第一〇三話 御曹司、振り返る
深夜の摩天楼。窓ガラスの向こうに映る都内の夜景は人々の生活の光だ。そこでは幾多の悲喜が育まれ、行き交い、ぶつかり合っていることだろう。それを上から眺めることのできる、文字通りの天上人など、この一億を超える日本の人口においても、ほんの一握りに過ぎない。彼らは、大衆が一生かかっても手が届かないような高級酒をグラスに眺め、ここホテル・グランドヒルズの会員制バーで、楽しげに談笑を交わしている。
さて、日本の名士がかき集められるこのバーにおいて、ひときわ注目を集める男がいた。
彼が入店した際、上品を旨とする客たちの間に、にわかにざわめきが広がる。仕方のないことではある。それは、今まさに各界の著名人が話題に挙げ、語り合っていた人物そのものであったからだ。ここぞとばかりに遠回しな侮蔑や嘲笑を浮かべていた一部は急に黙り込み、逆に不安や心配を浮かべていた一部は、安堵の表情を浮かべた。
石蕗一朗にとって、他人の評価などすべて無意味なものに過ぎない。彼の価値とはすなわち、彼が石蕗一朗であることにより完結しているからだ。故に、歩く仕草に卑屈なものは微塵も滲まない。堂々たるものであった。
「冤罪とはいえ、逮捕された方がここに顔を出していいんでしょうか……」
「構わないよ。ほら、そこに収賄で捕まったけど、のうのうと政界に復帰している人もいるし」
一緒についてきたあざみ社長は、さすがに居心地の悪さを感じたらしい。が、一朗はどこ吹く風でカウンター席に腰掛けるひとりの壮年男性を示した。脂ぎった鏡餅のような顔をした男が、ぎょろりと目を動かしている。
「僕は潔白だけど、叩けば埃が出るような人間ばかりだよ」
どちらかといえば、一朗の発言そのものの方が肝が冷える。突き刺さる視線を感じながら、あざみ社長は更に小さくなった。
一朗はカウンターに腰を下ろし、その隣りに座るようあざみ社長を促した。2ヶ月前とまったく同じ並びになるが、バーテンダーだけは前回と違う男だった。
「いやぁ、一朗さんが逮捕されたと聞いたときは驚きましたなぁ」
脂ぎった鏡餅が、瞳をギョロギョロさせながら声をかけてきた。
「しかも不正アクセスでしょう。何があったのかと思いましたよ」
「実はそれが何もなかったんだ」
一朗は、その政治家の方をちらりと見てから、肩をすくめる。
「まぁ潔白と言うならね。信じますよ。私は。あなたのお父さんにはよくしてもらってるしね」
「僕は僕で、父さんは父さんなんだけどな」
一朗に話しかけてくる男は、その政治家だけではない。先ほど一朗の逮捕ニュースを肴に飲んでいたであろう企業家などが、取り繕うような笑顔で声をかけてきたり、何かしらの形で心配していたであろうどこぞの令嬢が、その旨を知らせに来たり。一朗はひとつひとつ、彼なりに丁寧な態度で対応していた。
「わかっちゃいたけど、ナンセンスだね」
一通りの対応が終わり、一朗は注文したソフトドリンクに手をつける。
「お気持ちはわかりますけど」
あざみの手元のグラスは、既に中身が半分くらいまで減っている。
一朗がナンセンスと言うのは、こうした応対の数々を指しているのだろう。そうしたものを好まないことを、あざみはこのバーカウンターで知ったし、取るに足らないと思った会話はすぐに切り上げてしまうような彼の性格も把握している。事実、おべんちゃらを言おうとした何人かの企業重役などに、一朗は見向きもしなかった。
「わざわざここに来たのは、たまにはそういうのも良いかな、と思ったのもあるんだけど、やっぱり退屈なものは退屈みたい」
その気持ちは、あざみにもわかる。天才児ともてはやされた彼女も、生まれは特別裕福な家庭でもなかった。たまたま、娘の才能に理解のある両親に恵まれたという、それだけのことだ。上流階級に足を踏み入れて戸惑うことも多かったし、正直、こうした付き合いは気苦労が多くて好まない。
