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VRMMOをカネの力で無双する  作者: 鰤/牙
『ローズマリー』編
116/118

第一一四話 御曹司、降り注ぐ

 株式会社MiZUNOのオフィスはそう広いものではなく、従業員も数えるほどいなかった。ただ揃えられた調度品の類はセンスがよく、開放感のある作りがいかにも芙蓉めぐみらしい。あいりは、どうにも自分が場違いな存在に思えてならず、借りてきた猫のように小さくなって、出されたコーヒーを飲んでいた。

 御曹司との付き合いでだいぶふてぶてしくなったつもりではあったが、こうした遠慮を未だに残しているのは、喜ぶべきことなのか、そうではないのか。とにかく、オフィスの中心で営業担当や経理担当と真剣に議論をかわす芙蓉の姿を、頼もしく思ったものだ。


 これが、3時間ほど前の話。


 芙蓉が、ポニーの株を買いに動くと明言したときは驚いた。確かに、御曹司ならそうするだろうとは思っていたし、あいりがさる理由から、石蕗一朗にそれをさせたくなかったのも事実である。芙蓉が『あいりが一朗にさせたくないことを自分がやる』と言っていた以上、当然の展開ではあったのだが、それでもやはり、驚いた。

 MiZUNOには社員食堂のような豪勢なものはなく、その代わり昼食は出前を取るらしい。こちらの食費は福利厚生費に入っているそうで、たいそうホワイトな企業であることだ。あいりにも是非どうぞと手渡された出前のメニュー表には目眩のするような値段が羅列していて、ひとまず一番安いものをお願いした。


 これが、2時間ほど前の話。


 ローズマリーのことを考えれば、既にかなりの時間が経過してしまっている。内心、強い焦りのようなものが、あいりにはあった。芙蓉も同じであるらしい。株式の買収などという、悠長なことをやっている余裕が、果たしてあるのかどうか。だが、ローズマリーだけではなく石蕗一朗を守ることを考えれば、やはりポニーに対して強権を行使する必要がある。

 出前で届けられた2000円のランチも喉を通らなかったその頃、あざみ社長からあいりに対して連絡があった。まず、先ほどこちらからの連絡に応じられなかった件に対する謝罪と、現在ローズマリーの置かれている状況の確認、そして、ローズマリーの救出作戦を実行しているという旨。あいりはほっと胸をなでおろす反面、それが、ポニー社の意向に歯向かうものでないのかという疑問を浮かべた。芙蓉にそれを伝えると、彼女も『だったら、シスルの皆さんも守って差し上げなくてはなりませんわね』と応じたのである。MiZUNOだけではなく、芙蓉めぐみのポケットマネーからも多額のカネが出資され、ポニー社の株式の4%がこちらの手に渡っていた。


 これが、1時間ほど前の話。


 そして、現在。


「そ、そんなっ……!」


 あれほど自信に溢れていた芙蓉めぐみの表情が、驚愕と絶望に染まっていた。


「やられた……!」

「そんな……!」


 営業担当や経理担当の事務員も同様であった。あいりには、何が起きたのかわからない。だが、事態が非常にまずい方向へ推移しているということだけは、嫌でもわかってしまった。カラになった出前の食器をひとまとめにしてオフィス前に出してきてから、あいりは芙蓉たちに駆け寄る。


「な、何が起きたの……?」

「パックマン・ディフェンスですよ」


 経理を担当する薄縁メガネのイケメンが、難しい顔で答えた。


「全然わかんないからもっとわかりやすく」

「………」


 あいりの発言に対して、イケメンメガネは露骨に嫌そうな顔をする。


「要するに、ポニーがうちの株を買い取ったんです。典型的な防衛策のひとつですね。敵対買収は公開買付けが必須ですから、こうした防衛策が取られやすいんです」


 営業担当のふんわり女子が丁寧に説明した。


「でも、あれだけ大きな企業の意思決定がこんなに早いなんて……」

「あらかじめ買収に対する防衛策を用意していたとしか思えない」

「あ、ありえませんわ……!」


 芙蓉は狼狽を隠すこともなくつぶやく。イケメンメガネも頷いた。


「えぇ、ポニー社が株を買い取ったということは、売った誰かがいるということです」

「でも、だって、本来MiZUNOの株式を保有しているのは……」


 杜若あいりは目ざとい。この時の芙蓉めぐみの動揺が、単にポニーによって株を買収されたという理由によるものだけでないことを読み取った。彼女の狼狽は、どちらかといえば信じていた人間に後ろから刺された時のそれである。いったい、株式が誰によって売られ誰の手に渡ったのか、あいりも頭を働かせればわかったはずだが、彼女の本能がその思考を放棄した。あまり、考えたいことではなかったのだ。


