第四十三話 御曹司、託す
課金剣アロンダイト。1200円。決して安い買い物ではない。得られる攻撃力のことを考えれば、金の無駄であるとさえ言われる。課金装備の中でも屈指の不人気を誇るのがこのアロンダイトだ。耐久力だけは高いが、要求する筋力ステータスは初心者向けではなく、この武器を構えられるようになる頃には、だいたいもっと良い装備が手に入るようになっている。
タイアップ装備ゆえの見た目の華やかさならばある。だが、上を目指すならば同じ課金装備でもマシな選択肢はいくらでもある。アロンダイトとはそんな武器なのだ。
そんな武器を、いまさらになって構える理由とは何か?
「キルシュさん、御曹司、課金剣の買い溜めなんかしてたっけ?」
「いえ、買って使って壊してばかりのはずでしたが……」
トッププレイヤーの間では、実質、ツワブキ・イチローのサブウェポンとして周知されつつある剣でもある。耐久値だけは高い課金剣を《ブレイカー》によって使い潰す戦術は、彼の有する財力があって始めて実現可能なシナジーコンボだ。その存在は、もはや隠したてるようなものでもない。イチローのアバターが課金剣を構える構図は、ある種見慣れたものであるとさえ言えたが、パチローが使用する理由は不可解である。
いや、そもそも、なぜこの武器を使える?
イチローのアイテムインベントリは、基本的に大量購入済みのバリアフェザーで埋められている。そこに幾らかのポーションや疲労回復剤、律儀に持ち続けている初期装備が混じるだけであって、アロンダイトを収納しておく余裕はないはずだ。
わざわざ購入したと考えるのが、一番正解ではあるのだが。
「わざわざ1200円もするアロンダイトを、ぶっ壊すために買う? フツー」
「イチロー様は買っておいででしたが」
「御曹司はフツーじゃないでしょ」
購入手段にしても疑問は残る。ナローファンタジー・オンラインにおける決済の方法は、クレジットカードかウェブマネー。だが、イチローはサーバー上に自身のカード情報を残していないし、ウェブマネーも購入したことはない。
このパチローが、自分自身のカードか仮想通貨を利用してアイテム課金を行うことはもちろん可能だ。だが、わざわざ他人のアカウントを使用してまでそうする価値はあるのだろうか。
疑問は尽きない。
尽きないが、対峙する2人にとって、それは割りと些細な問題であるように見えた。
パチローが課金剣を振りかざし、《ブレイカー》を放つ。キングは冷静に、ダメージ判定の発生直前を狙ったカウンターを放つ。それだけで耐久値の高い課金剣を破壊することはできないが、キリヒトの構えるXANは宙をひらりと翻って再びパチローに襲い掛かった。
受け手から攻め手に転じる瞬間。無理なく加速する剣筋は大きな孤を描く。パチローは、耐久値の幾らか減少した課金剣を片手で構え、真正面から突き込みを入れた。アーツによらない、純粋な武器のみによる攻撃。発生するダメージ量は極めて小さいが、意表を突かれ、キリヒトはバランスを崩す。
「…………!」
にやり、とパチローが笑う。表情筋を極端に吊り上げた、例の幼稚で粘つくようなニヤケ笑い。能面のような笑顔だとすら、アイリスは思った。
得物を両手で構えなおす。明確な「隙」を狙い、パチローは本命打を放った。
《ブレイカー》の一撃。アロンダイトが砕け散り、キングキリヒトの細身に相当量のダメージを叩き込んだ。野次馬の間に小さな悲鳴が広がる。パチローの持つ《ぶっ飛ばし》のスキル効果により、キングの身体はあえなく宙を舞う。
だが、ダメージ相応の激痛に身を軋ませながらも、空中で姿勢を整える様はさすがの一言であった。放物線を描きながら、身体が地面に落ちるころには危なげの無い着地を披露する。ブーツがざっ、と砂地を削り、コートの裾が風にはためく。
