第四十二話 御曹司、帰る
武闘都市デルヴェが公開されてから3日。熱心な検証班によって、この街の様々な特色が明らかになっていた。街内での戦闘行為が認可されている点は、公式からのアナウンスがあった通りである。この戦闘においてデスペナルティは発生せず、勝者に利益らしい利益もない。加えて、《痛覚遮断》スキルの効果を得られないという、運営の意図がよく読み取れない仕様は、トッププレイヤーというよりもハードプレイヤー向けであると言われた。ハックアンドスラッシュ。とにかくバトルジャンキー御用達。攻略最前線に築かれた街ということで、多くのギルドが本拠をこのデルヴェに移してはいるものの、更なるフィールド、都市の開拓と共に廃れて行くだろうと言われていた。
その武闘都市が、現在恐怖と混沌の坩堝と化している。
原因は、たった一人の男であった。
その仕様上、デルヴェには多くのギルドが自警団じみたものを用意し、街内を警邏させている。突如として降り立ったドラゴネットの青年は、まずはその自警団に襲い掛かり、彼らを躊躇なく叩きのめした。ツワブキ・イチロー。もはやトッププレイヤーの多くに名を知られた有名人の暴挙は、即座にデルヴェ全体に響き渡った。
野次馬が半分。自警団が半分。戦闘行為が認可されている以上、辻斬り自体が運営によって認められている仕様だという向きもある。そうした中にあって自警団が設立されているのは、多人数で少人数を排斥するような狼藉が横行するのを防ぐためだった。
自警団に対する攻撃を、ギルドは挑発と受け取る。その戦力を向けてまで応じようとすることは、それ自体はごく自然な動きであると言えた。PK行為の全面禁止などという綺麗事を謳うつもりもない。不満があるならば腕力に訴えられるのが、このデルヴェのルールだ。しかし、それにつけても、総勢50人近い人数で1人を取り囲む光景は、異常であると言わざるを得なかった。
しかしそれは、本来自警団が抑制すべき『多人数で寡人数を排斥する』という行為が、自警団によって引き起こされているという矛盾ではない。現在、排斥されているのは、圧倒的多人数である彼らだった。
「…………」
「うわああああっ!」
「くっ、来るなぁぁぁっ!」
ツワブキ・イチローの狼藉である。
すでに戦いの場はメインストリートに移動していた。イチローの拳が、駆けつけてきた赤き斜陽の騎士団のメンバーを、片端から殴り飛ばしていく。周囲は動揺を隠しきれていない。
デスペナルティが発生しない以上、HPがゼロになったプレイヤーも、ギルドハウスで送られた後すぐに戦線復帰することは可能である。が、イチローを取り囲むプレイヤーの数は、当初より明らかに数を減らしていた。理由は、幾らか、ある。
「くっ、くそっ! このォッ!」
一人のプレイヤーが、剣を構えなおし、イチローに突撃する。振りかざしてからの《ブレイクダウン》。両手剣を用いる重攻撃アーツだが、素手による《ウェポンガード》で、それはあっけなく受け止められた。
「…………」
イチローは嗤う。いつも彼が浮かべる涼やかな微笑ではなかった。
「うっ……」
事態を楽しんでいるかのような、ニヤケ笑いが粘つく。そのプレイヤーがひるんだ瞬間、イチローは空いた片手を拳に握り、腹部に数発のパンチを叩き込んだ。鈍い痛みが走り、HPがわずかに削り取られる。その後は怒涛である。受け止めた両手剣ごと彼を引き倒し、背中を踏みつけ固定した。
「ぐっ、やめっ……!」
そのままただ相手の体力が尽きるまで、《ファイアボール》を連続して叩き込む。轟音と爆煙、砂塵のエフェクトは生々しく、野次馬達は思わず息を呑んだ。果敢に挑んだ勇者の生還はもう期待するべくもない。塵と煙の中、悠然と立ち尽くすドラゴネットの姿は、悪魔的ですらあった。
これである。
必要以上に恐怖を煽り、自身の残虐性を誇示するような戦い方であった。幼稚と笑うのは簡単だが、イチローにはすでに、挑み来るもの総てを手玉にとってなお余裕がある。加えて、《痛覚遮断》の効果が発揮されないフィールド仕様が、敗者に心を叩き折っていく。
