第一〇九話 御曹司、電話を受ける(2)
「これ、御曹司が作ったの?」
「そうですよ」
周囲に聞こえないよう気をつけながらも、アイリスはぽつりと呟いた。キルシュヴァッサーが頷く。
ナロファンプレイヤーに〝隠しフィールド〟として認識されているそのジャングルは、石蕗一朗が戯れに作った3Dマップである。ローズマリーが半ば悪戯心のようなものでフィールドをナロファンに接続したことで、行き来が可能になったものだ。正直なところ、ここまで精緻なグラフィックであるとは、アイリスも予想だにしていなかった。
単なる一般庶民であり、生粋の日本人である杜若あいりは、熱帯雨林に足を踏み入れたことなどない。旅行は基本国内で、人生で一番遠出したのは、小学校の卒業記念で沖縄に連れて行ってもらったのが最後である。あいりの学校では二年生の冬にヨーロッパ行きの修学旅行があるので、それだけが楽しみであったが、さておいて。
実物を目の当たりにしたことがないとは言っても、アイリスの前に広がるジャングルの完成度の高さはすぐにわかった。立ち並ぶ木々は背が高く、陽光が遮られて鬱蒼としている。遠くからなんの動物の声かもわからない音が定期的に響き、肌にはまとわりつくような暑さがあった。
「なんか、木ばっかで草とか少ないね」
「歩きやすい分には良いんだけどな」
「ジャングルは背の高い木が日光を遮っちゃうから、小さな臭が育ちにくいんだにゃー」
前の方では、ユーリやキリヒト(リーダー)に対して、あめしょーが意外な知識を披露していたり、
「確かに大したグラフィックデザインだけど、ナロファンのフィールドマップとはモデリングが違う気がしますねぇ」
「ポニーの子会社化で新しいデザイナーでも入ったのか? かなり癖があるな」
マツナガとストロガノフが実に鋭い指摘をしていたりしていた。
「アイリス、先ほどの話ですが」
彼女の後ろを歩きながら、ヨザクラがたずねてくる。
「キングキリヒトの話?」
「はい。私には彼が脅威であるとは考えられません」
「いや、脅威っつーか、別にそういう対象だとはあたしも思わないけど、」
そう言いかけたアイリスの視界に、キルシュヴァッサーが映る。一瞬、キングキリヒトが男である確証などどこにも無いと思ってしまったが、いや、まぁ、彼は男だろう。よしんば男でなかったとしても小学生である。どのみちローズマリーの恋敵として挙げるには、いろいろなものが足りないはずだ。
それでも、ヨザクラに一度、キングキリヒトと話すべきだと告げたのは、彼女の知る限りもっともイチローに近い立場にいる人間だと感じたからだ。アイリスはあの御曹司を理解するのにかなりの時間を要したが、キングに限ってはかなり早い時点から、変人同士の共感というか、共鳴というか、そんなものがあるように感じた。何よりイチロー自身、キングキリヒトには一目置いているようにも見える。
「まぁライバルと言いつつ戦ったのは一回だけよね」
「ライバルなんてそんなものですよ」
アイリスのつぶやきに、キルシュヴァッサーは身も蓋もないことを言った。
話題がひと段落したところで、アイリスは意識をフィールドに戻す。当然というか、モンスターやアイテムなどが存在する様子は見られない。これが御曹司の作った仮想空間であると知らない騎士団のメンバーなどは、甲斐甲斐しくも周囲に視線を配せて、警戒を怠ろうとしなかった。
アイリスはメニューウィンドウを開いてみると、これがなんの滞りもなく開くことができた。スキルやアーツ、装備、アイテム使用など、システム面におけるアバターの機能は支障なく行使できるらしい。これは仮想空間の規格が同一のためなのか、それとも、ナローファンタジー・オンラインとシステム的な接続がなされているためなのか。どのみち深く考えてもわからないことなので、アイリスは思考を放棄した。
「やっぱりよくわかんないわねー」
自身のステータスを確認すると、現在地は〝不明なポイント〟となっている。
「接続を残してある理由ですか」
キルシュヴァッサーは顎を撫でながら応じた。
「うん。こんなの、シスルにもポニーにも、得にならないことよね」
「そうですな。強いて言うなら話題性ですが、やってることは単なるバグの放置ですから、運営として褒められた行為でもありませんしな」
気づいていないとも思えないのだが、念のためのGMコールは既に送ってある。何かしらの対応は取られてもいいはずだ。
そう思って歩いていたさなか、その瞬間は不意に訪れた。
「やはり何もないな。完成しているのはフィールドマップだけか……」
「あえてバグに見せかけた話題稼ぎのフィールドって可能性もあったんですけどねぇ……」