「やるじゃん」
キングの言葉はそれだけだった。怒るでもなく、怯えるでもなく、しかし感心もしていない。平坦で無機質な視線は、退屈をもてあました子供のようですらある。
「なにあいつ、なんか生意気」
アイリスが言った。
「かっこいい」
キリヒト(リーダー)が言った。
さて、キングキリヒトは堪えていない。いまの直撃はそれなりに彼のHPを削り取ったはずではあるが、誰ひとりとして彼をフレンド登録していない以上、プレイヤーがキングの残体力を確認することは不可能だ。しかし、XANの切っ先を下げて平然と立つ姿には明らかな余裕が滲む。
パチローは2本目の課金剣を呼び出した。疑いの余地はほぼ無いと言って良いだろう。彼はアイテム課金を行っている。一体そうまでして何がしたいというのか。目的のわからなさが不気味さを際立たせていた。
しかし、課金剣の召喚から数秒。パチローは動きを見せない。
無形からのカウンターを主とするキングキリヒトの戦闘スタイルである。相手の出方を見てから、最適の『構え』を経由して、イメージ処理が最小の《バッシュ》でダメージ判定の発生を強制的にキャンセルさせる。およそヒトの反射神経の限界値に挑む得意技であった。知れば知るほどに迂闊な手出しは禁物だ。事実、パチローはここに至って攻め手を緩めざるを得ない。
睨み合いも長くは続かない。今度はキリヒトから動く。
XANの切っ先は下げたまま。アクセルコートによる急加速で、パチローの懐へと踏み込んだ。両手で柄を握り、下段構え。からの《バッシュ》。剣筋は逆袈裟を辿る。パチローはその動きを明確に見切り、《ウェポンガード》を発動させようとしたが、それすら間に合わない。深くえぐりこむダメージ判定。
アーツの発動直後、キングキリヒトの身体は物理演算が描く慣性の法則に従ったが、強引に踏みとどまり再びの《バッシュ》を放つ。『構え』を経由しないために付与効果はないが、アクセルコートの加速効果はまだ続いている。剣筋を見切ることは不可能に思えた。が、やはりパチローにはわずかに《ウェポンガード》を発動させようという動きが見られる。
動きは読まれている。この優勢は、アーツ発動の早さが生んでいるものだ。
その結論を得る過程で、キングキリヒトは胸中に新たな疑問を宿したが、一時的にでも脳の片隅へ追いやる。スピードでアドバンテージが取れるならそうするべきなのだ。モーションアシストの終了後に、《バッシュ》の意思入力を叩き込む。繰り返すこど数度。端から見ればそれは、高度な連続攻撃アーツのようですらあった。
キリヒト(リーダー)は腕を組んでうなずく。
「まるで《星王連撃斬》だな」
「なによそれ」
「DFOのキリヒトの必殺技だよ。12回連続で切りつけるんだ」
「ふーん」
果たして偶然であるが、連撃はまさしく12回目の剣筋と共に幕切れとなる。無軌道に振り回された斬撃は幾度となくパチローのHPゲージを削り、ダメージのたびにわずかに発生するモーション硬直の影響でまともな反撃すら取れない。12連目の一撃はリーチを伸ばすために片手で行われた。
「せいやァァ――――――ッ!」
鉈を振り下ろすような大振りな一撃ではあったが、《バッシュ》は《バッシュ》だ。アーツレベル999に裏打ちされたダメージ判定が、パチローを大きく吹き飛ばす。それは、明確に発生した「隙」である。野次馬の中にまぎれた数人の斥候兵は、見逃したりはしない。
群集の中から、建物の上から、あるいは影から。ボウガンの矢がいっせいに放たれた。バッドステータス「睡眠」の更に上位、「昏睡」属性を付加した特殊な矢を使用している。皆、マツナガの指示を受けた双頭の白蛇の斥候達だ。
