第六十三話 御曹司、将棋を指す
グラスゴバラのストリートを行くアイリスを、背後から追い止める。アイリスブランドのデザイナーという位置づけにある彼女は、曲がりなりにもそこそこの有名人であるし、オリジナルデザインの防具は非常に目立つ。そこに追いすがる魔族の少女もまた、ブラウスにスキニーパンツという出で立ちであるからして、彼女達は非常に通行人の目を引いた。
「待ってください、アイリス」
ヨザクラがアイリスの腕を掴んだ。敏捷ステータスにはほとんど振っていないとは言え、40近いレベル差にも関わらずあっさりと追いつくことができる。それだけでアイリスの葛藤を察するには十分だ。
アイリスは掴まれた腕を振り払うでもなく、素直に足を止める。周囲から注ぐ好奇の視線はあまり心地よいものではなかったが、立ち止まってくれたことに対しては、ヨザクラも素直に安堵した。良い子です、アイリス。と言おうとして、自分の口がキルシュヴァッサーのものでないことに気づく。この後に及んでキャラの心配というわけでもないのだが。
「ごめん、ヨザクラさん……」
顔を伏せたまま、アイリスは言った。
「なんか、めんどくさい女になってるわよね。あたし」
「良いんですよ。女なんて大抵めんどくさいものなんですから」
掴んだ腕をはなさずに、ヨザクラが微笑む。ようやくアイリスは顔を上げ、やや面食らった表情を見せた。
「凄いこと言うわね……」
「今回の件だって、芙蓉さんがめんどくさい人だからこうなったんでしょう?」
「そうかもしんないけど」
遠巻きに眺めるだけでは飽き足らず、聞き耳まで立てはじめた不埒ものどもを、ヨザクラは『しっしっ』と追い払っていた。あまり、普段の彼女には見られない行動である。庇護対象ができた女は周囲に対して攻撃的になるというが、まさしくそれである。しかし、どんなに期待しても彼らが望むような百合の花が咲くことはないのだ。
ヨザクラの苦労など知らずして、アイリスは続けた。
「でもヨザクラさんはあんまめんどくさくなさそう」
「えぇ、まぁ……。相手にかける負担というか、使用容量の小さい女だという自覚はありますが……」
ヨザクラはぽりぽりと頬を掻く。そもそも面倒くささが利便性を上回るようなコスパの悪さでは、石蕗一朗の使用人は務まらない。そのあたりを言うと、最近は主人に迷惑をかけっぱなしであるような気がするのだが。早く健全な金銭感覚を取り戻す必要がある。みんなおカネが悪いのだ。
「なんていうのか、あたしもね? こう……躁鬱激しいというか……。最近凄い勢いで落ち込んだりブチ切れたりを繰り返して……傍目に見るとヤバいんじゃないかって気持ちがしてるのよね」
「まぁ、そう言われてしまうと否定はできませんね……」
アイリスが滔々と自己分析をはじめると、ヨザクラは素直に聞き手に回った。彼女の精神に不安定さを感じているのは事実であって、それを取り除いてあげなければとも思っている。そしてそれは自分の役目だ。鋭い洞察力を持ちながら、大いにデリカシーに欠如した主人には任せておけない。
正直、アイリスの年齢(17歳と聞いていた)でこれだけの事態に巻き込まれれば、状況に翻弄されて混乱してしまうのも無理ないように思える。浮き沈みの激しさがもともとなのか、感情を表に出しやすい性分が、結果的に浮き沈みを激しくしているのかはわからないが。
アイリスは、『はぁ』と大きく溜め息をついた。
「御曹司のことも、わかってるんだけどさ。なんかついカッとなっちゃった」
「だってあの人上から目線ですし」
「わかってるんだけどさ」
溜め息からは自己嫌悪の色がにじみ出ている。あの場でイチローを責め立てるような発言をしてしまったのも、彼女の本意ではなかったのだとは、わかるが。
「ヨザクラさん、御曹司のところで仕事してるんでしょ。よく平気よね」
アイリスが再び歩き出しながら、言葉を続けた。ヨザクラもそれに並ぶ。
「なんかこう……劣等感とか、刺激されない?」
「今のところは。ただ、私は使用人として置いていただいていますので、イチロー様がその領分を踏み越えてこようとすると全力で防衛します。あの人、放っておくと家事までやりだしますからね?」
「嫌な奴ね」
「えぇ、嫌な方です」
何事に対しても一番であるという自覚があるのは結構なことだ。その前提で動くのも悪いことであるとは思わないが、何事においても頂点に立てるのはただ一人しかいない。彼が一番であり続ける限り、ほかの人間はその自信を足蹴にされてしまう。イチローと対等に付き合おうとするには、その劣等感を上手く飼い慣らすか、あるいは彼よりも優れている何かを、自分の中で見出していくしかない。そのどちらも、アイリスには厳しい選択肢であるように思えた。
少なくともイチローは、対等であろうとするアイリスの態度を好意的に捉えていたとは思うのだが。劣等感にへし折れる彼女の姿は、見たくないというのが本音だろう。だから、イチローはアイリスに対しては、彼なりに甘めの態度で接しているはずだ。本人が気づいているかは知らないが。
