第四十六話 御曹司、飛行機を乗り継ぐ
夏の朝は早い。時計の針が7時を指す頃には、太陽はもうかなり高くへと昇っている。どうせ徹夜は覚悟の上であったことだし、それに対して今さら愚痴を垂れるつもりはないのだが、作業の進捗状況と顔をつき合わせると、やや憂鬱な気分になる。オフィスの中を見渡してみれば、死屍累々といった感じだ。同様の心中の者が多いのだろう。
江戸川は、デスクの上に転がった無数の空き瓶を眺め、更に気分を暗くした。栄養ドリンクという奴は、飲めば飲むほどに効果があるとは思えなくなる。プラシーボ効果の賜物だと言うのなら、まさしく逆効果だ。そもそも人体の設計限界に挑むこと自体に無理があるのではないだろうか。人間の身体が、そこまで頑強にできているとは思えない。
外の空気を吸おう。江戸川はよろよろと立ち上がって、オフィスを出、階段を下る。
彼のタスクは多かった。サーバー全体のログの確認と、被害を受けたと思しきデータの精査、加えて外部の人間であるとして、社内にあるコンピューターから不正なデータ流出の痕跡がないかチェックする仕事も任された。シスル社内のエンジニアは、総出でサーバーの奪還や不明なデータの駆除に回っており、オフィスはまさしく戦場であった。
石蕗一朗の紹介した弁護士が到着したのは、そんな戦争のさなかである。全身をアルマーニのスーツに包んでいたが、生地はしわくちゃのよれよれで、うだつの上がらない風貌であった。
もっとも、見た目に関してどうこう言える立場には江戸川もいない。今回は出張ということで、これでもめかしこんだつもりだが、それでもインドア系技術者らしい、陰気で疲弊したオーラはなかなか隠せなかった。
ひとまず、弁護士はあざみ社長やラズベリー氏などと、今後の社の方針を相談していた。現場としては事態の解決と原因究明をさっさと済ませてしまいたいところだったが、そこを子供のように叫んでも仕方のないことではある。
弁護士は、状況がきちんと把握できていない現状で迂闊な発表を行うのは避けるべきだとしたが、同時に24時間以内に発表を行い、迅速な対応をアピールするべきだとも主張した。要するに、この一日以内に、ひと段落をつけろと言うのである。無茶苦茶だ、と思ったが、クライアントの方針がそう決定づけられた以上はやるしかない。深夜にもかかわらずシステム・アイアスの社長に泣き言を入れると、朝一で応援を送ると言われた。勤務時間と給与待遇は間違いなくブラック企業なのだが、社長のこうした姿勢は素直にありがたい。
迂闊なタイミングでの発表は、記者からの追求に対応しきれない。想定される質問に対して、回答を用意してから発表に臨むべきだという意見は理解できる。正直気は進まなかったが、社内でスタッフが使用するコンピューターは隅から隅までチェックした。いろいろと気まずいデータファイルも発見したのだが、あえてスルーした。
手を抜いたつもりはない。しかし、データ流出の痕跡はいまだに発見できなかった。どうしても痕跡が見つからなかった場合、それっぽい嘘をついてなんとか乗り切ろうと弁護士は言っていた。石蕗は『性格が悪い』と言っていたが、こういうのは『良い性格をしている』というのではないだろうか。その疑問を証明するように、弁護士はいま、休憩室で大いびきをかいているらしい。
問題はサーバーのログ確認である。シスル社自体は小さな会社であるが、社が管理するサーバーマシンの量は大企業の構築するオンラインネットワークにも匹敵する。これだけの量を、あと12時間以内に完全にチェックするなど、江戸川ひとりでは不可能だ。そもそも徹夜で仕事のパフォーマンスはだいぶ落ちている。
社長の寄越す救援に期待するしかない。
なんでこんなことになってしまったのか。江戸川は外に出て、まだ朝っぱらだというのにカンカンと照り付けてくる日差しを睨みつけた。こういうのは考えるだけ無駄なのだが、ふつふつと沸く怒りの矛先はどこかにぶつけないと気がすまない。
