第二十七話 御曹司、最下層を目指す
第14階層。赤き斜陽の騎士団の進行がそのあたりに到達する頃には、時刻は夕方をまわっていた。やや攻撃に偏重した部隊編成から、守備を重視した隊列に。行軍速度は著しく低下したものの、そこから更に2階層を突破するあたりに、トッププレイヤー集団としての地力の高さが伺える。
ゾンビレギオンやスケルトンチャリオッツが姿を見せる第17階層にはまだ至らない。難易度の激変が起こり得るとすればそこからであるというのが、分隊リーダー達の共通見解だった。いったいこの地下迷宮がどこまで延びているのかはわからない。が、今後強力なMOBが増え続けるというのであれば、今までのような快進撃を続けていくのは難しいだろう。
その階層を歩き回り、しばらくした頃である。一行は、かがり火の焚かれた大広間に到着した。小さな女神像の安置されたプールがあり、穏やかな水音がこちらの耳朶を心地よく刺激する。ダンジョン内にときおり、デザイナーの良心として設置される〝回復の泉〟だ。MOBの出現率、侵入率が低く、他の部屋・通路よりもひときわ狭い入り口となっているため、迎撃も容易なポイントだ。
「ストロガノフ、そろそろ夕食時だ」
第一分隊長にしてストロガノフの片腕と謳われる男、〝男爵〟ガスパチョの台詞であった。ストロガノフとはまた違った趣のある『大柄な』肉体を持ち、口元にはナマズヒゲを蓄える。ストロガノフほどではないにせよ、堂に入ったロールプレイをする男だ。
「うむ。わかっている」
ストロガノフは頷きつつ、メニューウィンドウに表示される時計を眺めていた。
「行軍は一度ここで止め、夕食の時間とする。事前申請があったものを除き、見張りをおいて最大一時間半。ローテーションで休憩を取ること。俺とガスパチョは例によって22時過ぎまではログインできない。分隊長の許可が出れば、それまでに各々の私用を済ませても良い。いつも通りだ」
晩御飯か。そういえばそんな時間だな、とアイリスも思った。現実世界の杜若家には、ドライブ中のあいり一人しかいない。埼玉県の片隅に一軒家を構えていると言っても、両親は共働きで遅くなることがほとんどだ。学校がある日は下校からシャワーを浴び、夕飯を用意するまでがワンサイクルになっているから良いものの、夏休みに入り、こうして日がな一日ドライブしていると、食事を用意するのが億劫になる。
もちろんミライヴギアのセーフティ機能は優秀である。空腹状態が続けばそれを示すメッセージがポップアップするし、そうしたアラートメッセージを無視し続けた場合は、脳からの信号制限が解除され、実際に空腹を感じ始める。それでも放置された場合、最後に待つのは強制的な電源シャットアウトだ。ログアウトという正式手順を踏まない以上、そこにどんな悲劇が起ころうと自業自得としか判断されない。
ただ、一食抜かしたくらいでは、ミライヴギアもそう深刻な判断を下すことはほとんどない。キルシュヴァッサーはこのくらいの時間になると、いつも料理を作るためにログアウトしていくが、そういうのを見ると本当に偉いと思う。きちんとした生活リズムが作れているのだろう。
自分は、どうしようかな。ストロガノフとガスパチョに続き、次々とログアウトしていく団員達を眺めながら、アイリスは考えた。
「ご飯は、きちんと食べたほうが良いですよ」
そう忠告してくれたのは、第二分隊長ティラミスである。聖女の二つ名に恥じない、後光の差すような笑みであった。
「騎士団の掟のひとつでもあります。〝最悪カップラーメンだろうがファーストフードのハンバーガーだろうと何でも良いが、三度のメシはしっかり食べること〟です」
「それ、あのストロガノフ団長が言ってるの?」
「そうですよ。団長、小さなレストランをやってるらしいです。ガスパチョさんはそこのシェフ」
驚くよりも先に呆れてしまった。そんな男がVRMMOなんかに傾倒して、ゲーム内最強ギルドなどと呼ばれる集団を率いているのか。いやいや、自分も人のことは言えないけれども。よく現実世界に支障をきたさないものだ。
この事実は割りと騎士団全員に知れ渡っていることなのか、ティラミスと同じ第二分隊に所属するホビットの魔術師も、横から話題に割り込んでくる。
