第一一五話 御曹司、全てに決着をつける
ツワブキコンツェルンの御曹司、石蕗一朗。彼の名を知らぬ者など、世界の上流階級においても存在しない。親の仕事を手伝わず、暇さえあれば仮想空間にドライブして遊んでいる一朗ではあるが、その実彼は脛かじりな道楽息子では決してない。彼の住まいも、生活費も、メイドの給料も、すべて彼自身の稼いだポケットマネーで賄われる。
この二ヶ月の間、シスル・コーポレーションとナローファンタジー・オンライン、そしてそれらにまつわるちょっとした事件の背景には、常に、石蕗一朗の名前があった。彼の一挙手一投足が嵐を巻き起こし、とてつもない数の人間を巻き込んできた。成長した人間もいるだろうし、頭と胃を痛めた人間もいることだろう。バタフライエフェクトというやつを信じるならば、まぁ、不幸になった人間の方が多かったかもしれない。
そんな石蕗一朗がこの日、渋谷の空から降ってきた。暮れかけた夕日よりも素早く、ビルの屋上に降り立ち、あくまでも涼やかな態度で挨拶をする。一同はあまりにも突飛な展開に、ぽかんと口を開けてその光景を受け入れた。直後、口を開けることのはしたなさに気づいた芙蓉めぐみが真っ先に閉じる。
「アイリスもめぐみさんも、よくやってくれたと思う。ありがとう。でも最後くらいは、僕に持って行かせて欲しい」
「そ、そんな……一朗さん……」
完全に照れ照れのデレデレモードに移行する芙蓉を片目に、あいりはため息をついた。最後くらいは、か。やはり御曹司は、ここで全てを終わらせる気であるのだろう。
「つ、石蕗……一朗……」
顔の頬をパンパンに腫らした男が、忌々しげに呻く。馬乗りになっていたあいりが退いてあげることで、ようやく彼も立ち上がることができた。一朗は彼の顔をまじまじと見つめてから、神妙な声で言う。
「むくれたね」
「腫れたんだよ!」
「お金を粗末にするからだよ」
一朗がパチンと指を鳴らすと、上空のヘリコプターから数本の缶コーヒーが投下された。キンキンに冷えたそれを見事にキャッチしてから、一朗は二本ほど男に手渡す。男は冷却されたスチール缶の感触を両頬にあてがいながら、一朗に噛み付いた。こぶとり爺さんみたいだわ、と、あいりは思った。
「カネを粗末に? お前がそれを言うのか? え? 親子揃ってツラの皮が厚いんだな」
「ナンセンス。僕はお金を粗末に使ったことはない。もちろん、僕の主観ではね。でも面の皮の厚さについては、若干認めざるを得ないところはあるかな。それでも父さんよりマシだと思うんだけど」
一朗はひとしきり、たらたらと詭弁を垂れ流す。のちに、こう言った。
「まぁでもそんなことはどうでも良いんだ」
夕日に照らされたまま、缶コーヒーのプルタブを開ける様は、まるで何かのCMを見ているようである。
「いろいろ言いたいことはあるんだけど、この一言に集約されるかな。君の負けだよ」
「ふん」
男は両頬にコーヒー缶をあてがったまま鼻を鳴らした。
「人工知能解体の一件、あれはお前の指示か?」
「いや、あれはシスルのみんなが勝手にやってくれたこと。彼らを侮っていたのは、僕も君も同じだ」
ここで心底嬉しそうな顔をするあたりも、相変わらずだなと感じる。リアルであった石蕗一朗からは、ゲームの中よりも鮮烈な感情の機微を感じ取れる。きっと予想外なことが起きているのが、何よりも嬉しいのだろう。『世界は僕のためにあるわけじゃない。だからこそ世界は面白い』という、彼の昨日の一言を、あいりは思い出す。
だが、完全な勝利宣言には、流石に早いんじゃない? と、あいりは思った。確かにローズマリーは救われ、御曹司の冤罪は無事に証明されるわけだ。が、MiZUNOの株はポニーに買い占められたままで、シスルの面々もポニーの意向に逆らったことでのペナルティは免れられない。
男からしてもそれは同様らしかった。パンパンに腫らした顔でなお、いやらしい笑みを浮かべて言う。
「だが、お前は結局、何も仕掛けてこなかったじゃないかァ。ん? それとも、これから僕を懲らしめる魔法でも見せてくれるっていうのかなァ?」
「そうだよ」
それがなんでもないことであるかのように、一朗は言った。
「君はお金が正義だとか、お金があればなんでもできるとか、結構、愉快なことを言っていたようだけど、」
「あん?」
