第三十四話 御曹司、飛び立つ
メインストリートの中央部。もがき苦しむように立つ妖魔の石像がある。亡魔領の開放当初から、これは単なるオブジェクトではなく、グランドシナリオに関係するものに違いないという憶測はあったのだが、マツナガの調査によってそれは裏付けられた形だ。まさか、封印されたグランドボスそのものであるとは思わなかったが。
赤き斜陽の騎士団の地上攻略本隊は、早期の張り込みから妖魔像の周囲を取り囲んでいた。いつでもイベント発生に備えている状態だ。やり口が汚いという外野の声もあったが、ストロガノフはこれを正当な権利と主張する。むろん、共闘の申し出であれば快く受け入れた。
このメインストリートには、攻略本隊と野次馬の他に、まだ幾らか別のプレイヤーの気配がある。ガスパチョやティラミス、パルミジャーノも、それに気づいているようだった。苫小牧というハイエルフは、穏やかな微笑を浮かべ佇むだけであるが、やはり気づいてはいるのだろうか。
亡魔領に林立する廃墟の屋上に、ちらちらと動く影は、超高レベルプレイヤーの【知覚】ステータスでのみ感知可能だ。彼らも保有する《気配遮断》を本気で活かしているわけではない。現在、亡魔領には相当数のプレイヤーが行き来しているはずだったが、データバス幅を増大させるディティール・フォーカスも、特に処理落ちを起こさずに作動した。
「団長……」
ティラミスが不安げに声をあげる。
「捨て置け。どうせマツナガのところの犬だ」
地下攻略隊に参加しなかった双頭の白蛇メンバーがいたことは、ストロガノフも把握している。ミライヴギア専用のスクリーンショットアプリや、動画キャプチャーアプリなどをダウンロードした偵察用のプレイヤーで、彼らはマツナガ同様完全隠密行動の特化したキャラクターメイクをしている。
そんなプレイングの何が楽しいのか、ストロガノフにはよくわからなかったが、彼らはそれなりに偵察プレイに面白みを見出しているらしい。マツナガのところのギルドメンバーが動画サイトに投稿している『アスガルド大陸ぶらり旅』は、それなりの好評を博しているとは聞いていた。
独自の判断かマツナガの指示か、彼らはこのグランドクエスト攻略の一部始終も、カメラに収めるつもりであるらしい。盗み撮りとは感心しないが、あるいは気配を完全に消していないのは、文句があるならば意思表示をしてほしいというメッセージなのかもしれない。ならば、こちらも『好きにしろ』と態度で答えるだけである。
「ゴルゴンゾーラのやつは上手くやっているかな」
ティラミス、ストロガノフと共に前衛を固める〝男爵〟ガスパチョの台詞である。ストロガノフはふんと鼻を鳴らした。
「心配ないだろう。あいつ、ウェブ上ではそれなりに強気だし」
「団長とガスパチョさんは、ゴルゴンさんともお知り合いなんですよね?」
「高校時代の同級生だよ。まぁ、あんまり深い詮索はしないでやってくれ」
後衛に射撃部隊、魔法部隊を率い、パルミジャーノと苫小牧が控えている。
パルミジャーノはともかく、苫小牧の実力は未知数だ。〝死の山脈〟にソロでこもる変わり者というからには、戦闘能力に関しては一定水準を満たしているものと判断できる。哲人ということで後衛に配置しているが、果たして超級の攻撃魔法アーツを連続使用するゴルゴンゾーラの代わりとなるかは微妙なところだ。哲人はどちらかと言えば、支援などに適したクラスである。
まぁ、やるしかあるまい。幸いにして騎士団の構成メンバーはほとんどが地上に回せている。昨日まで地上探索をしていた二人の分隊長は、現実世界の事情もあって攻略戦には参加できていないが、戦力的な規模で言えば十分だ。加えて、マツナガやあめしょーの呼びかけに応じてくれた他ギルドの高レベルプレイヤーも、何人か混じっている。
過去3回、赤き斜陽の騎士団はグランドクエストにおけるレイドボスの討伐を成し遂げている。うち2回は、完全に騎士団単独の手で掴み取った勝利だ。すでにある程度のノウハウは手中にあると言って良い。今回の作戦参加メンバーは、主だった戦闘要員だけで80人。うち40人近くが騎士団のギルメンである。