「もちろん忙しいときにはログインしてこないですよ。土日の夕食時とかね。でもレベル上げだけはきっちりしてて、自分が忙しいときもバイトにアカウント使わせてレベル上げてます」
「それって……良いの?」
運営により禁止されているのは、アカウントの売買、譲渡までであるが、レベル上げの代役はグレーゾーンであると言わざるを得ない。
「どうなんでしょう。良いんじゃないですかね。きちんとバイト代も出てるみたいだし」
「世の中いろんな楽しみ方をする人がいるもんですなぁ」
キルシュヴァッサーも頷いている。確かに、リアルとの兼ね合いが上手く取れていればそれで良いのか。この騎士も御曹司も、一週間に一度はまるでログインしてこない日があって、何をしているのかと思えば『身体がなまらないように運動している』のだそうだ。結構なことである。
そう考えると、アイリスも、慎ましやかに表示された『あなたはいま、おなかが空いています』のアラートメッセージが、急に気になってきた。朝もお昼も食べるには食べたが、そうそう大したものはおなかに入れなかった。そうでなくともキルシュヴァッサーの入れてくれるお茶は美味しかったし、最近一緒に出してくれるようになったお菓子もお気に入りだ。実際に食べたものの有無に関わらず、味覚は十分に満足させていたのだ、が。
「久しぶりに作ってみようかな。ビーフストロガノフ」
「あー、良いですな。私も今晩はそれにしてみましょうか。牛肉は買い置きがないので、今から買いに行かなくては」
アイリスの何気ない言葉に、キルシュヴァッサーも同調した。
去年の家庭科の調理実習で、ビーフストロガノフが課題料理だったことがある。会心の出来だったから家に帰ってからも作ったのだが、そのときはサワークリームの分量を間違えて失敗してしまった。捨てるのもなんだし、と冷蔵庫に入れておいたら、翌朝綺麗さっぱりなくなっていたのを覚えている。出社前の父が、『最近の家庭科ではあんなものまで作るのか』と声をかけてくれて、まぁその月に父と会話したのはそれっきりなのだが、いつかはリベンジしなければならないと思っていた。あのやせぎすで世間をよく知らない仕事バカの父親に、本当のビーフストロガノフが如何なるものであるか教育してやらねばならないのだ。
なんだか俄然燃えてきた。
「ティラミスさん、あたし、戻るの遅くなるかも」
「構いませんよ。行軍の再開は深夜になりますからね」
「夜遅くまでやるの? ティラミスさんも社会人でしょ?」
「スキル《スタチュー》を持っていれば、ログアウト中もアバターがオブジェクト扱いになるんですよ。一部の団員はそうやって運搬します。まぁ、私も明日は有給取ってるんで参加しますけど」
この人けっこう筋金入りだ。トッププレイヤーの仲間入りをしているなら、そんなものか。
「美味しいストロガノフが作れると良いですね。団長も得意料理だそうです」
「そりゃああんなアバターネームにしてるなら、そうでしょうな」
「せっかくだしコツとか聞いておけばよかったわねー」
このゲーム、一般的なMMOと同様、特定のエリア以外でログアウトする場合はあえてタイムラグが生じるように設定されている。プレイヤーがゲーム上でマナー違反を行った際、そのまま即座に雲隠れしてペナルティを回避しようとする動きを防ぐためだ。当然、こうしたダンジョン内、フィールド上でのトラブル解決が目的であるため、ここでもログアウト時のラグは消すことができない。いま、ここでゲームから離脱した場合、アイリスのアバターは数秒間、マネキンのように棒立ちになる。
ローテーションで見張りを立て、順番にログアウトを行うのはそうした事情もある。騎士団のギルドメンバーは、これを『野営』と呼んでいた。彼らの守りがあるからこそ、アイリスは安心してログアウトを選択できる。
いざ、ログアウトする直前になって、アイリスは友人達のことを考えた。ユーリ、ミウ、レナ。結局会えなかったな、と思う。デルヴェ亡魔領のどこかにいるのは間違いないのだろうが、ここまで下層に潜ってしまうと、やはり会えそうにない。
戻ってきたときに連絡を取ってみようかな、と思いつつ、彼女はボタンを押した。
第23階層。破竹であった。猛進であった。