「まぁ、僕も同意しよう。でもひとつ警告をしておく。それを口にする以上、お金によってなんでもされてしまうという覚悟を持つべきだ。お金は力で、力は裏切る。それをねじ伏せられない限りはね」
一朗がまたも指を鳴らす。それと連動して、眼下に広がる渋谷の街並みに明確な変化が起きた。
ハチ公口正面に広がる四基の大型ビジョンの映像が一斉に切り替わる。それは、スクラブル交差点を行き交う大多数の若者にとっては退屈であろう、株価の変動を示すグラフであった。抜群のサーキュレーションと、鮮烈に響く音・映像のコンビネーションから『瞬間的な渋谷ジャック』とまで言われる大型ビジョンの変化ではあるのだが、彼らは一瞬足を止めただけで、すぐに交差点を行き交うだけの通行人に戻っていく。
「あんた、このビジョン動かすのにいくら出したのよ!」
「これでカネを粗末に使ってないとかよく言ったもんだよ!」
「うふふ、一朗さん。よくやっただなんて……照れちゃいますわ」
「あー、ナンセンスナンセンス。今は僕のターンなんだから」
一朗は話の腰を砕かれかけて、少しだけ眉根にしわを寄せた。
「で、ひとまず話をしよう。これはポニーの株式だ。東証が立会取引を終了する午後3時くらいまではこんなかんじ」
そこには国内外を含めた様々な投資家や、大企業の名前が連なっていた。が、石蕗一朗の名前はない。MiZUNOの名前は全体の1割近くを占め、それなりに目立つ位置にあった。
「で、僕は、立会取引時間の終了後に、君の会社の株を買うことにした。警戒されにくいからね。だいたい28%くらいかな」
「ははは、惜しかったなァ。まぁ、TOBでない以上買付け後の割合が3分の1を超えることは無いんだけどさ……」
大型ビジョンの内容が切り替わるのを見て、男の笑顔が凍りついた。彼の両手から、缶コーヒーがポロリと落ちる。
「うん、公開買付けの公告は明日出すよ。別に裏取引とかしたわけじゃないんだけどさ、彼なら多分、売ってくれると思うんだよね」
グラフの割合は大きく変化を見せていた。全体の3割近く、すなわち28%は確かに石蕗一朗の名前であるが、更に全体の2割近く占める投資家の名前として〝芙蓉瑛恵〟の名前があった。あいりにも、それが芙蓉パパの本名であることは、ひと目でわかる。
「あ、あの……あの……タヌキオヤジ……!」
「自分の悪口を言うのはほどほどにするんだ」
口をぱくぱくさせる男に対して、一朗の態度はあくまでも涼やかだ。
「たしてだいたい50%くらい。他の投資家からも買い取れるだろうから、過半数超えるかな。これでわかったろう。僕の勝ちだ。たとえ、芙蓉社長がどれだけ条件を釣り上げてこようと、僕は君の会社を買い叩く。議決権なんて生ぬるいことを言うつもりはない。君の会社を、買い叩く」
一朗がこれほどまでに攻撃的な言葉を口にするのを、あいりは聞いたことがない。だが、驚いている暇もなく、男は口角泡を飛ばしてきた。一朗は上半身のみの華麗なムーヴでその口角泡を回避する。
「だ、だがまだだ! まだ僕の会社がお前の手に回ったわけじゃない!」
「もちろんそうだ。防衛策を取りたいなら取ると良い。更に株を増やして発行するかい。全部買い取るよ。シスルのみんなにペナルティを課したいなら、まぁ好きにすればいいんじゃない。どうせ僕がリカバリーするけどね」
一朗がぱちんと指を鳴らすと、大型ビジョンの画面がまたも一斉に切り替わる。左から順番に『な』『ん』『せ』『ん』と来て、最後の『す』は上空のヘリコプターから大きな垂れ幕が吊るされることで完成した。
「そう、ナンセンスだ。ポニーも、シスルも、そしてめぐみさんの会社も、全部僕のものだ」
あいりの隣で芙蓉がばたんと倒れる。どうせ今の御曹司の発言から都合のいい部分だけ聞き飛ばして幸せな脳内構文を作り上げたのだろう。
男は膝からがくりと崩れ落ちた。鬼のような形相で髪をかきむしりながら、低いうめき声を漏らす。自身の敗北が許容できないものが見せる特有の仕草である。あいりは若干、この男のことが心配になった。窮鼠猫を噛むという諺がある。窮するのが鼠ではなく、もっと大きな怪物であるならば、土壇場で何を噛み殺すかわかったものではない。
「そうそう、不可解なことがあるんだよね」
しかし御曹司はそんな心配などまったくしていない様子で、そんなことを言った。
