第二十五話 御曹司、新技を会得する
「うっ、うわあああああっ!」
それまで通路に反響していただけの悲鳴が、今度は直線上ではっきりと聞こえる。声の方向へと振り向けば、幅30メートル近い巨大な通路の中央を、三人の男が走ってきた。全員キリヒトだ。その幾らか後方にMOBの姿を確認できる。見たこともないタイプのアンデッドモンスターだった。古代スパルタ軍を思わせるモヒカン兜が特徴的なスケルトンタイプで、蛮刀と盾を振りかざしていた。それだけ見ればただの骸骨兵士だが、下半身が骨で出来た車輪となっている。
イチローの《遠視》スキルが、カタカタと不気味に笑うスケルトンの口元を確認した。それが巻き上げる砂埃エフェクトの後方に、同型のMOBが更に数体、そのうち幾らかは、やはり骨で出来た荷台を牽引しているのが見て取れる。荷台の上にはスケルトンリーパー。結構な大部隊だ。あれを三人のキリヒトで相手するのは、いささかばかり辛いかもしれない。距離は開いているが、縮められるのも時間の問題か。キリヒト達は、逃げるのに必死でこちらが見えていない。
立派なトレイン行為である。
いまさらな講釈ではあるが、こうしたMMOにおいて複数のモンスターを引き連れて移動し、他のプレイヤーに擦り付ける行為はマナー違反であるとされている。意図的にトレインを引き起こして、気に入らないアバターを殺害する行為もあるが、基本的にこのマナー違反に悪意の有無は関係ない。
だが、マナーなんてしょせん人を気遣う気持ちが形式化した社会規範の一種に過ぎない。イチローは双方向において、そのように明文化された気遣いに興味がない。加えて、目に映るアンデッドモンスターもさしたる脅威には見えず、憤りや焦りよりも、このような言葉が先に出た。
「やぁキリヒト、無事で良かったよ」
このゲーム、ディティール・フォーカスは常に観測側からの働きかけで発動するものではない。声をかける側がその対象を明確に意識していた場合、音声情報はある程度指向性を持って伝達され、周囲の騒音に関わらずある程度の会話や声かけは可能である。
トレイン集団の先頭を走るキリヒトは、キリヒト(リーダー)であった。その言葉でようやくイチローの存在に気づき、どうやら顔を青くする。迷惑をかけまいと足をとめようとするが、どのみちこの距離ではあまり意味がない。
「ツワブキさん、悪い! トレインしちまった!」
「ナンセンス。僕は、そういう形式的な挨拶はどうでもいい」
イチローは片手をポケットに突っ込んだスタイルのまま、右手をゆっくりと上げる。
「ひとりで潜るのも意外とつまらないなって思っていたんだ。手伝うよ」
とは言え、広範囲の魔法アーツではキリヒト達を巻き込みかねない。こういうとき役に立つ魔法収束系の補助アーツまでは取得していないし、小回りの効く攻撃魔法もない。
ゲームの融通の効かないところだな。イチローは思った。もしこれが現実であり、なおかつ魔法が使用できる世界であるならば、その場で収束化の術式を構築するなりして対応のしようはあったと思うのだが。如何にイチローが多芸と言えどシステムの制約は絶対なのだ。
石蕗一朗、現実よりもゲームのほうがハードモードとなる稀有な人種である。
結局はメイジサーベルか、よりリーチの短い素手で対応するしかない。これだけの数が相手では、やはりシルバーリーフの出番もなさそうだ。魔法アーツの発動体勢を整えたまま、威力の低い《マジックボール》を撃ち込む。掌から飛び出した白色の球体が、数発。アーツレベルに応じた数だけキリヒトとMOBの電車ごっこに向けて殺到した。
着弾の派手なエフェクト。爆発。微弱な魔法ダメージなどものともせず、スケルトン戦車隊は某ミヤザキ映画ばりの疾走感で煙の中から飛び出してくる。
「ツワブキさん、連中、《対魔法障壁》持ちなんだ!」
