第六十二話 御曹司、スポンサーを立てる
杜若あいり、服飾デザイン系の専修学校に通う17歳である。
将来の夢は、アパレルデザイナーだ。
その日、あいりは夕方になるまでログインを忘れ、ただひたすらA4用紙に向かっていた。ゴミ袋にはくしゃくしゃに丸められた紙、机の上には数多のファッション雑誌が重ねられ、その横に積まれたA4紙には、複数のポージングを取ったヌードポーズサンプルが、全て描き込まれている。構想がうまくまとまらない。何度何度挑戦しても納得いくものが出来上がらない。御曹司の防具をデザインするときだって、ここまでは悩まなかった。
あいりはふと、机の上に積まれた雑誌のひとつを手にとってみた。女性専門のファッション雑誌。対象年齢は20代から30代と、あいりよりやや高めだが、彼女が一番興味のあるアパレルデザインはこのゾーンにある。そして、芙蓉の服飾ブランドがターゲットとしているのも、この年齢層だ。
雑誌には、『今話題のリアルクローズブランド〝MiZUNO〟大特集!!』との見出しが踊り、その下には『芙蓉めぐみ独占インタビュー』とも書かれている。これを買った一週間前は、その芙蓉めぐみにデザイン勝負を挑むことになるなんて、思いもしていなかった。
巻頭にまとめられた〝MiZUNO〟の特集記事には、芙蓉の生み出した様々なアパレルを、自信満々に着こなすモデル達の姿があった。ひとつひとつに、顧客目線で書かれた編集者のコメントと、デザイナー目線で書かれた芙蓉のコメントがついている。思わずため息が出た。
やっぱり、芙蓉さんの作る服って、素敵だわ。
リアルクローズというのは、要するに庶民にも手の届きやすい、かつファッション性の高い既製服のことであって、現在では高級仕立て服や高級既製服の対義語として用いられる。リアルクローズ。要するに現実性の高い服、だ。あいりはレディー・ガガを尊敬しているが、彼女のファッションはまさしくリアルクローズの対極にある。あれはちょっと真似できない。
ファッション業界で最先端に立つのは、常にプラダやシャネルなどの高級ブランド製プレタポルテだ。海と、金銭的・社会的な溝を飛び越えた先で生まれた流行の兆しを、一般市民のセンスに合わせてコンバートする。地味な作業に聞こえるが、大衆化と同時に、よりひとりひとりの細分化された嗜好に合わせるという矛盾。それをこなせるセンスがなければ、リアルクローズのデザイナーは務まらない。
あいりが中学生の頃に放映していたドラマでは、リアルクローズのことを「着る人の人生にフィットする服」と言っていた。至言だと思う。
芙蓉のデザインは、まさしくそうしたリアルクローズのあり方を体現していたと言って良いだろう。高級ブランドの上品さを保ちながらも、写る衣装の数々はどこか可愛らしく、あるいはかっこよく、時には純粋に美しい。表情に自信をみなぎらせた、千差万別のモデル達、彼女たちひとりひとりの生き方を彩っていた。
芙蓉のデザインセンスを見るにつけ、自分がどれほどの化け物相手に喧嘩を売ってしまったのかを実感する。どうすれば彼女よりも評価を集められるのか。まったく、見当もつかない。朝っぱらからひたすらデザインを考え続けて、辛うじて気に入ったものが2点だけ。あとはほとんどゴミのようなものだ。
ああ、あたしは、自分の才能のなさ故に、森林破壊を促進しているという実感があるわ。
ゴミ袋の中、溜まりに溜まったA4用紙を見て、あいりは嘆く。世界中の広葉樹のみなさん、ごめんなさい。
期日は一週間。それまでに完成させなければならないが、あいりは未だに手応えと言えるものを一切得られていない。7日という猶予期間は決して長くはないのだ。
あいりは時計を見た。もう5時じゃない。お腹が減ったときに御飯はちょろちょろ食べていたが、そこまで時間が経過しているとは思わなかった。確認と同時に、疲労感がどっと押し寄せてくる。
煮詰まってしまった。そろそろ、何が良くて何が悪いのか、わからなくなってくる。
