第一〇二話 御曹司、誘う
カレーを食べ終わり一息ついた頃には、もうすっかり夜だ。長いのか短いのかよくわからない一日も、もうすぐ終わりを告げる。一同は個々の会計を済ませ、ぞろぞろと店を出た。東京の夜は、未だに少し蒸し暑い。流れでダラダラと敢行されたオフ会も、いよいよお開きとなる。
「みんな、お疲れ様」
背中にぐったりとした芙蓉を背負い、あいりが言った。暴走と飲みすぎにより、芙蓉めぐみは現在意識が混濁した状態にある。
「おつかれ。めぐみさんの方は平気そう?」
「うん。神田駅の方まで連れていけば、みずのグループのひとが迎えに来てくれるって」
「ん、結構」
以前、オヘア行きの機内でも思ったことだが、芙蓉はアルコールにそこまで強いタイプというわけではなさそうだ。その割に飲むのを躊躇しない。ここまで酔いつぶれるというのは、大企業の令嬢にあってはならぬ醜態だし、めったに見せない姿とは言っても、あとから親の叱責は免れないだろう。ましてや、市井の人間の前である。
「あんたねー、それ、芙蓉さんの心配してる顔でしょーが」
まるで押しつぶされるような姿勢のままでも、あいりの口調は変わらなかった。
「そんな暇ないでしょ。さっさと今回の件片付けときなさいよね。気持ちよくオフ会できないでしょ」
「それもそうだね。善処しよう」
「そうしなさい。じゃーねー」
芙蓉に比して、あいりの身長は高くない。彼女のパンプスを引きずる形になりながらも、あいりは歩道をえっちらおっちらと歩き始めた。遠ざかっていくあいりの、というよりは、あいりに背負われた芙蓉の背中が宵闇に消えていくのを、一同は見送る。
「良い子だなぁ」
と、著莪が言った。
「ただし斬れ味の、がつく」
「デフォルトで匠のスキルポイントが10ついてますね」
江戸川もぼそりと言った。
「江戸川くんもやるのかぁ。9月に4が出るな。狩友になろう」
「それまでに今回の件がひと段落ついていればいいんですけどね」
江戸川の方は、地味に飲む量をセーブしていたようで、足元がふらついている様子もない。それでもあまりピリピリした様子がないのは、酒の力か。彼は近くのビジネスホテルに宿泊しているということだったから、このまま徒歩で帰るのだろう。
「というわけで、俺も帰ります。ミライヴギアは持ってきたんですけど、時間が取れないから、次に会うのもオフ会になりそうですね」
そこは、きっちり参加するつもりであるらしい。相変わらず、あまりテンションを感じさせない低い声音で、江戸川は一朗に言った。
「ローズマリーの件、俺も何か協力できることがあったらしますから。著莪弁護士を通じて連絡ください」
「君も素直じゃないなぁ」
「そういう言い方はやめてください。冗談でも不快です」
やり取りの後、江戸川はきびすを返して、あいり達とは反対の方向へ歩いて行った。著莪も今晩中に片付けておきたい書類があるとかで、挨拶も早々にいなくなり、結局その場には一朗とあざみ社長が残される。
「あざみ社長」
「はい?」
彼女の方も、どう言葉をつないだものか悩んでいたのかもしれない。不意を突かれたような反応で、あざみ社長は顔をあげた。
「ホテル行かない?」
がたたたたっ。
このキャリアウーマン然とした女性は顔を引きつらせ、壁に背中を押し付けんとする勢いで後退した。そんなに嫌かな、と思いつつも、一朗は訂正を加える。
「失礼、君をからかうつもりで語弊のある物言いをしたのは確かだけど、そういう意味じゃなくてね」
一朗は、神保町の通りから遠方に見える夜景のひとつを指差して言った。都会の闇を高層から照らす東京スカイツリーとは、神田を挟んで真反対の方向である。赤坂、乃木坂、六本木。あの夜景は、東京ミッドタウンのものだろうか。
「グランドヒルズのバーだよ。あそこ行かない?」
「あ、あぁ……」
あざみ社長は、安堵から表情を穏やかなものに切り替える。