しかし、パチローは吹き飛びながらも《ウェポンガード》の発動を怠らなかった。殺到する毒矢を素手で叩き落とし、砂埃を巻き上げて地面を転がりながらも、遅れて放たれたパルミジャーノの《カゲヌイ》、マツナガの《シャドウスナップ》すらも、次々と受け止める。
驚愕すべき反応速度ではある。砂煙の中から、パチローのシルエットが立ち上がった。片手にはボウガンの矢とクナイをそれぞれ指の間ではさみ、興味もなさそうにそれを投げ捨てる。
「…………」
キングキリヒトは、XANの切っ先をパチローへと向けた。パチローは応じない。2本目の課金剣は、ボウガンの矢を弾く過程ですでに投機していた。彼自身からはやや遠い位置に転がっている。次にどう出るのか、と思われたが、パチローの行動は背中に《竜翼》を展開することだった。
「逃げる気だぞ!」
ゴルゴンゾーラかパルミジャーノか。とにかく騎士団の誰かが叫んだ。斥候兵達が再び矢をつがえ、ボウガンを一斉に放つ。しかし、数瞬早くパチローは飛び立ち、矢は虚しく地面に突き刺さった。
「誰か飛んで追える奴はいないのか!」
「追ったところで倒せねぇよ!」
野次馬が歯噛みしながら見守る中、パチローの姿はどんどん遠くなっていく。キングキリヒトはさしたる興味も見せずに剣をしまった。そのままブーツで砂を踏みしめて野次馬の輪の中に、正確には、キルシュヴァッサーやマツナガのいるあたりに戻っていく。
「キング、お疲れ」
「あぁ、うん」
相変わらず彼に対しては馴れ馴れしいマツナガに、キングの対応はそっけない。
キングはひとまずキルシュヴァッサーやアイリスのほうに向き直り、何かを話そうとして口を開き、また閉じた。相変わらず目つきは悪いままなので、口をぱくぱくさせる様子は人相の悪い金魚が威嚇しているようであった。
「あんた何がしたいの?」
アイリスの言葉を受け、キングはやや傷ついたように視線をそらす。
「うっせぇな。あんたら、おっさんのギルドメンバーだろ」
「はい。ひとまず暴走を止めていただいて感謝してますよ」
「いや、カンシャとかはいーんだけどさ」
キングは視線をそらしてぼりぼりと頭を掻いた。ひょっとして、話題を自分から展開するのが苦手なタイプ?
「キルシュヴァッサー卿、キングは今の戦いで何か気づいたらしい」
「さすがキングだ」
マツナガの助け舟に、キリヒト(リーダー)も神妙にうなずく。話の流れがよくわかっていないユーリが『いつもこんな感じなの?』と聞いてきたのだが、アイリスも『そうなんじゃない?』と答えることしかできなかった。
しかし、キリヒト(リーダー)ではないが、仮想空間上の剣の打ち合いで『何か』に気づけるなど実際大したものである。キルシュヴァッサーもアイリスも知ったことではなかったが、カタコンベの下層部で、イチローの動作環境をずばりと言い当てたこともあった。
「あいつ、反応が早い。アーツのアシストプログラム発動と同時に対策を立ててきてる。たぶんbotだ」
「はぁ?」
アイリスが思わず素っ頓狂な声をあげた。
「VRMMOでbotって出来ないんでしょ?」
「あんた、それ聞きかじりだろ」
「ぐっ」
実際、聞きかじりなのでアイリスは言葉に詰まる。
とはいえ話を聞いたのは先日だ。内容は覚えているし、何より教えてくれたのはここにいるキルシュヴァッサーやマツナガである。見れば、彼らも不可解そうに首を傾げていた。キングは続ける。
「ピッツバーグのロボット工学研究所でオンラインゲームの攻略アルゴリズムを持った人工知能が開発されたって言うじゃん」
「なにそれSF?」
「知らねーよ現実だよ」
その話なら、ちょっと前、具体的には騎士団と共に地下ダンジョンへもぐっているとき、キルシュヴァッサーが話題にしていた。アルゴリズムというのはよくわからないが、しかしそのままではVRMMOにbotを投入する技術的問題点を克服したことにはならないのではないか?
