第八十二話 御曹司、ネタバラシされる
では、簡単にご説明しましょう。ココはゴリラです。
みなさんもテレビやインターネットなどで、テレビゲームに興じるチンパンジーなどの話を見たことがあるのではないですか? 彼ら類人猿の脳の構造は、非常に我々に近いものがあります。情緒や感情というものもね。そして、言語を理解し、使用することもできます。
とかく、我々人類というものは、文化や文明が自分たちだけのものであると思い込みがちです。確かに、その礎である言語というものは、発達心理学や脳科学の分野から考えても、非常に修得が難しい。当たり前のように使われる言語というものにも、象徴性、表象性、創造性、構造依存性が必要されるのですが、これらの条件をきちんと満たした言語というものは、やはり多くの動物には確認できません。単なる意思伝達手段とは、明確に異なるのです。
ココや、人間に飼育されている一部の類人猿は、こうした条件をクリアして言語を修得しています。彼らが使うのは、手話です。ココは初めて〝マスク〟を見たときに、〝目の帽子〟と名付けました。創造性の一例ですね。また、自分の歯の痛みを訴えたり、数日前に噛み付いてしまった飼育員に対して謝罪したこともあります。言語というものを、人間と変わらないレベルで使いこなし、また人間に極めて近い感情性、情緒性を持っていることが、わかっていただけると思います。
少しばかり蛇足になりますが、ゴリラは共感性にも非常に長けた生き物です。私たちも、猫や犬を見て可愛らしいと思いますよね。彼らが酷い目にあっていると、可哀想だと感じますよね。これが共感性です。同種の人間に対してだけではなく、他の動物に対してもこうした感情を抱くことが出来るのは、人間が非常に発達した共感性を持っているからだと言えるでしょう。
ゴリラもそうなのです。ある動物園では、ゴリラの檻に3歳くらいの子供が落ちてしまったとき、あるメスのゴリラが子供を拾い上げた事例があります。彼女は、他のゴリラが子供に危害を加えることを懸念したのか、檻の隅に移動して、子供を抱えたまま他のゴリラを威嚇していたと言います。ゴリラの持つ、慈愛の精神、いわば共感性の延長です。
ココは、ネコを飼っていたことがあります。自分から飼いたいと言い出したのです。彼女は与えられたネコを非常に可愛がりましたが、そのネコが不幸な自動車事故で命を落としたという報告を受けたとき、涙を流し、非常に哀しみました。また、彼女は映画が好きですが、お気に入りの映画でも、例えば悲しい別れのシーンなどになると、目をそらして『見たくない』と言います。
話がだいぶそれてしまいましたね。ただ、ココをはじめとしたゴリラが、非常に情緒あふれる、かつ知的な生き物であることは理解していただけたかと思います。
今回、ココがこの仮想世界にドライブしているのは、誤解を招く言い方をしてしまえば、ある種の実験ということになります。数ヶ月前、ココは『人間として生活してみたい』と言い出しました。当時の飼育員や、彼女の一番の友人であるハタムラ博士の困惑は、おおよそ想像できるのではないでしょうか。ハタムラ博士は、それは無理であることを伝えようとしましたが、ココはそれでも希望を曲げませんでした。おそらくは映画や本の読み聞かせなどを通して、人間というものに興味を持つようになっていたのでしょう。
ハタムラ博士は途方に暮れましたが、彼女は私のことを思い出してくれました。私は、脳科学、神経科学の学者として、それなりに名前を知られた人間です。ハタムラ博士は、私が仮想現実世界に没頭して実証実験に明け暮れていることや、手話や外国語を、仮想現実を通すことでスムーズに翻訳できるエンジンの開発に力を入れていることを知っていました。そこでの、今回の提案です。
数ヶ月前から、ゴリラのココに仮想世界へのドライブを行わせる実験を行ってきました。彼女は、仮想世界があくまでも夢のようなものであって、現実世界には何の影響も及ぼさないものであることを覚えました。ですが、やはり素人の作った仮想世界では、その広がりや精密さに限界があります。私たちは迷いましたが、最終的には、ココにナローファンタジー・オンラインをプレイさせることに決めました。