「私と一朗さんが初めてお会いしたところですね」
「いろいろたどれば、今回の件、全部あそこから始まったような気がしてね」
「感傷に浸りたいんですか?」
「ナンセンス」
一朗は涼やかな態度で、夜景を眺める。
あの時は、この神保町を含む広大な夜景を、高いところから見下ろしていた。あいりのことも、江戸川のことも知らなかった頃だ。それがほんの2ヶ月ちょっと前のことであるとは、一朗にとってもなかなか現実感がない。
一朗は、言葉の間があく前に、ひと押しをした。
「でも、ちょっと思い出したい気分になっている。僕をこんなことに巻き込んだのも君だし、ちょっと付き合ってくれても良いんじゃない?」
「わかりました。ご一緒させていただきます」
あざみ社長も笑顔で頷く。
「でも私、未成年だから飲めませんよ?」
「僕も運転するから飲まないよ。こういうのは雰囲気が大事だって、著莪は言っていた。僕も多少は、そう思うかな」
一朗とあざみ社長は連れ立つ形で、やはり神保町の宵闇へと消えていった。
「むむっ」
「お父様、どうなさいましたか」
キルシュヴァッサーが何かを受信したように振り返り、ヨザクラがたずねる。
「イチロー様が、女性とサシで飲みに行かれたようですね」
「確証はあるのですか」
「はっはっは、顔が怖いですなぁヨザクラ。あるわけないじゃありませんか。ジョークです」
時間帯も徐々に夜へと移り、施設の中で雑談するプレイヤーの数も減っていった、わけではない。むしろ数を増していった。夕方から深夜にかけては、仕事終わりの社会人がログインし、学生プレイヤーなどとプレイ時間を共有できる数少ない時間帯である。
すなわち、VRMMOにおけるもっともエキサイティングな要素、すなわち『戦闘』が盛り上がるのが、この時間であり、武闘都市デルヴェにおいても、ギルドに未加入のプレイヤーが経験値や素材集めのために野良パーティーを組む相手を探す光景が見られた。そのための掲示板があるのも、冒険者協会の支部である。
VRMMOが一般のMMORPGと異なるのは、夜間の時間帯になると、どのようなプレイヤーであっても一時的にログアウトするということだ。なにせ、ログインしていればご飯が食べられない。現実世界の空腹が、仮想世界に深刻な影響を与えてくることはないが、それゆえに運営も警告システムの設計には気を使っている。脳への信号を変換して表示される警告メッセージを無視し続けると、強制的に接続が遮断されてログアウトするシステムだ。これが結構、容赦ない。戦闘中だろうがなんだろうが、いきなりログアウトしてパーティにも迷惑をかけるので、VRMMOではむしろ、ご飯をしっかり食べていないプレイヤーの方が、地雷扱いされる傾向にある。
良い傾向だ、とキルシュヴァッサーは考えていた。ゲームにのめり込んだプレイヤーであればあるほど、自分が地雷であると思われることを嫌う。パーティが組めなくなるというゲーム効率の悪さにくわえて、『ゲームをよく理解していない』というレッテルを貼られることで、自尊心を大きく傷つけられるからだ。だから、みんな地雷扱いされないように、ご飯はしっかり食べる。トイレには行く。睡眠は取る。警告メッセージを尊重する。
赤き斜陽の騎士団の規則にある『ご飯をしっかり食べること』というのも、あながちバカにしたものではなかったりするのだ。
「私も、一度ログアウトしましょう。アメリカの食事は、胃に負担が強くてあまり慣れないのですけどね」
穏やかな微笑をたたえたまま、苫小牧が言った。サービス開始以来一度もログアウトしたことがない勇者、という称号も、過去のものになりつつある。
「あー、もうそんな時間だにゃー。ぼくもログアウトしよー。御飯たべよー」
「あめしょーって普段何食べてんの?」
「ツナ缶」
「猫かよ」
「猫だよー」
