第五十四話 御曹司、打ち合わせをする
杜若あいり。服飾デザイン系の専修学校に通う17歳である。
将来の夢は、アパレルデザイナーだ。
あいりにとって、8月4日から9日にかけての6日間は、まさしく強行軍であった。この6日で、すべての宿題を終わらせる。ナローファンタジー・オンラインの運営体からは、サービス開始から一周年を迎える8月10日にサーバーを再解放し、ゲームを復旧させるという通達があった。同日に開催されるというセレモニーには、大して興味はなかったのだが、ゲーム上の仲間たちは恋しい。サービスが再開すればすぐにでもログインするつもりである。
だが、杜若あいり17歳。夢にも燃える乙女である。ゲームにかまけて、将来の目標を見失うつもりはことさらにない。学校から出された課題はすべてこなす。湧き出たインスピレーションはすべて形に起こす。そんでもってゲーム内で防具として販売する。全部やらなくっちゃいけないのが、学生に辛いところだが、充実はしている。
あいりは数学が苦手だ。今この時も、問題集との格闘はつづいている。正直、専門学校に入ればこんな苦労はせずに済んだのだが、アパレルデザイナーに向けた進路を選択するにつけ、同時に高校卒業の資格が取れる学校へ入学することが、両親から課された条件であった。あたしの才能を信用していないの! と反発もしたものだが、普段寡黙な父親が『夢を言い訳に勉強をサボるな』と言ったのには正直ドキリとさせられたので、それ以来勉強は真面目にやっている。それでも数学は苦手だ。
実際、自分が思っていたよりも才能はなかったわけだし。安易な進路に逃げるつもりはないが、それでも井の中の蛙という言葉は身を持って実感した。入学時期には仲良くなった友人たちも、何人かは辞め、何人かは嫉妬と羨望の対象となり、また何人かは、逆に自分を嫉妬の対象としている。まだまだ友達と言えるクラスメイトは多いのが、せめてもの救いだ。夢の集う場所というのは、行き場を失った夢が底に溜まり、澱むものであるらしい。沈殿した夢はむせかえるほどにどす黒い。
あいりだって、一歩間違えれば、その夢を沈殿させていたし、実際そうなりかけていた。軌道修正ができたのは御曹司のおかげ……と、ストレートに言うつもりはないが、まぁ、彼の貢献度は無視できない。
あの御曹司は、いったい何者なのだ。と、疑問に思うことは最近なくなった。正体を知ってしまって、例えばそれが遠い世界の人間だったりして、変に萎縮してしまうのは嫌だ。御曹司は御曹司で良い。
「っあー……!」
ただでさえ厄介な数学の問題を解いている時に、余計なことを考えすぎて脳みそがオーバーヒートを起こしてきた。杜若あいり、家のインターネット回線も脆弱だが、彼女自身のCPUも性能がよろしくない。複数のタスクを並列処理すると、全身がフリーズする。
うちのエアコンが壊れているのが悪いのよ。あいりは内心毒づいた。両親は仕事で家をあけ、一人で過ごすにはやや広いダイニングで、彼女は問題集を広げている。扇風機をガン回し、窓を網戸に。軒先にはやけくそのような数の風鈴を並べたが、涼しくなるどころかあまりのうるささに発狂しそうだったので全部外している。外したところで網戸からはセミの鳴き声が響いてきて、彼女の作業効率をおおいに低下させていた。
「テレビを見るわ!」
誰に対しての宣言だというのか。あいりはリモコンを握りしめて叫んだ。
最近のニュースで気になることと言えば、やはりナロファンの運営に関する問題ではある。が、難しい話は基本さっぱりであった。たまたま父親が早く帰ってきた時、一緒にニュースを見る機会があって、なんのかんの言いつつゲームのサービス自体は終わらないということはよく理解した。まずそれだけでほっと胸をなで下ろす。父は、もしかしたら運営会社が変わるくらいはあるかもしれないな、と言っていたが、それがゲーム内にどうした影響を及ぼすかまでは、あいりにはわからなかった。
お昼のワイドショーをやっている。ちょうど、ナロファンについての話題だった。元コメディアンの司会者が『しかし、実際、仮想現実技術っていうのはどうなんでしょうね』と話題を振り、なんか専門家っぽい人や何も知らなそうな芸能人が、好き勝手に意見をぶつけあっている。
『やっぱりね、意識を現実世界から遮断する技術っていうのは危険だと思いますよ』
芸人のひとりがそう言った。あれれ、そういう話になっちゃうの?
