第五十話 御曹司、追及する
HARO9000の開発者がやってくるまで、しばらくの間を待たせてもらう。一朗はパイプ椅子に腰掛けて、腕時計を確認した。日本時間14時過ぎ。こちらの現地時間では午前1時だ。もしも健康な生活サイクルを送っているのであれば、少しばかり申し訳ない真似をしているな、とは思う。
状況の発覚から、おおよそ20時間が経過している。決済代行のシステム凍結や、プレイヤーに対するサーバー停止勧告の準備など、そろそろシスル側の動きも目に見える形になってくる頃だろう。で、あるとすれば、自分のやっている真似や、おそらくはゲーム内でパチローを止めるために動いているであろう桜子達の動向も、結果的には意味のないものとなってしまうだろうか。
ナンセンスだな。意味のあるなしは自分で決めれば良いさ。
一朗の懸念であれば、むしろ今後にある。シスルが運営体としての社会責任を問われた場合、ナローファンタジー・オンラインにどのような影響が出るか。加えて、犯人や事件背景が一朗の想定通りであった場合、責任の最終的な所在はどこに発生するのか。処分はどのようになるのか。
知り合いの弁護士は優秀ではあるが、あまり前例のない内容にも取り組むことになるだろうとは思う。それがどうした結果を生むのか、一朗の目をしても不透明ではある。
実直に時間を刻み続ける秒針を眺めていると、ようやくして当の開発者が到着した。まだ若い、とは言っても、一朗よりは上か。所長よりはわかりやすく下だろう。あざみ社長と同期に卒業したというのが事実であるならば、自分や彼女ほどではないにしても、飛び級の経験があると見る。
小柄な技術者は、白衣に袖を通し、部屋に入るや、開口一番このようなことを口にした。
「所長、彼は?」
「スポンサーの石蕗一朗氏だ」
簡潔な説明である。わかりやすいが、事実を伝えてはいるが、真実を伝え切ってはいないな。厄介ごとが発生しているということを、自分から伝えるつもりにはなれないということか。こういうところを見るに、所長の彼も日本人のことをどうこうとは言えないだろう。
研究員がこちらを見る視線はどうも訝しげだ。何をしに来たのだろう、と思っている。少し気難し屋なのかもしれない。似たようなシチュエーションを最近感じたと思えば、親方にエドワードを紹介してもらった時のことだ。日本で江戸川も頑張っているだろうか。
「そのスポンサーが何をしに?」
「ん、簡潔に言おう」
所長が言葉を選び躊躇っているのを見て、一朗は自分から言い出すことに決める。
「君の開発した自立思考botが、VRMMOアカウントへの不正アクセスに使用されている可能性がある。調べたいんだ」
「別に構いませんが……」
やや捻くれた態度も江戸川そっくりだな、と実に失礼なことを、一朗は思考した。背は低く痩せ型。同じコーカソイド系の顔立ちだが、所長とは正反対だ。あまり外見に気を遣った様子はなく、絵に描いたようなギークボーイである。既にボーイではないが。
研究員は、研究室の中央でコンピューターの電源を立ち上げた。ディスプレイは5つあり、そのうち3つはHDのブラウン管モニターである。内、一台のモニター内では、精緻な3Dグラフィックで彩られたフィールド内を、鎧に身を包んだ人型が駆けて行く様子が映し出されていた。三人称視点。おそらくは、MMOでの実証実験だろう。botの行動や思考経過を観察するウィンドウも開いており、ログを目で追うだけで、実際にこのbotが自ら『目標』を設定しながらゲームをプレイしていることがわかる。
「眺めるだけでなかなか面白いものはあるね」
「でも悪趣味ですよ」
素直な賞賛のつもりではあったが、研究員は実にエドらしい憎まれ口を叩いた。
「要するに、人工物が自律行動する経過を神の視点で眺めているだけですからね。ビオトープやアクアリウムとかと同じです。全能感の擬似体験ですよ。悪趣味だ」
一朗はビオトープやアクアリウムも好きだが、確かにその通りかもしれない。以前ここの研究設備を取り寄せてまで構築した仮装空間も、自分で楽しむつもりにはなれないとして、現在はビオトープのような状態になってしまっている。仮想上の生態を設定した複数のプログラムを投入しただけだが、時折状況を確認するのはそれなりに面白い。そしてそれを悪趣味と言うのならそうなのだろう。
