第一一〇話 御曹司、激怒する
一朗は電話を切り、スマートフォンを内ポケットへとしまった。表情は険しい、というよりも著莪にとってそれは、今まで見たこともないような類の表情へと変貌していた。そこに、石蕗一朗が普段持つ涼やかさなど、微塵も感じられない。それから彼が何をするのか、無言のまま観察していたのだが、一朗はしばらく目をつむって考え込んだ後、ウェイトレスを呼び止め、開いたメニューを示しながらこのようなことを言った。
「このメニューの、端から端までを全部欲しい」
「はっ?」
「全部」
このような奇行を目の当たりにしたところで、著莪はさして驚かなかった。コーヒーカップに口をつけ、ああ、始まったな、程度にしか思わない。この男は、感情が高ぶると金遣いが荒くなることは多々ある。最近はおとなしいと聞いてはいたのだが。
これは相当だな、と思いながら、著莪はたずねて見た。
「で、なんだって?」
「どうやら動かれたらしい」
一朗は存外に落ち着いた声でそう言った。
「アイリスとめぐみさんが、急いで家から出て行ったそうだ。めぐみさんの部屋には、ミライヴギアが放置されていて、さっきまでアイリスがプレイしていたらしい。使用人が二人の会話を聞いていて、ローズマリーがどうの、という話だったとか」
「なるほど」
著莪はタバコに火をつけて、自身もスマートフォンを取り出す。一朗が電話中に着信のあったメールを再度確認して、眉根にしわを寄せた。
「実はこっちもあまり良くないことがあってなぁ」
「聞こう」
「万年警部補のおっさんも、上からかなりせっつかれたらしい。捜査員がお前の家に向かっている。例のスパコンやサーバーマシンを押収するつもりだ」
「ただ押収してもらえるんだけだったらそれで良いんだけど、そういうわけでもないんだろうな……」
やや困惑気味の表情をしたウェイトレスが、トレーの上にいっぱいのカップをのせてやってきた。それぞれ豆やフレーバーが違うだけのコーヒーやらカフェラテやらが、決して大きくはない上品なテーブルの上に、所狭しと並べられていく。
「なんだか蓮コラを思い出す」
「なにそれ」
出されたものにはきっちりと手をつけるのが一朗である。カップを手に取り、表面上だけでも香りを楽しむ仕草を見せながら、彼は更に言葉を続けた。
「僕の想像だけど、おそらく桜子さんは出られない。家のロックは完璧だから、僕か桜子さんかローズマリーが開けようとしない限りは、捜査員は中に入れないんだけど」
「おまえいま家にいなかったら携帯に連絡来るぞ」
「うん、無視しよう」
これも、普段の一朗からは考えられないほど乱暴な提案である。おそらく、彼自身のルールを逸脱する、ギリギリのラインであろうことは著莪にも想像がついた。石蕗一朗が権力構造に屈したことはないが、彼の美学は、社会規範を当然に守ることで成立する。
コーヒーがすべて片付く頃には、ドリンクの第二陣、第三陣が到着し、やがてサンドイッチなどの軽食が運ばれてくる。自他ともに認める少食であるはずの一朗の胃袋に、それらは次々と流し込まれていった。
「ひとまず、ローズマリーを助けなければならない。あとは、ポニー社の息がかかっていない、法整備に対して賛成派であろう警察の人間に、動いてもらわなければならない。押収後のローズマリーに変なことをされないようにね」
「じゃあ声をかけるくらいは俺がやろう。だがどっちみち、ポニーの動きは止めなきゃならんな。プランは?」
「………」
一朗は、すぐには答えなかった。サンドイッチを持つ手を少し止め、目を瞑る。しばし何かを考え込んだ後に、こう言った。
「あるよ」
その言葉を発するまでの、決意を得るまでの精神的な道程に対して、著莪は興味を持たない。一朗があると言ったらあるのだろうし、やると言ったら、やるのだろう。互いにそこをとかやく言うような関係では、なかったはずだ。
