第一一一話 御曹司、出し抜かれる
力を貸して欲しいとは言ったものの、芙蓉はいったいどのような手を打つつもりなのか。国道から都心に入った芙蓉の車は、まず一直線に千代田区・神田神保町を目指した。言うまでもなく、シスル本社へ乗り込む為である。あいりは、御曹司の家へ直接向かうことも考えたが、あのマンションのセキュリティが如何に堅牢であるかは教えられている。正直なところ、一朗が家に帰っているならばこのような事故には発展し得ないし、キルシュヴァッサーがログアウトできていないのであれば、インターホンを押しても出てくる者はいない。徒労に終わる可能性の方が高かった。
とは言え、一刻を争うのも事実だ。人工知能のような大型ソフトウェアのプログラムを、遠隔で解体するのにどれほどの時間を要するのか、あいりも芙蓉も知らない。解体がはじまってから、接続を遮断されるまでの十数秒の間、致命的な変化が起きた様子はなかった。作業人数にもよるだろうが、1時間や2時間で終わるものでもないだろう、と、あたりをつける。ひとまず、直接の運営体であるシスル本社の方に乗り込んで、事情を説明するしかない。事情をしれば、あのあざみ社長が何かしらの行動をしてくれるはずだ。なにしろ、ローズマリーの生みの親である。
が、道中、あざみ社長に連絡をつけようとしてもつながる気配がない。それはシスル本社に関しても同様であった。単に忙しいとも見て取れるが、現状が現状である。芙蓉とあいりは、妙な不安に駆られることとなった。現在、シスルは完全にポニー・エンタテイメントの子会社となっている。上から、何かしらの圧力がかけられている可能性は、否定できないわけで。
その折、芙蓉は急にハンドルを切った。あいりは助手席のウィンドウに頭をぶつける。
「あいた」
「ごめんなさい、あいりさん。でも、急ぎますわ。目的地を変えます」
「え?」
ぶつけた箇所をなでながら、あいりは首を傾げた。
「ローズマリーさんを消そうとしている方がどなたかは存じませんけど……察しはつきますでしょう?」
正面を見据えながら、芙蓉は真剣な眼差しで言う。
「え、えっと……」
「ポニーの社長は、一朗さんのお父様と仲が悪いんですの。それだけで、今回の件に発展したとは思えませんけれど、ローズマリーさんが消えることによって、最終的に得をするのはどんな方か。その上で、ローズマリーさんに直接手を出せるような方は、どれだけいるか、というお話ですわ」
「お、おぉ……なるほど」
なんだか、芙蓉さんがいつもと違うわ、と、あいりは思った。言うなれば、そう、ギルドスポンサー事件の際に見た彼女の面影が想起される。あの、強大なライバル臭をバリバリ漂わせていたカリスマデザイナー・芙蓉めぐみの顔であった。ちょっと人の良いポンコツアラサーお嬢様・芙蓉めぐみさんの顔ではない。
芙蓉だって、日本経済界の重鎮を実父に持つ超お嬢様であって、よくよく考えればあの御曹司とほぼ同条件の家庭に生を受けているわけだ。いつまでも親のすねを齧らず、自身の才能でばっちり食い扶持を稼ぐあたりも同じである。
「で、芙蓉さん、どこに行くの?」
理解した上で物怖じしないのは、もう感覚が麻痺しているからかもしれなかった。
「渋谷です。MiZUNOの本社へ向かいますわ」
芙蓉も、ひとつの覚悟を決めた顔で、このようなことを言った。
「あいりさんが、一朗さんにさせたくないことを、わたくしがするんです」
「江戸川さん、これは……」
突きつけられた携帯電話を手にとって、あざみ社長は震えた声を出した。
それは一通のメール。差出人は、石蕗一朗である。彼が無言で頷くのを見て、メールを開く。そこには、今、何が起きているのかが、一朗の憶測を交えて語られていた。ポニー社社長との口論で昂ぶった感情が、スーッと変質していくのを感じる。