重要なのは、ココの正体をきちんと知りつつも、人間と同じように扱えるエスコート役です。それはゲーム内の事情にそれなりに精通し、かつ、ゲーム内で発生しうる特殊なトラブルにも、対応できるプレイヤーでなければなりませんでした。厳しい条件ではありましたが、私は幸運にも、そうした人物に心当たりがありました。ツワブキさんです。
ツワブキさんが、ツワブキコンツェルンの御曹司、石蕗一朗さんであることは、もう皆さんもご存知ですね。私も名前だけは聞き覚えがあったのですが、真実を知ったときはそれなりに驚きました。彼も、私が脳神経学者の苫小牧伝助だと知ると、同じ反応でした。めぐり合わせとは面白いものです。
ツワブキさんが相当な変わり者であることは伺っていましたし、実際に……いや、失礼。ですが、実際に知っていました。すっぱり断られるか、快諾していただけるかのどちらかだろうと思ってはいたのですが、彼は快く引き受けてくれました。ツワブキさんは、飼育された動物には、野生動物ほど憧れるものはないと思っているらしいですが、快諾していただいた理由に関しては不明です。ただ、彼もココのことは知っていましたし、会話したいとも思っていたようです。
ツワブキさんは、非常に丁寧なエスコートをココにしてくれました。みなさんも見ての通りです。人間と同じように扱っているかと言えば、まぁ少しばかりナイーブすぎるようにも感じますが、おかげでココはストレスを感じることもなくこの世界を楽しんでくれています。
少しばかり、仲が良すぎるようにも見えますが……どうなんでしょうね。ココは他のオスとつがいになったことはありません。彼女は、俳優のロビン・ウィルコムズを贔屓していますが、ツワブキさんはロビンとはまったく似ていませんしね。まぁ、みなさんが心配しているようなことはないと思いますよ。
「だいたいこんなところでしょうか。どうでしたか?」
「全然簡単な説明じゃなかったわ」
「そうですか」
アイリスの言葉にも、苫小牧は優しく微笑み返すだけであった。
一同、ショックから未だに抜け出しきれていない様子である。ただならぬ事情が背景にあるとは思っていたが、まさか、ゴリラ。あの純粋な笑顔を見せる少女ココの正体が、ゴリラであったなどと。まさしく、どんな顔をすればいいのかわからないといったところか。あのヨザクラでさえ、赤い目を白黒させていた。
「それにしても、ゴリラ……ゴリラですって……!?」
アイリスはわなわなと震えている。
「別に、ココさんの人間性を否定しようとか言うんじゃないんだけど……」
「彼女は人間ではなくゴリラです」
「わかってるっつーの! だからココさんの人間せ……あぁもうゴリラ性でいいわよ! ゴリ性を否定するわけじゃないんだけど! こんな、こんなこと……芙蓉さんには聞かせられないわ!」
アイリスが手近な岩をガンと叩き、落ち着きを取り戻したヨザクラも重々しく頷いた。
「いわば、恋に敗れたわけですからね。ゴリラ相手に」
「そうよ!」
イチローはあくまで実験に付き合っているだけであり、ゴリラとしてのココに興味を抱いたのだ。などという言い訳を用意しても、何の慰めにもなりはしない。そもそもの前提条件として、イチローはココを人間と同じように扱えるからこそ、今回のエスコート役として白羽の矢が立ったのだ。すなわち、ココと芙蓉のスタートラインは同じである。芙蓉は純粋に魅力で負けたのだ。ゴリラに。
人間とゴリラを同列に扱うのなら、そこを悔しがるのはナンセンスではないかという指摘もあるだろう。だが、そうはいかないのが人情というものである。少なくとも、理性でどう理解していようとも、ココがゴリラであることを、芙蓉に軽々しく説明できる人間など存在しないだろう。石蕗一朗を除いて。
「で、どうしますか?」
一同に与えられた衝撃がようやく沈静化した頃に、苫小牧はそうたずねた。
「ココはゴリラでした。謎は、解明されたわけですね。あなた方は、まだ彼らのあとをつけますか?」