江戸川は、少し歩いたところにあるダイドードリンコの自動販売機に小銭を入れた。飲料の自販機ならば、とうぜん社内にもある。だがあれはコカ・コーラだ。コカ・コーラの販売する飲料自体は安定感があって非常に好きだが、自動販売機のラインナップはその安定感に胡坐をかいているようで面白みがない。よって、江戸川は飲料自販機に限ってはダイドー贔屓である。
切迫した状況で何を暢気な、という意見があれば噛み付くだろう。切迫した状況だからこそ、飲み物ひとつくらい納得いくものを買わせていただきたい。
最近は『夕張メロンミルク』が好きだ。缶の容量は非常に小さいのだが。120円を入れて、ボタンを押す。ガコン、と出てくるスチール缶。ひんやりとした感触は、やや過熱気味の神経にはよく染みた。プルタブを引っ張ろうとすると、自動販売機がなにやら声を上げる。
『ラッキー! 大当たり、もう一本選べるよ!』
自動販売機のクジ機能って本当に当たるんだ。何もこんなときに、と思いつつも、せっかくなのでジュースを選ぶ。久しぶりにさらしぼオレンジでも買っておこう。高校時代、ゲーセン通いしていた時は世話になったものである。
人生、それなりに長く生きてきたつもりだが、ここ最近は初めて経験することが多すぎる。江戸川はメロンミルクを一気にあおると、『さらっとしぼったオレンジ』の500mlロング缶を額に当てながら、シスル本社のビルへと戻った。こんなどん底の状況で、自動販売機のあたりを引き当てるというのは、運がいいのか、悪いのか。神様とやらががんばっている自分に送ってくれたエールだというのなら、あまりにもしょっぱい。
何がムカつくかって、そのしょっぱい経験に対して、妙に嬉しい気分になっている自分が、江戸川には一番腹立たしいのであった。
扇桜子、決戦の朝を迎える。大仰な言い方も彼女の視点に照らし合わせれば間違ってはいない。
気合を入れるために、いつもとまったく同じ朝を過ごす。冷水シャワーで目を覚まし、ドライヤーをかけてから紙を……ではなく髪を梳く。そのあとは歯を磨いて、いつもと同じメイド衣装に着替えた。鏡台の前に座り、化粧箱を開く。
桜子はこれから戦場に赴く。使用人にとって戦場とは、普段過ごす場所と同じでなければならない。常在戦場。戦闘服に身をつつんだからには、すべてを仕事モードにチェンジである。ならばこのナチュラルメイクも戦化粧だ。最後にホワイトブリムを被って、扇桜子は完全体となる。パイルダー・オンだ。
「よしっ……!」
両手を持ち上げて天井に向かって吼える。
朝食の仕込をし、洗濯機を回し、主人のいない一朗の部屋を清掃し、いつもよりやや早めの時間に食卓へ就く。一朗がいない日は大抵食事も適当になるが、今日は違った。カリカリに炒めたベーコンとスクランブルエッグ。トースト。サラダ。スープ。『いただきます』と『ごちそうさま』も欠かさずに。食後のコーヒーもしっかり入れる。
ミライヴギア・コクーンのシートに座ったのは、マツナガとの約束どおり、午前7時を少し回った頃であった。
ログインを済ませる。扇桜子から、さらにキルシュヴァッサーへとチェンジ。意識を切り替えた先、視界に映るのは、彼女がログアウトした騎士団のギルドハウスではなく、霧の立ち込めた湖畔であった。周囲でサハギン達が陸に上がり、寝っころがっている。こちらに攻撃してくる気配はない。
「ふむ……」
キルシュヴァッサーは、顎に手をやった。
おそらくここは中央魔海だ。マツナガが育成代行をしてくれたと見て良いのだろうか。フィールドに置き去りとは少し雑ではないかとも思うが。メニューウィンドウを開き、自身のステータスを確認する。レベル130超。トッププレイヤー層にも十分匹敵するレベルだ。たった6時間でここまで上げられるものなのか。驚きはあるが、嬉しさのようなものは、あまりなかった。
やはり、自分はレベルアップしていく過程も好きなのだ。という再確認をする。今回ばかりは、自身の手でパチローを止めたいという思いもあってマツナガの提案に乗ったが、ゲームプレイヤーとしては甚だもったいない気持ちがある。
こちらの能力構成に関して詳しい説明はしなかったのだが、さすがにマツナガはよく理解していた。ステータスの伸びも筋力系に偏重している。これならば、武器や防具ももう1段階上のものを揃えられそうだ。資金は減っていたわけではないが、思っていたほど増えていない。マツナガの言うミニクエの稼ぎがあまり良くないのか、彼がこっそり育成料として持っていったのかはわからないが、まぁどちらでも気にならない。