最強のソロプレイヤーと、それに匹敵する実力者がくつわを並べ、疲労回復剤の無限供給を得ればこうもなろうか。この二人、消耗というものをまるで気にしていない。最初はまだ遠慮や可愛げというものもあったのだが、片方が偶然たたき出したクリティカルヒットでゾンビレギオンを瞬殺せしめたあたりから、妙な小競り合いが加速した。
言うなればそれは、力と技の取っ組み合いである。
もっと言うなればそれは、財力と努力の取っ組み合いである。
ツワブキ・イチロー。そしてキングキリヒト。
見よ。これこそがナローファンタジー・オンラインにおける最前線。すべてのプレイヤーに先駆けて、デルヴェ亡魔領のクエストダンジョン〝亡却のカタコンベ〟最下層を目指す二人の男の争いである。それは決してきらびやかなものでなければ、優雅なものでもない。ひとことで示すのであれば、それはただひたすらに凄惨であった。
使用されるアーツは《ブレイカー》と《バッシュ》のみ。どのクラスでも簡単に取得できる武器攻撃アーツだ。プログラムに同情したところで仕方が無いのだが、不幸にも彼らの進路上に出現したMOBには、たった二通りの結末しか与えられていない。
すなわち、キリヒトが心血を注いだ一年間の結晶に叩き潰されるか、イチローが何の躊躇もなく決済する1200円によって叩き潰されるか。どちらがマシであるかなど考えたくも無い。時間か、カネか。タイムイズマネーという言葉に従えば、その本質に大差はないのだ。
「せいやァーッ!」
キリヒトが、何十度目かになる《バッシュ》を放つ。それが一つの剣技であるとは考えられないほどに、多彩な剣筋であった。攻撃のたびに微妙に違える『構え』からは、そのたびに別の補正がかけられ、威力や速度、追加効果が変化する。状況と敵、わずかな消耗に応じた天才的な判断力が、常に最適解を生む。
立ちはだかるスケルトンチャリオッツは、その妙剣を前にたちまち粉砕され、エフェクトを散らしながら消滅していく。目の前に出現したリザルトウィンドウを鬱陶しげに片付けつつ、キリヒトは振り返った。
「どう?」
なお、ここにいる『キリヒト』は、何も彼一人ではない。なし崩し的についてくるハメになったキリヒト系ギルド〝ザ・キリヒツ〟を代表する三人は、勝敗を公平にジャッジする審判という栄誉の立場を与えられていた。彼らが攻撃に参加した様子は一度もない。その必要がないのだ。
では、何の勝敗か。
それは、『イチローとキリヒト、どちらが多くMOBを撃破したか』という単純極まりない小競り合いの行方である。キリヒト(リーダー)は、わざわざこのために、ポニー・エンタテイメント社のフューチャーストアから無料のカウンターアプリをダウンロードした。
「えぇっと、キングがこれで218体。ツワブキさんが216体」
それを聞いて、イチローがにこりと笑う。
「拮抗してるじゃないか。いい勝負だね」
「なに言ってんの。このまま引き離すよ」
「そう? でも、いま僕が追い越すところなんだけれど」
言うや、イチローは右手を掲げる。その腕から三発、《トルネイドブレイズ》が立て続けに迸り、迷宮内に爆音が轟いた。かき消されそうな小さな悲鳴。天井から黒焦げになった三つの塊がぼとりと落下し、即座に光粒子となって消えていく。
「ハイドリーパーだ。レアMOBなのに……」
イチローのカウントを3つ増やしながら、キリヒト(リーダー)がぼやく。
「確かにそうみたい。見たことも無いドロップ品が出たよ」
この、どこか満ち足りた表情が妙に腹立たしかった。
キングキリヒトは小さくため息をついて、自前の剣を鞘に収める。彼が無言で片手を差し出すと、イチローもインベントリを開き、オブジェクト化した疲労回復剤を彼に投げ渡した。キリヒト自身、消費アイテムをここまで奔放に使用するのは稀有な経験である。湯水のように、という言葉があるが、疲労回復剤はお湯でも水でもない。流通制限のある立派なアイテムなのだ。
この勝負、イチローの提供する疲労回復剤が前提にある以上、どこかフェアになりきれていない部分がある。間接的に、イチローがキリヒトに力を貸している構図となっているのだ。キングもそれを気にしているのか、消費した疲労回復剤の本数はきっちりとカウントしていた。あとで使用分買い占めてイチローに返却するためである。
公平か。
