第六十一話 御曹司、モデルを推薦する
その夜、一朗は書斎にこもっていた。
自身の仕事場としてあつらえた空間ではあるが、ここ最近は入り浸ることもあまりなかった。防音性は確かなつくりで、パンカーダのカーヴドニーホールデスクをはじめとしたインテリアの数々も非常に落ち着いた雰囲気を作り出している。一人になるには良い空間だった。一朗の仕事場というと、この書斎のほかにもう一箇所、〝オフィス〟があって、そちらはもう少し現代的な空気でまとめている。ピッツバーグの研究所から取り寄せた機材一式があるのもオフィスの方だ。
明確に使い分けをしているつもりはないが、事務的な作業ならば書斎にこもることの方が多いように思える。オフィスは、パソコンの周辺機器を使う機会の多い仕事をするときに使用するが、ここ数ヶ月はそんな仕事も来ない。もっぱら、導入したスパコンやらサーバーマシンやらをいじくりまわす場所となっていた。どちらかといえば遊びに近い。
もちろんパソコンならば書斎にもある。書面の作成や簡単なメールのやり取りくらいならば、やはり書斎で済ます。この時一朗がしていたのは、ある書類の作成であった。まるでピアノを弾くかのように細長い指先がキーボードを叩いて、液晶ディスプレイに表示された書面の空欄が、ものすごい勢いで埋められていく。身体は微動だにせず、腕とそれ以外がまったく別の生き物のようにも見えた。相変わらず表情は涼やかで、眼球の動きだけが静かに文字を追っている。
防音性の高さゆえ、油断すれば聞き逃してしまいそうなノックの音が、一朗の耳朶を叩く。一瞬、視線だけをちらりと扉に向けて、彼は作業に戻った。ここで『どうぞ』と言っても聞こえやしないのだ。ノックをしたあとは勝手に入るよう伝えてある。
「失礼しまーす」
その言付けの通り、桜子は自ら扉を開けて、中へと入ってきた。
「おつかれ、桜子さん」
「おつかれさまでーす。コーヒーとお夜食をお持ちしました」
「ん、」
トレーに載ったウェッジウッドのカップからは、白い湯気とともに芳醇な香りが立ち上って鼻腔をくすぐる。皿にはサンドイッチが載せられていた。少食気味である一朗の夜食としては、やや多いだろうか。桜子は、これらの食器に一切音を立てさせず、静かにホールデスクの上へと置いた。
「少し時間がかかりそうですか?」
「思ったほどでもないよ。1時には布団に入ってぐっすり眠れる。まぁ、審査はあるらしいんだけど、その審査待ちっていうのが、今はないしね。明日の午後くらいには許可が出るんじゃない」
「なるほどぉ」
桜子はトレーを胸元に抱きながら頷く。
「さっきちょっとだけ潜ってきましたけど、アイリスも必死そうでしたよ?」
「そりゃあ、そうじゃないかな。あんなこと言っちゃった手前もあるしね。僕としては、ああいった態度はすごく好ましい。アイリスがあそこまで言うとは思わなかったけど」
「すごい暴言でしたよね」
「それも含めてかなぁ。めぐみさんには気の毒だけど」
わかっていたことだが、この御曹司もだいぶ良い性格をしている。彼がアイリスのように直接的な暴言を吐くなど聞いたことがないし、単純に相手を煽る目的で挑発するという様子も見たことはないが、割とああしたものを見るのは好きらしい。
「僕も、彼女の態度に応えてあげなければならない」
「頑張るのはアイリスだけじゃあないんですよ?」
「ああ、もちろん。ヨザクラさんもだよね。アイリスのデザインは、今の装備より少し露出が低めだと良いんだけど」
「そんなにあの防具がお嫌いですか……」
桜子の声が若干ひきつる。
さて、彼らがいったい何の話をしているのか。順を追って説明していくとしよう。
時刻は8月10日15時過ぎ。芙蓉めぐみが実質的な宣戦布告とともに、アイリスブランドを去ったあとにまで巻き戻る。
アイリスが壁に頭を打ち付ける様は、キツツキによく似ていた。しかしどれだけ壁に頭突きをかましたところで、ダメージ判定も痛覚判定も発生しない以上、彼女は自身の忌まわしい記憶を紛らわすことなどできはしない。まったくの徒労。バーチャル世界の融通が利かないところである。
イチロー、ヨザクラ、そしてエドワードの3人は、彼女の奇態を生暖かく見守っていた。壮絶なる自己嫌悪と身を焦がす羞恥心が、不毛な自傷行為を生む。不意に彼女が2階に駆け上がり、窓からのダイビングを敢行しようとした時点で、ようやくイチローはそれを引き止めることとした。