 あいりは、カバンの中から公民の参考書を取り出す。二学期からカリキュラムに加わるのでさっき買ってきたものだ。

 参考書によれば、全体の3分の1以上の株式を保有していれば、株主総会において絶大な発言権を得ることができる。既にポニー社は、MiZUNOの株価の38%近くを買収するに至っていた。ここまでくると、完敗に近い。


「あ、あのう、社長……」


 電話などの取次対応を行う、引っ込み思案そうな女子職員が、おずおずと声をあげた。芙蓉は、顔を青くしながらも振り返った。言葉を発する気力すら失われかけているようで、無言により続きを促す。女子職員は視線を少しさまよわせたのちに、こう言った。


「お客様です。ポニー・エンタテイメントの、CEOの、」


 もう来たのか。芙蓉は、その顔を一瞬更に青くしたが、すぐに表情を引き締めた。


「わかりましたわ。応接室で、待っていただいて」


 いささか震えてはいたものの、凛とした声音である。芙蓉はそのままあいりに向き直り、こともあろうにこう告げたのであった。


「いきますわよ、あいりさん」

「えっ、あたしも?」





 その男は、敵地に乗り込んできた割には飄々とし、お付きらしき人間はひとりも連れていなかった。曰く、運転手の運転する車でここまで来たとは言うのだが、応接室にいるのはその男ひとりだけだ。歳の頃は、もう50代も半ばであろうか。やや小柄ではあるが体型は引き締まっており、白髪染めもしているのか、顔に刻まれた皺に比して佇まいは若々しい。

 ただし、海千山千の猛者を相手にしてきたであろうその男は、笑顔とも真顔ともつかぬ不気味な表情を浮かべ、ソファに腰掛けていた。この雰囲気は、芙蓉めぐみの父親、芙蓉パパによく似ている。同じカネ持ちであり、企業経営者であるはずの一朗や芙蓉、あざみ社長などには、見られなかったものだ。経済界を生き抜いてきた者特有のオーラとでも言うのだろうか。


「いやァ、いいオフィスだ。女の子的って、言うのかなァ」


 ふてぶてしい姿勢のまま天井を見上げ、男が言った。小馬鹿にしたような言い方だった。


「ファッションブランドですもの。そういったところにも気を使いますわ」


 芙蓉めぐみは、鉄面皮の笑顔で応じる。


「改めてご挨拶を申し上げますわね。わたくし、株式会社MiZUNO代表取締役社長の、芙蓉めぐみと申します」


 普通ならここで名刺交換のひとつでもするのだろうが、芙蓉が懐に手を伸ばす気配は一向にない。ひとまずは形式上の挨拶だけで、相手と仲良くする気持ちが微塵もないことを、隠そうとすらしていなかった。


「こちらは、お友達の杜若あいりさん」

「えっ、あっ、どーも」

「君、大事な商談の場に友達を同席させるの?」

「あら、わたくしは、大事だとも商談だとも思っていませんわ」


 既に株式の4割近くを保有している相手に対して、かなり強気の姿勢と言えるだろう。あいりは柄にもなくハラハラした。芙蓉の態度を心配しているのではない。杜若あいりは、既にこれが虚勢であることを見抜いていた。芙蓉めぐみは張子の虎だ。

 人生経験17年のあいりですら気づいたのだから、目の前にいる男が、それを察していないはずは、ないだろう。


「まァー……良いか。さて、どこから話したもんかな。君たちもやってくれたねぇー。石蕗が買収を仕掛けてくるのは考えてたんだけどさ、まさか君たちがねぇー。意外な展開だったけど、まぁ石蕗の方は結局何もしてこなかったし。それなりに楽しかったよ」

「………」


 芙蓉の表情が、急に険しいものになる。未だに、目の前にいる男、正確には彼が支配する会社が、自社の株価の4割近くを保有しているとは信じられない様子だ。

 ゆえに、このようなことを口走ってしまう。


「MiZUNOの発行している、株式は……」

「あァー。そうだね。知ってるよ」


 ゆえに、このようなことを言わせてしまう。


「3割が君自身、4割が角紅商事で、1割が君のお父さんだったかな。実質全体の半分近くが、君のお父さんとその会社が保有していた。まァー。グループ企業だからね。当然ではある。つまりだ」