ただ、著莪としてもひとまず非常に気になることがあったので、そこはたずねておくことにした。
「石蕗、おまえ、そんなに食えんの?」
一朗は、卓上のサンドイッチをぺろりと平らげた後、ウェイトレスが次の料理を運んでくるのを待ちながら、こう答えた。
「怒ると、お腹がすくんだよね」
あ、やっぱ怒ってるんだ、と著莪は思った。
芙蓉の運転する軽自動車は、法定速度をギリギリでブッチ切るスピードを出しながら国道を走っていた。あいりの感想としては、芙蓉さん、意外と運転が荒いわ、てなもんである。あいりも来年になれば自動車免許を取得できる年齢だが、運転には性格が出る以上、自分も気をつけなければ、という自戒を得た。
ログアウトした直後、あいりは芙蓉に全てを説明した。
他のプレイヤーと隠しフィールドに赴いたこと、隠しフィールドは、一朗が趣味で作った3Dマップで、本来ナロファンとはなんの関係もないものを、ローズマリーがつなげたということ、そのローズマリーがいま、何者かによって遠隔解体されようとしているということ。
決して口が上手な説明ではなかったはずだが、すべてを聞いた芙蓉は静かに頷き、『わかりましたわ』とだけ言った。
彼女が『わかりましたわ』と言ったのは、あいりの『力を貸して』という言葉に対してだ。芙蓉はそれと『ついてきらして』以外、あいりに対して何も言わなかった。車庫から自分の軽自動車を引っ張り出して、助手席にあいりを乗せ、家を出た。そして今は国道を走っている。
「一朗さんには、そのこと、伝えたんですの?」
ステアリングを握りながら、芙蓉がはじめて質問をしてきた。あいりはかぶりを振る。
「伝えてないわ」
自身の携帯を見た。伝えようと思えば、御曹司に事情を説明する手段はいくらでもある。だが、あいりはそれを躊躇した。ローズマリーの身に起きている事態を考えれば、そんな猶予がないことはわかりきっている。だが、だからこそ、これを伝えれば、一朗が何かのアクションを取ることは明白だった。
そしてその結果、彼が何をして、どのような結果を残すのか、あいりには想像がついている。
あいりが思い出すのは、昨日のシスル本社での会話だ。もし彼が、ローズマリーのために、自分自身のルールを逸脱してしまうようなことがあったら。あいりは考えたくなかった。容易に想像がつくだけに、あいりは考えたくなかった。
もしも、一朗が動くようなことがあれば、きっと、今まで通りではなくなってしまうだろう。何かに、致命的な変化が起きてしまう。あいりには、それを容認するだけの心の準備が、まだできていなかった。
だからこそ、芙蓉に頼ってしまったというのはある。芙蓉は、あいりが信用できる、ほぼ唯一の〝大人〟だった。〝親友〟としての彼女と同時に、〝大人〟としての彼女に期待を寄せてしまった。これは、アンフェアだわ、とは思う。だが、あいりにはそれ以外の手段がなかったのである。
「あいりさんのお気持ち、わかりますわ」
運転席で、フロントガラス越しに前方を眺めながら、芙蓉はそう言った。優しい声音と、表情をしていた。
「芙蓉さん、あたし……」
「お友達ですもの。安心してらして。わたくしがすべて、なんとかしてみせますわ」
赤信号で車を停める。芙蓉はあいりを見て、にっこりと笑った。
「あいりさんは、いつもみたいにしっかり構えてくださればいいんですわ。あいりさんのお気持ちも、一朗さんのお気持ちもわかります。ローズマリーさんは、わたくしが助けてみせますわ」
「恋敵として?」
「ええ、恋敵として」
ローズマリーに直接聞かせてあげたい言葉だ。そう思った瞬間、あいりの脳裏にかかっていたもやが急に晴れて、彼女の思考は何やらクリアなものへ変化していきつつあった。杜若あいりに、いつもの切れ味が戻っていく。