「おいおい、やりすぎだろ」
「いいのかよこれ……」
「誰かGMコールしろよ」
野次馬のざわめき、イチローが周囲を取り囲む騎士団のメンツに視線を向けると、彼を取り囲む輪はじわじわと直径を広めていく。騎士団長ストロガノフを始め、総勢7人の分隊長はまだ姿を見せない。1人は後進育成のため〝始まりの街〟に滞留中、3人はリアルの事情でログインできないらしく、残るティラミス、ゴルゴンゾーラ、パルミジャーノの到着が待たれていた。
「あめしょー、戦わないの?」
「えっ、ぼく? やだよ。怖いのも痛いのも嫌いだし」
野次馬同士、のんきにそんな会話をかわしていた。
「あれ、ほんとのほんとにツワブキなの?」
「じゃなきゃ、なんだって言うんだよ」
「いや、キルシュからメッセージが来てて……」
あめしょーはウィンドウからメッセージボックスを開く。3時過ぎごろに、イチローと同じギルドに所属する騎士から届いたフレンドメッセージには、彼がアカウントハックされ、盗まれたアカウントが好き勝手に暴れているという旨の記述があった。それから更に数分後、運営のすばやい対処で無事にアカウントが停められたとのことだったのだが。
しかし、事実として目の前でイチローは暴れている。アカウントの使用が再開したとして、あれが本当に中身までイチローであるとは思えない。2度目のアカウントハック。だとしても、目的はなんだというのだろうか。
イチローと騎士団は睨み合い、しばらくの膠着状態が続いていた。その後、
「通してください、赤き斜陽の騎士団です!」
「お、分隊長の到着だ」
「やっほー、ティラミスぅー」
白馬にまたがった聖騎士〝聖女〟ティラミスの到着である。女性アバターを持つトッププレイヤーの中ではあめしょーと人気を二分する(と、あめしょー自身は見ている)彼女の到着で、野次馬や騎士団の中に安堵の空気が広がった。続いて〝魔人〟ゴルゴンゾーラ、そして装備を新調したばかりの〝流星〟パルミジャーノが姿を見せる。
ちなみに二つ名のようなシステムはこのゲームには存在しない。全部自称である。
聖銀製セレスティアルアーマーに身をつつむティラミスは、その美麗な顔つきを険しくしていた。緊張感を纏わせているのは、ゴルゴンゾーラやパルミジャーノも同じだ。彼らはそれぞれ、魔法発動体勢を整えたり、ボウガンを構えたりしてイチローを牽制している。
イチローは、そのニヤケ笑いを崩さずぬまま、ティラミスへと向き直った。
ティラミスはセレスティアルソードを抜き、切っ先をイチローへと向ける。
「率直に聞きます。あなたはツワブキさんですか?」
「…………」
イチローは答えなかった。ティラミスは更に続ける。
「わかりました。判断ができない以上、あなたのHPをゼロにしてグラスゴバラに強制帰還させるわけにもいきません。この場で拘束します」
どうやら、ティラミスもあめしょー同様、キルシュヴァッサーからのフレンドメッセージを受け取っているらしい。
「ねぇパルミジャーノ、アカハクの可能性があるならGMコールとかしたほうが早くない?」
「コールはしたんだぜ」
あめしょーが一番近くにいた猟兵に声をかけると、彼はボウガンを構えたままそう答える。
「反応がねぇんだ。運営も混乱してんのかもしれんぜ」
「じゃあアカハクどころか、もっと大変なことになってるってことかにゃあ」
「ま、システムのことは知らねぇが、あいつは放っておけねぇしな」
パルミジャーノの言うことはもっともだ。少なくとも彼を、このまま放置しておくわけにはいかない。
「まぁ任せとけ。かっこいいとこ見せましょう」
「それ見せらんないフラグだよ」
さて、ティラミスの宣言は実質的な宣戦布告だ。彼女の登場でにわかに戦意を取り戻しつつある騎士団員は、再び武器を構えて輪を狭め始める。ティラミスは愛馬カスタードから降りて、前線メンバーに加わる。