 男は意地の悪い笑顔を浮かべた。


「君の会社の株は、君のお父さんが売ってくれたよ」

「そんなッ!」


 芙蓉は叫びながら立ち上がる。


「そ、そんなはずはありませんわ! だって、だってお父様は!」

「いやァー。会社を玩具扱いしたペナルティーかなァー。いいお父さんじゃないかァ。まー、こっちの買取額もかなり色をつけたから、そっちに目もくらんだ可能性もなくはないなァー」


 男はその一言一言に奇妙な抑揚をつけていた。目を見開き、汗を浮かべ、首を横に振る芙蓉の反応を楽しみ、いたぶっているかのような態度だ。己の嗜虐心を充足させるような物言い。ずいぶん、下品で、趣味の悪い話ではないか。


 気実のところ、芙蓉めぐみの父親である……えぇと、あいりは名前を知らないが。とにかく、芙蓉パパが何を思ったかはさだかではない。彼の意思、ないしは指示によって、多額のマネーと引き換えに株式がポニー社へ渡ったのは事実なのだ。結果として、MiZUNOは今、ポニー社の賛同なくしてはろくに経営活動が行えない状況にある。


 気に入らないわ。

 あいりは思った。何が、という部分を、具体的に言語化するのは極めて難しい。だが、あいりは思った。この男は気に入らない。


「あんた、なんだってそんな、御曹司を目の敵にしているわけ」


 かぶっていた猫は、気がついたらかなぐり捨てていた。


「うん?」


 男は、まさかこちらの小娘からそんな言葉が出てくるとは思わなかったのか、目を丸くして応じる。


「僕が石蕗を、目の敵にしている?」

「そうでしょ。さっきも御曹司の買収されることを気にしてたみたいだけどさ、よーするに意識しまくってるってことじゃないの。その様子だと、御曹司が逮捕されたのが冤罪なのも知ってるんでしょ。ローズマリーさんがピンチなのも、あんたの指示?」

「口の悪い子供は、僕は嫌いだなァ」

「それはとても嬉しいわ」

「あ、あいりさん……」


 今度は、どうやら芙蓉がハラハラする番であるらしかった。だが心配は無用である。杜若あいりは、ユニット:芙蓉めぐみが場にいることであらゆる精神攻撃をシャットアウトする特殊効果を発動できる。いわば無敵だ。少なくとも、芙蓉さんのような張子の虎ではないわ、と言おうとして慌てて口を閉じた。まずいまずい。攻撃力が上がりすぎて迂闊なことを口走れない。


「で、どうなの?」


 あいりは攻撃の手を緩めず、かつ慎重に追及する。男は眉根をぴくりと動かして、天井を見上げた。


「ンー、まァ、理由はいろいろあるなァ。僕は石蕗の親とそれなりに因縁があってねぇ。それをここで語る気はないんだが。聞いてもつまらないだろうし。最初のきっかけはそれだ。もともと連中は目の上のタンコブだったんだが、そこにほら、不正アクセスの犯人が、石蕗一朗じゃないか、って流れになったんだよ。喜ぶだろ? 僕もさァ、まさかとは思ったんだけどさァ、その時は、君の言う人工知能がまだ無事ってことも知らなかったからさァ。条件的に、間違いなく石蕗一朗が犯人だってなったから、喜んで警察に通報したんだよ。知り合いもいるしさァ」


 そう言って、男はジュラルミンケースを机の上にのせて、ぱかっと開けた。中に何が入っているのかと思えば、そこには一面のロリポップキャンディーが敷き詰められている。男はその中のひとつを取り出して、包装を破ると、口にくわえた。


「君も一本いる?」

「じゃあもらうわ」

「あ、あいりさん……」


 カネ持ちの舐めている飴なのでさぞや高級なものだろうと思ったが、どこのコンビニでも売っているような安っぽい奴だった。それはそれとして、あいりの好きなフレーバーなのでありがたく頂戴する。


「で? でも実際、御曹司は冤罪だったんでしょ?」

「そうだよ。でもそれじゃつまらないじゃん。せっかく逮捕してもらったのに。それにさ、自我を持った人工知能が生きていると、いろいろこう、迷惑を被る連中もいるわけさ。法律も変えなきゃいけないし。体制の変わり目っていうのは、ビジネスにおいても結構重要な分岐点なんだよね。人工知能が裁判の矢面になって、法整備の動きが目立って、その重要な分岐点を勝手に作られちゃ困るって連中だよ。僕はそういった奴らとも友達だからさ。まァー、消しておこうかなって。理由としてはそんな感じになるのかなァ」