「まぁ、今はどうでもいいことかな。懐かしいなぁ。初めてあざみ社長と会って名刺をもらったのが、まだ2ヶ月前なんだ」
一朗がどこか楽しむような声音をにじませる。2ヶ月か。確かにあざみにも、もっと前であったようにも感じる。
あの時はまだ、完璧なキャリアウーマンを演じる余裕があった。最近はそうでもない。メッキは剥がれる一方だ。思い返すと、無様な思い出も多い。石蕗一朗を、自社のゲームに誘ったのは、果たして良かったことなのか、悪かったことなのか。結局、彼に多くのトラブルを背負わせてしまってもいる。
「……結果的にこのようなことに巻き込んでしまって、」
「おっと、」
自然と謝罪が口をつこうとしたが、一朗はそれを片手で押しとどめた。
「そういうのはナンセンス。バーへ誘う口実には使ったけど、僕は、君がくれたのは切欠に過ぎないと思っている。ゲームをやると決めたのは、僕だ。だからその謝罪には、意味がない」
それが単なる優しさからの発言でないことは、あざみにもわかる。
「この2ヶ月に起きた、ゲーム内外のいろんな事件もね。はっきり言おう。僕は楽しかったよ。君にナロファンのことを教えてもらって、良かったと思っている」
「なんだか、今にも全てが終わってしまうような言い方です」
「そうかな」
一朗は、目を細めて宙を眺めた。薄暗いバーの中で、微かな光を、石蕗一朗の瞳が反射するのがわかる。黒い瞳だと思っていたが、こうしたところで見ると、かすかに青みがかって見えた。
「でも、ひとつの節目のようなものでは、あると思うよ」
その言葉に、何やらあざみは急に不安を覚えた。
ひょっとして、石蕗一朗は、今回の事件に関して自分の知らない何かを知っているのではないだろうか。彼の涼やかで超然とした態度には、常にすべてを見通していると思わせる貫禄が備わっていたが、今回ばかりはそれが、特に気になって仕方がない。
「正直、最初はそんなに期待していなかったんだ。でも思っていたより楽しかった。ゲームシステムに関しては、だいぶ改善の余地はあると思うけどね」
だが、楽しげに語る一朗の様子は、あざみにそれ以上の追及を許さない。
「あの、一朗さん」
「ん、」
「私たちのゲームの、どこがそんなにお気に召したか、聞かせてもらっていいですか?」
あざみは、ナロファンの運営体を取り仕切る身である。すべてのプレイヤーの行動ログは、常に把握出来る状態にあった。特に、ツワブキ・イチローは重要なカスタマーであり、同時にクライアントだ。ゲーム内でどのような動きをとっているかは、常にモニターしていた。趣味が悪いと言えばそうかもしれないが、こうした行動モニターが行われる可能性に関しては、利用規約にきっちり明記してある。
だから、彼が割と本心からゲームを楽しんでくれていたのはわかる。しかし、なぜそこまで楽しめているのかまでは、理解が及ばなかった。これはゲームをより良くしようという開発者の視点から生まれた疑問ではなく、純粋な好奇心である。
「初めて気に入ったのは、やっぱり作り込みかな。よくできた世界だと思ったよ」
どこか遠くを見ているような一朗の目は、もしかしたら量子波によって脳に刻まれたアスガルドの大地を思い出しているのかもしれない。
「次に、そこで遊んでいるプレイヤー達が良いなと思った。悪態をつくプレイヤーも多かったけど、みんなゲームを楽しんでいたよ。ああいった雰囲気に混ざりたいと思ったのは、実は初めてでね」
「プレイヤー……ですか」
「あざみ社長は気づいていないかもしれないけど、多分みんな、君たちの作ったゲームのことが好きなんだよ。マツナガって、いるだろう? それなりに有名なプレイヤーだから、わかると思うんだけど」