スキルはどうか。こちらも従来の能力構成に沿った育ち方をしている。鉄壁の守護はさらに堅く。あとは支援と攻撃を中水準程度で両立させる。全体のスキルレベルが大きく上昇し、スロット数が厳しくなってきそうだ。
現状でどれほどの攻撃力と防御力が出るのか。データ上の数値は確認できているが、こうなると試し斬りをしてみたくなる。周囲を見渡しても、浜辺でのんびりと寝っころがっているサハギン以外、MOBを確認できない。
いくら感情や意識を持たないデータの塊といえど、のんびりと休んでいるサハギンに攻撃するのはいささか気が引けた。これは極度な感情移入でもなんでもなく、ゲームプレイヤーとして当然の心理であろうとキルシュヴァッサーは思っている。憎めない行動をさせ、倒すことに罪悪感を覚えさせるモンスターというのはどのゲームにでもいるものだ。
ナイトソードを抜き、どこかに良い相手はいないかと探していると、霧の向こうから誰かが歩いてくる。少し身構えた。キルシュヴァッサーの知覚ステータスでは、この霧の中、他のキャラクターの動きを見ることは難しい。
「やぁ、どうもどうも。キルシュヴァッサー卿」
軽薄な笑みを貼り付けたエルフの姿を確認するにつけ、キルシュヴァッサーはナイトソードを鞘に収めた。
「マツナガ殿」
キャラクターデータの育成代行をしていたのがマツナガだとすると、彼は先ほどまで、自分とまったく同じアバターを動かしていたことになる。そう考えると、なにやら奇妙な感覚だ。
ひとまずキルシュヴァッサーは、頭を下げた。
「一晩中レベルを上げていただいたようで。ありがとうございます」
「いやぁ何、気にしなくても構いませんよ。俺たちも良い検証データが取れましたしねぇ。高レベルプレイヤー向けの新しい道場になりそうですよ。ここは」
ま、しばらくは情報を公開するつもりはありませんがね、とマツナガは強かに台詞を締める。
「俺……たち、ですか?」
「あぁ、気づきませんでした? まぁ、卿の知覚ステータスはそんなに高くなかったしね。ほら、」
ぱちん。マツナガが指を鳴らすと、なにやら風を切るような音が聞こえ、鎖帷子に身をつつんだ複数のプレイヤーが、無駄にアクロバティックな動きを披露しながら周囲に集まってきた。霧の向こうから次々に現れ、キルシュヴァッサーの周囲を取り囲む。彼らに攻撃の意思があれば不意打ちは免れなかっただろう。
みな、襟元には、2本首の白蛇をテクスチャしてある。双頭の白蛇のギルドメンバーだということはわかった。しかし個性をかなぐり捨てたように統一感のある装備ではないか。頭部装備が般若面(精神耐性が優秀)というのだから徹底していた。こんなVRMMOの楽しみ方、そうとう役に入れ込まないと無理ではないだろうか。
「あ、どうも。えぇと、レベル上げを手伝っていただいたということですかな?」
般若面集団、おそらくはみな、忍者のクラスを持ったプレイヤーなのだろう。ボウガン部隊と違い、スニーキングやハイディングに特化していると思われる。彼らは一様に『ザッ』と足を広げ、胸をそらし、無言で一礼した。角度まで同じである。実は彼らこそがbotなのではないかと疑いたくなった。
「マツナガ殿のところのギルメンは、なんというか徹底してますな」
「そういうギルド方針ですからね。なに、これはこれで楽しいもんですよ。チャットではみんな個性的なんだけどね」
プレイヤーの上に表示された名前を見ればそれはわかる。
マツナガは『さて、』と話題を切り替えた。一晩中キルシュヴァッサーの育成代行をしていたというのなら、徹夜仕事である。もうかなり疲労困憊ではないかと思うのだが、彼の態度は妙に生き生きしていた。
「パチローさんはまだ動きを見せていません。まぁ読みどおりですね。ただ、火山帯にこもってリザードマンを狩り続けているようですから、ステータスやスキルレベルは地味に上がっているでしょう。ひとまず、予定通りにいきましょうかね」