プレイヤーがプレイヤーを拘束することは原則としてできない。だが、擬似的に行うことは可能だ。具体的には麻痺やめまいなどのバッドステータスを継続的に与え続けること。特にこの場にいるパルミジャーノ・レッジャーノは、数ある射撃アーツの中でも《カゲヌイ》と呼ばれる優秀な拘束手段を持つ。
戦闘の皮切りは、ゴルゴンゾーラが行った。高火力の攻撃魔法アーツを叩き込む。イチローの姿が派手なエフェクトの中に掻き消えた。ここで『やったか!?』と言うと大抵ろくな目に合わないので、みな唾を飲み込み武器を構える。
エフェクトを掻き分けるようにして、まったくダメージを受けていないイチローが飛び出した。目の前にいた戦士の顔面に拳を叩き込み、そのまま発動した《スパイラルブレイズ》でトドメを刺す。HPが削り取られたプレイヤーは、悲鳴をあげながらそのアバターを散らした。
「あ、ツワブキ、バリアフェザーたくさん持ってるよ」
「そういうのは先に言えよ!」
パルミジャーノは叫んでから、ティラミスに目配せした。視線の先で彼女も頷く。
「パルミジャーノさんは《バリアピアサー》で攻撃を。私は《ジャッジメント》で攻めます」
「あんまアーツレベル上げてねぇんだけどな!」
どちらもダメージ無効化、軽減系を貫通する攻撃アーツだ。硬直時間が長く、疲労蓄積度も高いので、好んでレベルを上げるプレイヤーはいない。貫通スキルで判明しているのは今のところ《極意開眼》のみであり、それを取得しているプレイヤーは、やはりこの場にはいないのだ。
「ゴルゴンさんは弱体支援系アーツを」
「仕方ないな」
パルミジャーノの《カゲヌイ》による拘束時間は、相手の残体力に依存する。より長時間の拘束を狙うならば、ある程度体力を削る必要があった。
ティラミスはセレスティアルソードを構えて、イチローに突撃した。同時にパルミジャーノが《バリアピアサー》を放つ。イチローはニヤケ笑いを崩したりしなかった。放たれたボウガンの矢を《ウェポンガード》で受け止め、ティラミスの《ジャッジメント》に対しては、予想外にも懐に飛び込んできた。
素手による《バッシュ》である。《ジャッジメント》よりも早い技の発生で、拳は一直線にティラミスの喉元を捉えた。
「あっ……!」
ダメージ判定の発生直前を狙ったカウンターである。先日の戦いで、キングキリヒトが何度も披露したものだった。イチローはそのまま、ティラミスの首を掴んで持ち上げる。
「ティラミス!」
ゴルゴンゾーラが《パラライズ》を発動させる。だが、イチローはティラミスを盾のように掲げ、麻痺のバッドステータスは彼女へと襲い掛かる。
「きゃあっ!」
野次馬は息を呑んだ。イチローはティラミスの喉元を掴んだまま、猛然と走り始める。彼を囲む騎士団と、野次馬の輪が割れた。その間を駆け抜けて、〝聖女〟のアバターを、思い切り壁にたたきつける。《オブジェクト破壊》の効果で、壁面には大きくヒビが入った。
「………っ!」
麻痺状態にあるティラミスは、思うよう反撃が取れない。イチローはティラミスを壁に押さえつけたまま、片足をあげ容赦なく膝を叩き込んだ。1発、2発では済まさない。《蹴撃》スキルを発動させているのかどうか。えげつない膝の連撃は、確実にティラミスの高水準な防御ステータスを貫き、体力を削り取っていく。
騎士団のメンバーは即座に救出へ動いた。しかし、大半のプレイヤーの攻撃は、バリアフェザーに阻まれて有効打を為さない。パルミジャーノが再び《バリアピアサー》を撃つが、ボウガンの矢はイチローの二本の指に、虚しく阻まれた。
「…………」
イチローは最後に、ティラミスの身体を、思い切り床にたたきつけた。まだわずかに残る体力を振り絞り、麻痺状態にも関わらず動こうとする彼女の肩をも踏みつけて、その場に固定する。イチローの両腕に火属性魔法の輝きが灯った。
一同の反応は様々だ。息を呑む。目を伏せる。ティラミスの名を叫ぶ。
直後、野次馬を掻き分けて、誰よりも素早く一斬を振るう黒い突風があった。
