第七十九話 御曹司、話す
グラスゴバラに到着後、ハタムラ博士がココを迎えに来た。博士がやや名残惜しそうな彼女を連れてログアウトし、本日のエスコートは終了する。明日以降も引き続きお願いしたいと言われた。イチローは快諾を示した。
結論から言って、イチローはこの依頼を通して非常に得難い時間を過ごすことができたと考えている。翻訳エンジンを通しても、彼女と意思疎通を図ることは難しく、彼女の質問の意図を理解したり、こちらの言葉を理解させたりするために多大な苦労を要したのだが、それ自体がまずはイチローにとって新鮮な感覚であった。語彙の少なさ故に、彼女の言葉はある一定の方向へ純化されている。その言葉を通して、イチローが今まで触れ得なかった多くの価値観を引き出すことには、思わず情熱を傾けそうになった。ゆえの、快諾である。
キングに、明日以降はどうかとたずねたところ、『ま、気が向いたらな』と言われた。よく聞くフレーズだなと思ったが、よくよく考えてみれば自分が曖昧に返事をする時とまったく同じだ。つまり、あまり期待しない方が良い。
キングもさすがの洞察力で、ココの正体には気づいている様子だった。答え合わせをしたわけではないので、的はずれな考察という可能性もないではないが、まぁおおよそ核心は突いているだろうと思われる。キングはどちらかといえば、ココがゲームシステムのアシストを受けてアクションを行った際、一般的なプレイヤー(それはイチローやキングも含む)と比べてどのような違いが現れるのか、といったところに執心している様子であった。これが年齢相応の無遠慮な好奇心であるのか、それとも、キングキリヒトだからこそ抱ける特殊な疑問であるのかはわからない。なにせイチローも年齢相応の少年時代を過ごしてきたわけではないのだ。
だが、イチローが彼女に望むのは、やはりココの有する価値観だ。ローズマリーと会話したときと同じような高揚がある。多くの人間が持ち得ない特殊な考え方を、彼女は持っているのかもしれない。そしてそれは、イチローをも驚かせる類のものであることを、彼は期待している。
入れ込んでいるな、という自覚があった。手を出せる大抵のことはやってみたつもりだが、それでも23年間は短いらしい。この1ヶ月近くは、まったく新しい出会いと発見の連続だ。イチローは未だ胸中に残る高鳴りのようなものを噛み締めながら、ひとまずログアウトした。
ヘッドマウントギアを外し、コクーンのハッチを開く。隣のコクーンは既にハッチが開いていた。時間的には、そろそろ夕食の支度が整う頃であろうから、まぁ当然だ。ダイニングの方からは、良い匂いがこちらに届いてくる。
一朗がコクーンのシートから降りるとき、同時に部屋の扉が開いて桜子が入ってきた。
「あ、おかえりなさいませ。一朗さま」
「ん、」
「おゆはんの支度ができたので、お呼びにあがろうかなーと思ってたところです」
食卓には、既にいくつかの料理が並べていた。正直一朗好みのしない、ややオイリーなメニューであることには、この際目を瞑ろう。フォアグラにトリュフを添えてキャビアを塗りたくって出してこないだけマシである。まぁ油断すると奇行に走るのは桜子の常であって、それはそれで見ていて楽しいものはあるのだが、流石にこの間の成金病は度が過ぎた。
「それじゃあいただこう。桜子さんもどうぞ」
「はーい」
桜子も椅子を引いて静かに席に着き、いつもさして変わらない夕餉の時間が始まる。
「桜子さん、今日はありがとう」
「うっ……」
言うか言うまいか迷ったことだが、彼女に対してだけは素直に感謝を示しておくのが筋だろう。フォークを手にとったまま、桜子がぴしりと硬直する。一朗は、その尖端部が到達しようとしていたトマトを遠慮なく突き刺して、自身の皿に連れ去った。
「き、気づいてらしたんですね……。やっぱり……」
「そりゃあね。君たちが、僕たちに気づかれないよう動いていたのもわかった。でも別に意地悪で言ってるわけじゃないんだ。面と向かって礼を言いたかったけど、まぁ、桜子さん以外は本気でスニーキングに成功していると思っていそうだったし」