あいりは、パンパンになりかけたゴミ袋の口を縛って、玄関前まで運んだ。大量のA4紙と雑誌を片付け、辛うじて『まぁ、なくはないかな』と思えるデザインの服を、スキャナーからパソコンに取り込む。完成したpdfファイルは、ミライヴギア・Xに転送が可能だ。3Dグラフィックには起こしていないが、今、そんな作業をする気力はない。
ひとまず、ログインしよう。
あいりは、ミライヴギアをかぶりこんで、ベッドの上にごろんと横になった。電源を入れれば、脳と機械のあいだで、密な量子通信がはじまる。
今頃、御曹司は何やってんのかしら。あいりは考えた。この勝負、発端は石蕗一朗にあるはずなのである。まぁ、芙蓉の不興を買ってしまったのは自分の方なのかもしれないし、勝負にならないと見た彼女に食ってかかったのは自分の方なわけだから、事態の責任の半分は杜若あいりにあるわけなのだが。それでも御曹司との折半であるはずだ。
御曹司には手伝って欲しいと思う。力を貸して欲しいと思う。
反面、彼の力の介入が、自身の実力の純粋性を損ねることを、あいりは懸念していた。そんなもので勝っては何の意味もない。負けたらなおさら惨めになる。
あいりは、意識を仮想世界になじませながら、内心複雑な感情を持て余していた。
「これ、イチロー様が作ったんですか?」
ずらりと並べられた防具を前にして、ヨザクラは唖然とした。
「作ったのは僕じゃないよ。アキハバラ鍛造組のプレイヤーを何人か借りて、作ってもらった」
「デザインは?」
「既製服のやつををちょっといじっただけ。僕がやったのは3Dグラフィックに起こすのと、あとオリジナルデザイン適用時の課金だよ」
ひとまずアイリスのデザインの参考になればと言って、イチローはインベントリから山のように防具を放出した。いずれの防具もクラス制限はなく、ヨザクラが自由に着られるものだ。こういうのもお仕着せと言うのだろうか。
防具はいずれも、現代アパレルそのままのデザインで、方向性も多岐に渡る。いずれも女性用だ。手にとって見ると、表面の素材はざらざらしていたり、つるつるしていたり、必ずしも見た目通りというわけではないのが、システムの融通の効かなさを表している。
ヨザクラはその中から明るい配色のものを幾つかチョイスし、装備してみた。着心地、というものは、ゲームシステムに反映されない。グラフィックが存在しない部分は空洞扱いで、当然地肌や肌着、あるいは下に着込んだ防具などがルックスに反映され、そこはもちろん、圧迫感がなくすーすーする。着心地と言えばそれくらいか。
キルシュヴァッサーをやっていた頃は、寝ても覚めてもフルプレートメイルであった。重装騎士のたしなみである。現実世界ではムレムレであろう全身鎧も、このゲームにおいては快適だ。だからまぁ、扇桜子も基本的には『着心地なんてステータスはなくていい』派である。鎧を纏うたいていの戦士職が同意見だろう。
ただし女の子である。更年期を『オトナ思春期』と言い換えるトチ狂った常識がまかり通りつつあるこの日本では、実年齢26歳と言えどオンナノコである。これだけの衣服を前にすれば心も踊るし、実際の着心地が反映されないのはちょっと寂しく感じる。
ずばっ、とポーズを決めた。
「どうでしょうかイチロー様!」
それはファッションモデルが取るようなものというよりは、いわゆるイタリア彫刻を思わせるダイナミックな身体のうねりを再現したものであった。肉体のたくましさと黄金の精神を体現した誇りある立ち姿。彼女も今月29日発売予定のゲームを楽しみにしているクチであった。
やはり見た目の若さとゲーム内であるという前提は、心のタガを外しやすくするものなのだろうか。扇桜子では恥ずかしくて出来ないような真似も、平気でやるのがヨザクラである。
「ん、良いんじゃない」
「そういうのは相手を見て言うもんじゃないんですかねぇ」
イチローは椅子に腰掛けて、ミライヴギアの専用ブラウザを眺めている。
「イチロー様、何をご覧になっているんですか?」
「マツナガのブログ」
「へぇ、そういえばもう新要素の検証も始まってるんでしょうか」
「もう一部のクラスについては、初期取得スキルやアーツのデータが出てるよ。仕事が早くて素晴らしいことだ」