放たれた《バッシュ》の一撃が、大きな孤を描いてイチローの腕を叩く。発動直前を狙ったカウンターキャンセル。直剣の剣筋は翻り、乱入者は身体ごと回ってその腹部を狙う。やはり《バッシュ》。単なる初歩攻撃アーツでしかないその連撃は、バリアフェザーの加護を明確に貫通し、イチローの姿をよろめかせた。ティラミスは、彼女を踏みつけていた革靴の拘束から解放される。
砲弾の如き勢いで戦場に着弾した一人の男であった。黒のアクセルコートをはためかせ、XANの切っ先を下げたまま、少年はイチローを睨みつける。
「あれは……」
ひとまず一同は、それがお約束であるので、彼の名前を呼んだ。
「キングキリヒト!」
江戸川は一朗と共に、すぐにシスル本社へと舞い戻るはめになった。デザートはお預けである。そこまで腹立たしいとは思わなかったが、頼んだものがいったいどんな形をしているのかくらいは見ておきたかった。まぁ、そこを愚痴っても仕方がない。
江戸川の携帯には、あざみ社長から直接かかってきた。先方もひどく混乱しているらしい。彼女にしては要領を得ないしゃべり方で、事態の把握にはかなり苦労を要したが、再び一朗のアカウントが何者かに不正利用されていることは理解できた。それを正直に話すべきかはかなり迷ったが、こちらが何も言わずとも、一朗は状況を察してくれたようである。『残念だけど、戻ろうか』と言い、支払いをさっさとクレジットカードで済ませてしまった。
「エド、君が呼ばれたということは、システムに進入された?」
「あまりそうは思いたくありませんが……。どのみち、今夜は徹夜になるかもしれませんね」
「君には申し訳ないけど、あざみ社長達にはそれが良いかもしれないね。専門的知識を持つ第三者の存在はあったほうがいい」
一朗は、企業が不祥事を起こした際に編成される、第三者委員会の存在を説明した。企業責任を果たす上で、事態の透明性や客観性を保つために参画するチームのことだ。弁護士や不正調査の実務家が選出されるが、当然、状況についての専門的知識も必要になる。
「それに自分が入るってことですか?」
「さぁ。それはあざみ社長達が決めることだ。でも、システム・アイアスは外部の専門家として組み込まれる可能性はあると思うよ。インターネットセキュリティを取り扱う会社だしね」
正直、これ以上対人関係の仕事を増やされるのはゴメンなのだが。自分にシステム・エンジニアは向いていない。一人でぽちぽちプログラムを打ち込んでいるほうがよっぽど楽だと、江戸川は思う。
時刻はもう6時近い。この季節になるといまだ日は高く、夕刻という感じはしないのだが、健全な会社であればアフター5となっているはずだ。もちろん、江戸川の所属するシステム・アイアス自身、決して健全な会社などではないのだが。神保町に到着し、二人はすぐにシスルの本社ビルへと走っていく。受付にスタッフはいなかった。
「こういう場合、勝手にオフィスに入って良いんでしょうか」
「ナンセンス。基本、マナーは守るべきだよ」
受付には『スタッフがいない場合は、こちらのボタンを押してください』と書かれたマイクとスピーカーが置かれている。一朗は律儀にそれに従うと、2階のオフィスががちゃりと開いて、『どうぞ!』という声が聞こえた。相当切羽詰っているらしい。
「失礼します。お疲れ様です」
江戸川がオフィスに入ると、やはり何やら殺気だった空気がある。先ほどのときより人数が少ないことを見ると、何人かはサーバールームに直接入ってマシンを見ているのだろう。
「何があったんですか? 石蕗さんの……、アカウントがまた盗まれたと?」
ちらりと一朗を見てから、思い切ってそう訪ねる。彼はさもありなんと言いたげに肩をすくめていた。
「アカウントの管理サーバーがこちらの制御を受け付けないんです」
ラズベリーの言葉は、江戸川の心胆を思い切り冷やす。システムを直接ハックされたとなれば、彼のセキュリティプログラムを突破された可能性があったからだ。