通常レイドボスの討伐が50人から60人前後で成し遂げられることを考えると、確実性を増すためにややメンバーを水増しした形だ。
50人前後というのは、作戦リーダーからの伝達や、即応性の高い連携ができる最高人数であり、これ以上のパーティで足並みをそろえるのは難しいというのが、ナローファンタジー・オンラインの通説である。基本、フロアやフィールドの上限人数が存在しないこのゲームで、レイドボスの討伐は当然人数が多ければ多いほど有利なのだが、80人などという大編成が組まれることは滅多にない。
周囲の野次馬も数を増している。この大編成に注目したプレイヤー達ということか。マツナガのブログによる情報拡散も影響しているのは間違いない。
『デルヴェ亡魔領攻略隊』における地上攻略組のメンバーは、総勢400人前後であり、現在前線に立つ4倍近くのバックアップメンバーが存在する計算になる。彼らの役割は、野次馬の抑制や周囲のポップアップMOBの討伐、傷ついた前線要員とのスイッチなど様々だ。仕事内容は地味であり、予定が合わないとしてドタキャンしたメンバーも多いという話だから、予定よりはだいぶ少なくなっていると思われる。
仕方が無いな。誰だって、ゲームの中でくらい自分が主人公になりたいのだ。
ストロガノフにとっての現実世界はそれほど凄惨なものではない。充実しているとさえ言える。何しろ彼なりにひとつの城を構えているのだ。だが、それでも、両手剣を振り回してモンスターを蹴散らすアスガルド大陸最強集団〝赤き斜陽の騎士団〟リーダーに比べれば、はるかに大衆へ埋没した存在だ。
グランドボスの討伐にも固執するし、目立った仕事を与えられないことに対して不満を抱く気持ちも理解できる。いつだったか、マツナガは『最強でい続けることは難しい』と言っていた。確かに、それもわかる。
「ストロガノフ、何を考えている?」
なまず髭のドワーフ、ガスパチョが言った。
「大したことではない。一周年記念直前のグランドクエストだ。派手な勝利で飾りたいな」
「夜までには終わるんだろうな?」
「当然だ。今夜は団体予約もあるからな。仕込みもせねばならん……と、そろそろ時間か?」
暗雲が空へと立ち込める。空気が微細に振動し、ストロガノフは顔をあげた。
「いや、予定ではまだだが……だいぶ早いな」
やがて地響きと地鳴りがメインストリートを遅う。野次馬の間にもざわめきが広がった。
赤き斜陽の騎士団は、こうしたグランドボスの出現時に発生する過剰な演出は見慣れている。団員でない参加プレイヤー、野次馬の反応は様々であり、中には本気で怯えているように見えるものも、いなくはない。
『グワハハハハハ』
暗雲が徐々に形を変え、禍々しい人面を描き出した。大きく裂けた口が開き、くぐもった笑い声が亡魔領を揺らす。
『愚かなる人間どもよ、聞くが良い。我が魔力は完全に蘇り、いま滅びの刻は来た』
『とき』が『時』ではなく『刻』と理解できてしまうのは、あくまでもこれが擬似音声イメージであることを裏付けている。イメージ技術がもっと進化し、感情や意識の読み取りがもっと精密になれば、機械を通じたテレパシーじみた通話も会話も可能になるというが、それはそれで少し気持ち悪い気もする。
大衆のざわめきには戸惑いが混じる。ナローファンタジー・オンラインのグランドストーリーは公式サイトで閲覧できるものの、大半のプレイヤーは気にしたことすらないだろう。騎士団はグランドクエストを追いかける都合上、大まかな流れは把握しているが、野次馬として集まった多くのプレイヤーにとって、ストーリーに触れるのはこれが初めてのはずだ。
これは、例のネクロマンサーの声か。地下でのイベント進行は無事に成功したらしい。
『我が最高傑作、妖魔ゾンビの封印を、いま解き放つ! 苦痛と恐怖に悶え、滅びるが良い!』