別タブで攻略wikiを開いて見せた。従者についてのデータはまだ薄いが、偶像に関しては既にかなりの充実を見せている。まだ解禁から1日しか経過していないはずなのだが。協力者でもいたのだろうか。双頭の白蛇にアイドルというのは、ちょっと想像がつかない。
ヨザクラは横からブラウザを覗き込みながら、自身に必要なスキルやアーツにデータを瞬時に記憶した。ゲーマーとしての冷徹なる本能である。セカンドキャラはネタに走るといっても、それは決してデータに妥協するという意味ではない。全力で打ち込まなければネタに走った甲斐もないのだ。
「で、僕が見てたのはこっち」
食い入るようにデータを見つめていたヨザクラの前で、イチローはタブを切り替える。あぁん、そんなご無体な。
が、切り替えた後に飛び込んできた文字列を眺め、ヨザクラは瞬時にイチローが示していた興味の正体を理解した。
「〝アイリスブランド、MiZUNOに挑戦〟……。もう嗅ぎつけたんですか?」
「嗅ぎつけたのか、一枚噛んでいるのか。僕は後者だと思うんだけど。相変わらず偏向報道の上手い男だよ。僕たちがMiZUNOに喧嘩を売って、デザイン勝負でプロデザイナーの胸を貸してもらうようなことになっている」
「まぁ……真相として間違っているとも言い切れませんね……」
「まぁね」
アイリスが芙蓉に喧嘩を売ったのは事実で、デザインの地力に天と地ほどの差があるのも事実だ。芙蓉自身がどう思っていようと、客観的に見ればそれは高校球児が大リーガーに挑むようなものである。そこで読み手の意識を『相手にしてもらえて良かったね』と言わせるような方向に持っていくあたりは、さすがのマツナガと言えるだろう。
「確かにバイアスはかかってますね……。染井さんが見たら怒りそう」
「義憤は燃やすかもしれない。まぁあいつの場合は……」
言いかけたところで、言葉を止める。ギルドハウスの中に誰かがログインしてきたのだ。
誰か、と言っても、まぁそんなの1人しかいないのだが。2人は、主役の遅い登場を片や笑顔、片や涼やかな態度で受け入れた。世するにいつもの態度だ。
「やぁ、アイリス」
「おはようございます、アイリス」
たとえヴィクトリアンメイドであろうとフレンチメイドであろうと激シブの前衛騎士であろうと如何にも私服めいたカジュアルファッションであろうと、桜子の礼は、毎度実に堂に入った美しいものである。まずはアイリス、どんよりとした顔で2人に挨拶しようとし、そんなヨザクラの姿に面食らった。
夏らしい涼しげな色合いをしたボーダーのブラウスと、花柄スキニーパンツの合わせ技である。そこに厚底サンダル。柄on柄は今年の流行スタイルを地で行くファッションだ。センスもよろしい。何より、ぞっとするように白い肌と赤い瞳が現実感を希薄にしている割に、如何にもな現代ファッションがよく似合うのであった。
「や、やるわね……」
アイリスに出現する冷や汗エフェクトの正体を、ヨザクラは知らないのであって。
「アイリス、調子はどうですか?」
「全然よ。ヨザクラさんに合うようなやつを……って考えてるんだけど、良いのが浮かばなくって……」
「イチロー様が、いろいろと参考にと服をご用意してくれましたが」
「そうみたいね」
アイリスはずらりと並ぶ防具を眺めて、次にイチローを見た。並ぶ防具のうち何点かは、見たことのあるものだった。ファッション雑誌であったり、あるいは春先の東京ガールズコレクション(実際に見に行けたわけではない)であったり。ヨザクラの装備も、そうした既製服の組み合わせだ。
御曹司は椅子に腰掛けて専用ブラウザを眺めたままだ。彼なりに、協力してくれているということなのだろう。しかし、これは……。
「何かよさげなデザインはできましたか?」
「ん、んーん。なんか一個もできなかった。行き詰まっちゃたわ」
アイリスは薄っぺらい笑いを浮かべて、嘘をつく。急激に自信がしぼんでいく感覚があった。御曹司の気遣いを恨めしく思う。これだけの既製服を前にして、アイリスの用意したデザインなど、やはりゴミのようなものではないだろうか。アプリケーションソフトの中で眠る2点のpdfを、そのまま握りつぶしてしまいたい気分だった。