「し、死なせて!」
「なんかもう色々とナンセンス」
細い手首を掴んで動きを止めると、アイリスは何やら泣き喚く。
「あたしはバカだわ! バカは死ななきゃ治らないんでしょ! 死なせてよ!」
「死んでも治らないという説もある」
イチローが神妙な顔で言い、背後でエドワードが『そうじゃないだろ』と突っ込んだ。ヨザクラも苦笑いを浮かべている。
「ひとまず落ち着くといい、アイリス。街中ではダメージ判定が発生しないから、飛び降りたところで死ぬどころか高所落下ダメージすら受けられない。それに、愚かさと素直さは同列だと思うし、僕はそれを美徳だと解釈している」
「あ、あたしがバカだってのは否定しないの?」
「しない」
「離して! 死なせてよ!」
結局、ツワブキ・イチローの正直すぎるがゆえに大して効果のあがらない説得は延々30分にも続き、その頃には(どちらかといえば時間の経過によって)アイリスもだいぶ落ち着きを取り戻していた。
ひとまず、状況を整理する。新進気鋭のファッションデザイナーである芙蓉めぐみが、ツワブキ・イチローに喧嘩を売り、それをアイリスが受けてたったというのが今の構図である。勝負内容は服飾のオリジナルデザイン。どちらが優れているかは、一般プレイヤーの投票で決める。どう贔屓目に見たところで、アイリスに勝ち目はない。
「そういえば、どうしてエドはずっといたんだい」
「いちゃ悪かったか」
「悪いとは言わないけど」
リアルで会ったときと異なり、彼の言葉遣いは不遜なものに戻っている。イチローは肩をすくめた。
「悪いとは言わないけど、客観的に見ると君がいて特に良いこともなかった気がする。毒にも薬にもならないというやつ」
「………」
まぁ彼のことはどうでもいい。
ひとまず、台風が過ぎ去って正気に戻り、勢い余って口にし過ぎたことを悔やんでいるのが今のアイリスだ。だが、後悔は先に立たないし覆水は盆に帰らない。人間、いつだって失態に気づくのは何かをやらかしたあとなのだが、それを飲み込めるほどアイリスの人生経験は豊富ではなかった。結果、頭を抱え込んで座り込むアイリスである。
「それとも、今からでもめぐみさんに謝って勝負を取り下げてもらうかい」
「それはイヤよ。やるっつったらやるわよ。やるんだけど……」
途方もない勝負を抱え込んでしまったがゆえの苦悩である。受け入れ、覚悟するには時間を要するだろう。結局のところ、そこはアイリスの心の問題でしかない。イチローはそうした、他人の内面における問題に関しては、基本的にドライであった。彼女が乗り越え、あるいは跳ね除けるのを待ち、もしも押しつぶされてしまうようなことがあれば、上に乗っかった重荷をそっとどかして、あとは自分でなんとかする。
彼なりの誠実さではあるが、無責任とも言える。ま、そのあたりの議論など、いくら交わしたところでナンセンスだ。何が正しいという回答があるわけでもない。
こうした時にイチローがやるのは、外部的なフォローであることがほとんどだ。
「とりあえず、原因は僕にあるみたいだし、実際半分は僕の勝負だ。支援は惜しまないつもりだけど」
「惜しまないっつっても……どーすんのよ。おカネで才能は買えないわよ……?」
アイリスが怪訝そうな顔をするのと対照的に、ヨザクラは笑顔で言った。
「でも、票はおカネで買えませんか?」
彼女が自身の失言に気づいたのは、周りの冷たい視線を受けてである。ハッと目を見開き、ただでさえ白い魔族の肌が、みるみると青ざめていく。瞳の紅が対照的に浮かび上がった。
設定上の養父、キルシュヴァッサーの暗黒面を受け継いたヨザクラに、イチローが言う。
「今日の晩御飯は、わさびのり太郎が3枚だね」
「し、死んでしまいます!」
桜子は悲痛な叫びをあげた。
「とはいえ、アイリス。ヨザクラさんの言うことも一理ある。プレイヤーを買収して票を集めることはできるよ。ナロファンの総アカウント数が3万で、アクティブユーザーが1万だっけ。例えば、この放置された2万人分のプレイヤーに、『5000円あげるから、30分だけログインして投票して欲しい』と呼びかければ、それだけで僕らの勝ちだ」
「ナンセンスだわ」
アイリスは視線を合わせない。
「〝僕ら〟の勝ちじゃないでしょ。あんたの一人勝ちじゃない」