「この機動力と突進力を持つ相手に物理で挑めということか。システムの悪意を感じる部分だなぁ」
是非もなし。ポケットに入れていた片手をようやく引っ張り出し、軽いファイティングポーズを取る。フォーマルスタイルなジャケットとスラックスは、これから一風変わった社交ダンスを披露するのかと思わせる優雅さだ。
そうこうしている間にも、三者の距離は縮まりつつある。このままではイチローの前にたどり着く前に、キリヒト達がスケルトン戦車隊に追いつかれそうだ。しかし、ここまで来れば、キリヒト達も覚悟を決める。
最初に足を止めたのはキリヒト(リーダー)だった。かざりっけは無いが、誇らしげに収まっていた直剣を抜き、襲いくるスケルトン戦車に向き直る。ごくりと息を呑み、剣を大げさに振りかぶる様子が、イチローにも見て取れた。続いて、頭に巻貝をかぶったキリヒトと、ディテクトゴーグルをつけたキリヒトも同様の仕草を取る。
何をする気だろう。イチローは首をかしげた。そんな、無茶をしなくても、自分が全滅させてやるのに。
スケルトン戦車隊は迫る。先頭を走る一体が、その不気味な笑いをよりいっそう増す。意識を向けるだけでディティール・フォーカスが作動し、骨が骨を叩く、軽快ながらも不愉快な音が、仮想の耳朶を揺らした。
三人のキリヒトは、まったく同じタイミングで踏み込み、その直剣を先頭のスケルトン戦車に勢い良くたたきつけた。4ケタのダメージエフェクトが三回、続けざまにひらめいて、先頭の戦車があっさりと弾け飛ぶ。
「へぇ」
イチローの口からは、素直な感嘆が漏れた。やるじゃないか。
だが、倒せたのはしょせん先頭の一匹に過ぎない。後続から迫る戦車たちの猛攻を防ぐ手段はなく、無防備となった彼らに、骨製の車輪が容赦なく襲い掛かる。現実であれば、肉を引き裂き血飛沫を躍らせる、凄惨な光景となったであろう。
だが、イチローの目に映るのは、無機質なダメージ数値の羅列に過ぎない。彼にできることと言えば、それがキリヒト達のHPゲージを削りきるものでないことを祈ること、そして、後続のMOB達を残らず殲滅することくらいである。
正面から迫る戦車隊に向けて、動じずにカウンターを叩き込む。
先日、機械人種の鍛冶師エドワードを一撃で叩き潰したイチローの拳である。が、今回このときに限って、スケルトン戦車に対して致命の一打を突き入れるには至らない。
ダメージの発生判定が線や面でなく、あくまでも点でしかない格闘攻撃は、スケルトンタイプのような隙間の大きいMOBに対して高い打点を生まないという欠点がある。弓や銃、狭いジャンルで言えばレイピアやエストックなどの武器も同様だ。槍にも突き入れのモーションは存在するが、なぎ払いなどを使用すればこの限りでない。
手応えは薄く、こちらを轢殺せんとするスケルトン戦車の行動が、HPを削り取る感触があった。激痛と言うには程遠いが、プログラミングされた殺意はひとつではない。後続から襲い掛かる戦車隊の攻撃が、イチローを直撃する。
「ツワブキさん!」
キリヒト(リーダー)の声が聞こえた。どうやら無事らしい。残る二人、キリヒト・マリーネ(巻貝かぶってるほう)とキリヒト・イェーガー(ゴーグルかぶってるほう)も同様である。
「僕のほうは大したことないよ」
ゲームのシステム上、彼のジャケットが汚れることは決してないのだが、それでもなんとなく埃を払う。戦車隊は、通路の反対方面まで走り続けている。まさかこのまま素通りということはないだろう。勢いを殺さず、再び反転してこちらに突進してくるに違いない。荷台に乗ったスケルトンリーパー達が、ブーメランのように歪曲した骨製カッターを飛ばしてくる。
イチローは素手で《ウェポンガード》を発動させ、カッターを叩き落すが、このままではあの戦車隊への有効打には至らない。いささかダメージ効率は落ちるが、やはりメイジサーベルによる攻撃を仕掛けることになるだろうか。