「君の行動を見ていると、どうもゲームの中の情報を逐一確認していたように思えてならないんだけど、シスルからポニーにリアルタイムで送信されるゲーム内情報はほとんどないって聞いたよ。どういうことかなって」
「ああ、そのことかァ……」
男は、頭をかきむしる仕草を止め、ふと頭を上げる。
「僕も、ナロファンのプレイヤーだからかなァ。たまにログインして様子を見てたんだよ」
「そうなんだ。知らなかった」
「フフ……。僕は、お前が羨ましかったんだよ……。いろんなプレイヤーに囲まれて、あんなに楽しそうにゲームして……って言ったら、信じる? 許してくれる?」
「ナンセンス」
「だよね」
男は長い間うずくまって腰が痛くなったのか、立ち上がって膝や肘の汚れをはたいた。
しかし、あいりにはまだ解せない部分がある。男の口ぶりからするに、彼はアイリスやイチローの、ごく間近にいたプレイヤーということになるのではないだろうか。そうした人物には、今のところ心当たりがない。近場でこちらを観察していて、かつ、あいりの意識外にいたプレイヤー。そんな人物がいただろうか。
「あんた、どんなアバターだったの?」
「ふん」
あいりがたずねると、男はニヤリと笑って、ジュラルミンケースを投げつけてきた。
「うひゃっ」
「おっと」
あいりにぶつかる前に、一朗がキャッチする。その瞬間をつき、男は懐に手を突っ込んだ。何かを引っ張り出し、構える仕草に、あいりは思わず身をすくめる。だが、それは拳銃でもなければ刃物でもない、単なる一本のロリポップキャンディーだ。ドクロのマークが描かれたその包装を破り捨て、男はそれを舐め回しながらこう叫んだ。
「このキャンディーにはなぁ! 毒が塗ってあるんだぜぇ!!」
男は病院に運ばれた。
成すべきことを成し遂げて、どこか満ち足りた表情をしていた。
「大企業の社長って、ストレス溜まるのかしらね……」
渋谷の街並みに消えていく赤色灯を眺めながら、ぽつりと呟くあいりの言葉は、夏の終わりを告げる夕暮れの風に紛れて、消えていった。
ともあれ決着はついた。男は奇跡的に一命を取り留めたらしいが、彼がキャンディーに塗っていた毒物は、日本では入手が著しく制限されているものであり、どうやら書類送検される運びになるらしい。
事後処理についての問題は山積みだ。シスルがポニー社の意向に逆らって、ゲームと石蕗邸のサーバーを再接続させ、あまつさえ大量のプレイヤーをけしかけたのは事実である。このあたりがマスコミに知られてしまえば、かなり面倒くさい展開になるのは避けられない。ゆえに、一朗は、知人の新聞記者に連絡をとった。ローズマリーの一件も含め、ひとまずシスルに対し好意的な方向へと世論をずらすような記事を作れないかと、頼み込んでみたのである。
以下のような会話が繰り広げられた。
『残念だけど、そのお願いは聞けないわ。石蕗くん。私は公平を旨とする新聞記者なのよ。どちらか一報に肩入れする記事なんか、書けるわけないじゃない』
「正義のためなんだ」
『正義のためなら仕方ないわね! 私に任せておいて! あることないこと書きまくって、徹底的にシスル有利の状況を作り出してあげるわ! ポニーの現経営陣は壊滅するわね!』
どうやら明日以降は、ポニーの現経営陣を如何に無責任な大衆から保護してやるかを考えねばならないらしい。一朗は電話を切りながら、ため息をついた。
「今の、例の探偵社の?」
「うん。染井。正義感の強い新聞記者って、言っただろう?」
あいりの質問に答えると、彼女は何やら難しそうな顔を作ってみせる。
「正義感っつーか……大丈夫なの? あの人」
「どうなんだろう。もし今後、日本が国家滅亡の危機に瀕するとしたら、染井の書いた記事が原因だろうなって、僕も著莪も思ってるんだけど」
だがまぁ染井芳乃の場合は良識が著しく欠如しているだけで、その正義感と記者の実力は本物だ。利害が一致している間はこれほど頼もしい仲間もなかなかなく、その利害はたいてい『正義』のひとことを挟めばなんとかなるので、関係を構築するのはさして難しい話ではない。
「あたしは今、『正義』という言葉の危険性を目の当たりにしているわ……」
「うん、まぁ、そのあたりの哲学はまた今度じっくり話そう。今日はおつかれ。すっかり夜になっちゃったね」