先頭のストロガノフとマツナガが、少しばかり落胆した様子を見せる。アイリスとしても、そろそろこのフィールドを脱出しておいたほうが良いのではないか、という提案をしようとする。その時、ヨザクラのアバターが、びくりと身体を仰け反らせたのだ。
「あ……」
「ヨザクラさん?」
アイリスが訝しげにたずねる。人工知能ローズマリーには、感情信号を出力する機能が備わっていないため、ヨザクラが何かしらの表情を浮かべることはない。だが、ぎこちない仕草で胸元を抑え、膝をつき、片手を木の幹に押しやって身体を支える姿は、明らかに〝苦痛〟を表現しているように思えた。
異変にはキルシュヴァッサーも気づき、すぐさまヨザクラの肩を支える。
「どうしました、ヨザクラ」
「なにー、なにかあったー?」
先を歩いていたあめしょーやユーリ、キリヒト(リーダー)、マツナガやストロガノフたちも、こちらに気づいて駆け寄ってきた。
メニューウィンドウからギルドメンバーのステータス画面を確認しても、ヨザクラのアバターデータに異変はない。こうした場合、通常考えられるのはプレイヤー自身の肉体に何かしらの異常が発生した場合だ。だが、基本的にプレイヤーの肉体が感じる痛みや感覚というものは、よほどの緊急性を要すものでない限りは遮断される。まずは警告メッセージとして表示されるし、あまりにも苦痛の度合いが大きい信号が発せられた場合、ゲームを強制的に終了させる機能もある。アバターがただ苦しむだけという異常は、まず考えられない。
それが、通常であれば、の話だ。ヨザクラのログイン形式は通常ではない。
ヨザクラは、手を握ったり開いたりを繰り返し、周囲を見渡した。
「ヨザクラ、おなかいたい?」
「いったん街まで戻ってログアウトするか?」
「いえ……」
周囲の優しさに、ヨザクラがかぶりを振る。勘の良さそうなマツナガは、少し離れた場所で、何かを考え込む素振りを見せていた。
「お父様、アイリス、緊急を要すのでお話しますが、」
その言葉は、こちらが苛立つほどにいつも通りだ。だが、次にヨザクラの発した言葉は、アイリスの心胆を寒からしめた。
「私自身が、外部からのアクセスを受けています」
「なんですって?」
「リモート解体です」
淡々と語るヨザクラの言葉は、ぞっとするような真実を孕んでいる。アイリスとキルシュヴァッサーは硬直した。周囲のプレイヤーは、ほとんどが彼女の発言を理解できずに首をかしげていた。だが、最初にマツナガが、次にあめしょーが察しをつけ、次々と表情を険しくしていく。
ヨザクラのプレイヤー、ローズマリーはすなわちプログラムである。開発の工程を逆にたどることで、遠隔からの解体が可能だ。だがそれはすなわち、人間に例えるならば生きながら身体をバラバラにされていくに等しい。一度、ローズマリーの持つ豊かな情緒を知ってしまえば、プログラムを人間に例えること自体が無意味であるとは、笑い飛ばせないだろう。
ローズマリーはいま、生きながらに分解されている最中であるという。
ヨザクラのアバターに変化はない。当然である。このアバターはあくまでも正規の手段で作成されたユーザーアカウントであり、ローズマリーのプログラムとは一切の関係がない。すなわち、解体の進行度合いは、ヨザクラの身体には現れない。外部から見れば、いま、現実に発生している身の毛のよだつような作業工程は、いっさい形として現れないのだ。
アイリスの中に、じっとりとした焦燥が生まれた。急がなきゃ、なんとかしなきゃ、でも、いったい何を。それはキルシュヴァッサーも同じであろう。なまじ、ヨザクラの身体に変化がないだけに、何をすればいいのかわからず硬直する。
「キルシュヴァッサー卿、急いでログアウトしたほうがいい」
その中、マツナガがやや緊張をにじませた声音で言った。
「何が起こってるかは聞きませんがね。まぁ察しはつくんで。さっさとログアウトして、LANケーブルを引っこ抜くなり、ルーターの電源を落とすなり。それが一番確実じゃないですかね」
「物理的な回線遮断ですか。ですが……いえ、そうしましょう」
キルシュヴァッサーは逡巡を振り払う。おそらく、サーバーと外部の接続を遮断することで、この場にいるプレイヤーのアバターがデータ的な損傷を受ける可能性を危惧したのだろう。フィールドに踏み込む前、マツナガが言っていた話だ。だがそれでも、ローズマリーの〝命〟には変えられない。
キルシュヴァッサーがメニューウィンドウを開く。だが、おそらくこの計画の実行犯は、残酷であった。