「わかったわ、芙蓉さん。期待してる」
「任せてくださいまし」
軽自動車は再び発信し、混沌のうずが巻く東京23区へと突入していった。
「どういうことですか!」
野々あざみが電話口で、このようにいきり立つことは珍しい。シスル社内の注目が、一斉に彼女へと集中した。
何しろポニー・エンタテイメント社のCEOからの、直々の電話である。現在シスルの株はポニー社によって4割が保有され、1割強が電話をかけてきている男によって買い取られている。実質的に彼が支配株主であるようなものだった。そのオーナーに対して、この噛み付きようである。
だが、通達の内容を聞いたならば、この怒りもやむなしと納得できることだろう。
『GMコールからの素早い対応、あれはまぁ、見事だったなァ。でもこれ以上の動きは無用ということだよ。いやもちろん、運営として当然の対応は続けてもらって欲しいんだが。例のマップに侵入したプレイヤーね。彼らのアバター情報はきちんと修正してあげて欲しい』
「そういうことを聞いているんじゃありません!」
本日昼前ごろ、プレイヤーからのGMコールによって、現在噂になっている〝隠しフィールド〟の存在が連絡された。これがどういったものであるか、昨日の一件を通して、あざみ社長もおおまかには把握している。
不正アクセス事件と、石蕗一朗逮捕に至るまでの一連の流れでは、彼女は完全に蚊帳の外に追いやられていたが、ひとまずポニー社の対応によって、不正アクセスの経路はきちんと遮断されていたと考えていた。いまだに接続経路が残されていたこと自体が、寝耳に水である。GMコールと同時に、ポニー本社から、急いでゲームとの接続を切るよう通達され、そのような処置を施した。そこまでは良い。
それ以上の動きが無用という、その言葉の意味が、あざみ社長には理解できなかった。
『いやァ。いいかね野々くん。君たちがやろうとしていることはわかる。不正アクセスの経路を再度確認して、その経路を今度こそ遮断しようとしているんだろう。それは待って欲しいということだよ。わかるかなァ。やっぱりさ、不正アクセスなんていうと、大きい問題だしさ。こっちの方からも技術者を派遣するまで、待って欲しいんだよね』
「お言葉ですが、不正アクセスの件に対するそちらの対応には、企業としての誠意が感じられません」
『あー』
あざみ社長がぴしゃりと言ってのけると、一瞬の間があってから、電話口の向こうに笑い声が響いた。『くっくっ』というくぐもった、しゃっくりのような笑い声である。
『誠意かァ。企業としての誠意とか、そんなこと言っちゃうかァ』
まるで蛇に絡みつかれたかのような、ねっとりとした不快感がこもった。
『聞いたよ、野々くん。前回の、アカウントハック事件の、あー。なんだっけ。なんとかっていう、人工知能。あれ、逃げてたんだって?』
あざみ社長の動きが硬直した。まさか、バレていたのか。頭の回転が追いつく前に、電話口の向こうに立つ男は、言葉を続ける。
『この件を公表したら、シスルも経営の継続が困難になるなァ。僕としても庇いきれないし。君、その会社でゲームを作り続けたいんじゃないの?』
「………」
あざみ社長は言葉を返せなかった。男の言うことが、図星であるというのはもちろんある。だがそれ以上に、彼女は、この男が現在ローズマリーの所在を正確に把握しているのかどうか。それが気になっていた。
考える彼女の視界の隅で、ひとりの男がごそごそと動いていた。あそこは、わざわざ静岡から出向してきた江戸川にあてやった席である。彼は、携帯電話を手に至極不愉快な表情をした後、そっと歩み寄ってきて、あざみ社長にその画面をつきつけた。
このご時世にもガラケーを貫く江戸川の携帯画面には、メールの着信を示すアイコンと『つわぶきいちろう』の名前があった。読み仮名は『あいつ』だった。