御曹司にそんな意図がないことはわかっている。ヨザクラに似合うカジュアルファッションはどのようなものか、彼女を引き立てるリアルクローズとはいかなるものか、アイリスの参考になればと思って、これほどの防具を用意してくれたに違いない。だがそれでも、何か、自覚してはいけない何かを見せつけられた気分になった。アイリスが半日かけても出せなかった結論の一端を、彼は既製服の中からとは言え見つけてしまったことになる。
「アイリス、」
イチローは、専用ブラウザから目線を外さないで言った。
「な、なによ」
「スポンサーの方は、一応探偵社にしておいたよ」
「へぇ。そう。服飾ブランドのスポンサーが探偵社っていうのも、変な感じね」
動揺は極力表面に出ないよう抑えたつもりだ。だが、それでもイチローの態度は、こちらの心中を見透かしているようで落ち着かない。
「建築事務所にするか、最後まで迷ったんだけどね。スポンサーアイテムの方は、まだ審査が通ってないんだけど、無事にアイテム化してもらえれば結構役に立つと思うよ」
今更だが、ギルドスポンサーだってタダではない。御曹司は、支払った金額など微塵も感じさせず、実に飄々としたものであった。
次に彼は、このようなことを言った。
「アイリス、まだ一週間もあるんだ。そんなに気負わなくたって良い。僕も何かと手伝うよ」
かちん、と、来てしまったのである。
怒るような要素なんて、そこには何もなかったはずだ。だが、アイリスの感情は、極限まで追い詰められた状態にあった。様々な要因が重なる。そこにきて、彼女の努力や葛藤をせせら笑うかのような、イチローの超然とした態度は、正直、癪に障った。
「あ、あんたには、わからないわよ……」
「アイリス?」
そこでようやく、イチローは顔をあげる。視線が合う。ドラゴネットの金色の瞳は、何もかもをお見通しであるように思えた。
「あんたにとっちゃ、この勝負も、どうせいつもと同じなんでしょ。勝って当然って顔して。自分が出れば楽勝だけど、ちょっとした遊び心で、あたしにやらせようとか、そういう風に思ってるんでしょ」
あれ、自分は何を言っているんだろう。
堰を切ったように溢れ出す言葉に、アイリスは自分で焦る。頭の中では微塵も考えていなかったような悪態が、平然と口をつく。ほとんど言いがかりに近いような感情が、じわじわと溢れ出す。
「あんたみたいな、恵まれたやつには、あたしみたいな凡人の苦悩なんかわからないわよ。わからないくせに、わかったような顔、しないで。気負うなとか、手伝うとか、軽々しく言わないでよ」
言ってしまった。自分は、面倒くさいやつだ。イチローはこちらの顔をじっと見つめていた。その態度には微塵の変化もない。
「アイリス、」
いつも通りの涼やかな言葉で、イチローはこちらの名前を呼んだ。続く言葉は、聞きたくない。と、アイリスは本能的に思った。どんな言葉を繋げられたとしても、自分が惨めになるだけだ。だから、彼女は先手を打った。
「ご、ごめん。ちょっと疲れててわけわかんないこと言っちゃったわ。頭冷やしてくる」
それだけ言って、外に飛び出る。そうやって逃げるんだ、と頭の中で誰かが責めた。そうよ、逃げるのよ。あんな奴になんか立ち向かえないわ。ただでさえ、強敵を目の前にして心がくじけそうだっていうのに、あんな化け物なんか相手にできないわよ。
御曹司は自分のことを考えて言ってくれたはずなのに。なぜかムカついてしょうがなかった。自分が半日かけて出なかった答えをあっさり見つけてきてくれたから? それもあるかもしれない。理由なんてきっといくらでもある。あいつはそういう奴だし。でも、どんな理由があったとしても、ムカついてしまっている自分のことが、アイリスは一番イヤだった。
外に出たアイリスを、イチローはすぐに追いかけない。椅子に腰掛けたまま、彼女の背中を見送って、しばし後にこう言った。
「怒らせちゃったなぁ」
「イチロー様はいつか女の人を泣かすと思っていました」
「ナンセンス、とはなんだか言えない気分だね。ヨザクラさん、追いかけてきてもらえる?」
