第六十話 御曹司、受けて立つ(3)
どれだけ怯えようと、いずれ朝日は訪れる。時間は平等に残酷なので、待ってはくれないのだ。アイリスは今、それを猛烈に実感していた。芙蓉めぐみがこのアイリスブランドを再び訪れるまで、あと10分もない。アイリスは椅子に腰掛け、ただひたすらに心が落ち着けようと空中を睨みつけていた。感情のトレース機能が誤作動を起こしているのだろうか。表情筋が妙ちくりんな動きをする感覚があった。
特定感情の表現パターンを除けば、ナロファンのアバターに発汗能力はない。だがもしもアイリスが生理現象のままに汗をかくことができれば、彼女は全身から滝のような汗を流していてもおかしくはなかった。正面にアラームメッセージが表示される。
『過剰なストレスを検知しました。身体に深刻な影響を及ぼすおそれがあります。ただちにゲームを中断してください』
逃げ出せるもんなら逃げ出してるわよ。アイリスはウィンドウを消した。
ストレス検知によるアラームメッセージが表示されるなんて今まではなかった。アップデートで変更された点と見て良いのだろうか。もしストレスを溜め込んで胃に穴を開けても、現実の痛覚が遮断されたプレイヤーは気づかないのだから、順当なアラームではあるか。
ふん、人間のカラダをそこまで機械で制御しようなんてちゃんちゃらおかしいわね。ヘソで茶が沸くわよ。ヨザクラさんのお茶よりも美味しいのが入るわよ。アイリスは、心の中でそうコメントを残した。アラートメッセージが出てくる前から、あたしは緊張で吐きそうだし頭痛とめまいで今にも倒れそうだわ。なんだかお腹もゆるいような気がする。心の満身創痍よ。
御曹司は、芙蓉めぐみから喧嘩を買ったという。
勝負の内容はまだわからない。そもそも、いったいどういう経緯で喧嘩を売られたのかもわからない。芙蓉が自分に向けて言った言葉と、何か関係があるのだろうか。『石蕗一朗さんがお気に召したデザインですもの』だっけ? 何か、壮絶なとばっちりをくらっているような気がしてならない。
御曹司が気に入ったデザインだから、なんだというのだ。そりゃああたしのデザインは『大したことない』かもしれないけど、人の感性なんてぶっちゃけそれぞれだし、気に入ってくれる人がいたっていいじゃない。それとも芙蓉めぐみは、実力のないものには、そんなささやかな賞賛さえ認めてくれないというのか?
思い返せば腹は立ってくる。だが、先程までの勇ましさは吹き飛んでいた。今はただただ、お腹が痛い。
もしも、もしもだ。もしも芙蓉がデザイン勝負を挑んできたとしたら、その内容はどうあれ、真っ向から受ける自信がない。実力差は圧倒的なのだ。勝敗の行方など、戦う前から決している。『人間の感性』なんて、フワフワっとしたものに評価を委ねるとしても、実際カリスマデザイナーのデザインにはオーラが出る。
芙蓉さんをコテンパンにするって? 無理、無理よ。無理に決まってんでしょ。あたしを誰だと思っているの。杜若あいりよ。デザイン系の専修学校で、基本的に6割は嫉妬する立場にいる人間よ。そんでもって、たまーに自分よりセンスのない生徒のデザインを見て、ほっと胸を撫で下ろすようなクズなのよ。そんな自分が、あの天才デザイナーに勝てるとでも?