あいりは、どうもモヤモヤしたものを抱え込みながら、卓上のせんべいをかじった。運営の不手際についての話題を論じるべきであって、実際バーチャル・リアリティがどーのこーのというのは話題の脱線じゃないの?
あいりはそう思ったが、議論はヒートアップしている。中にはもちろん仮想現実技術に対して擁護的な意見もあったのだが、大半は断定するような否定口調だ。ゲームを楽しんでいる身としては少し不愉快である。言ってることは理解できるんだけどなぁ。
『教授は、どうおもいますか? 専門家の見地から』
司会者がそう話を振ると、カメラはゲスト席に座る痩せぎすの男を映し出した。席には『網走医科大学名誉教授 苫小牧伝助』と書かれた名札が立てられ、彼のプロフィールについての詳細なテロップが流れる。網走医大付属脳神経科学研究センター所長とあったが、それが有名なのか無名なのかも、あいりにはよくわからない。ただ、どこかで見た名前なような気がした。
教授は、骨と皮だけのような凄惨な顔立ちに、穏やかな微笑を浮かべて語る。
『そうですね。みなさんのおっしゃる不安はもっともだとは思いますが、このドライブ型バーチャル・リアリティが、人体や脳に悪影響を及ぼすことは確認できていません。技術自体は大変に素晴らしいものです。むしろ、医学分野の発展のためにも、この技術を衰退させるべきではないと思っています』
『しかし教授、長時間ずっと使い続けていると、やっぱり何かしら影響が出るんじゃないですかね』
『脳を騙す技術ですからね。ただ、一年近く連続で使用しても、直接の悪影響が起きないことも、実は実証済みなんです。点滴で栄養を補給したりすれば、延々と潜り続けることも可能ですよ。これを応用すれば、植物状態の末期患者ともコンタクトが取れるようになるかもしれません』
「やっぱり偉い人が言うと説得力あるわねー」
バリバリとせんべいをかじりながら、あいりは頷いた。賢しらに仮想現実技術の危険性を指摘していた芸人たちも、これにはさすがにぐうの音も出ない。ただ、教授は人格者のようで、『もちろん、これに依存しすぎる人間が発生する危険性はありますね』と、穏やかな笑顔のままでフォローを入れた。『それに対するケアなども、今後の課題でしょう』と締める。あの骸骨みたいな容貌でさえなければ、女性人気の出そうな学者だ。話し慣れもしているし、さぞかしバラエティ向きだろう。
司会者も『課題は山積みですが、夢のある技術のようですね』と無難な話題の締め方をして、ワイドショーは次のテーマへと移行する。
「おっ、おおっ?」
あいりは思わず身を乗り出す。ワイドショーの話題は引き続いて、あいりの興味を引くものであった。
『はぁいっ! 次のテーマは、新たにオープンした話題のファッションブランド、〝MiZUNO〟についてでーす!』
頭の軽そうな女子アナが頭の軽そうな声を出す。まことに不躾な感想だが、実際は有名大卒で、あいりなんぞ足元にも届かない高学歴だ。
さて、〝MiZUNO〟である。3ヶ月くらい前に立ち上げられたファッションブランドだが、その立ち上げたデザイナーのセンスが飛び抜けてすばらしく、学校の先生たちもほとんどが絶賛していた。残る先生たちは妬んでいた。
そのデザイナーというのがまた大層なご経歴の持ち主で、みずの銀行の社長の娘さんらしいのだ。ま、正しくはないのだが、あいりの認識はその程度であって、彼女のクラスメイトもおおよそそんな感じである。
如何にもセレブって感じの上品なたたずまい。加えて美人でファッションセンスもあるとなれば、カリスマデザイナーとして名を馳せるのも当然と言えよう。いや、まだそこまで名を馳せてはいないのだが、時間の問題だとあいりは踏んでいた。
芙蓉めぐみ。珍しい苗字だから割とすぐに覚えた。憧れのデザイナーが映るであろうVTRがスタートし、あいりはせんべいを置いて正座した。
その日、石蕗一朗は、一周年記念セレモニーについて新たに打ち合わせしたいことができたということで、急遽呼び出しを食らっていた。場所は神保町のシスル・コーポレーション本社ではない。ポニー・エンタテイメントが用意した大きなビルの会議室。東京都港区港南まで、桜子の運転するリンカーンで向かった。