「アイリス、」
ひとまず、彼女の思考状態は健全とは言えない。ひとつの提案をするために、ヨザクラはアイリスに微笑みかける。
「それが好きなことであったとしても、ずっと同じことをやり続けていると、好きか嫌いかもわからなくなってくるものですよ」
「な、なによそれ」
アイリスは、ぴたりと足を止めてこちらを向いた。
「今のアイリスは、あまり良くないものの考え方をしています。イチロー様がどんなことを言おうと、放っておきゃあいいんです。と、言っても、難しいでしょう?」
「難しいわ」
一も二もない即答である。実際、難しい。
アイリスも、ヨザクラの言うことはわかるのだ。自分は根を詰めすぎである。彼女はそれを心配しているし、多分、御曹司もそうであった。ただ、それを省みるほどの余裕はなくなっていたし、多分今もない。ここで帰っても、またいつか感情を爆発させてしまう。
御曹司に対する劣等感を自覚してしまった以上、どう帰ってどう顔を合わせれば良いかもわからない。芙蓉めぐみならばまだ良い。憧れが裏返った憎さがあるし、実際、喧嘩を売り買いした間なのだから、劣等感を敵意と闘志に変えることができる。でも、御曹司に対する劣等感は、どうすればいいのか。
ヨザクラの衣装を見る。良いセンスだ。既製服の組み合わせであるにしても、こうも彼女に似合うものをすっぱりと、しかもいくつも見つけてくるあたりが。かなり悔しい。
「アイリス、気分転換をしましょう」
「き、気分転換?」
「私のレベル上げを手伝ってくださいよ」
アイリスは面食らった。そんな時間の余裕なんか、あるのだろうか。
「アイリスのレベルなら、ヴォルガンド火山帯くらい、もう余裕でしょう?」
「べ、別に良いけど……。支援職ふたりで、ヴォルガンド? あたし攻撃系のアーツほとんどないわよ?」
「じゃあエドワードさんでも呼びましょう」
彼もすっかり便利なポジションになりつつあるな、と思った。
「王手」
ぴしゃり、と軽快な音がアイリスブランドのギルドハウス内に響いた。
「あっ、ん、あぁん?」
首をかしげるのは、アキハバラ鍛造組のギルドリーダー〝↓こいつ最高にアホ〟氏、通称親方である。その脇では、赤髪の巨漢が腕を組んだまま難しい顔をしていた。こちらは赤き斜陽の騎士団のリーダー、ストロガノフ。2大ギルドのリーダーが雁首を揃えるにしては、この場は妙に閑散としていた。
実際、アイリスブランドのロビーなど常日頃からこんなものではあるが。高級既製服をイメージした防具が並べられてはいるものの、時折酔狂なプレイヤーが顔を覗かせて買っていく程度にすぎない。困惑する2人を前に、イチローは勝ち誇るでもなく、涼やかな微笑を浮かべて紅茶をあおった。出がけにヨザクラが入れていったお茶は、大層まずい。
「おい坂田、始まってから五分と経っていないぞ。どういうことだ、アホの坂田」
「うるせぇな。坂田坂田言うんじゃねェよ」
髭面のドワーフは決まりが悪そうに天井を仰ぐ。
「だいたいなんで将棋なんだ」
「うむ。雰囲気を出すならチェスだろう」
「そういうことじゃねェよ」
イチローと親方が挟んだ丸テーブルの上には、まさしく将棋盤が置かれている。いずれも精緻な出来ではあるが、このゲーム内に将棋盤やチェス盤といったアイテムは存在しない。最初に見たときは驚いたが、実際駒のひとつひとつもしっかりとした作りで、遊戯に支障はない出来だった。
「《細工》スキルの救済で、アクセサリ以外のアイテムもグラフィック変更できるようになっただろう。その記念に、アイリスが作っていた。駒は指輪で、将棋盤は金床だ。だから駒は装備できるし、将棋盤の上でアイテムが鍛えられる。同じ要領で作った雀卓もあるよ」
「麻雀をやるには1人足りんな。ゴルゴンゾーラでも呼ぶか」
「いやそういうことじゃねェよ」
親方は大きく溜め息をつく。
「なんで将棋なんか指すハメになってんだ」
「僕が退屈していたからだけど」
イチローがインベントリを操作しながら言う。装備メニューの装飾品をいじくると、将棋の駒が彼の指に装備された。『金』と『王』。似合っている。ストロガノフは『飛車』を装備していた。確かに彼のバトルスタイルは実に飛車を好みそうである。
順序建てて説明しよう。ヨザクラがアイリスを追いかけてすぐ、イチローのもとにストロガノフからのフレンドメッセージが着信した。装備の鍛え直しでちょうど真向かいのグラスゴバラUDX工房を訪れていた彼は、そこで親方と話し、マツナガのブログに記載された記事の内容を知るに至ったという。マツナガの性格をよく知っていた彼は、記事を鵜呑みにはせず、また厄介なことに巻き込まれたアイリスは大丈夫なのかと、心配してくれた様子だった。イチローは『真向かいなんだしうちに来れば』と返信し、その数分後にはストロガノフだけではなく親方もやってきた。