アイテム課金というくくりは、ひいては財力という壁は、果たして公平性を保つ上での障害となるのだろうか。キリヒトは社会人ではない。彼の手元に、自由に使えるお金などありはしないのだ。それを嘆くのも恨むのも筋違いではあるが、しかしもしも財力の壁が公平性を損ねているのであれば、自分は目の前の竜人族と同じ舞台にすら立たせてもらえないことになる。そういうのは、御免だ。
キリヒトは、ツワブキ・イチローの放蕩な金遣いを容認せざるを得ない。彼がリアルマネーを駆使してどれだけ優位な場所に立とうと、それを指摘し、やめさせることはできない。自分が子供であり、大人と同じフィールドで勝負できないことを認めることになるからだ。
ゆえに、次の発言も決して、嫉妬や羨望の類から来るものではなかった。
「おっさんさ、コクーン買ってるんだろ」
「ん、」
自分の分の疲労回復剤に口をつけながら、イチローは首肯した。
背後のザ・キリヒツは、いきなり何を言い出すんだ、という顔で目を丸くしている。それはそうだろう。彼が言っているのは業務用ゲームハード〝ミライヴギア・コクーン〟のことである。市場に流通しているミライヴギア・Xなどとはゼロのケタが2つ3つ違う。ゲームセンターやインターネットカフェでさえ購入には二の足を踏む代物なのだ。それを個人で買っているような言い回しだが、キリヒトには確信じみたものがあった。
「ずっと見てて思ったんだけど、おっさんの反応の早さとか、感知能力の高さとかさ。あれエックスじゃ無理だよ。IPUだけでも8TFLOPSはあるけどさ。【知覚】系のステータスを特化させても、IDLが30メートルもあったら、DFでも使わない限り天井に張り付いてるハイドリーパーには気づけないって」
早口のようにまくし立てる彼の言語は、知らないものが聞けば異界の呪文を羅列しているようにしか聞こえなかったことだろう。しかし目の前のイチローは、一度聞いただけで全てを理解したようで『詳しいじゃないか』と頷く。
「好きだからな。最初、ひょっとしてずっとネカフェからログインしてんのかなって思ったけど、おっさんドラゴネットだしさ。自分でコクーン買って、プレミアムパックインストールして、遊んでんのかなって」
「そうだよ。意外と気づかれないものだね。指摘してきたのは君が初めてだ」
「金持ちの道楽ってやつ?」
「そんな感じ。苦学生としては羨ましいかい?」
キリヒトは肩をすくめた。
「別に。ああいや、マシンのスペックが高いのは羨ましいけど。エックスもメモリ増設すればちょっとはマシになるらしいんだけどさ。そんなお金も無いんだよ」
「結構。僕にはお金がある。君には才能がある。それで良いよね。まぁ才能なら僕にもあるんだけどね」
一般人にはついていけない超次元的な会話ではないだろうか。ザ・キリヒツもこの話にはついていけず、文字通り硬直していた。辛うじてキリヒト(リーダー)が、『どんだけだよ……』と漏らしている。一体何に対しての感想であるのか、該当するものが多すぎて、口にした彼自身もよくわかっていないだろう。
蓄積された疲労度は、回復剤を飲まなくとも、ある程度じっとしていることで回復する。回復剤1ビンと、この短いやり取りの間で、イチローとキリヒトの疲労蓄積度はゼロに戻った。すなわち、行軍の再開を意味する。どちらかが『じゃあ、行こうか』というまでもなく、二人は同時に足を踏み出し、再び迷宮の深奥を目指し始めた。
「そう言えば、20時くらいになったら小休止を取ろう。夕食の時間だ」
イチローが腕時計を見ながらそう言うと、キリヒトもメニューウィンドウの時計を確認する。
「20時って8時だっけ。いや7時で良いよ。たぶんそのくらいの時間にお母さんに呼ばれる」
「ん、じゃあそうしよう。あと1時間無いね」
「最深部まで行けばMOBも出ないし。余裕だろ」
「まぁね」
会話のさなか、勢いよく飛び出してくるスケルトンチャリオッツが粉々に粉砕される。まるで、道端の小石を蹴っ飛ばすような気軽さであったが、彼らにとってはもはや、この骸骨戦車などその程度の価値しかないものであった。
ゆえに、次に湧き出てくるゾンビレギオン一体の命運についても、もはや知れたことであるとしか言えないのではないだろうか。消し飛ぶ肉片。増えるカウント。慈悲は無い。
最下層への到達は、まさに時間の問題であった。