そこで、イチローはふと思い出す。
「キリヒト、さっきの攻撃はなかなかだったよ。あれは、なんだい」
「え、あ、あぁ。あれか?」
若干ふらつきながら、キリヒト(リーダー)が立ち上がる。辛うじてHPは残っているが、ほぼ瀕死の状態だ。彼は共有インベントリからポーションをオブジェクト化して、彼らに渡してやった。
「ありがとう。さっきのは《ブレイカー》だよ。タイアップ武器って、威力はしょぼくても耐久値は高めだったりするからさ。どうせ死んでドロップするなら、ってことで、うちのギルメンは全員取ってるんだ」
「ふぅん」
イチローは悠長にもブラウザを開き、攻略wikiを閲覧する。
《ブレイカー》は、取得にクラス制限のない武器攻撃アーツとあった。一定値の【筋力】ステータスさえあれば誰でも取得が可能で、アーツレベルと武器の残り耐久値に応じたダメージボーナスがある。疲労蓄積値がやや高めで、攻撃に使用した武器は耐久値がゼロになり破壊される。
「こんなアーツがあったのか」
「使い勝手悪いしさ。最後っ屁みたいなもんだよ。どうするツワブキさん、トレインしてきたのは俺たちだし、逃げるなら……」
と、そこまで言って、キリヒト(リーダー)は言葉を呑んだ。
「つ、ツワブキさん?」
「ナンセンス。僕は逃げたことなんてないんだ。これからもそうさ」
イチローはブラウザを閉じ、今度はメニューウィンドウからコンフィグを選択していた。幾らかの操作をした後、彼の片手には片手剣が出現する。これが何かはキリヒト(リーダー)も知っていた。華禁剣アロンダイト。ある人気漫画とタイアップした課金アイテムで、要求する【筋力】値の割りに攻撃修正がしょぼいと不満を読んだ一品だ。課金剣などと揶揄される代物であるが、タイアップ装備の例に漏れず武器耐久値は異様に高い。
すでに方向転換を終えたスケルトン戦車隊がこちらに向けて突進してくるさなか、イチローはあまったアーツポイントで新しいアーツを取得している。ここまで来れば、キリヒト(リーダー)にも確信めいた予感があった。
「あ、あのさ、ツワブキさん……まさか……」
「そのまさかだよ」
イチローはアロンダイトを大きく振りかぶる。キリヒト・マリーネとキリヒト・イェーガーが悲鳴をあげた。
この課金剣、いや華禁剣。お値段は1200円ほどである。運営が批難をあびた理由のひとつだ。
スケルトン戦車は目前にまで迫りつつある。だが、キリヒト(リーダー)にとって、そんな作り出された恐怖よりも畏怖すべき現実があった。相対速度からして、戦車隊はすでに射程内に納まりつつある。イチローは一歩、踏み込んだ。
「ふっ……!」
「うわああああああああッ!」
彼が静かに込めた気合は、三人のキリヒトの悲鳴が打ち消す結果になる。
武器攻撃アーツ《ブレイカー》。高い武器耐久値による補正ボーナスは、本来の威力の低さを補って余りある。《剣技の心得》《剛剣》などの火力強化スキルのバフと、地道に(かつ手っ取り早く)あげてきた【筋力】値ステータスが、演算処理によって5ケタのダメージとなってスケルトン戦車の頭上に踊った。
かくして死と恐怖を振り撒く仮想世界のペイルライダーは、1200円の課金剣と相打つ。
ひとりの男が一生に稼ぐ金額からすれば、1200円など端金である。だが考えてもみよ。キリヒト(リーダー)は戦慄した。あの剣一本は、彼の聖典である『ドラゴンファンタジーオンライン』の文庫本2冊と同じ価値があるのだ。
しかし、スケルトン戦車の攻撃はそれで終わらなかった。後続が続けざまに剣を振りかざし、突撃をしかける。追撃が終わらないのならば、迎撃も終わらない。イチローの手には、すでに二本目、三本目のアロンダイトが握られていた。伝説の大安売りである。
「ツワブキさん、それは良くない」