ひとまず、システムのログを調べ進入の形跡を辿る。
「社長、アカウント管理サーバーのシステム管理は、社外からは不可能でしたよね」
「あ、えぇと。はい。アカウントの停止や再利用、情報の閲覧が行えるのは社内ネットワークのみです」
ということは、外部からのハックがあったのはほぼ確実なのか。暗澹たる気持ちになる。内部からメンテナンス用パスコードなどの情報が漏洩したというセンではない。そちらはそちらで、もちろん問題ではあるのだが。
ツワブキ・イチローのアカウントは利用が再開されている。パスワードを変更し、アイテム補償を行い、いつでも利用停止を解除できる状態になった矢先の話だ。社内の状況を正確に把握しつつ、外部からのクラックが行える人物。そんな人間が果たしているのだろうか。
「制御を受け付けないというのは?」
「実はシステム内に入れなくて……」
「はっ?」
借り物のキーボードを叩く江戸川の手が止まる。社長の顔が青ざめている理由が、ようやくここでわかった。彼女の代わりに、ラズベリー氏が言葉を続ける。
「パスコードを書き換えられているだけだとは思うんですが、こちらからアカウントの管理が完全にできない状態になっています」
「アカウント情報には、確かクレジットカードやウェブマネーの情報も含まれていましたよね」
そこを掌握されてしまっているとなれば、これはのんきに構えている自体ではないのではないだろうか。
「警察への連絡はしたんですか?」
「そ……」
「してください! 早く!」
不正アクセスが行われた時点で、遅かれ早かれ警察への連絡は行うべきであったが、事態がこうなってしまえば躊躇している余裕などない。社会的なリスクを恐れて動かないのであれば、立場は悪くなる一方ではないか。それがわからないような人々でもあるまいに。
「エド、ひとまず落ち着くと良い」
つい感情的になってしまった江戸川を、一朗がなだめる。その後、一枚の名刺を取り出してあざみ社長へと渡した。
「警察もそうだけど、まずは弁護士と相談して今後の方針を決めたほうがいい。専属がいないなら、名刺の彼がオススメだよ。性格は悪いけど、頭が切れる男だ。僕からの紹介だと言えばまぁ動いてくれるんじゃないかな」
「てっきり石蕗さんが弁護士やるのかと思いましたけどね」
苛立ちを隠しきれずに、江戸川はつい皮肉を漏らしてしまった。
「ああ、うん。僕も資格は持ってるんだけど、ユーザーの一人だからね」
その後、それが何の皮肉にもなっていないことに気づく。
「アカウント情報が閲覧できないってことは、いま僕のアカウントを使ってるIPアドレスも参照できない?」
「いや、過去2件と同じですね。アメリカですよ」
江戸川がセキュリティログを確認しながら言った。アカウント情報をそのまま閲覧したわけではないが、社外ネットワークから正規ルートで管理サーバーにアクセスしているIPアドレスの一覧がある。プレイヤーが情報を引き出してゲームにログインするためのルートだが、その中に海外発のアドレスはひとつしかない。これがせめて国内ならば、と、江戸川も歯噛みをする。
一朗も後ろからIPアドレスを覗き込んできた。本来、関係者以外が閲覧すること自体、解釈次第では不正アクセス禁止法に抵触するのだが、そこをどうこう言うような精神的余裕も、江戸川にはなかった。
これらの正規ルートを通じて、管理サーバーの使用権限を乗っ取ることは可能なのだろうか。一朗のアカウントを使っているアドレスが、それ以外の不正なルートを使用して進入を試みた形跡は確認できない。江戸川は頭をかきむしった。妙だ。これだけログを確認しても不正アクセスの痕跡が見られないなんて。
「あざみ社長が落ち着いたら、この弁護士に相談を。エンジニアは総出でシステム奪還に当たるってことで良いんじゃないかな。エドは引き続きセキュリティログの確認と……あとは、社内のコンピューターを総て確認して、不正なデータ流出の痕がないかさぐっておいて欲しい」