まず、騎士団の前衛メンバーが身構える。暗雲から黒い稲妻がほとばしり、妖魔ゾンビの像を貫いた。大地がいっそう激しく揺れ、像の双眸に光が灯る。爛々とした赤い発光。耳元まで裂けた大きな口元が動き、その肌が生気を取り戻して行く。肌全体をぬらぬらと覆う不気味な光沢。頭頂部から首筋、背面までを覆う白毛。肌の色は濃紫色で、所々に浮き上がる血管が脈動している。天に向けて強く自己主張した二本の角と、何より目を引くのは不自然に肥大化した四本の豪腕だ。
そのシルエットから、おそらく近接戦闘に特化したパワータイプのボスであると想定された。前衛の負担が大きくなる分、慎重な足止めを意識すれば捌けない相手ではない。それを意識した選抜メンバーでもある。
『GUOOOAAAAAAAAAAAAA!!』
この世と思えぬ大音響。あくまでも実際の空気の振動ではないが、それは確かな物理的イメージを伴ってプレイヤー全員に伝わる。否、伴うのはイメージに留まらない。モンスター専用アーツ《テラーハウル》。亡魔領全域にまで響くのではないかと思われたその咆哮は、ステータスが一定水準に満たない総てのプレイヤーに対して、容赦なくバッドステータス【恐怖】を与えていく。
当然ながら、その影響をいのいちに受けるのは、前線を支える騎士団でもなければ、後方に控える支援部隊でもない。彼らの活躍を見ようと集結した野次馬たち。動きを封じられるのは彼らだ。
ナローファンタジー・オンラインでは、行動に大きく制限を課すバッドステータスに、プレイヤー自身が実感できるストレス・エフェクトをかけている。データの送受信量を操作することで簡単にカットできる程度の小さな不快感だが、麻痺であれば痺れ、毒であれば嘔吐感、出血であれば痛みなどの、現実に即したストレスのイメージがプレイヤーに与えられるのだ。この臨場感溢れるエフェクトの数々は《痛覚遮断》も貫通し、通常のゲーム以上にバッドステータスが恐れられる理由のひとつとなっている。
野次馬達の心に植えつけられた恐怖の種。それはほんの小さなものに過ぎないが、身動きを制限するバッドスーテタス【恐怖】との相乗作用で、恐慌を産み落とす。醜悪で恐ろしいレイドボスの姿見が、やはりそれに拍車をかけた。
悲鳴と喧騒。不安が渦となって大衆の間を駆け抜けていく。その大半が、やはり中堅層だ。いかにこれがゲーム、虚構の世界の出来事であるとしても、彼らのあげる叫び声と、感じているであろう恐怖は、限りなく本物に近い。
「団長、どうしますか……?」
ティラミスが真面目な顔で伺いを立てる。彼女がたずねるのは、ゲームであることを忘れ、そのざわめきに真実味を色濃くする野次馬達の対処だ。
「彼らには悪いが、今はボスの対処が優先だ」
ストロガノフはウィンドウを開き、バックアップメンバー達にメッセージを飛ばす。いまの自分達に、野次馬のバッドステータスを解除したり、心理的なケアに付き合ってやったりするような余裕はない。
「ガスパチョ、ティラミス、妖魔ゾンビを押さえつけておけよ。前線を維持しろ!」
団長の檄に、二人はアクションで応じた。活動を開始した妖魔ゾンビが、四本の腕を大きく開き、再び天に吼える。重装に身をつつんだ騎士団の前衛たちがその巨体の足元へと殺到し、鉄壁の壁を造る。
戦闘の開始だ。
メッセージを作成し、送り終えたストロガノフのメニューウィンドウに、新たな未確認項目が出現する。『受注済みクエスト』に追加された『妖魔ゾンビを撃破せよ!』という一文。これが、グランドクエストの最終目標であることを示していた。
いやがおうにも気分は高揚する。この戦いに勝利し、歴史に名を刻むのは我々であるという自覚。ストロガノフの口端がつりあがる。得物である両手剣を引き抜いた。騎士固有のスキルである《片手持ち》を発動させたストロガノフは、これを一本の腕で悠々と振り回す。
「魔法部隊と射撃部隊、攻撃の手を緩めるなよ!」
ストロガノフは愛剣サワークリームをかざして、戦列に加わらんとする。そのときだ。
乱暴に振り回された四本の腕が前衛を固める騎士団の頭上に降り注ぎ、その直後、信じられない数字の羅列を見た。
4桁級のダメージエフェクトが、立て続けに、4発。
「うそっ!?」
悲鳴じみた驚愕は、ティラミスの声だった。