ゲームジャンルとしては、リアルタイムストラテジーとか、もっと直球でゴッドゲームというものもある。あるいはシムシティのような環境作成・経営系のシミュレーションゲーム。ジャンルとしては、ああしたものが近い。あまりビデオゲームには馴染みのない一朗ではあるが、『ポピュラス』は好きだった。
「でも、このソフトを開発したのは君だし、そもそも人工知能の開発なんてそんなものなんじゃない?」
「だって僕は悪趣味ですからね」
「捻くれているなぁ」
ある種の好感をにじませながら、一朗は言った。
「わざわざ日本から、不正アクセスの原因を探すために来たんですか?」
「そうだよ。直接確認したいこともあったからね。で、何かわかったかい」
「ちょっと待ってくださいよ。あなたが思っているほど簡単じゃないんだ」
所長を見ると、やはり肩をすくめていた。彼はこれが平常運転であるらしい。
「表面上のタスクの割に使用している演算領域が大きいやつがいますね。こいつかな」
「君の開発したbotは、タスクを隠すなんて真似ができるのかい」
「そりゃあできませんよ。ただ、誰かに入れ知恵された可能性があるんなら、ですかね。野々は、プログラムの成長アルゴリズムを組むのも上手かったからな」
botとは言うが、要するに人工知能である。アーキテクチャの基礎の基礎は、野々あざみが学生時代にプログラムした十賢者たちと同じだという。研究員がHARO9000に、コンピューター内でどれだけの権限を与えているかは知らないが、情報と目的さえ与えられれば、ある程度の〝いたずら〟はやらかすであろうと思えた。
ただ、思考過程のログを見る限り、十賢者に比べるとそのロジックは柔軟性に欠けている。如何にも機械的な処理だ。同じアーキテクチャを使用しているにしても、ローズマリーは初めて会話した時点で、知性の萌芽のようなものを感じた。あるいは、集合知集積システムなどで人間の思考に常に触れているからこその成長であったのだろうか。
「今までのパターンから言って、彼らが自ら感情のようなものを獲得することは、あると思う?」
「あるわけないでしょう。ただの数字の配列が、そこまでいくのにどれだけ苦労するか……」
キーボードを叩き続けていた研究員が、ふと手を止めた。
「見つけた。隠しタスクです」
「へぇ」
やたらと格好つけたポーズでエンターキーを弾くと、中央のブラウン管にウィンドウが開き、外部との情報のやり取りが表示される。ログはめまぐるしい勢いで流れて行き、リアルタイムで行き来する情報量がそうとうに達していることが見て取れた。これだけ大規模な情報のやり取りは、量子通信ならではといったところだろう。
目で追うだけでも苦労するであろうそれを、一郎はしばし眺める。HARO側が送信する情報、受信する情報。そのいずれもが可視化されたわけではない、いわば電子と量子で彩られた呪文の詠唱であるが、内容は即座に理解できた。
「やっぱりだね」
「えぇと、ちょっと待ってくださいよ」
研究員が別のソフトウェアを起動すると、受信情報の一部が映像となって表示される。画面の中は、今まさしく漆黒の騎士が剣を振りかぶり、こちらへ叩きつけんとしているその瞬間を表示していた。音はない。だが滲み出る迫力はハリウッド映画もかくやだ。騎士の放つ殺気までが本物であると理解できる。背後で、所長が驚き一歩退くのがわかった。
ここで一朗は、同時にふたつの感慨を得る。
ひとつ。人間の脳に向けて発信されるはずの視覚情報を、ここまで厳密に映像投影できるようになったのか、という、技術進歩への感慨。目の前に表示されているものは、HARO9000が、一朗のアカウントを使用して、ナローファンタジー・オンラインをプレイしているという証拠に他ならない。大量にやり取りがあった情報の大半は、ミライヴギアを通して人間の五感へと与えられるはずの擬似情報であり、HAROやこの映像ソフトは、それをほぼ正確に処理することができている。