必要なのは、人体の動きを正確に模倣するプログラム。見たところ、パチローの動きに、そういった意味で不自然な点というのは確認できなかった。与えられた五感の情報を正確に処理し、最適解を導き出す仕組みも必要になる。そういったものの実現は、無理ではないかとマツナガは言っていたのだが。
「まぁ、無理とも限りませんけれどね」
割り込んできたのは、夕刻の凪を思わせるような穏やかな声である。
「やっほー」
おそらく野次馬に紛れ込んでいたあめしょーと一緒に、エルフの哲人苫小牧が姿を見せた。
「どうも、皆さんお久しぶりです」
先日のグランドクエスト攻略以来、やはり死の山脈に篭り下界との接触を一切断っていたと聞く。ソロプレイヤーの中でも奇人中の奇人であり、正直前回のグランドクエストでも大して攻略の役に立っていたとは思えないのだが、それでもその発言にはみな一目を置く。
なにしろ、サービス開始以来一度もログアウトしたことがないという勇者なのだ。そんなの絶対嘘だ、とみんな囁きあってはいたものの、時折におわす発言には妙な信憑性が付随してくる。
「あいつ笑ったり怒ったりしてたけど、機械にそんなことできるの?」
「見たところ、彼が見せた感情パターンはそう多くはありません。外部入力か、あるいは手の込んだアルゴリズムが仕組まれているのかは知りませんが、擬似的な感情表現を行うことはできるはずですよ」
「プログラムが人間の振りしてるってこと? なんか気持ち悪いわねー」
「確かに、不気味ではありますね」
サービス開始以来一度もログアウトしたことがないという勇者は、やはり穏やかに微笑んだ。
よくわからない。謎だらけだ。一同は顔を見合わせる。キングキリヒトの説を採用するにせよ、しないにせよ、パチローの目的はわからないままであるのだし、結局どのようにして再びアカウントをのっとったのかも不明なままだ。もしこれが、サーバーシステムへの直接的な攻撃によるものであれば、イチローだけではない。他のプレイヤーのアカウントも奪われてしまう可能性がある。
「愉快犯なのかな……」
「わからん」
ユーリとキリヒト(リーダー)が難しい顔を作った。
「課金剣とか使っていましたな。あれは?」
「どうでしょうね。先日、ポニー社のフューチャーストアのサーバーが攻撃を受けた際、10万円分のウェブマネーIDが使用不可能になったというニュースがありましたから、それかもしれませんね」
そういえばそんなニュースもあった。こちらの場合、幸いにしてアカウントの管理情報が流出したわけではないので、関係者もほっと胸を撫で下ろしたというが、すでに市場に流通している10万円分のウェブマネーカードは、プリペイド番号の入力を受け付けない状況となっており、同社は無償での交換を迫られた。
もしもパチローがその10万円分のウェブマネーを使用している場合、彼の背後にはフューチャーストアのサーバーに不正アクセスできるような人物が存在していることになる。となると、状況は思った以上に深刻なのかもしれない。
「ともあれ、GMコールしても音沙汰がない以上、運営の対処にはあまり期待できないでしょ」
マツナガはメニューウィンドウをいじりながら言った。
「ここは騎士団とかと協力して、俺達だけでも何か……」
「あ、オレはパス」
キングキリヒトが、彼の言葉を遮る。彼もやはりメニューウィンドウを開いていた。
「どうしてです?」
「お父さんが出張から帰ってくるから。このあと家族で外食」
マイペースといえばマイペースだ。家族仲が良いのは喜ばしいことではあるのだが。
「何かやろうったって、結局、ぼくたちだけで犯人を捕まえるのは無理っぽいしにゃあ」
あめしょーもマツナガの意見には否定的だ。実際、アカウントハックに対してゲーム内からできる働きかけなど、他のプレイヤーに対する注意喚起くらいなものである。そこを理解できないマツナガでもないだろうが、表情は渋い。
キルシュヴァッサーも心情としてはマツナガに近いところだ。何しろ現在不正使用されているのは主人のアカウントなのである。彼がこれ以上、何かしらの狼藉を働くのは、正直見るに耐えない。しかし、そこに何かできるかといえば、まぁ無理である。キングキリヒトの実力を持ってようやく圧倒できるほどの相手であるし、相手を倒してしまっても意味はないのだ。ゲーム内で『なんとかした』ところで、それは暫定的な処遇に過ぎない。