探索系のギルドを組織しているエルフの斥候だ。確かまとめブログを作っていて、VRMMOに関する情報発信では、もっとも最先端にいる人物だろうと認識している。確証はないが、ユーザーアカウントを3つか4つ持っていて、検証にも力を入れていたはずだ。
「彼は、このゲームがいつか終わってしまうことを、割と本気で懸念していたように思う。100年遊べるオンラインゲームという触れ込みも、まぁ、所詮は単なるキャッチフレーズでしかないしね」
一朗は、マツナガ以外にも、様々なプレイヤーの名前を挙げた。例えばストロガノフ。彼はオンラインゲームに手を出すのは、実はこれが初めてであったらしいが、友人の助力や運も手伝って、騎士団をトップギルドにまで押しあげた。彼にはそれが誇りであって、イベントやクエストの攻略には人一倍熱心である。
有名プレイヤー以外にも様々な名前が上がる。あざみには、この男がそれほどまでに他人に関心を示していたというのが、かなり意外に感じられた。
「あざみ社長は、これだけのプレイヤーが楽しめるゲームを作れたことを、誇りに思っていいと思う。もちろん、僕もその一人だよ」
その言葉が、本心から出たであろうものだけに、あざみは少し惨めな心地になった。
「でも、シスルはもう、そのゲームの運営母体ではありません」
「まぁ、そうだね。ポニー社が今後、ゲームをどういうふうに変えていくのか。それを含めて、今はひとつの節目かな、と思う」
「……今回の事件が一区切りついたら、」
自然、そんな言葉が口をついて出る。
「うん?」
「ナロファン運営の主導権を取り返せないかどうか、頑張ってみます」
正直なところ、運営母体がポニー・エンタテイメントに移行したことで、ナロファンの運営自体はスムーズになったと言える。資金繰りが大きく改善され、ゲームバランスにも見直しのメスが入った。あざみ本人の負担も大きく減ったように思う。実際、自分は経営者に向いていなかった。
だが、
自分たちの作りたかったゲームは、まだ途中なのだ。それを目の前で他人に弄り回されるのは、決して愉快なものではない。一朗の言葉は、心中に少なからずあったであろうそのような思いを、明確にした。
「まぁ、さっき言ったように、バランス面システム面での見直しはだいぶ必要だと思うけどね」
「そ、そこはえぇと、善処しますけど」
励まされたと思ったらこれである。おおよそ、石蕗一朗は容赦がない。
「ひとまず、元気になったのなら結構。そうだね、事件が一区切りか」
一朗は、その言葉の意味を噛み締めるように呟いた。その横顔を見て、ふと、あざみは思い出すことがある。
「一朗さん、あの、ディナーの時に著莪さんとお席を立たれましたけど、」
「その話は内緒。著莪の方が話したくなれば話すんじゃないかな。でも、実を言うとね。その著莪との話を受けて、君をここに誘おうかなぁと思ったのも事実だ。さっきの、あざみ社長の言葉。あれを聞けて良かった」
「一朗さん?」
「さて、そろそろ良い時間だ」
腕時計を見て、一朗はぽつりと呟いた。
「あまり遅くなってもいけないしね。送ろうか」
いつものように、一人だけ納得したような態度が、あざみには何やら、釈然としなかった。
『お父様、』
「おっと、リアルでもそう呼んじゃいますか。いやぁ、別に構わないんですけど」
ログアウトした直後、いきなり電話がかかってきたのでびっくりした桜子であるが、それはローズマリーからの内線電話であった。電話をスピーカーモードに切り替えて、桜子はキッチンにたちながら彼女と会話している。
『私は、あなたとの必要な対話を充分に果たしたと認識していません』
「まーたその話ですかぁー。私が脅威って話ですよね」