 ラスボスっていうのは、どうしてこんなに、自分の目的をペラペラ喋ってくれるのかしら。楽っちゃ楽で、良いんだけど。と、あいりは思った。


「でももう躍起になる必要はなさそうだなァ。そろそろ、人工知能の解体も終わるんじゃない?」

「それ失敗したらしいわよ」

「なに?」

「あっ……」


 どうやら失言であったらしいと気づいたのは、男の表情と雰囲気があからさまに変化したからだ。男は怒気こそにじませなかったが、それまでまとっていた、飄々とした空気には明らかな変化があった。どこか張り詰めて、今にも破裂しそうなイメージ。その緊迫感は、男の持つ重厚な存在感と相まって、あいり達を押しつぶそうとする。杜若あいりは、懸命に耐えた。芙蓉めぐみはほぼ負けていた。彼女にはバッドステータス:絶望が付与されている状況なので、責める気にはなれない。

 男は詳細を追及してきたらどうしようかとも思ったが、その様子はなかった。だが、彼が一言発した台詞だけで、既に状況を理解したのだと察するには充分すぎる。


「なるほどなァ……。彼らにもペナルティがいるなァ……」


 男は、にんまりと笑って天井を見た。


「空気が悪くなったなァ……。場所を、変えようじゃないか」


 その言葉には、有無を言わせぬ何かがある。杜若あいりも、芙蓉めぐみも、その時ばかりは首を横に振ることは、できなかった。






 夏の終わりに日が傾く。オフィスビルの屋上から眺める渋谷の町並みが、オレンジ色に染まっていた。まさか怒りに任せてここから突き落とすつもりじゃないでしょうね、と思いつつ、結局は、あいりは唯々諾々とついてきてしまった。

 男は、口の中でキャンディーを噛み潰すと、まだ僅かにキャンディーのこびりついた棒を、プッと床に吐き捨てる。口内でジャリジャリとした音を立てながら、男は夕暮れを眺めていた。


「結局、僕も出し抜かれたってことかァ。ちょっとだけ腹が立つなァ……」

「なんでもかんでも自分の思い通りにしようとするからよ。おカネばっかに頼ったりして」


 あいりはかろうじて憎まれ口を叩くことに成功したが、いつものような威勢はない。男はにんまりと笑った。


「へぇ、君が言うんだなァ。そんなこと」

「ど、どういう意味よ」

「言ったとおりの意味だけど。いや、実は君のことは知ってるよ。ナロファンのプレイヤーだろ? 確か、アイリスって言ったかなァ」


 どきりとした。ポニーは今やナロファンの運営母体である。情報として知っていても不思議ではないが、それでもやはり、数万のプレイヤーの中からピンポイントでアイリスの名前を出す男に対して、何やら不気味な違和感を覚える。

 だが、男はそこで黙らなかった。


「君の言う通り、僕はカネの力でなんでも思い通りにしようとしてきたよ。でもなァ、それが、何が違うって言うんだ。同じだろう、石蕗一朗や、それに、君ともさ」


 自分は今、ブーメランを投げていたのだ。気づいたときにはもう遅い。投げた刃は見事に旋回して、あいりの目前にまで迫っている。彼女の舌先から繰り出される言葉の鋭さが、そのままあいりに突き刺さる。


「ちっ、違うわ……。あんたなんかとは」

「違わない違わない。まァ考えてもみるんだ。石蕗一朗は、まァいいか。君だよ。アイリスブランドだって、結局はあの男の資本を元に成り立っているもんじゃァないか」

「待ってください、あいりさんは……!」

「待たない待たない。感情論で何を言っても無駄だよ。芙蓉くん、君もさァ。どうせアイリスくんに頼られて、力になろうとしたんだろう。素晴らしい友情だよ。でもなァ。その力って、結局、なんだった? カネだろ? カネで僕の会社を買収しようとしたんだろ? ほらね、アイリスくんが君に対して求めたのは、カネの力だったってわけさ」


 燃え上がるような夕日が、男のいやらしい笑顔を赤く染める。あいりも芙蓉も、その言葉の前に今や、なすすべもない。


「いくらご高説を垂れたところで、結局、君もわかってるんだろう。この世はカネだよ。カネが正義であり唯一のルール。カネがすべてを動かすんだ。カネは人の心だって、簡単に変えちゃうし、簡単に買えちゃうんだ。今から実践してみようか」


 男は、再びジュラルミンケースを開けた。ロリポップキャンディーばかりが入っていると思われたそのケースだが、男が手を突っ込むと、中から分厚い札束が姿を見せる。1センチほどはあるだろうか。全て万札である。これが一体どれほどの金額になるのか、あいりには検討もつかない。