脂っこい今日の夕食の中で、このグリーンサラダはオアシスのようなものだ。桜子が動きを止めた隙に、というわけではないが、ひとまずトングで取り皿から多めによそう。
エドワードの機転には感心したが、ザ・キリヒツに関しては若干騒ぎすぎというか、あれで気づかないのは、感知系ステータスに相当なマイナス補正を受けたキャラクターだけだろう。レベル1のココですら、山道で起きた騒ぎに興味を示していた。ただまぁそれを面と向かって本人に指摘するつもりはない。キリヒト(リーダー)が欲しいのは、そうした陽の当たる栄誉や感謝ではなく、陰ながら友を支えたという事実だけなのだ。
「でも服を脱ぐ必要はなかったんじゃない」
「そうですよね! わかってますよ! 言わないでください!」
拳でテーブルをたたいて、桜子は叫ぶ。
ヨザクラがキャストオフした件については、さしもの一朗もなかなかコメントを挟みづらい。止むにやまれぬ事情と言えばそうだし、実際アレで視線を釘付けにできたのだから目論見は成功であったのだろうが、もうちょっとこう、慎みのある選択肢はあったものではないか。
「桜子さんがそういうシュミに目覚めたなら、まぁ、仕方ないなとは思う」
「目覚めてません」
「そう、良かった」
使用人との付き合い方にも一考の余地があると思い始めていたところだ。
「で。結局、あの、ココさんは何者なんですか?」
これ以上、その話題を追及されたくなかったのか。会話の途切れた瞬間を目ざとくみつけて、桜子は主題を切り替えた。
「芙蓉さんとか凄い嫉妬していましたよ」
「ナンセンス」
ひとまずはそう返す。
「ココが何者であるかを答えるのは簡単だし、そこで桜子さんが偏見を持つような人じゃないっていうのもわかってるけど、あまり言うつもりにはなれないな。必死になって隠すほどのことじゃない。でも、聞かれてさらっと答えられるようなことでもない」
「キリヒトリーダーは、……えぇと、その、終末治療を受けているような末期患者じゃないかって言ってました」
直接口にするのが憚られたか。だが最終的には、割合はっきりと、桜子は憶測を話す。心から信じているような顔ではないな、と一朗は思った。5年もの密な付き合いがあれば、互いの表情の変化にも敏感になる。だから、桜子には嘘をつかないし、言えないことや言いたくないことに関しては、きちんとそう告げるようにしている。
「リーダーがそう思うならそうなのかもしれない。でもやっぱり正直には答えられないよ」
「と、言うことは、違うんですねぇ」
「別に、直接意思疎通が取れない相手でもないんだ。やろうと思えばね。でも、彼女は望みがあって、それを叶える形でVRMMOを利用している」
「うーん」
桜子はうなった。納得いかないところがあるのか。あるいは、一朗から本音を聞き出せない自分自身に、不甲斐なさを感じているのかもしれない。一朗自身、忠節を尽くしてくれるこの使用人に対して、無用な隠し事をするのは不義であると考えるが、そこで自分の考えを曲げるのもナンセンスだ。不義なら不義で、堂々とする。
「じゃあ、私もナンセンスなことを聞きますけど」
しばらく空の皿を見つめ、深く考え込んでいた桜子がぽつりと言った。
「ん、答えられる範囲でなら答えようかな」
「一朗さまは、」
「うん」
テーブルを挟んで、一朗と桜子の視線がぶつかる。次に出てくる言葉も、一朗にはだいたい想像がついた。的確な答えを脳内で構築するのに数秒とかからない。桜子の、薄い化粧の割に色合いの良い唇が、言葉を紡いだ。
「ココさんのことが好きなんですか?」
「興味はあるよ」
「ぶっ」
感情がそのまま表面に出てくる桜子の反応は見ていて面白い。
「いろいろと予想外の答えです……」
「質問をしておいて、回答に特定の期待を抱くことこそナンセンスだと思わないかな」
「まー、そうですけどね」
語弊が伴うものという確信はあったが、自分の心に一番正直な回答を探すとそのようになる。受け取り方は人それぞれだ。要は、発言者である一朗がもっとも納得できるような物言いであればそれで良い。
「それ、どういった意味であったとしても芙蓉さんには言わないでくださいよ?」