「ナンセンス」
その言葉と共に、砕け散る華禁剣。
右手で《ブレイカー》を放ち、左手でアイテムを買い続けるその動作に、一切の躊躇は存在しなかった。なるほど、経済面を考慮しなければ、まったく効率的な攻撃だ。一撃1200円。数値の重さが、これほどダメージとして実感できる攻撃もありはしないだろう。
「ツワブキさん、もう良い! やめよう! 俺たちの命に、ツワブキさんが今まで支払ったお金分の価値があるとは思えない!」
「こういう月並みな台詞は好きじゃないんだけど、命とお金は天秤で量れないんじゃないかな」
「そりゃあ現実世界ならそうだよ!」
「そうは言っても、残り一体だからね……。ふっ!」
「俺の2日分の食費が!」
かくして、経済的暴力の前にあっさりと決着はついた。
イチローのおかげで、三人のキリヒトは命を救われたのだ。たとえそれが、虚構の世界の話であって、デスペナルティを負わずに済んだという、ただそれだけの話であっても、彼らの命は救われたのだ。感謝してもしきれない。
だが、この心を吹き抜ける、空虚な風の正体は、いったいなんだろう……。
「キリヒト、君たちも傷を癒したほうがいい」
「このポーションも課金したやつ?」
「そうだけど」
お金持ちっているもんだな。と、いうのがキリヒト(リーダー)の素直な感想であった。金の亡者でありたいとまでは思わないが、ここまで金銭を粗末にできる人間にはなりたくないものだ。
ポーションと疲労回復剤で、仮にも喉を癒し、ステータス数値的にも余裕を得ると、キリヒト達の心も落ち着いてくる。同時に、先の戦闘で判断を誤り、四人の仲間を失ってしまった苦味も覚えた。四人ともマナーを弁え、DFOのネタもよくわかる良いキリヒトだった。一人はにわかファンだったが、こっちの話題についていこうと必死で勉強してくれた。彼らが戻っているであろう地上に、自分達も戻るべきだろうか。
再びコンフィグ画面を操作しはじめたイチロー(使用したポーションを補填しているらしい)の横で、キリヒト・イェーガーが苦い顔を作った。サブクラスに斥候と射手を持ち、ディテクトゴーグルによって遠距離への攻撃手段を持ったカスタムタイプのキリヒトで、ザ・キリヒツにおける古株の一人だ。
「リーダー、この階層にはまだ、ゾンビレギオンがいるんだろう」
「あぁ、そうか。そいつがいたな……」
キリヒト(リーダー)も暗澹たる表情になる。イチローが顔をあげた。
「ゾンビレギオン?」
「亡魔領に出現するレアMOBだよ。すごい強くてさ。発見情報も少ないから、ロクに検証もされてないんだけど……この階層からは、お供にさっきのスケルトンチャリオッツを引き連れて出てくるようになったみたいなんだ」
あまりの大きさと、全身から放つ悪臭。そして見るものの不快感を煽る醜悪な造形。デザイナーの悪意を凝縮したようなアンデッドモンスターである。この広い迷宮で、いきなりあれと出くわしたときは、思わずこれがゲームであることを失念し、恐慌状態に陥りかけた。結果、戦線が維持できなくなりあの有様だ。
ゾンビレギオン本体は移動速度が低く、その知覚範囲から逃れるのは難しくなかったが、周囲にお供として配置されたスケルトンチャリオッツが厄介だった。ゾンビレギオンの強大さに恐れをなし、背を向けた場合、あの爆走骸骨が背後から強襲をしかけてくる。プレイヤーのHPは、あっさり車輪の露と消えてしまう。立ち向かう場合においても同様だろう。逃げても逃げても追いかけてくる執念深い思考アルゴリズムは容易にトレインを引き起こし、結果として複数のパーティを同時に壊滅させた事例も、すでに発生しているのではないかと思われる。今回はそうならずに済んだわけではあるが、逃げ回る過程ですでに多数の装備アイテムが散乱しているのを見かけた。