インドカレーは桜子の大好物である。彼女の城である石蕗邸のキッチンには、古今東西様々な香辛料がところせましとひしめき、桜子自身の手によって調合され、新たなる味覚のコラボレーションを日夜たたき出し続けている。ここ最近は、成金病のリハビリがメインであった日々もあり、愛しい香辛料に触れる機会も少なかったのだが、一朗からのゴーサインが出てからは、彼らも食事の最前線に復帰していた。
桜子としては、本日のカレーの調理に余念がないわけであるが、ローズマリーの方もなかなかにしつこい。相変わらず桜子を恋敵として認識したままで、ことあるごとに話し合いの必要性を突きつけてくる。
となると、はぐらかすのもそろそろ限界か。
桜子は、カレーを煮詰め、炊飯器をセットし、キッチンからダイニングに視線を送る。室内に、ローズマリーの〝目〟となるような機器はない。カメラなりなんなりを設置して、配線をつなぐなりすれば、文字通りローズマリーと顔を付き合わることもできるのだが。
「しょーがないですねぇ。ローズマリーは、私とそんなに、何を話したいんですか?」
『あなたが、イチローをどのような存在として認識しているかです』
「おおう……」
ストレートな問いかけではないか。
「私は、事あるごとに主従関係に過ぎないと申し上げているんですけど。それじゃあ、納得がいかない?」
『それは両者の関係を客観的に示したものに過ぎません』
なかなか、食い下がる。これが恋心のパワーなのか。
「私が、一朗さまを、どのように認識しているか、ですか」
『はい』
「私が、主観的に、あの人をどのように捉えているか、ですか」
『はい』
「それはつまり、私から見て、石蕗一朗がどのような人間であるか、ということで、よろしいですか?」
そこからローズマリーの返答には、しばらくの空白があった。が、
『はい』
やはり、返ってくるのは肯定だ。
「ふーむ」
ぐつぐつと煮えるカレーを眺めながら、桜子は考え込んだ。
一朗がどのような人間か、か。実はあまり考えたことがなかった。断片的な情報を整理して、自分らしい結論を導き出していく。
「まずは、変な人だな、と」
最初にそう言った。多くのナロファンプレイヤーと、同じ見解である。
「あとは、寂しがり屋ですかね」
『寂しがり屋。イチローが』
「はい。次に、嫉妬深くて意地っ張りです」
『イチローが』
「はい。更に、成金趣味で俗っぽいです」
『あなたはイチローの話をしているのですか』
「そうですよ。あとはまー、カッコつけってくらいですかねー」
桜子の知りうる限りは、そんな感じである。ローズマリーは黙り込んでしまった。彼女の思い人をここまで悪し様にけなすのはいささか気が引けたのだが、挑戦状を叩きつけてきたのは彼女の方である。ちょっとだけ胸のすく思いもあった。ちょっとだけだ。
嘘は言っていない。
寂しがり屋だから、アイリスの対等であろうとする態度には本当に嬉しそうな顔をする。
嫉妬深くて意地っ張りだから、桜子やキングに対してその得意分野でも張り合おうとする。
成金趣味で俗っぽいから、家の中は無駄に高級な調度品でいっぱいだ。
あとはあの、片手をポケットに突っ込んで片手をあげるあの涼やかな仕草。あれはカッコつけ以外のナニモノでもない。と、桜子は思っている。
『やはりあなたは脅威です』
「そうでしょうか」
ローズマリーの言葉に、桜子は首をかしげた。
『イチローに対する認識度において、私はあなたより劣っていると判断できます』
「まぁ5年も一緒に暮らしてますから。カレー、できましたよ」
『私もイチローと長期間過ごせば、認識度においてあなたを超えることは可能でしょうか』
「それはあなたの頑張り次第ですよ。私もメイドです。メイドは、主人の1を聞いて10の対応をしなければなりませんからね。そりゃあ理解度も上がるってもんです」
『では、私もメイドになります』
「お、おおう……」
これには、さすがの桜子も面食らう。
「が、がんばってください。ひとまず、カレー食べませんか?」
『いただきます』