冗談なのかそうでないのか、よくわからない会話をしながら、あめしょーとキリヒト(リーダー)も食事のためにログアウトする。
「そう言えば、今日、アイ来ませんでしたね」
ユーリもログアウトの準備を整えながら、ぽつりと言った。
「ツワブキさんが逮捕されたのが、ショックだったとか……?」
「どうでしょう。アイリスがそういうところを気に止むような女性でないことは、あなたもよく知っているのでは?」
「まーそーなんですけど、あの子昔からメンタル弱いところあったし……」
「あー……」
彼女のメンタルは攻めるに易し、守るに難しの構造をしている。それはキルシュヴァッサーにもわかる。ギザミ装備みたいな女の子なのだ。
「私としては芙蓉さんの方が心配ですなぁ。何かまた暴走していなければ良いのですが」
「あの2人には、人を不安にさせる何かがありますね」
「悪い方々ではないんですが、2人だけにしておくと問題を雪だるま式に大きくしてくれそうな信頼感はありますな」
前回のココ事件を思い出して、キルシュヴァッサーはしみじみとつぶやく。あの時も、アイリスと芙蓉の暴走に、キリヒト(リーダー)の勘違いをトッピングして、ストーキング行為が無駄に大規模になってしまった感がある。あれはあれで、まぁ楽しかったのだが。
「まぁ気に止むこともないでしょう。あまり長期ログインしないようだったら心配もしますが。なにせ私が落ち着いていますからね」
「そう……ですね。じゃあ私も、御飯食べてきます」
そう言って、ユーリもメニューウィンドウからログアウトを選択した。
「私もお腹が減っているようですなぁ」
目の前に出現する赤枠の警告ウィンドウを眺めながらキルシュヴァッサーが呟く。
「お父様も、お食事をとってこられますか?」
「その予定ですが」
「………」
「どうかしましたかな」
黙り込むヨザクラを、キルシュヴァッサーはいぶかしがった。
「私は、現実世界だと食事を摂取することができません」
「ははぁ」
キルシュヴァッサーは顎を撫でながら頷いた。
「つまり、一緒にご飯が食べられないのが、寂しいんですな?」
「理解しかねます。ナンセンスです」
「構いませんよ。私の作った料理の味覚情報をデータ化して、あなたに送ればよろしい」
何気なしに呟いた彼の言葉を、ヨザクラは容易に受け止め難い様子であった。表情は顔に出ない。だが、困惑した雰囲気が滲む。今日、何度も見た彼女の〝感情〟である。
「そのようなことが可能なのですか?」
「できちゃうんですねぇ。イチロー様が、アメリカからVR関連の研究所を取り寄せておりますので。五感の情報をデータ化する設備は、だいたいあったりするのですよ」
キルシュヴァッサー=桜子も扱いを完全に教わったわけではないが、一朗が暇な時間に作成したマニュアルが何故か置いてあったりするので、扱いには困らないだろうと踏んでいた。そうでなくとも、既に使われなくなった研究設備を懇切丁寧に掃除しているのは、桜子である。毎日眺めているうちに、どれがどのようなものかは、だいたい理解してしまっていた。
「とは言え、食感まで伝えるのは難しいかもしれませんなぁ。あまり食感の関係ない食べ物がいいですな。すなわち、カレーです」
うきうきしながらログアウトの準備を整えるキルシュヴァッサー。彼を見るヨザクラの目は冷ややかだ。
「お父様、私はそれを希望していません」
「そうですか? あなたが〝食べること〟を覚えたと知れば、イチロー様もびっくりしますよ」
「希望します」
「よろしい」
それはつまり、イチローを驚かせたいということなのか。あるいは、単純に食べたいという感情を納得させるための建前が欲しかっただけなのか。どちらにしても、人工知能に対して料理の腕を振るう時がくるなど、実に心が踊る話だ。
キルシュヴァッサーとヨザクラは、2人で仲良くログアウトした。影ながらにその様子を眺めていた2つのプレイヤーの影に、気づく様子はなかった。