騎士団中最堅と呼ばれた彼女の【防御】ステータスを貫通し、四本の豪腕はやすやすとHPを削り取っていく。その連続攻撃は単体を対象としたものではなく、周囲数メートル内にひしめいていた重戦士たちが、3発目、4発目のダメージに耐え切れず、ガラスのようなエフェクト共に砕け散っていく。彼らの表情にも、一様に理解を拒む驚愕が浮かんでいた。
からん、という軽い音がして、トッププレイヤーの証明である数々のレア武器、レア防具が大地に転がる。ガスパチョは声をあげた。
「ティラミス、無事か!」
「あ、あたしは何とか……。でも……!」
耐え切れたのは幸運以外の何もでもないだろう。ギルドメンバーのみ閲覧可能な彼女の残り体力数値。それは、今ティラミスがここに立っているのは、乱数のいたずら以外の何物でもないことを証明している。
「バカな……。なんだこの攻撃力は……」
ストロガノフのかすれた声は、おそらくその場にいるプレイヤー全員と同様のものであったろう。
前線メンバーの顔つきが、にわかに怖気づくのがわかる。それをそしることもできまい。あの四本腕が同時に動いたとき、彼らの鍛えぬいた【防御】数値は何の意味もなく消し飛んでいくのだ。
動揺は、一斉射撃を行った後方支援部隊にも伝播した。前線の壊滅は、後方から重火力支援を行う彼らにとってあってはならない事故である。攻撃の手を緩めたところで解決の糸口にはなるまいが、それでも一回の射撃が稼ぐヘイト値のことを思えば、引き金を引く指にも躊躇が走る。
「まさか、バリアフェザー前提の攻撃力っていうんじゃあ……」
「ふん、冗談ではない。ティラミス、下がれ。次の四連続攻撃が来る前に体力を全快しておくんだ。魔法支援部隊は発動魔法を防御上昇のバフに切り替えろ」
ストロガノフの端的な指示で、騎士団のメンバーは隊列を持久戦重視のものに切り替える。40人近い外部メンバーも即座にその意味を飲み込んで、各自それなりのポジションを確保する。あの四本腕による四連続攻撃は、常に使ってくる攻撃というわけではない。一撃は重いが、合間を縫って回復を入れていけば、耐えではある。
「ティラミス以外も、今の攻撃でダメージを受けたものは後方へ下がれ! 少しでも体力が削れたら回復に回れ! 良いな!」
愛剣サワークリームを構え、再び雄たけびと共に前線へ飛び込んでいく。
超高レベルの戦士専用アーツ《ウォークライ》は、端的にいえば《テラーハウル》と真逆の効果を及ぼす。至近範囲のプレイヤーにかけられた精神異常系のバッドステータスを解除し、若干の戦意高揚効果があった。半ば趣味で取得するようなアーツだが、心が折れかけた前衛を支えなおすのには十分役立つ。
「ガスパチョ、またおまえには負担をかけるな!」
「いつものことだ。ゲームでも現実でも変わらないな!」
ストロガノフが放つのは、武士専用攻撃アーツ《カブトワリ》による振り下ろし攻撃だ。【筋力】依存の大ダメージに、【防御】ステータスの下方修正効果を含む。その直後、見事な連携でガスパチョが《スマッシュヒット》による強烈な一打を見舞った。
確かな手応えはあるが、戦局を左右するには程遠いか。二人の攻撃に触発された前衛の重装プレイヤー達が、次々と攻撃アーツを叩き込んでいく。しかし、『ひるみ』を誘発させることはできずに、妖魔ゾンビは再び攻撃の動作を取る。
「むっ……!」
先ほどの四連続攻撃ではない。であるならば、捌ききることは不可能ではない。重い一撃を予想し、ストロガノフは《ウェポンガード》で迎え撃った。
「むっ……うおおおっ!」
予想以上の衝撃が貫通し、大ダメージが数値となって頭上にひらめく。
しのぎきった、という確信は甘い幻想であると知った。アーツ使用後のわずかな硬直時間を突いて、妖魔ゾンビは四本の腕を振りかぶる。先ほどの四連続攻撃だ。ストロガノフは表情を険しくする。死を覚悟した。
「ストロガノォーフ!」
旧友の声が響き、妖魔ゾンビとストロガノフの対角線上に、影が飛び込んでくる。
「ガスパチョ!」