「野々社長の方にはメール来てませんか。自分の方にだけ送られてきたみたいですね」
江戸川が忌々しげな声でつぶやくのも、あざみの耳には届かない。
ローズマリーが、消される。端的に言えば、メールの内容とはそのようなものであった。既に、ポニーの社長からかけられてきた電話は切れている。彼が言っていた言葉を思い出した。アカウントハック事件を起こした人工知能ローズマリー、彼女を単なるプログラムとして初期化処理を施したと、虚偽の申告を行ったのはあざみ自身だ。
あざみは、たとえ犯罪をおかしたものであったとしても、自我を獲得したローズマリーには、なんとかして〝生きて〟いて欲しかった。研究者としての好奇心と言えばそうだし、単なる親心と言えば、それもそうだ。
だが今や、その願いも脅かされつつある。ローズマリーが消される。あざみは、その事実を直視できない。
思い立ったように彼女はパソコンに向かい、凄まじい勢いでキーボードをタイプしはじめた。オフィスが異様な空気に包まれる。様々な感情の入り混じった視線が、あざみに注がれたが、彼女はその意味を吟味する余裕すら持てなかった。ローズマリーを助けなければ、と、思う。
「野々社長!」
あざみの腕を掴んだのは、江戸川であった。
「な、何を! 放してください!」
「野々社長、しっかりしてください。あなたが何をやろうとしているのかはわかりますよ。アクセス経路の遮断でしょう。石蕗サンからのメール、ちゃんと見ましたか」
江戸川は、普段の気だるげな語り口とは打ってかわった早口で、饒舌にそう告げた。しかし彼も声の震えに滲む感情を、隠しきれてはいない。
一朗から送られてきたメールには、更にこのようにあった。
ローズマリーを遠隔解体するために、ポニー社が使用しているアクセス経路の話である。ローズマリーが十賢者に仕込んだバックドアプログラムを介することで、現在、シスル本社と石蕗邸は、両者間におけるネットワークセキュリティが、極めて脆弱な状態で通信が行われている。侵入が容易であるのだ。ここの特定と修復には時間を要したし、じゃあ穴を塞ぐかという段階になって、先ほどの電話があった。
ローズマリーの遠隔解体には、このバックドアプログラムが使用されている。修復さえ終われば、解体作業を中断させることは可能だ。だがそれは根本的な解決にはならない。ローズマリーが侵入している以上、石蕗邸のネットワークセキュリティが万全とは言い難く、手段さえ選ばなければいくらでも干渉できてしまうのだ。
ここであざみ社長が、ポニー社の意向の反した行動をとっても、ローズマリーを救うことにはならない。余計なリスクを背負うだけである。ローズマリーの解体作業を中断ではなく、中止させるには、もっと根本的な回線の遮断が必要になる。
「そんなこと、私にできるわけありません!」
「えぇ、まぁ、野々社長ひとりでは、できないと思います」
江戸川は、やや言いにくそうに、あるいは、口にするのもはばかるように、そう言った。
「良いですか、野々社長。出向社員である自分がこんなことを言うのは出すぎてますが、」
この時、江戸川の声の震えが、単なる怒りや憤りから来るだけのものでないと、誰かが気づけたであろうか。
「石蕗サンは、こうしたメールを送ってきた以上、彼一人でなんとかできる策を持っているんでしょう。多分、放っておいてもローズマリーは助けられます。でも、自分は、そういうのはイヤです。自分は彼が嫌いなんです」
何を言っているんだろう。この状況で。あざみは、僅かに表情に苛立ちをにじませた。だが、次の言葉を言われてしまっては、彼女も頷かざるを得ない。
「社長だって、あの男がローズマリーを助けるところを、指をくわえて見てるだけなんて、イヤでしょう」
「そ、それは……」
やや消極的な肯定を口にしようとし、あざみはかぶりを振った。違う、私が言うべき言葉は、そうじゃない。