わきに立つ彼女に、イチローはお願いをする。今の彼が追いかけ、仮に謝ったところで、大した効果は得られないだろう。ヨザクラも頷いた。
「いいですよ。イチロー様は?」
「嫌な奴らしく、平然と記事の続きを読むことにする」
実に彼らしい回答が返ってきた。
双頭の白蛇のギルドハウスは、攻略最前線たる武闘都市デルヴェに存在するが、それはあくまでも〝表面上の〟ギルドハウスでしかない。天下の往来に〝ででん!〟とハウスを構えるようなギルドでないことは、ギルドリーダーのマツナガ以下、メンバー全員が同意している。基本は悪役。それが彼らのモットーであって、ギルドハウスひとつをとっても、〝それらしさ〟が求められた。
なので、本当のギルドハウスは、〝中央魔海〟のフィールドど真ん中、MOBが侵入不可能な区域に設けられた、小さなダンジョンである。システム上のギルドハウスではないにせよ、彼らが集まり、憩いの場としているのは基本的にここだ。たまーに留守中、他の冒険者に荒らされたりするあたり、子供が公園の片隅にこさえた秘密基地に近い感覚がある。
「いやぁ、良いもんだねぇ」
椅子に腰掛け、ワイングラスを片手に、エルフの斥候マツナガが笑みを浮かべた。グラスには赤い液体がなみなみと注がれ、マツナガは時折グラスを回して液体の揺れを楽しんでいる。無駄な演算処理だ。
「マツナガ、ゴキゲンだねー」
そう言ったのは、獣人の盗賊あめしょーである。
彼女の装いは、昨日ステージを強襲し、石蕗一朗に宣戦布告を行った時と同様のものだ。クラシックタビー柄のジャケットに、格子柄のギャザースカート。加えて厚底ブーツにニーソックスである。彼女は、テーブルの上に身体を投げ出して、ネコ耳をぴくぴくと動かしていた。
「あの、どうでも良いのですが。この映画の悪役のような状況は……」
唯一、この場に馴染んでいないのが、芙蓉めぐみであった。
正直気が落ち着かないというのはあるだろう。壁際にずらりと並ぶのは、マツナガ自慢の双頭の白蛇精鋭部隊である。彼らは徹底して言葉を語らず、芙蓉のログイン以来ひと時たりとも離れたことはない。アイリスブランドを訪れた時でさえ、彼らはその自慢の隠密性で常に彼女のそばにいたのである。
「芙蓉さんも慣れてくださいよ。これが俺たちの演技なんだから。何事だって、楽しまなきゃあ損でしょ?」
「話が違いますわ」
芙蓉は、困惑を隠すことなく、しかし毅然と言った。
「わたくしは、一朗さんとアイリスさんに一泡吹かせられるという、あなた達を信じて手を組みましたのよ? それを……」
「良い感じですねぇ。そういうのですよ」
「はぐらかさないで」
キッと睨みつけるても、マツナガはその美麗な顔立ちに浮かべた薄ら笑いを止める気配はない。
「まぁまぁご心配なさらずに。実際、状況はあんたの望み通りに進んでるんでしょうに。アイリスさんは思ったより短気でしたけどね。しかしわかりませんね。こんなことして何になるんです? ツワブキさんがあんたに振り向いてくれるわけじゃないでしょうに」
「殿方にはわかりませんわ」
芙蓉はぷいと顔をそらし、マツナガは頭を掻いた。
「これだから女性は苦手ですよ」
「ねー、マツナガって童貞?」
「そういうことおおっぴらに聞くもんじゃないですよ。童貞ですが」
ばん、と芙蓉がテーブルを叩いた。顔が少し赤い。上流階級の令嬢を前にして出すべき単語ではなかったろう。マツナガは、俺はたしなめたでしょ、と言おうと思ったが、やめた。
ワイングラスの中の液体を一気に飲み干すと、マツナガはハイドコートの裾に手を突っ込んで、外につながる入口の方へと向かう。
「どちらへ行かれるんですの?」
やや不機嫌気味に問う芙蓉に、マツナガはやはり薄ら笑いを浮かべて答えた。
「いや、俺も挨拶してこようかなって思いましてね。ドラマチックに」
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× つるつるそていたり
○ つるつるしていたり
× 煮詰まっちゃったわ
○ 行き詰まっちゃったわ