「なるほど。あざみ社長も本気だなぁ。グランドクエストを一日でクリアされたら溜まらないだろうし、まぁ、そんなものなのかな」
ツワブキ・イチローがのんきにそんなことを口走る。
地の底から響くような足音が、地響きとなって彼らのもとに届いたのは、そんな折であった。
「そ、そんなに強いモンスターなの?」
アイリスは、オウカオーの鞍の上で思わず震えた声を出してしまう。赤き斜陽の騎士団と、行動を共にして数時間。着実ながらもかなりのハイペースで階層を突破していたそれまでと異なり、攻略の速度はかなりスローリーになっていた。
「えぇ、単純なスペックを見ても、現在発見されている一般MOBの中では、頭がひとつ抜けているんです」
答えたのは、赤き斜陽の騎士団第二分隊長〝聖女〟ティラミス。メインクラスは聖職者。サブクラスには、取得が難しいエクストラクラスである聖騎士を持つプレイヤーの一人である。全身をセレスティアルアーマーで覆った人間の女性であり、優雅で理知的な佇まいからプレイヤー間でも妙な人気があった。ひとたび戦闘ともなれば、第一分隊長である戦士ガスパチョと共に前線を支える。
自他を守護する能力の高い聖騎士でもある彼女は、ダンジョンを進む列の後方においてバックアタックに備える役割を担っている。おそらく中身も女性プレイヤーであることから、アイリス自身も話しかけやすく、こうした珍しい話を次々に教えてくれた。さすがにこの隊列を指示したストロガノフ氏が、そこまで考慮していたとは思えないが。
「ティラミス殿は、そのゾンビレギオンと直接戦ったことが?」
当然、騎士としてアイリスや魔術師達の護衛を務めるキルシュヴァッサーも、その会話に混じる。
「一度だけですね。かなり大きくて……見た目も気持ち悪いですから、かなり怖かったんですよ」
ティラミスは、少し照れくさそうに笑ってみせた。プレイヤー間で妙な人気があると言っていたか。なるほど、これは確かに、そうだろう。いったいどれほどの時間をかけたのか知らないが、キャラクターエディットも絶妙だ。
「言葉遣いもキレイで落ち着いてるし、なんか〝デキる大人の女性〟って感じよねー」
「む、確かにそうですな……」
「キルシュさんどうかした?」
「いえ、別に」
「もしかして、ああいう人が好み?」
「ははは」
このとき話題にのぼっていたのは、デルヴェ亡魔領にときおり出現するという高レベルMOB〝ゾンビレギオン〟についてである。探索ギルド双頭の白蛇からもたらされた情報にもその名前があり、ストロガノフはある程度隊列の変更を行わざるを得なかったというのだから、いったいどれほどのモンスターなのだろう。アイリスがその疑問を素直に口にした結果だ。
「素早さは大したものではないんですけれどね。攻撃に対する耐性値が高く、進路上のグレーターゾンビを吸収してHPを回復するので異様にタフなんです。《澱んだ腐敗臭》持ちなので、こちらはアーツ使用後の硬直時間が延びますし、一体を倒すのにかなり時間がかかるMOBなんですよ」
あまり愉快なお話ではないな、とアイリスは思う。
やはりこのデルヴェ亡魔領のMOBはどうにも気持ち悪い連中ばかりだ。アンデッド系が多いというからには、そんなものなのかもしれないが。以前御曹司が話していた霊森海の深奥部は、なにやら幻想的で楽しそうだとも思っていたのに。ヴィスピアーニャ平原に出現する牧歌的で可愛らしいMOBも好きだが、どうしてこう、見る者の心を癒せるモンスターばかりに設定してくれないのだろうか。
いささかばかり、身勝手な感想だとは知りつつも、アイリスはそんな憤りを抱く。
「以前戦ったときは、私の分隊でも一人やられてしまって……。私の分隊は、それまで死亡による離脱者を出したことは一度も無かったので、かなりショックでした。彼も同じだったみたいで、あとで街に戻ったときはすごい勢いで謝られたんですよ」