騎士専用スキル《カバーリング》によって、発生する予定のダメージをすべて目の前の男が肩代わりした。範囲数メートル分のダメージの合算。5ケタのダメージエフェクトが連続して弾ける。到底、プレイヤーが耐え切れる数値ではない。
なまず髭のドワーフは、振り返り、わずかな微笑を浮かべた。直後、彼の肉体がガラスのように砕け散る。ガスパチョの愛用していたフルプレートメイルと、巨大な片手斧だけが亡魔領の大地に転がった。
これはゲームだ。たかがゲームだ。どうせ彼はすぐに生き返る。そんなことを言っても、自分を庇い目の前で散っていった旧友の姿を、すぐに忘れきれるほどストロガノフは冷徹ではない。
しかし、状況は、彼にセンチメンタルに浸る猶予すら与えてくれなかった。
「きゃあああっ!」
後衛に控えたはずのティラミスの悲鳴。振り返れば、そこには、亡者を積み上げて建造した悪趣味な芸術品。亡魔領のネクロマンサーが生んだ戦闘オブジェ、〝ゾンビレギオン〟の姿があった。
ストロガノフは毒づいた。グランドボスとの戦闘において、取り巻きのMOBが出現することはありえない話ではない。最初はボス一体を思わせ、後衛をバックアタックする意地の悪い設計であったとしても、彼らは常にそれに対処してきた。
だが、この状況で、これは。
前衛を一瞬で削り取る凶悪な攻撃力のレイドボスである。その取り巻きとして、ゾンビレギオン数体とスケルトンチャリオッツ十数体はかなりやりすぎと言わざるを得ない。運営に不満を見せることなど滅多にないストロガノフだが、このときばかりはさすがに彼らを呪った。
バックアップメンバーはいまだに姿を見せない。バッドステータス【恐怖】が解除された野次馬たちも、不意に至近へと出現したゾンビレギオンたちに、顔を引きつらせている。逃げ出せれば、まだ良い。だが、あくまでもゲームのアバターでしかない彼らは、群集を『押し倒して』でも、我先に走り出すことなどできないのだ。こうしたパニックシーンにありがちなドミノ現象は発生しない。ほぼ棒立ちの状態で、避難は遅々として進行しない。中には、状況を笑って楽しむ剛の者も、いるにはいたが。
まったく、俺もあれくらい楽しめれば良いのだが。
ゲームの過剰な難易度に苛立ちばかりを募らせる。ゾンビレギオンが三体、回復途中のティラミスに迫っていた。一体程度ならばその猛攻もしのぎ切れるだろうが、手負いの状態で彼女が三体も相手にできるとは思えない。
後衛もその隊列を崩し始めていた。機動力に長けるスケルトンチャリオッツが即座に追いすがり、背中を見せたプレイヤーから轢殺していく。このままでは総崩れだ。焦燥感が更に激しくなっていく。
「ヒューッ! 流星シュゥートッ!」
そんな中で、パルミジャーノが空中で曲芸のような姿勢をとりながら、ボウガンの矢をゾンビレギオンに撃ち込んでいた。射手や猟兵のみが取得できる射撃専用アーツ《カゲヌイ》だ。ゾンビレギオンの動きが止まる。
「いまだ、逃げろ、ティラミス!」
「パルミジャーノ!」
「へっ、俺ってやっぱりヒーロー……!」
だが、彼の《流星シュート》は発動後に致命的な隙を生み出す。近くにいたスケルトンチャリオッツは、その冷徹な思考アルゴリズムに従って、動きを止めたパルミジャーノ・レッジャーノに殺到した。高速回転する骨の車輪に巻き込まれ、獣人の斥候は即座にそのHPをゼロまで削り取られる。
「引くのです、ティラミス!」
腰の抜けかけた彼女を引き起こしたのは、サービス開始以来一度もログアウトしたことがないという噂の勇者。ハイエルフの哲人苫小牧である。彼は、薄縁メガネの向こうにある端整な顔立ちを苦々しくゆがめ、巨壁のように立ちはだかるゾンビレギオンたちを見上げた。
「苫小牧さん、」
「かくなる上は仕方がありません。私も隠された力を発揮するときが来たようですね」
「えっ、えっ……?」
とかく、絶望的な状況というものは冷静な思考回路を焼き切ってしまうものである。
パルミジャーノにしても、ひょっとしたらガスパチョにしてもそうであろうか。所詮はゲームであるという前提と、強力な相手に勝てないという絶望感が、彼らをドラマチックな死に駆り立てた可能性は否定できない。リアル・ロールプレイヤーであればなお更のことだ。