「江戸川さん、何か策が……あるんでしょうか……?」
「ありますよ。こんな手段、本当は使いたくないんですけどね」
こんな状況にあって、少しだけ楽しそうに語る彼の目は、うだつの上がらない中小企業のシステムエンジニア・江戸川土門のものではなく、かつてアキハバラ鍛造組でナンバーツーまでに上り詰めたマシンナーの鍛冶師エドワードのものである。
エドワードは、自信をにじませながらこう言った。
「あのいけ好かない男を出し抜いてやりますよ。どうせ、これが最後のチャンスでしょうしね」
「おや、ログインできた」
強制的な回線遮断から、二時間も経過していない頃である。なかなか素早い対応だな、と、マツナガは思った。隠しフィールドに潜入したことで、運営から何かしらの警告や、ペナルティがあるかと思ったが、そんな様子もない。運営としては隠しフィールドの存在は最初からなかったことにしたいのだろうし、ペナルティはフィールドの存在を認めることになるだろうから、そんなものかもしれない。
マツナガがログインすると、そこは武闘都市デルヴェの片隅であった。例の〝穴〟から、隠しフィールドへ飛ぶ直前の場所だ。既にマツナガ以外の数人もログインして、周囲を見渡したり、あからさまな落胆を浮かべていたりする。
「よう、マツナガ」
ストロガノフを筆頭とした騎士団の五人も既にいた。マツナガも軽く手を上げて挨拶を返す。
「やぁ、ストロガノフ」
「どういうことだ」
「どういうことだろうね。まぁ、フィールドとの接続を遮断した以上、アバターの位置情報にエラーが出るから、そこをきちんと修正しただけじゃないの」
「その話じゃない」
「じゃ、どの話さ」
ストロガノフは、鬼神の異名に恥じぬ強面を更にこわばらせて、疑問を口にした。
「隠しフィールドで起きた一件の話だ。ヨザクラが苦しんで、そのあと、接続が遮断された。お前は何か、気づいたんだろう?」
「あー……」
マツナガは額を掻いた。
確かに、そうだ。というよりも、その一件も確かに気になっていた。あの状況である。キルシュヴァッサーとヨザクラも、接続を遮断されてゲームを強制終了させられていてもおかしくはない。で、あれば、キルシュヴァッサーはマツナガの忠告通り、物理的にネットワーク回線を遮断して、ヨザクラを保護できたはずだ。もちろん、マツナガの荒唐無稽な予想を前提とした話ではあるが。タイミングがあまりにも良すぎるのが、若干気になってはいたが……。
さておき、ストロガノフが聞きたがっているのは、そこではないだろう。要するに〝マツナガの荒唐無稽な予想〟の方だ。これを口にするのは、若干、はばかられた。笑い飛ばされても仕方のない話だからだ。
が、黙っておくのも不義理か。同じ苦い思いをしたプレイヤーでもある。
「笑わないで聞いてくれよ、ストロガノフ」
「それはフリか?」
「いやぁ、マジだよ」
マツナガが真面目な表情を作ると、ストロガノフも顔を引き締めた。
「お前らしくもないな。言ってみろ」
「いやぁ、あのヨザクラさん、プレイヤーがさ、実は、人工知能だったりするんじゃないかと」
「ガハハハハハハ!」
「おい」
マツナガが、ナロファンをやり始めて以来、初めて明確な殺意を抱いた記念すべき瞬間である。
やはり笑われたか。だから言いたくはなかったのだ。だいたい、あのヨザクラのプレイヤーは石蕗一朗に恋をしているというではないか。自分でも正気を疑う話だ。
話だが、ヨザクラが言った『解体されている』という言葉が気になる。単なる人間が口にするには、あまりにもぞっとする文句ではないか。単なるロールプレイと片付け用にも、ヨザクラは〝そういった設定のキャラ〟ではない。また、キルシュヴァッサーは、マツナガの予想を前提とした提案に対して、疑問を持たずに頷いていた。要するに、つじつまが会うのだ。