ティラミスは、それが誰であるかとまでは言わなかったが、話の途中に何度かこちらを振り向いてくるホビットの魔術師がいて、それが答えと明かしているようなものだった。
「なるほど。トップギルドの中で一番致死率が低いティラミス分隊から死者を出すのなら、まぁ、強敵なんでしょうなぁ」
「そ、そんな取ってつけたような褒め方をしてくれなくても……」
「しかし、さすがにこれだけいれば大丈夫でしょう?」
キルシュヴァッサーが、前方を規則正しく進軍する騎士団の列を眺めそう言うと、ティラミスもくすりと笑って見せた。
「えぇ。取り巻きが増えたと言っても、ゾンビレギオン自体は一体ずつしか出現しませんから」
「ぞ、ゾンビレギオンが……四体もいる……」
キリヒト(リーダー)の声には、絶望の影が落ちていた。このシステムは、人間のかすれた声さえも再現するのか。ゲームにそのような声であると認識させる、人間の感情パターンとはどのようなものなのか。おそらく現実世界での彼の肉体は、その心臓が早鐘を打っているに違いない。
しょせんは虚構の世界であると笑い飛ばすには、その光景はあまりにも醜悪なリアリティを帯びすぎていた。たった数分前、『ゲーム上の命に支払ったお金分の価値なんかない』と叫んでいた自分の姿が遠ざかっていく。あんなものに、磨り潰されてHPをゼロにするなんて、嫌だ。脳が焼き切れそうになるのを実感する。
終末的な光景だ。冒涜的な光景だ。幾重にも折り重なった死体の山が、その自重に身を軋ませながら広い通路を歩いている。身震いと鳥肌。催す吐き気は、決して《澱んだ腐敗臭》だけによるものではないだろう。これは、背徳的な光景だ。
そのゾンビレギオンが、四体。通路を挟むように出現した。片側に一体、もう片側に三体。取り巻きであるスケルトンチャリオッツの姿は見えない。代わりに、グレーターゾンビが雲霞の如くポップアップしつつあった。オブジェのように積み重なったゾンビ達の空虚な瞳が、こちらに向けられる。仮想の肉体であっても呼吸が荒くなり、全身から脂汗がにじみ出た。
「へぇ、あれがゾンビレギオンか」
その声音には、登山中にカモシカを見つけたような、感嘆の色合いがあった。
ツワブキ・イチローである。決してくずおれることのない涼やかな度胸とでも言うのか。この期に及んで、片手をポケットに突っ込んだままの立ち姿に変化はない。
「ツワブキさん、これはまずい。いくらあんたでも、四体同時は無理だ」
「ナンセンス。無理であるかどうかは僕が決める。いや、ゲームである以上、もっと厳格に定められた真実はあるんだろうけれどね。それでも、僕が決めるよ」
地響きと共に迫る四体のゾンビレギオン。ここでイチローがまず考えるのは、ザ・キリヒツの安全であった。成り行き上、イチローは彼らを一度助けてしまった。一度助けてしまったものを、他のMOBにむざむざと倒されてしまったのであれば、それはイチロー自身の敗北とも同義である。
「とりあえず、一体しかいないほうだ」
イチローは言った。
「通路の横幅には余裕があるからね。君たちはそこをすり抜けて向こう側へ走ること」
「ツワブキさんは?」
「逃げたことがないって、言ったろう?」
そう言って、イチローは再び課金剣(いま買った)を装備し、もう片方の手で攻撃魔法の準備を行う。魔法系のアーツにも、武器攻撃アーツにおける『構え』同様、『口呪』による発動強化などが発見されているが、こうした詠唱をひとりでぶつぶつ行うのは、イチローの趣味ではない。
三人のキリヒトは頷き、走り出す準備を整えた。もたもたしていれば、ひっきりなしに湧き出るグレーターゾンビに進路をふさがれてしまう。イチローは、武器を失った彼らに、お守り代わりと課金剣を1本ずつ手渡しておいた。彼らは硬直したが、議論の余地もなしと素直に受け取る。