キルシュヴァッサーがログアウトするよりも早く、アイリスのアバターに異変が起きる。アイリスだけではない、その場にいるすべてのプレイヤー。正確には、ヨザクラとキルシュヴァッサーを除くすべてのプレイヤーに、異変が起きていた。
周囲が暗転する。それまで鬱蒼と茂っていた熱帯雨林の木々は一瞬にして姿を消し、アイリスはまったくの暗黒空間に放り出された。目の前に警告メッセージが出現する。
『サーバーとの接続が途切れたため、ゲームを強制終了します』
GMコールが届いたのだ、という、安易な安心は得られなかった。このタイミングである。明らかな悪意を感じた。サーバーから遮断されたのが、アイリス達だけであって、おそらくキルシュヴァッサー達はあのジャングルに取り残されただけだろう、という確信じみた予感もあった。
遮断されたのはゲーム内における接続だけで、おそらく、ローズマリーの解体自体はまだ進行中なのだ。くわえて、そう。キルシュヴァッサーとヨザクラは、あのジャングルの存在するサーバーと家庭内ネットワークで接続されている。ゲームを介しての接続が切れても、あの中に取り残されている可能性は充分にある。ゲームの接続遮断は、メニュー画面からのログアウトという手段を、キルシュヴァッサーから剥奪するためのものだ。
確証はない。だが可能性は大いにある。
アイリスは、いや、杜若あいりは跳ね起きた。意識が現実世界に戻ったのだ。いつも自分が寝ているベッドとは違う、ふわふわとした感触があった。ミライヴギアを外して思い出す。そう言えば、ここは芙蓉めぐみの部屋だった。
なんとかしなきゃ。でも、自分ひとりじゃどうにもならない。
あいりがそう思ったとき、部屋の扉が開いた。
「あら、ちょうど良かったわ。あいりさん、いま、急いでお仕事を……」
「芙蓉さん!」
にこやかな笑顔で入ってきた芙蓉めぐみを、あいりは遮る。彼女にこのようなことを頼んで良いのか。一瞬、疑問が脳裏をよぎったが、あいりはすぐにそれを捨てた。そんなもの、あとで考えれば良い。
「力を貸して!」
あいりのただならぬ剣幕に気づいたか、芙蓉はすぐに表情を正した。彼女は落ち着いた、だが、優しい声音でたずねてくる。
「何か、ありましたの?」
東京都三鷹市に存在する芙蓉瑛恵の豪邸である。日本五大商社の一角、角紅商事の社長であるこの男は、今日も愛猫を抱え込んだまま、手入れの行き届いた庭を散策していた。腕に抱かれた猫は、名前をミケという。恵まれた食生活によって丸々と太ったロシアンブルーだ。
この日、芙蓉瑛恵は上機嫌であった。人付き合いの苦手な箱入り娘が、はじめて家に友人を連れてきたのである。じゃっかん人見知りの気はあるが、一本筋の通った、気っぷの良さそうな娘さんだった。いささか、歳の離れすぎているきらいはあるが、愛娘・芙蓉めぐみの仕事を考えれば、若い感性と常に触れ合っていられるのは、そう悪いことではない。
仕事の方も相変わらず順調である。最近、資産運用の相談に乗ってくれる石蕗一朗も、アドバイザーとして極めて優秀であった。順風満帆とは、まさにこのことだろう。そろそろ、彼からも新しい連絡が入ってくる頃だ。逮捕だのなんだので、忙しいさなかに、まったく申し訳ない話ではあるのだが。
もうすぐ午後だな。芙蓉瑛恵は、今日一日のプランを考えていた。もしもあの杜若あいりとかいう子がもう少し家にとどまってくれるなら、是非この自慢の庭を紹介しつつ、3時のおやつをご一緒したいものだ。最近は、有名パティシエを呼んでスイーツを作らせるのも楽しみのひとつである。めぐみの奴も帰ってきたことだし、どれ、一度、声をかけてみようか。
そう思い、レンガ造りのタイルを歩きながら、屋敷へ向かう。その最中、
屋敷の上品な扉が、強引に開け放たれ、中からその芙蓉めぐみと杜若あいりが飛び出してきた。芙蓉瑛恵は顔をほころばせる。
「はっはっは、二人とも、午後の予定なんだがね」
「申し訳ありませんわ、お父様!」
「ごめんなさい、またあとで!」
二人はまるで突風のように、屋敷の車庫に向かって走り去っていった。
「はっはっはっはっはっは」
芙蓉瑛恵は、腕の中のミケをおおいに揺らしながら笑う。太った猫は不快そうに眉根にしわを寄せていた。
「はっはっはっはっは、二人とも、まだまだ若いな。なぁミケ」
「ナァーオ」
「何やら、嵐が起こりそうだな。なぁミケ」
「ナァーオ」
彼は笑いながら、懐からスマートフォンを取り出した。このタッチパネルというのが、いまいち使い勝手がわからないのだが、ひとまず苦労しながらもアドレス帳を開き、石蕗一朗の名前を呼び出してから、コールをタップすることに成功した。