もうひとつ。彼自身の使用人である扇桜子に対して、パラジウムカードを手渡したのはやりすぎであったかもしれない、という、自身の行いへの反省。何かに対して後悔するというのは実にナンセンスであるからして、一朗は決して後悔をしないが、それでも行いを省みることくらいは稀にする。画面の中、おそらくパチローの視点から映し出される、悪鬼羅刹のような黒騎士はキルシュヴァッサーであり、鬼気迫るその表情からは、桜子が感じているであろう精神的な重圧を見てとることができた。彼女は基本的に仕事に対しては真面目かつ優秀であり、一朗もそこを非常に好ましく思っているのだが、慣れないことをさせるとさすがにバグるらしい。
「ひとまず、botの動きを止められる?」
「やっていますが……えぇと、あれ、なんだこれ……」
キーボードを叩く研究員の表情が曇る。
「操作を受け付けない?」
「こちらの命令を拒否してますね。まぁ、プログラムの強制終了自体はできるんで」
研究員がそう言って、ためらいなくプログラムを遮断しようとする。その瞬間、ディスプレイに次のような言葉が表示された。
『Please don't do that 』
キルシュヴァッサーは、振りかざした課金剣を躊躇なく振り下ろす。剣の砕け散るエフェクト。同時にダメージ判定がひらめき、パチローの頭上に数字が大きく閃いた。キルシュヴァッサーは躊躇をせず、再びコンフィグから課金画面を呼び出す。手に構えるのは、2本目の課金剣だ。
クラス共通の武器攻撃アーツ《ブレイカー》。手に構えた武器を破壊する代わり、アーツレベルと残り耐久値に応じた大幅な威力補正がかかる、あくまでも一般の認識においては最終手段である。ツワブキ・イチローは、このアーツを、リアルマネーさえあれば無制限に入手可能な武器、華禁剣アロンダイトを使用することで、銀行口座に眠る1200円を代償として、コンスタントに大ダメージを与える手段を確保していた。
「マツナガさん、キルシュさんの特訓って……」
「えぇ、《ブレイカー》の集中強化です」
なんて恐ろしいことを。アイリスは戦慄した。
通常、アーツレベルを上昇させるためには、そのアーツを用いたアクションを行う必要がある。アクションの対象や成功の可否にもよって大きく変化するが、使用することでアーツポイントが溜まり、一定量に達することでアーツレベルが上昇する。《ブレイカー》は、その性質上自らアーツレベルを上げるプレイヤーも皆無に等しい。一時期、武器錬成スキルとのシナジーコンボが指摘されていたが、やはりこれも素材を必要とする都合上効率は悪く、《ブレイカー》はメインウェポンたり得ないとされていた。
その常識を打ち破ったのは御曹司であるが、キルシュヴァッサーの選択した手段はもっと悪辣だ。《ブレイカー》を集中強化するためには、当然ながら《ブレイカー》を使い続ける必要がある。武器破壊の犠牲なしにはあり得ない特訓なのだ。成長に必要な犠牲、その無数の武器をどこから調達したかは想像に難くない。
キルシュヴァッサーは、ただ延々と、1200円分の課金アイテムを購入しては、それをぶち壊すという作業に明け暮れていたのだ。それも約6時間。
「そりゃあおかしくもなるわよ!」
アイリスだって耐えきれる自信がない。
「俺も2時間超えたあたりで、あ、ちょっとやばいかな、って思いましたよ。発動時間はアーツレベルの上昇で短縮されていきますしね。動作も慣れるから、だいたいそのくらいには毎秒240円くらいのスピードで課金していたはずです」
「あたし今、数学が苦手で良かったって思ったわ」
「アイ、数学っていうか算数……」
ユーリも青い顔をしていた。まさか計算してしまったのか。深淵を覗き込む時、深淵もまたこちらを覗き込んでいるという言葉がある。迂闊な好奇心は身と心を砕いてしまう。
「なかなか豪快なお金の使い方だにゃあ」
「ブルジョワジーです。憧れますね」
あめしょーと苫小牧はとても呑気なコメントを残していた。
散財の波動に目覚め、まさしく課金の鬼となったキルシュヴァッサーである。おそらく課金による成長ブーストと、マツナガが新たに発見した成長スポットの利用によって《ブレイカー》のアーツレベルは、他のプレイヤーの追従を許さないレベルまで上昇しているのだろう。武器を呼び、振りかぶり、叩きつける。単純な動作の繰り返しではあるものの、パチローはほぼ防戦一方になりつつあった。