実にマイペースな口ぶりで、提案と言う名の指示を出す一朗である。ラズベリーはおずおずと疑問を口にした。
「あの、石蕗さんは?」
「ん、帰るよ」
腕時計を指差して、彼は言った。
「夕食の時間も近いし。あくまでも1ユーザーでしかない僕が状況に深入りすると、それはそれでまた問題がややこしくなるしね。心配しなくても、僕の紹介した弁護士は優秀だし、すぐに来てくれるよ。性格は悪いけどね」
一朗の言っていることは正論と言えば正論だが、それはあまりにも自分勝手すぎやしないか。江戸川はディスプレイを睨みながら思った。冷静に考えれば、一朗は自分のアカウントが好き放題やられている状況にも関わらず理性的な対応を重ねているし、腕利きらしい弁護士も紹介してくれている。こうした社会的なトラブルに不慣れな企業に対してある程度の指針を提示している。一介のユーザーとしては十分すぎるほどの対応だ。ここで帰ったところで、誰も文句を言う権利なんてないのである。
それでも、苛立ちが収まらないことに関して、江戸川はこのように分析した。
「石蕗さん、自分はやっぱり、あなたのことが好きになれませんよ」
「そりゃどうも。僕は君のこと、嫌いじゃないんだけどね」
殺気立つオフィスの中を、一朗は、ひらひらと手を振りながら後にした。
パルミジャーノとゴルゴンゾーラが、倒れたティラミスを救助する。ぐったりしているのは、ダメージを通して伝わった実質的な痛みのためだろうか。削られた体力は半分ほど。しかし、思っていたより傷が浅いなどとは誰も言えない。そもそも、こんな数値で計測できる〝傷〟などに、なんの意味もないのだ。
準・最強のソロプレイヤー、キングキリヒト。
不遜な視線をイチローに浴びせる彼の出現は、安堵とざわめきを野次馬にもたらした。
「ちょっとタイミング良すぎねぇ?」
「フェニックス一輝かよ」
「兄さん、やっぱり来てくれたんだね」
「すごい、です」
あれやこれや。その野次馬の中に、ようやくキルシュヴァッサー達が姿を混じらせた。
「これは、完全に登場タイミングを逸したようですなぁ」
苦笑いを浮かべて銀髪の騎士が言う。
「遅かったみたいね」
「私は何のためについてきたんだろう」
「さすがはキングだ」
一緒についてきたアイリスやユーリ、キリヒツのメンバーも口々に思いを口にした。
ニセのツワブキ・イチロー。すなわちパチローの表情からは、このときニヤケ笑いが完全に消失していた。これまた普段の彼からは確認できない、やや怒気を滲ませた顔である。右腕を突き出し、左腕を腰に添えた、やや独特な拳法の構えでキングに対峙する。
「あのさぁ、」
キングキリヒトはXANの切っ先をぶらぶらさせながら、そこでようやく口にした。
「おっさんの姿を騙るてんなら、せめてオレよりは強くなきゃあダメだろ。こんなところで暴れて満足してるんじゃあお里も知れるぜ。なぁ?」
挑発的な言動。パチローの中にどのような感情の変遷が起きたのか、外部からそれを確認することはできない。だが、彼は即座に攻撃的な手段に訴えた。大地を蹴り、拳を振り上げ、キングに向かって肉薄する。ここで酷薄にも見える薄笑いを浮かべたのは、パチローではなくキングのほうだった。
素早く得物を持ちなおし、システムに『構え』を認識させてから《バッシュ》を放つ。それぞれが超人的なプレイヤースキルに裏打ちされた最短距離を辿り、パチローの拳が眼前に迫る頃には、その首筋を狙った一打が鋭く放たれた。
「…………!」
《極意開眼》の効果を受けたキリヒトの技は、バリアフェザーのダメージ無効化を貫通する。果たしてパチローはあえなく迎撃され、大地に転がって無様な姿を晒した。
「別に、あんたから〝最強〟の称号を返してくれるってんならそれでも良いんだけど?」
期せずしてはじまった、最強プレイヤー同士の2度目の激突である。野次馬の間に歓声が広がる。
「キルシュさん、あいつにもフレメ送ったの?」