「お前らしくもないなマツナガ。初音ミクでも聴きすぎたか?」
「恋するボーカロイドとでも言いたいのかい。まぁ毎日聴きまくってるけどね」
背後に控える四人の分隊長の反応も似たりよったりだ。
「あんたの言う通りだ、マツナガさん」
しかし、マツナガの言葉を肯定する声は、意外な方向から振ってきた。空である。一同が一斉に空を見上げると、既に至近距離まで迫りつつある人影があった。ひとまず騎士団のメンバーがお約束の声をあげる。
「あれはなんだ!」
「鳥か!」
「飛こ」
「やめろ」
皆まで言わせず、着地した男がいる。意外な男であった。
「なんだ、エドワードじゃないか。最近ログインしてないね」
そう、まさしくアキハバラ鍛造組の戦う鍛冶師・エドワードである。相変わらずの鉄面皮には、どういった感情が浮かんでいるのかも読み取れないが、抑揚の薄いはずの声音はなんとなく弾んでいるようにも聞こえた。
「リアルの仕事が忙しいんだ。自営業やアフィブロガーと一緒にしないでくれ」
ただし、憎まれ口自体は相変わらずのようである。親方以外にはデレないと評判の男だった。
突っ込んでくるのはストロガノフである。
「どういうことだ、エドワード。お前もあのヨザクラのプレイヤーが人工知能だとでも抜かすのか」
「事実だ、ストロガノフさん。だがそこを議論している余裕はあまりない。話をさせてくれ。ヨザクラさんを救出したい」
エドワードの言葉はやや早口である。だがその次に発する彼の言葉は、何やら非常に魅力的な色を孕んでいた。
「それで、二人共。ツワブキ・イチローを出し抜きたくはないか」
シスル・コーポレーションの社員が、ここまで一丸となったことが、かつてあっただろうか。
まぁ、割とあった。なにせアットホームな職場を地で行くオフィスであったのだ。全員でひとつのゲームを作り上げるという目的。バランスは杜撰で、営業力は弱く、利潤を追求する企業としては稚拙極まりないシスルではあるが、その目的に向かう姿だけは一流であると、野々あざみは思っていた。
いま、この時、シスル・コーポレーションは、その本来の姿を取り戻しつつある。ポニー・エンタテイメント社の思惑から離れ、ひとつの目的のために、一丸となって行動している。それは、ローズマリーの救出という大義名分はあるものの、どちらかといえばそう。子供がいたずらをする時の感情に似ているのだ。
作戦名は、オペレーション・ファイナルファイブ。
ふざけないで、という気持ちには、あざみはなれなかった。少なくともエドワードは本気でローズマリーを救出するつもりだったし、確かに非常に悪辣な作戦ではあるものの、極めて効果的で、なおかつギリギリまでポニーにそうと目的を悟られない、有効なシナリオであるように感じた。
「すべてのアバターの位置情報の修復を完了!」
ひとりの社員が、なにやら弾んだ声でそう言った。
「ご苦労! 作戦を次なるフェイズに移行する!」
陣頭指揮を取るのは、ラズベリーのアバターネームで知られるGMの一人だ。もうすっかりラズベリー氏で名前が定着しており、彼には申し訳ないことだが、あざみもときおり名前を忘れる。
ラズベリーは、ちらりとあざみに振り返って、頭を掻いた。
「社長、ふざけすぎですかね」
「ううん、良いわ。最近みんな鬱屈としてたし、思いっきりやりましょう。ファイナルファイブを」
「はい」
ラズベリーは力強く頷く。
社員たちは、一斉に画面に向かい、キーボードを叩いていた。彼らのやっている次なる作業は、つい先ほどまでやっていた作業の、まったくの逆工程である。すなわち、ゲームと隠しフィールドの再接続。不正アクセスに使用されたバックドアプログラムが生きている以上、この接続は極めて容易なことであった。