「桜子さんは、どういった意味であるかは聞かないの?」
「回答に特定の期待を抱くことはナンセンスですからね。ご飯、食べちゃいましょ」
桜子は、一朗に負けじとグリーンサラダを自身の取り皿へ盛っていき、釈然としない表情のまま、もしゃもしゃと食べ始めた。
「明日もデートですか?」
「その予定だよ。まぁ、3日か4日の短い予定だから」
「わかりました。ご無事をお祈りします」
「明日も見守ってくれるの?」
一朗が、なんとはなしにそうたずねると、桜子はまたも動きを止めた。フォークで幾度となくレタスをつっついて、やはり難しい顔をつくる。さっきから険しい表情になりっぱなしだ。
「どうでしょうね。私としては……もういいんじゃないかって思うんですけど……。まぁ、明日からはイベント配信もあって、危険度も増し増しですからねぇ……」
「明日は〝死の山脈〟まで行く予定なんだ」
「デートで向かう場所の名前とは思えませんね。まぁ、結局鶴の一声を発するのはアイリスですから。アイリスが行くと言えば、私も行きますよ」
「今度は脱がないようにね」
「脱がずに済むのなら是非そうしたいですがね!」
杜若あいり。服飾デザイン系の専修学校に通う17歳である。
将来の夢は、アパレルデザイナーだ。
あいりには、強敵と呼ぶべきデザイナーがひとりいる。リアルクローズブランドの最前線に立つ、彼女の名前は芙蓉めぐみ。いわゆる時代の寵児というやつで、まぁ、実力に関して言えばノミと恐竜である。あいりがノミだ。身の丈以上のジャンプをこなすことには自信がある。
年齢的にも大きく離れた芙蓉ではあるが、確執を乗り越えた仲というだけあってそれなりに気心は知れている。月末に開かれるという、リアルクローズブランドの一大ファッションショー〝東京ガールズコレクション〟には、なんと芙蓉からあいりに直々の招待が届いた。ビビった。嬉しかった。天にも昇る気持ちだった。
で、あるからして、あいりも、自分にできることならばなんでも協力してあげたいという気持ちが、芙蓉に対して存在する。例えそれが、ぶっちゃけ不毛としか思えない恋の行方であったとしても、あいりは応援する。ただし2年間限定だ。アラウンド・サーティから正真正銘のサーティになるまでには、身を引かせてやるのも友情だろう。
まぁ、芙蓉もそれなりに忙しい身だ。日がな一日、ゲームの中に閉じこもるのはスケジュールが許さない。だからこそ、今日の別れ際、芙蓉はあいり=アイリスに対してこう告げた。
『明日以降の尾こ……いえ、見守りに関しては、アイリスさんに全てお任せしますわ』
明日から当分、どうしても外せない用事があるのだという。TGCの打ち合わせだろうか、とも思った。
『ココさんの人柄、素性……まぁ端的に申し上げて、一朗さんのお相手をするに足る人物であるかどうか……。それを見極めて欲しいんですの』
そうは言っても、これはいわゆる擬似デートでしかないのでは? というのがアイリスの疑問であった。
『例え胡蝶の見る夢であったとしても、やっぱり全て納得ずくで見守りたいというのが本音なんです。ココさんが、その、あまり余命が長くない方で、最期の相手に一朗さんを選んだ……。その目は曇っていないと思いますわ』
猛烈につっこみたい一文が最後に乗っかっていたが、そこはぐっと我慢する。
『だからこそ、わたくしも、ひとりのライバルとしてココさんを知っておきたいんですの。曲りなりにも、一朗さんの心の中に残る、ひとりの女性になるのでしょう?』
わかったわ、芙蓉さん。
そうまで言われてしまっては、アイリスもそのように頷かざるを得なかった。ならば、アイリスは明日も芙蓉の目となり、耳となる。デートの現場をじっくりと観察し、邪魔者はすべて片付ける。ココがどのような女性なのか、きっちり調べて芙蓉に報告する。
正直、色恋沙汰には疎いアイリスだが、これでも花の17歳。興味だけなら売るほど持ち合わせている。それにこれは、友人としての義務なのだ。
「ようし、やるわよ」
勉強机の前で、あいりは拳をぐっと固める。
杜若あいり、17歳。使命感に燃えていた。