「んじゃ、オレ、ログアウトするから」
会話がひと段落するまで待っていたのは、彼なりの精一杯の律儀さであるのか。キングキリヒトはそう言った。
「仕方ないね、おつかれキング」
「またねー」
思い思い、軽めの別れの挨拶を投げかけたが、キングはログアウトボタンを押す前にわずかな躊躇を見せる。
「あのさ、なんとなく思ったこと、もう一個あんだけど」
「なんでしょう」
それは、先ほどの戦いで『気づいたこと』ということだろうか。キルシュヴァッサーは問う。
「大したことじゃねーよ。たぶん、あいつ、負けず嫌いだ」
「パチロー様が?」
「うん」
頷くキング。
「負けず嫌いっていうのも、なんか違うかな。自分に力があるからさ、弱い奴をイジメて悦に浸りたいって奴? だから、力を見せる場所をほしがってるって感じ。子供っぽい感じ」
「よくわかりますな」
「オレ、そういう奴と戦ってるから。じゃあ」
口早にそう言って、キングはログアウトしてしまう。
結局、キングは何が言いたかったのだろう。疑問に首を傾げるが、このタイミングで適当に話すことでもないだろうし、彼なりにヒントを提示してくれたつもりなのだろう。ひとまず頭を下げておく。
「どうしますかねぇ。皆さん、ひょっとして、あんまり乗り気じゃない?」
「なんとかしたいって気持ちはあるのよねぇ」
アイリスも腕を組んで難しい顔を作った。
「あるんだけど、その前にキルシュさん」
「はい?」
アイリスは、手首をトントンと叩く。彼女の手首には何もついていない。なんだろう。腕輪? ブレスレット? 腕時計?
時間?
「時間……ぉあぁっ!?」
いきなり大声を出して、周囲を驚かせるキルシュヴァッサーであった。
そういえば、まるっきり気にしていなかった。時計を見ると、6時をだいぶ回っている。というかむしろ、もうすぐ7時。夕食を作るためにログアウトする時間を、とっくに過ぎていた。キルシュヴァッサー、いや、扇桜子一生の不覚である。マツナガの顔を見て中元の話までしておきながら、そこに気を回せないとは!
「申し訳ありません! 私も私用につきログアウトさせていただきます!」
キルシュヴァッサーは直立不動から90度で頭を下げ、そのままメニューウィンドウからログアウトボタンを押した。
「おかえり、桜子さん」
こともあろうに、キッチンに立っていたのは石蕗一朗である。彼女の誕生日から一ヶ月と経っていないというのに、またも主人を台所に立たせる結果となってしまったのだ。使用人としてこの上のない大失態である。絶望に顔を青くし、次には羞恥に顔を赤くした。
「なんだか信号機みたいだね」
「申し訳ありません、一朗さま!」
ひとまず土下座をするしかない。連日の清掃が行き届き、埃ひとつ落ちていないフローリングに、桜子は膝と両手をついて額をこすりつけた。
「この失態を埋めるためならば、何でもいたします!」
多少大げさな表現であると言える。これは彼女が幼少期に見た様々なテレビ番組や漫画の影響であって、メイドが主人に頭を下げるというよりは、悪の幹部が首領に再びのチャンスを求める様によく似ていた。
ひとまず、一朗はいつものような涼やかな立ち姿のままこんなことを言った。
「そう? じゃあ、とりあえずピカタが出来たから運んでくれるかな」
「はっ、はひっ」
どうやら声音からするに怒っていないとは思うのだが、何しろ扇桜子、数年働いておきながら、主人である石蕗一朗が怒ったところなど見たこともないのである。この落ち着き払った態度の向こうで、こちらの怠慢に怒気を滲ませていたら、などと思うと、桜子も恐ろしくて仕方が無い。なにせ、ゲームにかまけて仕事をすっぽかしたことなどこれが初めてなのだ。
ピカタのほかには簡単なサラダとスープ、そして炊飯器ではご飯が炊けていた。いかにも一朗の好きそうなさっぱりとした献立である。それらをダイニングテーブルに運び、夕食の仕度は整ってしまった。一朗が椅子につき、桜子を見れば、彼女は生気が抜けた人形のように立ち尽くしている。意外にも一度メンタルが崩れるともろいタイプなのかもしれない。
「桜子さん、そんな気にしなくて良いよ」
尋常でない落ち込みように見かねて、ひとまずそう言った。