で、今は将棋をやっている。
「そのアイリスは大丈夫なのか?」
「どうだろう。僕は彼女はそこまで柔ではないと思っているんだけど」
「兄ちゃんの価値基準で全部話されたら、たまったもんじゃねぇな」
親方としては将棋の駒や将棋盤のアイテム性能に興味があるようで、しきりにタッチしてはアイテムステータスを呼び出して、何やら頷いていた。
「おいストロガノフ、お前、指してみるか」
「指してみるかとは言ったな。俺も子供の頃は地元の将棋会館に通っていたんだぞ」
「ロシアに将棋会館があったのか」
2大ギルドリーダーの心温まる会話だ。ここにマツナガがいれば、3大ギルドのリーダーが雁首を揃えることになるのだが、彼はここには来ないだろうとイチローは思った。ギルドハウスの扉をノックしてこんにちは、というのは、あまりドラマティックな登場方法ではない。自身の関与を示す重大発表であるからして、観衆がいる、いないにかかわらず彼なりの筋書きがあるはずだ。
親方に代わり、ストロガノフが席につく。彼もそれなりに自信があるのか、何やら笑みを浮かべていた。
「さっきの対局で打ち筋は掴んだぞ。ツワブキは振り飛車党だな。俺も子供の頃は四間飛車のセルゲイと呼ばれ恐れられたものだ」
「ナンセンス。幼少期の栄華の話なら誰だってできる。10で神童、15で才子という言葉もあるしね。それに掴んだところで対応できないものだって、世の中にはたくさんあるよ」
「ああ、処理落ちとかな」
会話の終点をめがけ、微妙に痛いところを突いてくるのが親方である。
いざ対局が始まると、イチローはさっそく飛車を振り回して見せながらも、右下に着々と陣を築いた。王将に対して2枚の金が横並びの盾になる。先ほどの対局でもそうであったが、どんな破天荒な打ち方をするかと思えば、意外とセオリーに則った打ち筋だ。ストロガノフはにやりと笑みを浮かべる。
「ずいぶん古い囲いを使うな、ツワブキ」
「古いっていうのは、利点も欠点もあぶりだされているということだよ。それを補えるなら悪いものじゃあないさ」
親方はヒゲをいじりながら、アマチュア同士の打ち合いにしてはかなり見ごたえのある対局を見守っていた。
「で、この囲いはなんて言うんだ」
「金無双」
「カネ無双か。それ言いたかっただけじゃねェのか」
「なんのことだろう」
そこからだいたい、5分ほどが経過した頃だろうか。ぽーん、という軽い音がして、メッセージの新着を告げる。フレンドメッセージや運営からのメッセージではない。ゲーム内プレイヤーへのメールの転送サービスだ。イチローは、血走った目で盤面を睨みつけるストロガノフに『失礼』と言ってから、メッセージを開いた。
件名には、『ゲーム内アイテム申請、実装のお知らせ』とある。TSS探偵社がギルドスポンサーとして申請したアイテムの審査が通ったのだ。思っていたよりも早かった。夕方頃の小規模アップデートで実装されるらしいが、十分である。その頃には、ヨザクラがアイリスをなだめておいてくれると良いのだが。
自身の振る舞いがアイリスを傷つけたとして、そこに対する誠実な対応をイチローに求めるのは難しい。彼にとっての誠実さとは、要するにそのやり方を死ぬまで貫き通すことであって、捻じ曲げて変に取り繕うことこそ失礼にあたる。だからイチローはこの態度を変えるつもりは毛頭ないが、それでアイリスの葛藤に対する一助を与えられるとは思っていない。
だからひとまずヨザクラを行かせた。自身の融通の利かない部分を補ってくれる彼女の存在は、非常に重宝している。桜子がいなければ、石蕗一朗は人間関係における、いくらかの致命的な崩壊を避けることはできなかっただろうし、それで思い悩むことも悔やむこともなかったではあろうが、それでも彼の人生はもう少し味気ないもになっていたはずだ。
「う、うう……」
ストロガノフが、何やら歯ぎしりしてうめき声を上げている。
「おい、どうしたんだ。四間飛車のセルゲイ」
「ま、ま……」
「ま?」
ストロガノフは、両手を丸テーブルの上について、そのまま額を将棋盤に押し付けた。
「参りました」
「ん、結構」
どうやら、また一人の人間の自信をへし折ってしまった模様だ。
主張と主張、強さと強さが対立すれば、結局どちらかが折れてしまうのは世の理だ。それは、ローズマリーとの会話や、キングキリヒトとの対決を思い起こすまでもない。イチローは常に自身が折れることはないと思い込んでいるし、これからもその予定である。
だが、大抵の人間にとってはそうではないのだろうな、とも思う。アイリスが、その理不尽と付き合っていけるようになると、良いのだが。
目の前では、ストロガノフが真剣な眼差しでもう一局を要求してきた。
当然負かした。
9/15
脱字を修正
× 対等あろう
○ 対等であろう