当然のごとくお気に召さない様子である。イチローとしても、このやり方はルールからは逸脱しないものの、スマートなやり口ではないと思っている。ありていに言って好みのやり方ではない。2万人分の連絡先を入手するのも骨であろうし、何よりアイリスの実力と直結しない結果は、ただただナンセンスだ。
「ひとまず、あんたらにもスポンサーを立てたらどうだ」
毒にも薬にもならない男、エドワードが、そこでようやく口をはさんできた。
「す、すぽんさー?」
アイリスはよく理解していない。そうか、そこから説明しなければならないのか。
エドワードは、自身のプレートメイルの背中を指差した。そこにはアキハバラ鍛造組の紋章と並んで、小さく『GOOD SLEEP COMPANY』のロゴがテクスチャーされている。そのままギルドスポンサー制度について簡潔な説明をしてくれた。
ギルドスポンサー制度の恩恵としては、やはり経験値や獲得資金などのブーストが大きい。続いて、スポンサーがゲーム内で販売する限定アイテム、限定サービスを無料で入手できること。ギルドが受けられる恩恵といえば、実質この二つ程度だ。当然、スポンサーがついたところで、デザインセンスが神がかり的に上昇するといったようなステキな機能は付属しない。
「それ、あんま関係なくない?」
アイリスはそう言うが、イチローは笑顔で頷いた。
「いやぁ、僕はエドの言うことはわかるよ。僕がスポンサーをやればいいんだろう」
「まぁ、ゲーム内にいろいろ持ち込めるようになるからな」
ギルドスポンサーは、企業のためのシステムだ。現実世界でのプロダクトをデータ化さえできれば、ゲーム内アイテム、サービスとして持ち込み、販売ができる。もちろんそこに運営の厳格な審査は存在するが、そこさえ突破すれば融通の効くアイテムを生産可能である。事実、MiZUNOはオリジナルデザインの装備アイテムをゲーム内で生産し、それをあめしょーが着用している。
ギルドスポンサーの権限を持つアバターには、その他にも様々な特典が付与される。彼らが戦闘を行うことは禁止されているが、ゲーム内のどういった場所にも自由に移動できるし、アバターのフィジカルステータスは最高値で設定される。当然、戦闘不能状態になることはなく、バッドステータスやフィールドエフェクトの効果も受けない。まぁやはり、いずれもアイリス自身にメリットがあるようなことではないのだが。
要するにエドワードは、イチローがそのままアイリスブランドのスポンサーになれば、何かと動きやすくなるのではないかと言っているのだ。別に勝敗に直接関わるような提案ではないにせよ、相手がギルドスポンサーとしてゲーム内に参加している以上、こちらもスポンサーを立てるのは不自然な提案ではない。
「御曹司、会社持ってるの? ギルドスポンサーって企業じゃなきゃダメなんでしょ?」
アイリスは言ってから、相当感覚のブッ壊れたセリフを吐いたと自覚する。
「ツワブキさんなら、親父さんの会社のひとつやふたつ、動かせるんじゃあないのか」
「確かに、父さんに会社貸してって言えば喜んで貸してくれると思うけどね。その場合、最低でも取締役くらいはやれって言われそうだし。僕は今、あまり父さんの仕事を手伝う気にはなれないんだよね」
「じゃ、じゃあどうすんのよ」
「だから僕の会社を使うんだって」
イチローはあっさりと言った。
「あんた社長なの?」
「小さい事務所ならいくつか持ってるだけだよ。でも、企業といえば企業だから、システム上スポンサーをやるには問題ないと思うんだけど。ヨザクラさん、なんか使えそうなのあったっけ」
「一朗さまが現在お持ちの会社は、ツワブキ建築設計事務所、ツワブキコンサルティングファーム、ツワブキプロダクション、TSS探偵社。あとお忘れだと思いますがツワブキハウスクリーニングというのもあります。いずれも株式会社です」
「どれも微妙だね」
こういう場合、まずどこから驚き、突っ込み、あるいは呆れれば良いのか、アイリスにはよくわからない。なんというか、こう『そうなんだ、すごいね!』で全部済ませてしまいたくなる気持ちだった。エドワードを見ると彼も同じらしい。今、はっきりとわかった。御曹司が金持ちだろうとそうでなかろうとどうでも良いのだ。考えるのも面倒くさい。
「その中で探偵社だけツワブキって入ってないのね」