「うう、申し訳ありませんでしたぁ……」
「ひとまずご飯を食べよう。話したいこともあるんだ」
「はい……」
促されるままに席につき、桜子はフォークとナイフを握る。
目の前の皿には、マツナガから送られてきたハムのピカタが3切れ。一朗の皿の上には、こちらのものより小ぶりなものが2切れ載っている。桜子のほうが多く食べてしまうのはいつものことなのだが、こうもあからさまだとちょっと傷つく。しかし、抗議する権利など桜子にはないのだ。ナイフとフォークをカチャカチャと動かして、ピカタを口に運ぶ。
「美味しい?」
「はい……」
「結構」
しばらくは、静かに食事の音だけがダイニングに響いていたが、一朗は本日起きた出来事の顛末を、ぽつぽつと語りだした。
話によれば、シスル・コーポレーションの本社は現在てんやわんやの状況にあるらしい。内部からのアカウント情報の流出と、管理サーバーへの進入。不祥事というには大きすぎる問題であり、社会的責任の追及は免れないという。桜子は話を聞く落ち着きを取り戻していったが、別の意味で表情を険しくする。
「パチロー様が、課金剣を使っていたんですけど」
「パチロー? ああ、うん。そうか。どうだろうね」
ナイフとフォークを止めて、一朗は言った。
「他のプレイヤーのクレジット情報やウェブマネーを使用したのか、ポニー社から盗んだフューチャーポイントのプリペイド番号を使用したか、ってところだね。ただ、ウェブマネーはプレイヤー間で移動させることはできないし、クレジット情報をつかんでも、ゲーム上では本人のアカウントを経由しない限りは購入できない。そのあたりが不正使用されている可能性は、今のところないかな」
「今後はあるかもしれないってことですか?」
「そりゃあね」
一朗は頷いて、食事を再開する。
過去、ウェブ上のショッピングサービスで、クレジットカードの管理情報を含む顧客情報が大量流出した件は散見される。大抵の場合において、事態の発覚から正式な発表まで1ヶ月ほどの開きがあり、非難を浴びる原因となっていた。
シスル・コーポレーションのような小規模な会社でそのような状況に陥った場合、企業としての存続は極めて難しいと言わざるを得ない。迅速かつ誠実な対応が求められるだろう、と、一朗は話した。
「僕の知り合いの弁護士にフォローを頼んでいる。対応はすばやくできるだろうけど、決済代行会社に連絡してシステムを止めてもらうまで、まぁ24時間ってところかな。サーバーに組み込んだモジュールを停止させる手段もあるけど、このあたりの技術的な判断は僕にはわからない。パチローが他人のクレジット情報を不正使用する可能性があるとすれば、この24時間以内だ。そこで、」
一朗は、食事中ではあるがジャケットの内ポケットに手を突っ込んで、1枚のカードを取り出した。桜子は息を呑む。
持っていることは知っていたが、実際に取り出すのを見るのは初めてだった。希少金属の輝きを持つ、それはパラジウム製のクレジットカード。世界の富裕層が保有する最高ランクのステイタスであって、JPモルガンのプライベートバンクに口座をを保有する人間でなければ作成することはできない。
それを、一朗は、彼女に向かって差し出したのである。
「桜子さんには、それまで僕のアバターが無茶苦茶をするのを止めてほしい。これは、その経費」
「はっ? でっ、でもこれっ……」
反射的に受け取ってしまったが、桜子は困惑を隠せない。ひんやりとしたカードの感触が指先に心地よい。一朗はにこりと笑って見せた。
「遠慮はいらないよ。好きにやると良い」
「あ、あの、一朗さまは……?」
「うん」
一朗はスープをすすり、そして何でもないことを口にするようにこう言った。
「ちょっとアメリカ行ってくる」
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誤字を修正
×一応
○一朗
×チャンスを求める様の
○チャンスを求める様に
×プライベートバンクを保有する
○プライベートバンクに口座を保有する
(『御曹司ならプライベートバンクを持っていてもおかしくはない』とも思いましたが、パラジウムカードの説明としては間違っているので……)
8/31
誤字を修正
× 送れて放たれた
○ 遅れて放たれた