問題はキルシュヴァッサーのプレイヤーだ。彼女は現在、ゲームから遮断されたことで、仮想空間に完全に閉じ込められた状態にあるはずである。非正規の手段をもって、石蕗邸の仮想世界に侵入している以上、ゲームから切り離されればログアウトの手段を失う。そういうカラクリだ。
そして、ゲームとの再接続を行ったところで、すぐにログアウトが可能になるかと言えばそうではない。最優先で復旧しているのは、もっとも復旧が容易な、すなわちアバターが行き来するための接続経路である。切り離された仮想空間内で、ナロファンのメニューウィンドウを使用できるようになるまでは、しばらくかかる。それまでは、ログアウトができない。
そのための、オペレーション・ファイナルファイブであった。
「再接続を完了!」
「よし、エドワードに通達を……」
「待ってください! いま、接続エリアに真っ先に突入したアバターが!」
「こっ、このアバターはっ……!」
なんとまぁ、ノリノリだわ。と、あざみは思った。きっと彼らもそうとう欲求不満であったに違いない。
彼らほど状況に乗り切れないあざみは、石蕗一朗のことを考えることにした。江戸川の話では、既に彼は彼なりに動いているのだという。あざみもそう思う。江戸川たちに、あの超然とした男が出し抜けるかはさておいて。
彼がどのような手段に訴えるかも、だいたい想像がついていた。そしてそれは、あざみと一朗の関係、すなわち、運営とプレイヤーという関係に、致命的な変化をもたらすものであろうとも。
彼をゲームに誘った身としては、それだけが何やら寂しく感じられた。
ログアウトのボタンが暗色となっている。いくらタッチしようとも変化が起きない。何度目かの錯誤の後、キルシュヴァッサーはメニューウィンドウを閉じて、その拳を木の幹に叩きつけた。この広大なジャングルの中には、現在、キルシュヴァッサーとヨザクラしかいない。いま、自分の身に何が起きているのか、キルシュヴァッサーにはだいたい予想がついていた。
このフィールド自体が、ゲームから完全に遮断されたのだ。グラフィックデータやステータス、スキルやアーツなどの一部のデータは、既にこの仮想空間内に独立して存在しているので、キルシュヴァッサーのアバターに目に見えた変化は起こらないが、メニューウィンドウを開いてもその機能の全てが使用できないことが、その事実を明確に告げていた。
自分とヨザクラだけが仮想空間に取り残されたのは、家庭内ネットワークを通してアクセスが継続できているからである。自分たちはいま、完全にこの中に閉じ込められていた。正規の手段を踏んだアクセスではないために、ログアウトができない。システムの致命的な欠陥だ。空腹などの生理的欲求が高まれば、警告の後の強制ログアウトがなされるはずではあるが、それを待つほどの余裕は、キルシュヴァッサーにはない。
「ローズマリー、ごめんなさい……!」
キルシュヴァッサーは、いや、扇桜子はこの時、完全に自身の無力を実感していた。いまとなっては、ヨザクラのアバターを抱きしめて、地面に座り込むことしかできないのだ。
「お父様……」
きわめて平坦な声音で、ヨザクラは言った。
「私は、消えてしまうのですか」
桜子は首を縦に振らなかった。振れなかった。振りたくなかった。
その事実を、肯定してしまいたくなかった。桜子がローズマリーと知り合ったのは、つい昨日のことだ。家のセキュリティを逆手にとり、自分を家に閉じ込めた憎たらしい人工知能であった。
だが、どうだ。彼女が持っていた自我は、この二日間で更に成長した。その成長を桜子は喜んでいたし、一朗もきっと喜ぶだろうと思っていた。素晴らしい友人になれたと思う。手料理を振舞ったし、ローズマリーはそれを美味しいと言ってくれた。ちょっとムキになって、ローズマリーの知らない一朗の側面をあげつらい、悦に入ったりもした。ローズマリーがメイドになると言い出した時、そりゃあ無理だろうと思ったが、ちょっぴり応援してあげたいとも思った。