「アイリス、辛そうですね」
アイリスから少し離れた位置で、ヨザクラがそう言った。彼女は先程からまずそうなお茶を入れては飲み干すという苦行を繰り返している。《茶道》のスキルレベルを上げているのだと思われた。
結局、芙蓉めぐみが来るまでの間、彼らは好き勝手に時間を過ごしている。ユーリ達は昼食の為にログアウトし、エドワードは金床を取り出して一心不乱に防具を作り始めた。半月近くログインできなかった遅れを取り戻すつもりらしい。自分のギルドハウスに戻ってやればいいと思うのだが、彼としても、何やら芙蓉めぐみの動向は気になるらしい。
「辛いわ。ゲロ吐きそう」
「女の子がゲロとか言っちゃいけません」
ヨザクラ。魔族の従者である。彼女のプレイヤーがキルシュヴァッサーと同じであり、同時に御曹司の家で住み込みの使用人をしている〝女性〟であるという事実は、どうも未だに受け入れがたい。だってほかに使用人いなかったし。いい歳した男女がひとつ屋根の下なんて。フケツ極まりない。
思春期特有の豊かな妄想力と言えるが、口にすれば『ナンセンス』と一蹴されるであろう。当の御曹司は、窓際に立って空を眺めている。彼はときおり、こうして上を見上げては『大したグラフィック技術だとは思わないかい』と、心底感心した様子で声をかけてきた。その度にアイリスは同じように空を見上げて、単純にも同じように感心したものである。
「ヨザクラさん、御曹司って、リアルでもあんな感じなの?」
「そうですよ。アイリスだって、リアルでも割とそんな感じでしょう?」
「まぁ、そうなんだけど」
でもキルシュヴァッサーは違ったわけだし。アイリスは御曹司のブッ飛んだ言動の数々を思い出す。あんな漫画みたいなキャラが現実に存在して往来を歩いているとはなんたる不条理。
「なんか、今回の件、あたしが御曹司のとばっちりを受けてるのよね? エドワードさんの時みたいに」
名前を呼ばれて、エドワードがぴくりと動きを止めた。が、『気にしていない』オーラばりばりで作業を再開する。嘘がつけない人だと思った。
「さぁ……どうなんでしょう。私もよくわからないんですよね」
「あぁー……。なんか自信ないなぁー。もし、デザイン勝負を挑まれて、もし断ったりしたらさぁー」
「はい」
ヨザクラは、お茶を入れる手を止めてアイリスの顔を見る。誠実な対応だ。こちらも少しだけ言葉を選んだ。
「……御曹司は、あたしを軽蔑したりする?」
「しないと思いますよ」
笑顔で、しかし即答であった。
「イチロー様は、アイリスの判断を大事にされます。そこにご自身の判断が介入するべきではないとお考えになりますよ。アイリスが断ったとして、あなたに対する態度が変化することはありません」
「んー、それはそれで、なんかムカつくのよねぇ……」
軽蔑しない。落胆しないということは、要するに自分が何も期待されていないのと同義ではないのか。ここで、御曹司が自分に逃げ道を用意してくれているのだと思えるほど、アイリスは大人にはなれない。
「なんていうか、完全に上から目線じゃない」
「だってあの人上から目線ですし」
付き合いの深そうなヨザクラが言うからには、やはりまぁ相当なのだろうと思われる。
天上人という言葉がぴったりの相手だとは思う。驕るような喋り方をするだけの地位と才能があるのはわかる。アイリスは家のローンがまだ十何年だか残っているようなサラリーマンの家庭で、彼女自身は凡人でコムスメだ。客観的に見て、あらゆる意味でも足元に及ばない。
だがその御曹司と、対等な立場で接したいというのは、自身のワガママであろうか。単なるコムスメの強がりであろうか。仮にそうであるとしても、御曹司の態度が変わらないならそれでいいや、という理由で、逃げ道に足を向ける気持ちにはなれない。
お腹は痛いけど。頭も痛いけど。ていうかむしろ気持ち悪いけど。
窓際で空を眺めていた御曹司が、ふと腕時計に視線を落とし、その場から離れた。アイリスもメニューウィンドウを開いて時間を確認する。14時58分。もうすぐだ。エドワードもハンマーと金床をインベントリにしまっていた。完成したプレートメイルは、レシピ通りの(御曹司に言わせれば『特に面白みのない』)デザインであったが、素材となった超高難易度素材であるオリハルコンの輝きは、そんじょそこらではお目にかかれない。
ヨザクラも、自ら入れたお茶を飲み干し渋い顔を作ると、ティーセットの一式をアイテムインベントリに収納する。そういえば、今回のアップデートで、《細工》スキルにより製造できるアイテムの幅が広がったのだ。こうした調理器具もアイテム作成の対象となり、《細工》スキルは不遇の地位を脱した感がある。記念に今度ヨザクラにも専用のティーセットを作ってあげよう。