そう言って、マツナガはウィンドウを操作し、こちらにフレンドメッセージを送ってくる。タイトルは『育成チャート』となっていた。
マツナガのブログや、彼が運営する攻略wikiにおいても、プレイヤーキャラクターの効率よい育成方法を記したチャートが記載されている。元来の性格として几帳面なのか、通常時や課金ブーストを使用した場合のタイムスケジュールまで載っているのが細かいところで、キルシュヴァッサーも自身の育成方針を定めるのに何度か参考にしていた。
「今回のこれは、私専用の育成チャートということで?」
「はい。とりあえずミニクエを回しながら色々考えましてね、卿には対パチローさん用のリーサルウェポンになっていただきますよ」
それは願ったりだ。もちろん、マツナガがキルシュヴァッサーの育成代行を申し出たのは、最初からそうした目的があったからだろう。こちらがいくらでもカネを使えるという前提ならば、通常のプレイでは追いつかないようなレベリングも可能となる。今のところ、成長に使用した課金ブーストは大した額ではないのだが……。
キルシュヴァッサーはメッセージを開き、チャートに目を移す。コンセプトとして、キルシュヴァッサーに欠けている決定力の補填を目的とした育成チャートであるという旨が記載されていた。さもありなん、と頷きながら、メッセージをスクロールしていき、次第にキルシュヴァッサーの顔が引きつっていく。
「ま、マツナガ殿……これは……」
「はい。攻撃力の強化です。こればっかりは、実際に課金を行いながら育てる必要がありますからねぇ。卿が直接ログインするまで、レベルアップとスキルレベルの確保に専念していたのは、そういうわけなんですよ」
確かに、これはキルシュヴァッサーでなければ……というよりは、一朗のクレジットカードでなければ行えないような強引な育成手段ではあるが、しかし……。
「ツワブキさんのおカネと、俺のデータ知識が合わさればざっとこんなもんです。いかがです?」
「い、いかがですも何も! しかしこれは……!」
キルシュヴァッサーは、思わず声が上ずった。無理からぬ話なのだ。育成チャートに記載された内容はあまりにも冒涜的であって、庶民出身である桜子の金銭感覚が耐え切れるかどうか危ういラインである。これを実行してしまったら、自分はなにかこう、大切な境界線を踏み越えてしまうような気がした。
しかし、マツナガは軽薄な笑みを浮かべたまま、指を左右に振る。
「卿、クレジットカードは持ってりゃ嬉しいただのコレクションじゃあない、強力な兵器なんですよ。兵器は使わなきゃ。高い金かけて作ったのは使うためでしょ?」
「ま、マツナガ殿……。ハマり役ですな……」
「悪役台詞がってことですかね? 褒め言葉ですねぇ。俺はああいうキャラ好きですよ」
やはり相談する相手を間違えたのだろうか、という考えが頭をよぎったが、すぐに首を振って打ち消した。
マツナガの言うとおりである。桜子は託されたのだ。ツワブキ・イチローの〝カネの力〟を。それを存分に振りかざすことこそが、力を託された者の使命。過ぎたる力に身を滅ぼされるかどうかは、そんなものしょせん些事なのだ。使命を果たすことが従者の務めである。
拳を掌に打ち付ける。ガントレットがぶつかって、がしん、と音が鳴った。
「やりましょう。ご鞭撻、よろしくお願いいたします」
「結構結構。パチローさんの行動次第じゃ、予定は多少前倒しになりますがね……。ま、すぐに無双できるようになりますよ。カネの力でね」
キルシュヴァッサーは、霧に包まれた中央魔海の空を見上げた。
ご覧になってはいないでしょうが、一朗さま。私も、一朗さまに託されたおカネで、いけるところまで行ってみます。庶民の心を持ちながら、激しい金銭感覚によって目覚めた伝説の戦士、スーパー課金プレイヤー・キルシュヴァッサーとして蘇って見せます。
使命感は、どこか間違った方向に暴走を始めていた。
この道を行けば、主人である石蕗一朗の奔放な金銭感覚に近づくこともできよう。それは、使用人としての矜持が示した、覚悟の形であったのかもしれない。
「すまない、実はジェット機を買いたいんだけど」