 男は、こともあろうにそれを、無造作に床に向けて投げ捨てたのだ。


「アイリスくん、それを持ってさっさと帰りたまえ。君はまァ、ちょっと口は悪いが、罪のない女の子だ。見逃してあげよう。それで美味いものを食べればいいし、綺麗な服でも買えばいい」


 男の言うことは、すべて真実だった。あいりは、ふらふらと札束に向かって歩き出す。


「あ、あいりさん……! いけませんわ! お、おカネよりも素晴らしいものがあるって、あいりさんならご存知のはずです!」


 背後で芙蓉が叫んでいる。だが、あいりの足は止まらない。

 アイリスブランドは、御曹司のカネがなければ成り立たないギルドだ。御曹司はいつでもアイリスのプライドを守ってくれたが、それは結局、カネの力によってだった。先週のイベントで、あの強大なボスモンスターを倒すことができたのだって、結局は、御曹司のカネの力だ。今回だってそうである。あいりは、自分ひとりではどうしようもできないから、芙蓉に助けを求めた。芙蓉の持つカネの力を、頼りにしていたのだ。

 カネが人心を容易に変質せしめるのも、あいりは目の前で見てきた。男の言うことは、すべて正しい。


「結局、あんたの言う通りだわ……。何もかも」


 あいりは、床に落ちた札束を拾い上げて、その埃を払った。


「フッ、そうだろう。そうとわかったら、さっさとおうちに……」

「でもだからって、おカネを粗末にしちゃあダメでしょうがあァァァ――――ッ!!」

「ぶべらッ!!」


 あいりの腕が大きくしなる。1センチにも及ぶ札束が、油断していた男の頬をひっぱたいた! すごく良い音がした。


「あいりさん!?」

「あああああ、あんたが投げ捨てたこのおカネ! あたしが今までにもらったお年玉の累計より多いってこと、あんたわかってんの!? あんたわかってんの!? ねぇ、わかってんの!? あんたはね、今、あたしの17年よりも分厚い1センチをね、投げ捨てたのよ! それもポンと! ゴミでも投げ捨てるかのように! だいたいね、あんたがいくらご高説を垂れたところでね、あんたがウジムシのクソにも劣るゴミカス野郎だっていうのは変わんないじゃないの! そんな奴に屈したら、あたしだって地獄のお爺ちゃんに合わせる顔がないつってんのよ!!」

「あいりさんのお爺さまは地獄に行かれるようなことを!?」


 そう言いながらも、あいりは札束ビンタをやめようとはしない。ただひたすらに、倒れ込んだ男に馬乗りになって、1センチの札束で男の頬を叩き続ける。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。この世の理不尽、不条理、あらゆるものをカネで解決しようとする悪習を憎む、義憤の涙であった。


「あんた、カネが正義だって言ったわね! これがッ! これがッ! これが正義!? より高いおカネで買い叩かれればあんたは満足なの!? こんなものがッ……! こんなものが正義であってたまるかッ!!」


 あいりもきっと、本心ではわかっているのだ。男の言葉に潜む、この資本主義社会の残酷なる現実に。だが見よ、この勇姿を。沈む日に身を焦がしながらも、自分が一生かかっても稼ぎきれるかわからないカネを、秒単位で動かす男に対し、1センチの札束で立ち向かう少女の姿を。これぞまさしく、現代に生きるドン・キホーテ。かつてアダム・スミスが提唱した〝神に見えざる手〟に対し深く突き立てられた、反逆の嚆矢である。少女は今、懸命に戦っているのだ。


 そして、その少女の行いを賞賛する、ある男の声が、その戦場へと響いた。


『アイリス。君の行いには、いつも本当に驚かされる』

「こっ……この声は……ッ!」


 あいりに散々札束ビンタをくらい、頬を真っ赤にした男が、呻くように呟いた。

 一同の耳に、空気を切り裂くローターの音が届く。見上げれば、ビルより上空に浮かぶ一影を確認できた。渋谷の夕焼けを旋回するその影を見るにつけ、男、芙蓉、そしてあいりが立て続けに声をあげる。


「鳥か!?」

「飛行機ですの!?」

「いや、ヘリコプターでしょ」


 信じられないことは、その直後に起きた。

 ヘリコプターから身を乗り出していたひとりの男が、平然と宙に身を投じたのである。芙蓉は息を飲み、あいりは呆れた。上空からの自由落下である。空気抵抗を全身に受け止めながらなお、涼やかな態度を崩さない彼に対して、万有引力が導き出した結論とは。


 すたっ、と軽やかな音をあげて、彼は着地した。そしてこの一言である。


「やぁ、僕だ」


 こいつブレないわね、というのが、杜若あいりの正直な感想だった。

明日は土曜日だけど更新します。

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