そんなことをぼんやり考えていると、ギルドハウスの扉がゆっくりと開いた。身構える。
「ごめんくださいな」
「やほー」
入ってきた影は2つ。1人が芙蓉めぐみ。もう1人が、これまたアイリスには意外な人物であった。
あめしょーである。おそらく芙蓉のデザインした防具なのだろうが、いつになくオシャレな装備に身を包んでいる。なんで彼女が、とは思ったが、それだけを追求する思考はできなかった。目の前に芙蓉めぐみがいるのだ。
「やぁ。めぐみさん、あめしょー」
当然、イチローが先陣を切って挨拶する。続いて、ヨザクラ、アイリスが軽く会釈をし、部外者でありながらちゃっかり居座っているエドワードもそれに倣った。椅子から立ち上がる時に足がガクガクと震え、生まれたての小鹿みたいになってしまった。自然、内股になって腕も変な動きをする。これも感情トレース機能の誤作動なのかしら。
さて、芙蓉の装いは、午前中に会ったときとまったく変わっていない。千鳥格子のワンピーススタイル。リアルクローズというには少し落ち着きがあるが、芙蓉にはよく似合っている。彼女は、笑顔でイチローに語りかけた。
「一朗さん、今回はわたくしとの勝負を受けてくださるということで。感謝いたしますわ」
「ナンセンス。何がとは言わないけどね。まぁ、僕は勝負の内容を聞いていないんだけど」
イチローがそう言うと、芙蓉は少し困ったような顔を作って、頬に手を当てた。
くそ、ムカつくわね。口汚い悪態が心の中で芽生える。何がムカつくかって、そりゃあ、この余裕ぶった態度だ。
「そちらなんですけれど……」
「決めてないの?」
「いえ、最初は、一朗さんがお気に召したデザイナーの方と勝負させていただきたいと思っていたんですけれど……」
このとき、こちらの方をちらりとも見ないのが、なにやら余計に癪に障った。
「午前中に直接拝見させていただきまして、それも大人げなくなるかしら、と思いましたの」
「なるほど」
何がなるほど、よ! アイリスは心の中でさらに噛み付く。芙蓉さんだって大概だわ。あなた、もう十分に大人げないじゃないの! 今更何を取り繕うってのよ。御曹司の前だから? はん。笑っちまうほどちっちゃいわね。ご立派なのはスタイルだけかしら。
このとき、芙蓉はアイリスの方をまったく見ていなかったので、口をぱくぱくさせながら無言で煽りまくる彼女の奇態を目にしたのは、真横に立っていたヨザクラだけで済んだ。
あたしは違う。あたしは違うわ。御曹司の前だからって取り繕ったりしない。そう、こいつがどんな態度を取ったって、へーこら頭を下げたり、弱みを見せたりするなんてまっぴらごめんのきんぴらごぼうよ。上品さがなによって話だわ。
「だから、実はまだ勝負の内容を決めあぐねておりますの」
「へぇ」
このとき、イチローはちらりと振り向いて、アイリスを見た。
おそらくそれは、完全に彼女の被害妄想であったと思うのだが、アイリスにはイチローが『良かったね』と言っているように思えてならなかった。芙蓉が、アイリスと直接勝負をしたがっているわけではないという事実。その再確認と安堵。
単なる錯覚であれ、あるいはアイリスの深層心理を投影したものであれ、それは彼女にとって、後戻りのできない最後のひと押しを促した。
「やるわよ」
気がついたときには、そう言っていた。
「へぇ」
「あら?」
「おぉ」
「………」
「にゃあ」
一同の視線が、こちらに向く。瞬間、自分は何を言ったのだ、という後悔にも似た感情がどっと押し寄せ、しかしその視線の中でも、ひときわ面白いものを見るようなイチローの目つきが、心の中に防波堤を築く。
こうなると、もう止まらなかった。
「芙蓉さんとのデザイン勝負。あたしが受けるっつってんのよ。御曹司があたしのデザイン気に入ったのが、腹立つんでしょ。芙蓉さん。その御曹司の前で、格の違いを見せつけてやりたいんじゃないの?」
「幼稚な発想ですわ」
「ふぅん。違うんだ。でも意識してんのに、お高くとまって『アテクシそういうレヴェルの低い争いには興味ありませんの』てな態度、ぶっちゃけ滑稽なのよね。上流階級気取るのも良いんだけど、そうやって本心から目を背けるんでしょ? ハゲるわよ」
「あ、アイリス……」
隣でヨザクラが引きつった笑顔を浮かべていた。なによ、言いたいこと言ってやるわ。あたしだけあんなこと言われて、おめおめと引き下がってなんからんないのよ。そんなに安い女じゃないわ。魂の値引きなんてプライドの欠けた女がすることよ。