「何言ってんの。決まってんでしょ。つけるわよ」
ふん、と鼻を鳴らし、勝気な表情のままアイリスは答える。
「苫小牧さん、勘違いしないで。あたし達は、あくまでも御曹司たちのデートを邪魔するやつを邪魔するついでに、その光景を微笑ましく見守ろうってだけなのよ。正体がわかって死ぬほどビックリしてるけど、尾行をやめる理由にはならないわね」
その言葉に、ヨザクラも同調を見せた。
「イチロー様が、ココさんを人間と同じように触れ合っていらっしゃるなら、私たちもそうしないわけにはいきませんね」
「そうよね。これ以上、あいつに出来てあたしに出来ないことが増えんのも癪だわ」
「動物とお話ができるって、すごいロマンチックなことだよね」
「良かった。病気で死にそうになっている女の子はいなかったんだな」
ユーリとキリヒト(リーダー)も相次いで頷き、満場一致で見守り隊による尾行の再開が決定した。苫小牧は、どこかホッとしたような、それでいて困ったような微笑を浮かべたまま、肩をすくめる。
「人の後を尾け回したり、嗅ぎ回ったりするのは、良い趣味ではないと申し上げたのですがね」
「好き好んで御曹司なんかと友達つづけてるあたし達が、良い趣味してるわけなんかないでしょーが」
かくして、迷える子羊たちは徒党を組む。再度、瞬速の山羊が住まうという山脈の中枢部を目指し、尾行を開始したのであった。
殺風景な山を登るというのも、いささか退屈なものではないかと思ったが、ココは割と登山行為そのものを楽しんでいる様子だった。人間の歩法にも徐々に慣れ、動くことそのものを面白がっている様子が見える。イチローとつないだ手を大げさに振り回し、彼女は常に笑顔だった。
しばらくの間消えていた尾行の気配には、現在、ひとりが追加されている。苫小牧かな、と思った。〝死の山脈〟は彼の活動拠点だ。ココを紹介してきた時を除けば、ここしばらくログインしてきたという話を聞かない。現実世界でもそれなりに忙しかったのだろうと思われる。ま、ここでは詮無いことかな。
アクセルゴートのポップアップポイントまではしばらく歩く。ときおり、血走った眼でイベントボスの探索を続けるトッププレイヤーの姿が散見され、その中でもピクニック気分で両手を振るイチローとココの姿は、やたらと浮いていた。
「彼らは、何?」
「んー。ハンター、かな」
ルワンダなどでは、心無い密猟者によって、今なお罪なきゴリラが命を散らしていると聞く。ただ、ココは生まれた時から人間の手厚い保護を受けていたはずだ。ハンターという言葉に、それほど拒否反応はないと思われる。
「何を、ハントする?」
「怪物」
「それは恐ろしいもの?」
「そう感じるかどうかは君次第だ。僕は何かを怖いと思ったことはない。僕の方が怪物よりも強いから、客観的に見て君が恐れる心配もないよ」
「ん、安心した」
言葉遣いには伝染の兆しが見られたが、イチローは気づかない。
「そういえば、ココはロビン・ウィルコムズが好きだと聞いた」
確か、アメリカの俳優である。コメディアンや声優としても活躍しているらしい。そこまで有名ではなく、イチローもときおり映画で見かける程度ではあったが、彼の演技の幅には好感が持てる。ココが、彼の固有名を理解しているかどうかは知らなかったが、少なくともミライヴギアが認識を正確に伝えることには、成功したらしい。ココは頷く。
「映画を見た。実際に会った。素晴らしい男性」
「へぇ」
「一緒に住む。できなかった」
確かその映像も、どこかの動画サイトに上がっていたな。イチローは思い出す。あれはイチローにとって滅多にない、いわゆる『ショックな映像』だった。ゴリラという生き物に対して偏見はなかったはずだが、あれほど人間と変わらない笑い方ができるのか、とは思った。
ココが、イチローの顔を覗き込む。
「イチロー、嫉妬?」
「はっはっは、ナンセンス」
とは言ってみたものの、現実世界の彼女と実際に会って、直に触れ合ってみたかったな、とは思う。
10/27
誤字を修正
× よいやく沈静化した頃に
○ ようやく沈静化した頃に