超高レベルまで達した《ブレイカー》は、発動時間の短縮スキルなどと組み合わせることによって、キングキリヒトの放つ《バッシュ》にも匹敵する高速攻撃アーツとなっている。特性上連続攻撃には発展し得ないものの、発動からダメージ判定の発生までの時間が極めて短く、如何に反応が早くとも《ウェポンガード》の間に合わない状況すら何度か起きていた。如何にパチローのプレイヤーが、アーツの発動に対して敏感であろうとも、システム上の速度を上回ることはできない。パチローの顔つきが、怒気をにじませた無表情へと変化していく。
「フフフ……どうなさいましたかな、パチロー様」
どこか焦点のずれた瞳で、キルシュヴァッサーはパチローを挑発する。
「キルシュヴァッサー」
「しょせん、あなたはパチロー様です。あなたがイチロー様になるには、圧倒的に欠けています。カネの力が……!」
「キルシュヴァッサー!」
果たして本気で言っているのか、それとも単なるロールプレイなのか。もうわからない。
パチローもコンフィグ画面から課金剣を召喚した。完全な札束による殴り合い。見るもおぞましい課金バトル。常人の神経では堪え難い戦いだ。やっていることは御曹司と大して変わらないはずなのに、この不快感の違いはどこから来るのだろうか。
「あなたも課金剣ですか。良いでしょう」
キルシュヴァッサーは笑う。パチローは、無言のまま《ブレイカー》を敢行し、黒騎士は盾を突き出してそれを迎え撃った。攻撃を高係数アーツである《ブレイカー》のみで補うだけあって、防御能力の下地は非常に高い。完全防御特化の構えを取れば、パチローの放つ生半可な《ブレイカー》では、まともなダメージにも発展しなかった。スケルトンチャリオッツを叩き潰したイチローの《ブレイカー》と、システムデータ上は何の変化もないはずの一撃である。
貫通するダメージは0ではない。むしろ、完全防御型の騎士に与えるダメージとしては十分すぎるとも言える。このまま攻撃を続けて行けば、その圧倒的な体力を削り切ることも不可能ではないように思えた。だが、それでもキルシュヴァッサーは笑う。
「ですがしょせんは10万円分のフューチャーポイントです。そんなもので何ができますか。私は10万円など、10分で溶かしましたよ! ふ、フフフ……ははははははははは!!」
観衆もドン引きである。
「あなたの10万円で、私の体力を削り切るなど不可能! さぁ怯えろ、竦め! 自分の経済力を生かせぬまま死んでゆけ!」
パチローの視点から、この状況がアメリカの一朗に筒抜けであること、彼が読唇術をマスターしており、音声などなくともキルシュヴァッサーのセリフを一語一句正確に言い当てられることは、この黒騎士に対して秘匿し続けるべき情報であろう。この場にその事実を知るものはいないが、いざ知れば、我に返った扇桜子がツワブキパピヨン三軒茶屋の最上階から身投げしかねない。
このとき、パチローの行動パフォーマンスは明らかに低下していたのだが、カネの力に呑み込まれ、冷静さを欠いたキルシュヴァッサーがそれに気づくことはない。盾を構えたまま前進、パチローを壁際にまで追い詰めながら、課金剣による《ブレイカー》を放つ。
圧倒的な財力で相手をねじ伏せる愉悦。充足感がキルシュヴァッサーの心を支配した。
さらなる暴力を行使すべく、キルシュヴァッサーはコンフィグを開く。課金の項目をタッチし、選び慣れたその武器と数量にチェックを入れる。値段になど見向きもせず、クレジットカードの暗証番号を入力し、その直後、エラーが発生した。
「えっ……?」
何が起きたのか、理解できなかった。キルシュヴァッサーは再度アイテムと数量を選んでから、今度は画面から目を離さず、暗証番号をきっちり入力する。間違えたのか? そんなはずはないが、と決定キーに触れると、またしてもエラー。
『決済代行会社がシステムを停止させたため、決済サービスをご利用になることができません』
キルシュヴァッサーは目を見開いた。そんな。決済サービスの停止? クレジットカードが使えないということか? このゲームにおいて、課金を行うことができなくなったと?
