚いた様子で、目を丸くしてからこう言った。
「これが……ココさん?」
「違うわ」
否定したあとで、怪獣とゴリラだったらどっちが芙蓉にとってマシかな、と思う。
ひとまず、かくかくしかじかで情報を伝達する。簡潔な説明だが、芙蓉は即座に頷いてくれた。そして、こともあろうにこんな提案をしてくれたのである。
「わたくしも協力しますわ」
「きょ、協力しますわと言われても……」
芙蓉さん、ゲストIDじゃないの。
各種ステータスは運営によって超高レベルに設定され、決して戦闘に敗北しない不死属性を与えら得ているが、芙蓉からなんらかの戦闘的アクションを働きかけることはできないのだ。加えて言うなら、MOBのヘイトが芙蓉に対して溜まることもない。怪獣の動きをひきつけることもできない。
だが、芙蓉の眼差しは本気であった。彼女は、熱を込めた口調でこう言う。
「わたくし、ずっと考えてましたの。アイリスさん、わたくし、一朗さんが喜ぶようなことは何一つしてあげられないけど、陰ながらあの方の手助けができるなら、なんでもやってみようって」
「芙蓉さん……」
なんていじらしい女性であろうか。初めて会ったときの嫌味っぷりをすっかり忘れ、アイリスは芙蓉の背後に後光すら見た。なんでこんな人が御曹司なんかに。世の中って不条理だわ。
感極まりつつも、アイリスは、怪獣が大顎を開き、口内に光が収束していく様子を見逃さなかった。ユーリがにわかに焦り出すのがわかる。
「芙蓉さん、あたし、あなたのこと尊敬してるわ。デザイナーとしても女としても」
「そんな、アイリスさん。照れますわ」
「だから、あのね、芙蓉さん」
「はい」
アイリスは、次の言葉と共に、とっさの考えを実行に移すことに、何の躊躇いも持たなかった。
「ごめんね」
「へっ」
怪獣の口内から、光の奔流が放射される。アイリスは、芙蓉の背後にまわってしがみついた。ビームは、2人を飲み込んで地平の彼方までを焼き尽くしていく。いや、その光の中にあっても、2つのアバターは形を失っていない。かなりきわどいところではあったが、豊満な芙蓉のシルエットは、細身であるアイリスの遮蔽物として機能していたのである。
思ったとおりであった。あらゆる属性を無効化するのが、ゲストIDに備えられた《不死属性》であるという。ならば、ビームの持つ貫通属性もまた、芙蓉の身体を突き抜けることはできない。彼女の背後に立つ限りにおいて、あらゆる攻撃に対して無敵になれるのだ。
芙蓉は悲鳴をあげた。
「あっ、アイリスさんっ! あ、あなた何してるかわかってますの!?」
痛くも痒くもないはずであるが、少なくとも身に感じた恐怖は本物であろう。
「ごめん、ごめんね! 芙蓉さん、あたし、酷い女だよね!」
だがおそらく、ぽろぽろと頬を伝うアイリスの涙も、また本物であろう。
ユーリは岩陰にてそうした光景を見守りながら、ふと、『悪』という言葉の定義に関して、思いを馳せていた。彼女の好きなゲームや漫画から、いくつかの言葉を脳裏に引用する。
ある男は、『この世に悪があるとすれば、それは人の心だ』と言った。
ある男は、『悪とは、自分自身の為だけに弱者を利用し踏みつける者のことだ』と言った。
またある男は、『自分が悪だと気付いていない者が、最もドス黒い悪だ』と言った。
アイリスはすべて満たしていた。
〝死の山脈〟。
そこには、かつておびただしい血とカネが流された、不吉な渓谷が存在する。渓谷の中枢部に足を踏み入れる者はなく、イベント配信に際して訪れた多くのプレイヤーも、そこに安置された不気味なオブジェクトを見ては、長く留まろうとは思わない。
大岩に突き立てられた一本の剣は、まるで墓標のようであった。
決して珍しい剣ではない。このゲームにおいて、手に入れようと思えば誰であろうと入手可能な武器である。だが、かかる金額は日本円にして1200円。運営体の露骨な課金仕様を指摘する際、真っ先に槍玉に挙げられるその剣は、多くのプレイヤーより課金剣との蔑称で呼ばれていた。
渓谷は現在、以前にも増して凄惨な状況に陥りつつある。
はるか遠方にて出現した巨大怪獣の影響は、ここにも現れていた。無限の射程と貫通属性、オブジェクト破壊属性を併せ持つ高火力の放射熱線は、渓谷の岩壁をも貫いて、瓦礫の山を築き上げていた。
本日何度目かとなる高密度のエネルギー波動が、渓谷に降り注いだ。
やがて、岩壁は完全に支えを失い、崩落する。渓谷が崩れ去る。瓦礫は、課金剣の墓標にも容赦なく降り注いだ。物悲しくもおぞましい一本の剣も、やがては岩の雪崩に飲み込まれて消えてしまう。
いや、
カネは、じゃなかった神は、そのまま瓦礫の中で朽ち果てる運命を、無駄に高い耐久値を持つ課金剣に与えてはいなかった。瓦礫の山の上に、光の粒子が結集していく。プレイヤーがログインする際に発生する専用のエフェクトだが、この光はやけに赤黒く、ある種の禍々しさを伴っていた。
やがて、迸る閃光が、ひとつの人影を作り上げる。
全身を漆黒のフルプレートアーマーで固めた男が、瓦礫の山に佇んでいた。彫りの深い顔立ちに銀の髪、瞳の奥には、爛々と紅い輝きを灯している。彼は拳を握り、瓦礫の山にそれを突き立てた。中にうもれた課金剣の柄を握り、引き抜く。
「行かねば」
男はただ一言、そう言った。風鳴りと共に響く、馬のいななき。いつの間にやら姿を見せた黒馬も、主の復活を喜んでいるように見えた。
暗黒課金卿キルシュヴァッサーの復活。
身の毛もよだつその光景を目にしたのは、馬と風だけであったという。