アイリスが言えることと言えばこんなものだ。
「入ってるよ。石蕗、著莪、染井の連名だからね。今は僕しかいないけど。懐かしいなぁ。5年くらい前かな。正義感が強すぎてクビになった新聞記者がいてね、彼女が再就職するまで給料払ってあげるために作った会社なんだよね」
「その話、長くなる?」
御曹司が珍しく何やら遠い目をしはじめたので、ひとまず先手を打たせてもらう。イチローは肩をすくめて、涼やかな態度だけは崩さずに答えた。
「話すネタには事欠かないよ。で、スポンサーの件はどうしようか。まぁ、後でこっちで勝手に決めれば良いかな」
「そうして。決めることは他にもいろいろあるわ」
例えば、モデルをどうするかという話である。
ファッションショーの形式を取るのだし、それなりに見栄えの良いアバターを用意したいところだった。なにしろ、相手はあのあめしょー。1000人近いフレンドを持つ魔性の猫である。フレンドの中にイチローやキルシュヴァッサーがいる以上、その全員が彼女に票を入れるわけではないのだが。それでも潜在的なファンを含めればアクティブプレイヤーの1割が既に敵となっているようなものだ。
ここにきて、アイリスもようやく覚悟が定まってきた。芙蓉のデザインにモデルがあめしょー。強敵という言葉ですら物足りなく見えるが、やる以上は手を抜けない。こちらで用意できる最高のデザインとモデルで迎え撃たねば。
拳をぐっと握るアイリスに、イチローは言った。
「モデルならヨザクラさんにやらせたら?」
「へっ?」
不意を打たれたように固まるのは、当のヨザクラである。
なるほど、名案だわ。と、すぐに手を打つほどアイリスも軽々しくはない。まずは視線を彼女に向け、ずい、と歩み寄った。
「悪くはないと思うんだけどな。希少種族だし。新クラスだからプレイヤーの興味は惹けると思うよ」
「それ私の魅力じゃないですよね?」
頭の先からつま先まで、全身余すところなくアイリスの視線を受けながら、ヨザクラは言った。
「ポニーテールは良いと思う」
エドワードが謎のフォローを入れる。
だが、確かに悪い提案ではないか、と、アイリスも思った。ゲーム内アバターの9割が美形である以上、『ヨザクラの顔が良い』というのは何のアドバンテージにもなってはいないが、身近なプレイヤーの中では一番モデル向きであると思われる。それに一番頼みやすいポジションだ。ユーリ達にはいまいちこうしたお願いをしづらい。
それに、だ。ぐるぐると頭の中で思考を重ねるにあたり、アイリスにはひとつの結論が浮かび上がった。
「単純に人気の話をするなら、騎士団のティラミスさんで良いのでは……?」
「彼女が承諾してくれれば、僕はそれでも良いんだけど……」
「ヨザクラさんにやってもらうわ」
アイリスの声には、妙な熱意と力強さがこもっていた。気圧されるヨザクラ。イチローとエドワードは遠巻きに眺めているだけだった。ちょっと助けてくださいよ。
「わ、私ですか……。いや、イヤとまでは言いませんけどね……」
「ヨザクラさん、あなたじゃなきゃダメだわ」
「おぉ……」
アイリス、2度目の指名。わずかに物怖じしかけていたヨザクラではあるが、感極まったように声を漏らす。
「そうまで言ってくれますか、アイリス。ちょっと嬉しいですよ?」
アイリスの知ったことではないが、ヨザクラ自身、このセカンドキャラの初披露で一朗から微妙な反応しか引き出せなかったことに、少しヘコんでいたのである。故に、このアイリスの言葉は、彼女にとって大きな後押しとなった。
アイリスにここまで言われては、覚悟を決めるしかあるまい。ファッションモデルの大役、この不肖ヨザクラがぜひ、などと、キルシュヴァッサーの口調でしゃべりそうになったのを、慌てて喉に押さえ込む。
「あたし思ったんだけど、」
「はい」
「ティラミスさんだと、プレイヤーの人気に押されてあたしのデザインを正しく見てもらえない気がするの」
が、突然怪しくなる雲行きに、ヨザクラの顔がひきつった。
「あ、えっと」
アイリスは容赦なく続ける。
「だからこの、美人は美人だけど、なんかちょっと微妙な感じのヨザクラさんがベストだと思うわ」
「そうまで言ってくれますか、アイリス。ちょっといじけますよ?」
ヨザクラの声は感極まったを通り越して、少し泣きそうになっていた。