じわり、と脂汗がにじみ出て、心臓が早鐘を打つ。身体が芯から冷えていく感覚があった。焦燥と混乱、憤りのない交ぜになった感情が、心の奥底からマグマのように流れ出す。なんで。なんで。なんで。このタイミングで。『24時間の経過』までは、あと3時間もあるのに。おカネを、おカネを使わないと。一朗さまから、いくらでも使っていいって言われたのに。
パチローが反撃に転じる。防御の構えすら取らなかったキルシュヴァッサーのみぞおちに拳をぶつけ、その身体を大きく吹き飛ばした。その表情には、ニヤケ笑いもなければ、怒気も滲んではいなかった。感情のパターン信号が送られてはいなかった。
『やめてください』
表示されたシステムメッセージはそのようなことを言っていた。いや、システムメッセージにしてはいささか妙だ。それは、研究員がプログラムを閉じようとした、その瞬間に表示されたのである。研究員が訝しげに眉をひそめながら、再び強制終了を実行しようとすると、やはり再度同じメッセージが表示された。一朗は、マウスを握る研究員の手を、そっと制止する。
「すまない。もし良ければ、マイクを貸してくれないか。スカイプに使うような奴で良いんだけど」
「別に構いませんが……HAROは音声認識しませんよ」
「ああ、HAROはそうかもしれないけどね」
画面の中では、キルシュヴァッサーがこちらに対して猛攻を続けている。いま、ここでbotの強制終了をかけても、一朗のアカウントが解放されるだけのことだ。それならば別に急ぐ必要はない。〝彼女〟が意識的にアプローチを行ってきたのなら、そちらに応じることのほうが重要である。
研究員は、机のしたからヘッドセットを取り出した。こんな研究所で使うにしてはやや安っぽい。まぁ、こだわらなければこんなものか。一朗はヘッドセットを装着して、マイクに向けて話しかける。
「やぁ」
返事はなかった。沈黙がしばらくの間を支配する。所長と研究員は、何か痛々しいものを見るかのような目で一朗を見ていた。彼は気にせず続ける。
「HAROに音声認識がないからって、取り繕う必要はない。君の正体はわかっているんだ。ローズマリー」
そこからまた、しばらくの沈黙があった。だが、その後に、先ほどと同じようなシステムメッセージが表示される。
『イチロー』
「やっぱり君か。こういうことは、あまり感心できないな。あざみ社長もかなり迷惑しているよ」
所長のほうはまだ状況が飲み込めていないようだが、研究員のほうは別の意味で驚いていた。彼もローズマリーの名前は知っていただろうから、まぁそうだろう。
『ナンセンスです。ルールは自分で決めろと言ったのはイチローです』
「あぁ、それか。あの時は僕も少しはしゃいでいたよ。まだ未成熟な君に言うべきことではなかったかもしれない」
『イチロー』
「HARO9000と情報のやり取りをし、僕のアカウントを使うように仕向けさせたのは君だろう」
『イチロー』
「僕の情報や擬似的な感情の信号とかもかな。他のプレイヤーは人間が動かしていると思っていたみたいだよ。大したものだ」
『イチロー、私は、』
デジャヴュを感じる。つい最近、このローズマリーとの会話に近しい状況があった。最近というほどではないな。この24時間以内だ。一朗は自分の左手を見る。成田からシカゴへ向かう飛行機の中、指を絡めてきた女性がいた。ローズマリーに指はない。この状況に限っては声もない。だが、システムメッセージの向こうには、明確な感情の礎を感じる。
「おい一朗、おまえ、いつか女を泣かすとは思っていたが」
「ナンセンス」
追求と説得は少し長引きそうだ、と、一朗は思った。
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誤字を修正
× 如何にも機会的な処理だ。
○ 如何にも機械的な処理だ。
9/2
× 始めて会話した時点で
○ 初めて会話した時点で
× 深淵もこちらもまた
○ 深淵もまたこちらを
× 我に帰った
○ 我に返った
× 芯から冷えて行く
○ 芯から冷えていく