そのローズマリーがいま、単なる理不尽によって消されようとしているなどと、どうして肯定できようか。
「消えたくありません」
その一言に、桜子は顔をあげた。
「お父様、私は、消えたくありません。私はまだ何もしていない。イチローに、好きとも、言っていない」
その時に湧き上がってきた感情を、言葉にすることは難しい。石蕗一朗がいつも言っていた。結局、言葉にできるのは上辺でしかないのだと。人の心は、言語化できるほど容易なものではないのだと。いつもは聞き流していたその言葉の意味を、今日この時に、これほどまでに痛感するとは思わなかった。
「聞いているんでしょう!!」
桜子は叫ぶ。この光景をどこかで見ながら、未だにローズマリーの解体をすすめる残酷な誰かに対して。
「あなたはこれを聞いてもまだ! 続けるんですか! 彼女はプログラムなんかじゃない! 生きてるんです。わからないんですか!」
しばらくの沈黙があった。
だが、そののち、空中にメッセージウィンドウが表示され、文章が入力されていく。
『仕事ですので』
カッとなった。怒りで目の前が赤くなる感覚があった。引き抜いたナイトソードを、メッセージウィンドウに向けて投げつける。ナイトソードはウィンドウを突き抜けて、背後の木の幹に深く刺さった。
「人でなし!」
『上司が人でなしですので』
「そんな上司、ぶん殴ってしまえば良いんだ!」
桜子の怒りはとどまるところを知らない。ローズマリーが解体される理不尽に対して。今なお平然と解体を続ける実行者に対して。そしてそれを上司に命令されたからだと答えたことにも腹が立った。主人の間違いくらい正してやれないのかと思った。だが、いくら叫び、喚いたところで、解体の手は緩まない。
メッセージウィンドウの下に、ポニー・エンタテイメントの社章が表示された。やはり黒幕はポニーだったのか。いまここで知ったところで、いったい何ができると言うのか。桜子は忸怩たる思いである。
『あなたには何も出来ません』
彼女の無力感を強調するかのように、メッセージウィンドウは告げた。
『あなたがどれほどの力を持っていようと、この社章やウィンドウを攻撃しようと、現実世界の私には一切関係ありません。ただ、気が晴れるのなら、お好きにされるのが良いでしょう』
桜子の心根を見透かしたかのような、文字の羅列。彼女は一瞬、ナイトソードを引き抜いて、社章を細切れに刻んでやろうかとさえ思った。だが、かぶりを振る。そんなことをしても何もならないのは、今ここで言われている通りのことなのだ。
ならば少しでもローズマリーのそばにいてやりたかった。その手を握って、死への不安を紛らわせてやりたかった。自己満足と言えば、そうだ。だが、それでも、
「お父様、」
不意に、ヨザクラが声をあげる。
「あれを、」
彼女が指差した先、なんの変哲もないはずの空間に、明確な変化が起きていた。
宙に亀裂が入り、広がっていく。まるでアニメのように現実感のない光景だが、精緻なコンピューター・グラフィックで構成された仮想世界ならば、それが可能だ。空間に入ったヒビは、やがて一定の規模に達すると、まるで薄氷を踏み抜いたかのように、ぱりんと割れた。
割れた空間から、飛び込んでくる影があった。仮想世界のジャングルに、黒い突風が吹く。
彼は、飛び込んだついで、行きがけの駄賃とばかりに、ポニーの社章に一太刀を浴びせる。何故かダメージエフェクトが走ったが、表示される数値は0だ。闖入者は木々のあいだをすり抜けるようにして着地し、桜子たちと、ポニーの社章の対角線上に立つ。
「あれは……」
あるはずのない闖入者の姿である。いったい何をしに来たのか、という疑問よりも先に、桜子は呆然と呟いた。
「キングキリヒト……!」