「いえ、そもそも私はキングをフレンド登録しておりませんよ」
やや困惑した表情で、キルシュヴァッサーはアイリスの問いに応じた。何しろ準・最強のソロプレイヤーである。彼が誰かとフレンド関係にあるなどという話は、聞いたことがない。イチローだって、キングをフレンド登録していないはずだった。
じゃあ誰が、と言いかけたあたりで、やはり野次馬が割れた。
「やぁやぁ、俺ですよ」
鎖帷子にハイドコート、エルフの斥候マツナガが、片手を挙げて姿を見せる。そういえばこの男にはフレンドメッセージを送っていた。
「まぁ、キングくらいじゃないと止められないだろう、と思いましてね。大変でしたよ。探してくるのは」
「マツナガ殿、お中元いただきましたよ。ありがとうございます」
「あぁ、無事届いたんですねぇ。まともに中元贈るのなんて初めてだから、あんなんで良かったのか知らないけど」
キルシュヴァッサーが慇懃に頭を下げると、マツナガも上げたままの手をひらひらと振った。ユーリとキリヒツは『お中元?』と首を傾げ、アイリスは『なんでリアル住所把握してんのよ……』と、やや不満そうに漏らしている。が、一同、視線はやがて自然前へと戻っていった。
白熱した戦いである。
流れは一方的、というわけでは決してなかった。だが、致命的な武器の差がある。パチローはシルバーリーフを使う気配がなく、徹底的に素手に固執している。《竜爪》を取得している最大値まで割り振った場合、その攻撃力がハイレベルに到達するのは事実だが、実質的な最強武器と名高いXANを前にしては分も悪いだろう。
「…………!」
キングの放った《バッシュ》を、パチローは《ウェポンガード》で受け止める。攻撃力の差分がダメージとなってパチローのHPを削り取る。
当然と言えば当然だが、パチローの戦い方はイチロー本来のものとはまるで違う。癖や個性、という問題で片付けられるものではなく、似せる努力すら放棄しているようだった。幼稚だが残虐な、一方的な暴力の行使。
ティラミスを相手どった時のように、敵を手玉に取れるのならば極めて有効な戦闘手段であったかもしれないが、実力が拮抗あるいは凌駕された場合、その戦闘運びは決して上手であるとは言えなくなる。
「これはキングの勝ちですかねぇ」
「いや、勝つのは良いんだけど……」
「わかってますよ。折を見てパルミジャーノが《カゲヌイ》を撃つっていうんでしょ。俺も協力しますよ」
そう言ってマツナガも、投擲に向いたクラス専用短剣『クナイ』を取り出す。忍者の専用アーツに《シャドウスナップ》という拘束系アーツがあるらしい。いったいどれほどの業前かは知らないが。
「やっぱり、課金できないツワブキさんなんてあんなもんですかね」
マツナガの言葉は、野次馬全員のものをほぼ代弁したようなものではあったが、それでもキルシュヴァッサーやアイリスはムッとする。
確かにパチローは奪取されたアカウントであり、石蕗一朗の課金手段であるクレジットカードが封印された以上、その強みの一部が行使できない状況にある。パチローを応援するわけではないが、マツナガの言い方では、まるで課金ができないイチローが弱いというような言い方であって、これがかなり癪に障った。
「あのね、マツナガさんね! 言わせてもらうけど、」
ここでアイリスが何を言うつもりであったのか。それは野次馬に広がるざわめきに押しつぶされて確認することはできなかった。アイリスも思わず振り返り、キングとパチローの戦闘に目を移す。
「な、なに……」
そこで、アイリスは目にすることになるのである。
パチローの構える武器。彼は素手ではなく得物を手にしていた。それは、メイジサーベルでもなければ、シルバーリーフでもない。彼らのこれまでの会話を、まったくのゼロに巻き戻す品物である。
すなわち、課金剣アロンダイト。
キングは相変わらず冷めた子供のような顔つきで、XANを構えていた。
9/15
誤字を修正
× 少年は一朗を
○ 少年はイチローを