すでに、ナロファンの運営体が、シスルからポニーに移りつつあることを、一朗は実感していた。依然としてシステムサーバーなどはシスルに置かれており、そのトップには野々あざみが就任したままであるが、株式の動きはややあからさまだ。実質的にシスルは、ナロファンを運営するポニーの1セクションという位置づけにある。
ポニーの動きの早さを見るに、遅かれ早かれこうしたアクションを取るつもりだったことは想像がつく。そこに、ローズマリーの事件が重なって、少しばかり予定を早めたというところだろうか。彼らにとっても、ちょうど良い機会であったに違いない。
あざみ社長は、ハク付けのために自分をゲームに招待したいと言っていた。せめて、一周年記念セレモニーのあとであれば、また展開は違っていただろうか。背景に自分の姿があれば、ポニーも二の足を踏むことはあっただろうか。それは少しばかり、甘い考えであるような気もしてならない。
それに、たらればの話はしょせんナンセンスだ。
一朗が、自身の思考に整理をつける頃には、車も目的地へ到着した。地下駐車場に降りて、エレベーターホールの方を見る。何やら1ヶ月と少し前、六本木のグランドヒルズを思い出すな。
「じゃ、桜子さん少し待っててね」
「はい。いってらっしゃいませ」
「そのタブレットは自由に使っていいよ。例の動画を繰り返し見ると良いんじゃない」
「その話はもう良いじゃないですかぁ!」
ナンセンス。まだまだ荒療治が必要なレベルだ。
ひとまず一朗は、エレベーターホールに向かい、そのまま連絡にあった高層の会議室を目指した。今更、セレモニーの内容が変更ということか。ポニー社の横槍が入ったことは想像に難くないのだが、開催までの日数を考えればなにやらせわしないことだ。あざみ社長にも同情する。
受付を済ませ、中に入るとそのあざみ社長がいた。部屋の広さに比べ、打ち合わせのために設けられたスペースはそう広くない。席は四つ。となると、おそらくゲスト側の人間は自分だけだ。こんな仰々しい場所を用意する必要はあったのだろうか。
「やぁ、あざみ社長」
「こんにちは、一朗さん」
少し、やつれただろうか。この一週間の状況の変化を見れば無理はない。
「先日の件では、大変ご迷惑をおかけいたしました」
「ん、僕は気にしていないよ。大変だったのはむしろ君たちのほうだろう」
割と本心からそう言うと、あざみ社長は笑顔で首を横に振った。やや強がりが浮いて見えるが、そこまで悲壮な様子はない。芯の強い女性である。
「我が社の宣伝のために一朗さんを、と思っていたのですけど、無駄になってしまいましたわね」
「そうかな。君たちの作ったゲームが本当につまらないものだったら、僕はここにはいなかったよ。その事実だけでも、けっこう価値があると思わない?」
とは言え、セレモニーにおいて、一朗の立場はおそらく、ポニー・エンタテイメント社の宣伝のために用いられるはずだ。あざみ社長としては甚だ業腹であろう。経済界のプリンスをわざわざゲーム内にまで連れてきたのは自身の功績であるというのに、まんまとそれを横取りされた形になる。
利用されるのであれば、おそらくあざみ社長自身もだな、と一朗は思う。なにせ19歳。若手の女社長である。今をときめく仮想現実技術と、オンライン上でそれを共有する技術を続けざまに開発し、人工知能のプログラミングにかけても業界に轟く造詣を持つ。才色兼備。これほどの逸材であれば、ポニー社はその立場を最大限に活用するはずだ。彼女が社長から降ろされることはないだろうが、その生活はやや窮屈になるかもしれない。
「まぁ、これも社会勉強と思って頑張ることに致しますわ」
「結構。君が辛そうなら、シスルを僕が買い取っても良かったんだけど、ゲームは引退したくなかったしね。もう少し見守るとしよう」
あざみ社長の経営者としての手腕は明らかに二流であるのだし、本人が腹に据えかねつつも勉強するというのなら、一朗にはそれ以上踏み込めない。
話題はそのまま、自然とローズマリーのものへとシフトした。あざみ社長が彼女のことをどう思っているのか。そういえば直接聞いたことがない。
「いろいろと驚きましたけれど」
と、あざみ社長は言う。
「でも、ローズマリーが本当に自意識に目覚めたというのなら、見守ってあげたいというのが親心でしょう? それが社会的に許されることかどうかは、また別問題ですわ。頭を痛めて生んだ子ですもの」
「なるほど。無事だと良いね、彼女」
「はい」