一朗が事後処理のため、各方面に電話をかけているうち、日はとっぷりと暮れてしまった。現状一朗とあいりは、オフィスビルの前で渋谷の雑踏を眺めながら会話をしている。芙蓉に関しては、まだ幸せな眠りから覚める様子を見せていないので、オフィスのソファの上に寝かしつけてきた。
8月も終わりに近づき、急に日の入りの早さを実感するようにはなったが、渋谷のスクランブル交差点を行き交う人々の数に翳りは見えない。四基の大型ビジョンは未だに『なんせん』を映し続けていた。ヘリコプターは帰ってしまったので『す』はない。
「あ、そうだ。これ、あの社長に返しといて」
あいりは、一朗の手にぽんと万冊の束を渡す。
「くれるって言ったんだからもらっておいても良いんじゃないの」
「あのねー。おカネっていうのはねー。汗水たらして手に入れるから尊いのー。まぁぶっちゃけ欲しいんだけどそれ。オフ会のおかげで、秋の新作も手が出せそうにないし……芙蓉さんにTGC連れてってもらうし、あー、そのおカネもらっとけばよかったって絶対後悔する日が来るのはわかりきってんだけど……まぁ、ねぇ?」
「なるほど。じゃあ返しておこう」
彼女の決意がにぶらないうちに、一朗は札束を懐にしまい込む。あいりは少し表情を変え、何かを言おうとし、それを飲み込んで、首を横に振り、最後の自身の両頬を軽くビンタしてから頷いた。どうやら誘惑には打ち勝った様子である。
その後、一朗とあいりは、彼がヘリコプターで持ってきた缶コーヒーを飲みながら、渋谷の雑踏を眺めていた。この缶コーヒーは、一朗がポニーの株式を買う際、大手飲料メーカーからもらった来月発売予定の新作である。試飲してみたところ割と気に入ったのでそのまま買ってきてしまった。
どれだけの時間が立っただろうか。せわしなく歩く人影の中で、一朗とあいりだけがじっとしている。まるで、時の流れに取り残されたような錯覚があった。
不意に、あいりが声をあげる。
「あんた、ナロファンやめんの?」
「ん、」
一朗は、あいりへ振り向いた。彼女は缶コーヒーを手にしたまま、こちらを見ようとはしていない。宵闇に溶け出しそうな彼女の横顔から視線を外して、一朗は答えた。
「やめるよ」
「そうなんだ」
ポニー社を買い取るということは、ナローファンタジー・オンラインの運営母体の長となる、ということである。一朗にとって、あのアスガルドの大地は、自分以外の誰かのものではなくなってしまう。自分のための世界など、一朗は望んでいない。ナンセンスだ。ゆえに、ゲームをやめる。決めていたし、覚悟していたことだ。
しばらくの沈黙ののちに、あいりはこう続けた。
「仕方ないわね」
「うん、仕方ないね」
「別に、会えなくなるわけじゃないしね」
「そうだね、会おうと思えばいつでも会えるよ」
あいりがどのような言葉を言わんとしているのか、一朗にどういった言葉を求めているのか。
それがわからぬような石蕗一朗ではない。だが、一朗がその言葉を発することは決してない。あいりもそれはわかっているはずだ。この土壇場で、自分という人間を曲げてまで優しくなれるように、一朗はできていない。
結局、あいりは、最後までその嘆願を発することはなかった。
「帰るわ」
存外にさっぱりした声で、彼女は言う。
「帰り道には気をつけてね」
「んなこと言われなくてもわかって……あー、そうだ」
「ん?」
あいりが思い出したように声をあげたので、一朗も首を傾げた。
「昨日から言おうと思ってて、ずーっと忘れてたことがあんのよ」
「へぇ」
「それ」
と、あいりは、一朗の胸元を指差した。
そこには、彼が外出時、決して忘れずにつけていた装飾品がある。不格好な金網細工の、蝶のブローチ。青と黄色のコントラストが美しい翅を誇らしげに広げ、蝶は一朗の胸元でじっとしていた。あいりはにこりとも笑わずに、こう言った。
「ちょっと嬉しかった」
「ん、」
「そんだけ。じゃーね」
あいりはその一言を最後にきびすを返し、雑踏の中へと走り抜けていく。一朗は制止しようとはしなかったし、おそらくそれを、あいり自身も望んでいなかっただろうと思った。胸元に輝く蝶のブローチを今一度見やり、缶コーヒーを飲み干してから、夜空を見上げる。あのアスガルドの大地とは違って、東京の夜空は、星が少ない。
一朗は携帯電話を取り出して、電話をかけた。
「ああ、もしもし。桜子さん。うん、全部終わった。今から、帰るよ」
最終話は明日朝7時に掲載予定。