ドン引きしているのはエドワードも同じだ。イチローだけは、何やら非常に満足した、というよりも、予想以上の結果を見てまさしく会心であるといったような笑みを浮かべている。芙蓉はその動きをぴたりと止め、あめしょーはあまり関心がなさそうに視線を泳がせていた。
「後悔しますわよ?」
かろうじて、そう言う。
「後で悔やむんなら後でいくらでも悔やんでやるわ。ここでおめおめと引き下がったら、今、悔やむことになるのよ」
自分に口喧嘩の才能がここまであるなんて思わなかったわ。アイリスは呆れながらも、視線を芙蓉から外さない。御曹司は非常に素敵なスマイルを浮かべながら、次のようなことを言った。
「そういうわけだから。めぐみさん、君のその台詞は、承諾したということで良いのかな?」
芙蓉はキッとイチローを睨みつけ、しばらくしてから視線を外す。
「……構いませんわ」
「ん、結構。じゃあデザイン勝負だね。最初そういう予定だったってことは、何かしらルールの構想があったと思うんだけど」
話題のイニシアチブは完全にイチローが握っていた。こうなると、芙蓉も促されるがままに話すしかない。
「プレイヤーを一人モデルとして、それに合ったオリジナルデザインの防具を用意しますの。どちらのギルドにも属さないプレイヤーの皆さんの投票で決めますわ。投票システムの方は、ゲストIDの方でご用意ができますので」
「なるほど。そっちのモデルはあめしょーかな」
「そだよー」
満面の笑顔を浮かべたまま、あめしょーはひらひらと手を振った。
「これとはまた違ったデザイン用意してくれるんだって。こっちは秋冬用新作のプロトタイプなんだヨー」
そのままその場でくるくると回転を始める。裾の長いジャケットにギャザースカート。どちらも黒と白、そしてグレイをかけあわせた模様だけに、シックで非常に落ち着いたデザインだ。やはりセンスの良さが光る。アイリスは思わず歯噛みした。
一瞬、あめしょー引っ張り出しといて人気投票ってずるくない? と思わないでもなかったが、そこで文句を言う気にはなれなかった。どーせ最初から格差の開けたバトルなのだ。あめしょーの人気なんて誤差である、とまでは言わないが、彼女の人気分更に格差が広がるなら、いっそそれも清々しい。
「アイリスもそれで良い?」
「い、良いわよ」
いまさら逃げ出せないと思いつつ、答える声はちょっと震えた。なんでここでヘタレるのよ。もう。
「アイリスさん」
「は、はい」
芙蓉に呼ばれ、緊張は更に高まってしまった。強気の自分を固定するのに相当の努力を要する。
「こうなった以上、容赦はいたしませんわ。獅子は兎を狩るのにも全力を尽くすものですもの。大人げないと言われても、あらゆる手段を行使して、あなたをへし折って差し上げます」
「ふぅん。良いんじゃない」
やや震え声ながらも、態度だけは保つことに成功した。
「でもね芙蓉さん、ライオンがウサギを狩るのに全力なのは、そのウサギを食べないと死んじゃうからよ。それ、けっこう切羽詰った状況だわ」
「お口の減らない方ですわね」
「だってもともと一つしかないもの」
しばしの睨み合い。『争いは同じレベルの者同士でしか発生しない』とは、果たして誰の格言であったか。これを口にすれば、芙蓉は大層傷つくであろうからして、言わない。最終的にはどちらかともなく視線を外し、いよいよ芙蓉の去り際となる。背中を向ける直前に、彼女は言った。
「勝負は一週間後。メニーフィッシュの式典会場で行いましょう」
「わかったわ」
神妙に頷きつつも、アイリスはふと湧いた疑問を、その背中に投げかける。
「芙蓉さん、なんでそんな、御曹司の価値観にこだわるの?」
出て行こうとした芙蓉の背中が、ぴたりと止まった。
言葉に詰まったのだろうか。それでも、何か言わなければならないと思っているのだろうか。しばしの沈黙。己の感情を言語として最適化するための演算作業。その後、芙蓉は絞り出すような声で、しかしはっきりとこう告げた。
「女の……執念ですわ」
おそらくは、それは間違いなく感情の全てであっただろう。
それ以外の言葉を一切発することなく、芙蓉はギルドハウスをあとにした。あめしょーがぶんぶんと手を振って『またねー』という。エドワードは何やら聞いてはいけないものを聞いてしまった顔で、部屋の片隅で自己嫌悪に陥っていた。彼は何をしに来たんだろう。
ともあれ、今、アイリスが言いたいことはただひとつだ。ともに芙蓉の背中を見送ったイチローを見やり、率直な感想を述べる。
「あんた……いつか女を泣かすと思っていたけど……」
「ナンセンス」
その後、芙蓉めぐみからアイリスブランドに向けて、正式な挑戦状が送付された。夕方6時頃の話である。