電話口で、相手が絶句するのがわかった。確かに、開口一番にふさわしい台詞ではなかったかもしれないな。
一朗はシカゴ・オヘア空港で、ピッツバーグ行きの国内便が欠航になった旨を聞かされた。広いアメリカ国内、空の便は豊富だ。別に今からでも他の便を探せないこともないのだが、かれこれ11時間半、退屈な空の旅を続けてきた一朗は、この受動的でナンセンスな移動手段にこれ以上身を任せるつもりにはなれなかった。
『えぇと、石蕗さま、それは……プライベートジェットの購入を予定されている……ということでしょうか』
遠慮がちな英語で、そのように尋ねられる。一朗は、オヘア空港を行きかう人々の流れを眺めながら、相手の言葉を否定した。
「予定というか、実はすぐに欲しいんだ。無理かな」
『ビジネスジェットの納品には、発注から早くても2年ほどかかります。ご存知でないわけではないでしょう?』
「うん、知ってる。この際だから中古でも構わないんだよね。何かないかな」
『申し訳ありませんが。石蕗さまのご注文とは言え、承りかねます』
毅然とした口調だった。Noと言えるアメリカ人か。
まぁ、当然と言えば当然ではある。航空機には整備も必要だし、やはり手間と時間を考えるならば、さっさと手近な便のファーストクラスを予約するのが一番早い。フライト時間もせいぜい1時間半だ。機内映画を一本見ている間にピッツバーグには到着する。
しかし、一度思い立つとなかなか諦めが悪いのも、石蕗一朗という男である。ピッツバーグまでの距離ならば、自分で航空機を動かして向かうというのも悪くない。一朗の言う『悪くない』を、一般的な人間の心境に照らし合わせれば『いいね!』となる。要するに彼は飛行機を運転したいのであった。
切迫した状況で何をワガママな、という意見には『ナンセンス』と応じる。それが偶発的な思いつきであっても、理にそぐわないものを除けば自分の意思は貫き通すべきだ。状況の如何というのは、そこに何の関わりを持つものでもない。
ひとまず一朗は『ありがとう、無理を言ってすまなかった』とだけ言って、電話を切った。スマートフォンを内ポケットにしまう。ここで駄々をこねても仕方がないのはわかりきっていた。
どうしようかな。一朗は腰に手をあてて考える。ビジネスジェット、すなわちプライベートジェット先進国であるアメリカでは、中古機や未購入機の取引も盛んだ。先ほどの会話の通り、発注から納品まで2年から3年ほどかかるのがビジネスジェットの実情であって、それまでに資金が足りなくなって買い手が消滅したジェット機というのは、これがなかなか少なくない。
ここシカゴに近く、すぐ整備が済んで新品同様の機体。条件は厳しいな。こういうのは、クレジットカードの専用デスクを使用したほうが早いだろう。ブラックカードの本家であるアメックスセンチュリオンでは、24時間利用できる専属秘書のサービスがある。一朗は基本的に自分で何かをするのが好きなタイプなので、あまり利用したことはないのだが。
どのみち、小腹も空いてきたところだ。ジェット機の購入はそちらの秘書サービスに任せて、素直に食事を取ることにしよう。機内食として軽めの食事は出たが、まだ胃袋には余裕がある。小食の一朗にしては珍しいことだった。
秘書サービスに電話をかけながら、一朗は物理的にすっかり遠く離れてしまった桜子や、仮想世界上の友人達のことを考える。自分のアカウントが妙な狼藉を働いていないかどうかが気がかりだ。そのために、桜子にパラジウムカードを渡した。決済システムの凍結までにまだ時間はあるだろうし、今のうちに彼女が糸目のつけない使い方をすれば、ツワブキ・イチローにも十分対抗しうる力にはなるはずだが。
そこは、信じるとしよう。扇桜子は、彼が優秀と認めた人間の一人である。自分自身が太鼓判を押した以上、そこに一切の揺らぎがあってはならない。決済システムの凍結までに、こちらも所用を済ませる。シスルのほうでも対策のひと段落がつくとすれば、そのあたりだろう。時間にすれば、あと12時間もないのだ。
関係者からすれば、長い12時間になるだろうな、と一朗は思った。
9/15
誤記を訂正
× シカゴ空港
○ シカゴ・オヘア空港