「じゃあツワブキさん、元気で!」
「いつも元気だけどね」
キリヒト達はいっせいに駆け出す。威力の低い華禁剣とは言え、彼らが進路上の敵に繰り出す剣技は、グレーターゾンビ程度なら軽く屠っていく。危惧していたゾンビレギオンの真横も、無事にすり抜けようとした瞬間、イチローも武器を構えて走り出した。
さすがに、これだけの敵は《ブレイカー》一発で持っていくことはできまい。後方に三体のゾンビレギオンが控えている以上、切り札の使用は避けたいが、追い詰められるよりも先にこの一体をしとめる必要がある。
まずは一発目の《ブレイカー》。1200円分のダメージを正面から叩き込む。《澱んだ腐敗臭》によって下方修正された硬直時間のもどかしさを感じながら、続けて火属性の高位攻撃魔法《ソードオブスルト》を放った。《ゼロ距離魔術》によって威力のハネ上げられた炎の魔剣が、亡者の塊をことごとく焼き去っていく。広い通路が焦熱地獄と化す。
スルトというのは、炎の国を守護する巨人の名前であったか。まさしく名の通り灼熱の世界と化した通路の中央で、イチローが一人ごちる。
しかし、
「うっ、うわああああっ!」
その悲鳴は、彼がザ・キリヒツの生き残りと邂逅したときに聞いたものと、まったく同じであった。視界の端。彼らが逃げた先。イチローは舌打ちこそしなかったが、信じがたい光景に目を細める。
五体目のゾンビレギオンだ。
落ち着いて行動すればなんということはない。ここから見える限り、取り巻きはいないはずだ。通路は相変わらず広いのだし、脇を通り抜ければ済む。だが、この状況でいきなり出現した強大な敵を前に、彼らにそこまで求めるのは酷か。
「はっ!」
炎に巻かれ、もだえ苦しむゾンビレギオンに対して、イチローは素手による《ストラッシュ》を敢行する。発生する硬直時間は《キャストブレイク》で強引に打ち消しながら、2発目の《ソードオブスルト》を放つ。加えて、格闘武器の威力を魔法攻撃ダメージに上乗せする《シャイニングフィンガー》。疲労蓄積度を無視した絶え間ない連撃で、ゾンビレギオンはようやく崩れ落ち、消滅した。
しかし、この状態から走って、間に合うかは五分か。
わずかな硬直時間から、やはり駆け出しが出遅れる。ならば、『あれ』を使ってみるか。イチローがそう思ったときである。
どこからともなく巻き起こった、黒い突風があった。
それは誰かの放った風属性魔法でもなければ、エフェクトの類でもない。ただの比喩表現であり、しかし、そうとしか言い表せないもの。まさしく砲弾のようなえぐりこみが、ゾンビレギオンの最上部をぶち抜いた。死体の山をわずかに散らしながら、バランスを崩すゾンビレギオン。積み上げられた巨体を貫通した突風は、三人のキリヒトの前に突き刺さる。
それは、たった一人の男であった。
各部の急所を覆うポイントアーマーに、加速機能を持った黒いロングコート。携えたかざりっけの無い直剣。そのいずれもが、キリヒト達に似通うが、違う。この男のまとうそれは、創作の模倣などでは決してない。サービス開始当初から、ただひたすらに剣を振るい、強くなろうとした男の最適解。それがただ、創作上の存在である同名のソロプレイヤーと、同一であったというだけのこと。
だが、その姿はまさしく、神話の具現であったことだろう。虚構の存在とまで言われた伝説のゲームチャンプ。最強のソロプレイヤー。その威光は、創作めいてインターネット上に伝わる神話に他ならない。たとえそれが、現実に存在するものであったとしても。
「キリヒト……」
誰のものともないその呟きが、突風のごとく出現したその男のあり方を、はっきりと物語っていた。
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誤字を訂正
×戦闘を走る一体が、
○先頭を走る一体が、