では、この苫小牧はどうであるのか。
彼は、眼鏡を地面に投げ捨て、その身ひとつでゾンビレギオンに突撃したのである。
「けきゃァーッ!!」
おおよそ哲人に似つかわしくない怪鳥音と共に、飛び蹴りを浴びせる。驚くべきことに、ゾンビレギオンの巨体を揺さぶるほどのダメージエフェクトがひらめいた。だが、残る2体のゾンビレギオンが、舞い上がった苫小牧の身体を、ぺちりと叩き落す。
「グワァーッ!!」
苫小牧の細い身体が、デルヴェ亡魔領の地にたたきつけられる。彼のサブクラスは格闘家であると言っていたか。しかし、それがこの状況を打開する術には、やはりならないらしい。
ティラミスは、彼らほど役にのめりこんだロールプレイをするつもりにはなれない。気恥ずかしいのもあるが、HPが消し飛ぶならば、最後の一瞬までダメージを与えられるように粘りたいと考える気質だ。後方をちらりと見る。すでに前線は壊滅状態だが、ストロガノフはまだ踏ん張っていた。あの団長にあこがれて入団したのだ。ならば、自分も、と思う。
セレスティアルソードを構えた。青い清涼な瞳が、三体のゾンビレギオンを睨む。スケルトンチャリオッツもいた。一体でも倒せるかはわからない。だが、せめて一太刀は。
そう思って、亡魔領の大地を蹴ろうと身をかがめる。その瞬間、
黒い突風が、標的を射抜く。
それは何の前触れもなく、いきなり神槍を撃ち込んだかのような衝撃であった。闖入者は目標に深くえぐりこみ、肉を殺ぎ、HPをゼロまで削りきった挙句、大地へ一直線に着弾する。瓦礫と砂煙のエフェクトが、彼の姿を覆い隠した。大穴を穿たれたゾンビレギオンは怨嗟の声と共に、ゆっくりと大地へ倒れこむ。
砂塵が晴れた。黒いコートが、風にはためく。
かざりっけの無い直剣を携え、その青年は一人、精悍な顔で亡者の大群を睨みつけていた。
「あれは……」
誰かが彼の名を呼ぶ。
「キングキリヒト……!」
地下の戦闘は存外にあっさりカタがついた。イチローとしてももちろん自重したつもりはないが、予想外にあめしょーが強く、ゴルゴンゾーラもしっかり仕事をしてくれ、先行パーティもその戦闘能力を余すところなく発揮してくれたのだ。もちろん、マツナガのダガーや射撃部隊のボウガンもそれなりに役に立っていた。アイリスは終始固まったままであった。
あめしょーはその強さの秘訣について『人脈の力だよー』と語っていた。おそらく全身を包み込むレアアイテムの御威光であると思われる。イチローはあずかり知らぬところであったが、彼女の装備するダガーはキングキリヒトのXANと同様ゲーム内に七つしかないレジェンド武器のひとつであって、その所有を巡り血で血を洗うPK合戦が発生したという曰く付きの品なのである。『フレンドにもらった』という入手経路を聞いたとき、マツナガとゴルゴンゾーラは言葉を失っていた。
「キングが現れたようですよ」
ウィンドウからアプリケーションを起動させ、マツナガが言った。
「へぇー」
「どれどれ」
あめしょーとイチローが、彼の背後からアプリを覗き込む。動画キャプチャーソフトと連動したそれは、ゲーム内の誰かが撮影している動画をリアルタイムで確認できるようになっているらしい。画面の中では、砂塵の中立ち尽くしてゾンビレギオンを睨むキングの姿があった。
「彼も狙ったわけじゃないだろうが、なかなか効果的なシチュエーションですよ。彼としてはまぁ、時間通りに来たつもりなんだろうけど、イベント発生がちょっと早かったからね」
「へぇ」
イチローは、片手にポケットを突っ込んだまま、涼やかな表情で天井を見上げた。
マツナガはなにやら嬉しそうに動画を見ながら、今度はテキストエディタを起動している。さっそくブログの記事を考えるつもりなのだろう。この頃には、ようやくアイリスの処理落ちも直ったようで『あー、辛かったわ……』などと、実にしんどそうな声で漏らしていた。パソコンのフリーズと違って、本当にやることがなくなってしまうのだから、それはそうだろう。