ローズマリーをプログラムとして動かすには、それなりの環境が必要になる。彼女が自由に行動できるにはスーパーコンピューター並のスペックが必要になるし、そうした環境が整えられている場所は、当然ながらインターネットセキュリティも堅実だ。どこでローズマリーの存在が発覚してしまうかは、わかったものではない。
「大変お待たせいたしました」
黒いスーツに身を包んだポニー社の社員が会議室に入ってきたことで、この話は打ち切りとなる。彼は一人の女性を連れてきていた。一朗はその姿を見てそれなりに驚いたが、あちらは一朗がいることを知っていたようで、にこりと微笑むだけである。
「やぁ、荒垣課長」
ひとまず、社員の方に挨拶をしてやる。書類を持った男の姿がぴたりと止まった。
「覚えてくださったのですか?」
「聞いたことは忘れないだけだよ。君の持ってきてくれたコクーンには楽しませてもらっている」
ポニー・エンタテイメント社の営業部課長、荒垣大吾である。
ともなれば、こいつを渡してもまた受け取ってもらえないだろうな、と思い、荒垣は名刺入れをそっとしまった。代わりに振り返って、自身が連れてきた美女を、一朗に対して紹介する。
「石蕗さん、こちら、」
「知ってる。角紅商事の娘さんだ」
何を隠そう、先日シカゴ行きの飛行機で出会ったばかりである。あのあと機内バーで少し酒を飲み、特に言葉もかわさず時間を過ごして、どのようにして別れたかすら覚えていないあっけなさであったが。名前は芙蓉めぐみ。こんなところで会うとは思わなかった。この間はエドにあったばかりだし、オンライン上の広さに比べて現実世界の狭さを実感する機会が多い。
角紅は、近江商人の流れを組む総合商社だ。金融機関のみずのグループ、と言った方が通りが良い。旧華の家柄で財閥解体と共に力を失った石蕗とはいろいろな意味で対象的である。一朗の父・明朗が石蕗を盛り上げ、一大コンツェルンに仕立て上げた頃には、田中物産と並んで『スリーティー』などと呼ばれた。
「今日は、そちらの肩書きは忘れてくださるかしら?」
しかし、芙蓉めぐみはそのように微笑んだ。育ちの良さを感じさせる気品があり、それを見たあざみ社長が何やら言葉に詰まっている。確かに、マサチューセッツ工科大でハンバーガー片手に幼少期を過ごした彼女には、こうした気品が備わる機会はなかったのだろう。
「じゃあ、ファッションブランド〝MiZUNO〟の社長と呼んだ方が良いのかな。シカゴまで向かったのは、あっちに支店を出すため?」
「さすがにお見通しでいらっしゃるのね。何から何まで口にしては、女性に嫌われてよ?」
「知ってる」
自分に罵倒を浴びせかけるアイリスの姿を想像して、一朗は言った。
「彼女がここにいる理由に関しては、まぁすぐに説明いたしましょう。まずはかけてください」
荒垣が言い、一朗とあざみ、荒垣と芙蓉が席につく。しかし、なんとも平均年齢の低い場所だ。荒垣ひとりが妙にそれを押し上げているが、一朗が23であざみが19、芙蓉は確か26だか27だか。この中で一番立場の低いのがその荒垣だということを、彼自身はどう思っているのだろうか。
荒垣は、そのあたりさすがに営業の鬼と見えて、軽い咳払いをしてあっさり話の音頭を取り始めた。
「まずは、忙しい中、この打ち合わせに……」
「おっとナンセンス。それは良い」
さすがに2回目ともなればこの反応も予想できていたのだろう。荒垣は『では、』と一区切りを入れてから、改めて本題を切り出した。
「実は、次のアップデートから、試験的に新しいゲーム内制度を導入することになりましてね。石蕗さんには……というか、石蕗さんの所属するゲーム内ギルドには、そのパターンモデルとなっていただきたいのですよ」
「へぇ」
なるほど。おそらくその制度とやらが、本来シスルが用意していたものではなく、ポニーの肝入りで発案された新提案といったところだろう。一朗にはその広告塔となってもらいたい。言いたいことはわかる。だが、わざわざ一郎をチョイスし、芙蓉めぐみも連れてきたということは、経済界に対して一定の効果を見込めるゲーム内制度ということになる。そんなものがあるのだろうか。
少しばかり興味を惹かれて、一朗は続きを促した。
「で、その制度っていうのは?」
「ギルドスポンサー制度ですよ」
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× 地震が連れてきた
○ 自信が連れてきた