「感謝しますよ、ツワブキさん」
マツナガは安堵を滲ませた声で言った。
「あんたがどういうつもりかは知らないが、俺からしてみりゃあ大人しくしてくれたわけだしね。俺の目的も無事に達成できそうだし、ウィンウィンですよ」
「あぁ、うん。その件なんだけど、僕の目的はこれからだよ」
何気ないイチローの声に対して、マツナガの指先がぴたりと止まる。
「ツワブキさん……。あんた……」
それまでとは打って変わり、その瞳には剣呑な光が浮かぶ。声に孕ませた殺気に気づいたか、ボウガン部隊がイチローに向けて矢をつがえた。
「僕が地下に来たのは、もしかしたらキングが来ているかも、と思ったからだよ。最初に彼と会ったのはここだったしね。でも、僕はその時、彼とは決着をつけられずじまいだったんだ」
あくまでも涼やかな表情で語るイチローではあるが、その発言の意味を読み取れぬマツナガではない。
いま、この状況でキングキリヒトと決着をつけようとする。それは、マツナガがもっとも忌避する展開そのものではないのか。
あめしょーが『なに、ケンカ? ツワブキとマツナガが?』と声を弾ませ、ゴルゴンゾーラは重い声で『ケンカはよくない』と諭す。アイリスだけが状況を飲み込めずに『え、なに? なに?』と首を左右にめぐらせていた。
「ツワブキさん、今からあんたがどんなに急いで戻ったって、地上までは1時間、いやぁ、2時間はかかりますよ。それだけいりゃあ、キングと騎士団の残党がグランドボスを倒すには十分すぎる。無駄だと思うんですけどね」
「ナンセンス」
諭すような声のマツナガを、イチローは一蹴する。
「無駄かどうかは、僕が決める。それにマツナガ、君が言っていたじゃないか。このダンジョンは、すべて1マップで構成されているって」
「そりゃ言いましたが、それが何か」
「アイリス、」
イチローは、片手にポケットを突っ込んだまま、石室の中を歩き出す。ボウガンは常に彼を射程に捉えたままだ。
「え、な、なに?」
「君には申し訳ないことばかりする」
「へっ?」
次の瞬間、イチローはポケットに突っ込んでいた片手を引っ張り出して、天井に向けて突き出した。《チャージキャスト》! 蓄積された魔力が、イチローの全身からひねり出される。捻出されたエネルギーは、拳の先に集約して、やがて龍の形を取って飛び出した。
水属性攻撃魔法アーツ《ドラゴンライズウェイブ》。
神の山々に覇を唱える昇竜の一撃である。迸る大瀑布すらも逆流させるという魔法エネルギーの奔流は、高レベルまで育成された《オブジェクト破壊》を伴って、天井に大穴を穿つ。果たしてその瞬間を明確に目撃し、理解できたものが、その場に何人いたことだろうか。
《ドラゴンライズウェイブ》の一撃は、25層に重なるマップ総ての天井と床を粉々に粉砕していく。物理演算にのっとったイメージ処理の量は、とうてい8TFLOPSのIPUで追いつけるものではない。崩壊する瓦礫のグラフィック量は、先ほどゾンビレギオン達が出現したときの比ではなかった。
結果、引き起こされるもの。
処理落ちである。
いま、このとき、〝亡却のカタコンベ〟における総ての時間は、ツワブキ・イチローのものであった。彼を除く総てのプレイヤーは、悲鳴を挙げるIPUの演算処理に押しつぶされ、その動きを停止させる。
イチローが悠々と出発の準備を整えたところで、制止できるものなどいないのだ。
いや、
「ツ……ブキ……さ……」
マツナガは、IPUをオーバークロックしていたと言っていたか。
「あぁ、うん」
イチローは彼の方を見ず、いつもの涼やかな表情でこのようなことを言った。
「あまりイライラしない方が良いよ。データバスが増大して、もっと処理が重くなるからね」
背中にドラゴネット専用スキル《竜翼》を展開し、天井の穴から飛び出す。
瓦礫が降り注ぐカタコンベの中、マツナガには恨み節をあげることさえ許されていなかった。
8/7
誤字を修正
×善戦要員
○前線要員
8/31
誤字を修正
× 預かり知らぬところ
○ あずかり知らぬところ
× 連なるマップ
○ 重なるマップ




