第一〇一話 御曹司、一服付き合う
ディナーセットにアルコールを注文したのは、江戸川と芙蓉だけである。御曹司と著莪は帰りの運転があるし、あいりとあざみ社長は未成年だ。あざみ社長が、芙蓉よりもあいりに近い年齢であると発覚したときの、あいりの驚きようと言ったら、なかった。いったいどのような理由で驚いていたのか、彼女も口をするのは自制していたし、追求するとあざみ社長か芙蓉かのどちらかが精神的ダメージを受けることは確実だったので、みんな流した。
「でも、だからって、牛乳?」
著莪のグラスに注がれた白い飲料を見て、あいりがぽつりと言った。
「あいりちゃんも飲んだほうがいいんじゃない?」
「それ、フィジカルな意味で言ってる? メンタルな意味で言ってる?」
あいりの言葉に、著莪はスプーンをおいて、テーブルをぐるりと見渡した。
「俺、今、凄い失礼なことを思いついたけど黙っておこう」
「つまり、喧嘩を売ってるのね」
ところで、一説によれば地上最強の生命体とは、女子高生のことである。専修学校生であるあいりは厳密にはその亜種に該当するが、ゲーム内でエドワードや芙蓉に絡まれてダウンしていた彼女を思えば、リアルのあいりは限りなく無敵に近い生き物に見える。メンタルが成長したといえば、もちろんそれはそうなのだが。
「アイリスがいると、著莪の発言に対してナンセンスな指摘をしなくて済むから楽だなぁ」
一朗はものすごい笑顔で食を進めていた。
「なにそれ、ツッコミはあたし任せってこと?」
「アイリスさんの舌はカミソリ並の切れ味だからな……」
江戸川も、甘口小倉抹茶カレーを口に運びながらつぶやく。見るもおぞましい皿の上に、一同は目を合わせようとはしなかった。彼の言うところのカミソリ舌は、甘口ってそういうものじゃないと思うと連呼したが、スプーンを口に入れるたび幸せそうな顔をするので、もう何も言わないことにした。
「それでいてボディーブローのようにジワジワ効いてくるんですのよ」
「2ヶ月前の時点では未覚醒でよかった」
「いやぁ、当時から才覚の片鱗はあったよ」
「くっ……」
さすがのあいりも、この大攻勢の前にはたじろがざるを得ない。いつの間にか圧倒的アウェイを作り出してしまったらしい。自業自得と言えばまったくその通りである。カミソリなんてのは切れ味は鋭いが横から圧力をかければ割とポッキリ行くのだ。しょせん攻撃ステータス全振りである。守りには適さない。
「あいりちゃん、インドではなんで牛が神聖な動物か知ってる?」
牛乳のグラスを片手に、著莪が言う。話題を切り替える絶好のタイミングであるので、当然、あいりは飛びついた。
「え、知らない。ヒンドゥー教のなんかでしょ?」
「それはな、カレーには牛乳が一番合うからだよ」
「あぁ、そう……」
あいりは急にしらけた顔になった。こういうところが、嘘の付けない少女である。
そんな折り、一朗の携帯に着信があった。ひとこと『失礼』と言ってからスマートフォンを取り出す。着信と言っても電話ではなくメールであったのだが、彼はしばらく、取り出したスマホの画面を眺めてじっとしている。
「なに、誰から?」
「父さんからだね。珍しいこともあるものだ」
「おっ、お父様っ!?」
芙蓉がいきなり席を立ち上がったので、店員のインド人が思い切り驚いていた。
「ぜ、ぜひ! ご挨拶させてくださいまし!」
「芙蓉さん、落ち着いて。メールよ」
「珍しいも何も、今朝逮捕されたニュースも流れましたし、心配くらいされるのでは?」
あざみ社長のもっともな発言であったが、一朗はスマートフォンを内ポケットにしまい直し、首を横に振った。
「父さんは、あまり僕のやることに口を出してきたりしないよ」
今朝、警察署に電話をかけてきた親戚の中にも、父親の名前はなかった。小心者で陰謀屋の石蕗明朗は、あまり一朗に干渉したがらない。いつものことだ。その中には当然信頼もあるわけで、わざわざこうして連絡をよこしてくるというのは、その信頼を上回る何かがあった時に限られる。
あとは、年賀状と中元歳暮に付属する『そろそろ仕事を手伝え』という手紙くらいだが、あれは半ば様式美と化しているので互いにそんな気にしていない。
あざみ社長も江戸川も、この話を広げないほうがいいと判断したのだろうか。一朗としては気を使ってもらわなくても良かったのだが、空気を読むことに長けるこの2人はそのまま黙り込んでしまった。あいりは芙蓉の暴走を押さえ込むのに手一杯の様子である。
その時、江戸川を挟んで隣の席から、著莪が立ち上がった。胸ポケットからセブンスターを取り出して、周囲をキョロキョロしている。
「タバコかい」
「あぁ、ヤニ切れた。おい石蕗、一服付き合えよ」
「ん、」
一朗はタバコなど吸わないが、一も二もなく頷いた。あいりと芙蓉が封印されている今、如何にも話の弾まなそうな2人が残される形となるが、この2人は2人で幸せそうにカレーを食べているので、あまり気にしなくても良いだろう。
インド人の店員曰く、灰皿は外にあるとのことなので、一朗と著莪は連れ立って一旦外に出た。
「で、話って?」
「おう。まぁ先に吸わせろよ」
外に出た一朗がいきなりそう切り出しても、著莪は特に焦った様子を見せない。一服付き合えと言った時点で、何か特別な話があると言っているようなものだ。
夏とは言え、夏至からはもう2ヶ月以上が経ち、夜の訪れも少しずつ早くなっていく。2人が外に出た時点で、神保町は既に薄闇の中にあった。著莪の吐き出した紫煙が、街灯の下で揺らぐ。夜の蒸し暑さだけは変わらないが、気の早いコオロギが植え込みの中で鳴いているのがわかった。
「タバコ、また変えたんだ」
「おう、嫌なことがあるたびに、ゲン担ぎで変えるんだがな。一周してまたセッタだ」
5年前、探偵事務所をやっていた時点で、彼は相当な回数タバコの銘柄を変えていた気がする。
「で、まぁ、話って奴なんだがな」
「うん」
この立ち位置では、一朗から著莪の表情を読み取ることはできない。
「俺もいろいろ考えたんだが、一応お前には言っとこうと思ってだな」
「もったいぶるなぁ」
「こういうのは雰囲気が大事なんだろーが。えぇと、あれだよ。ローズマリーの件だが」
このタイミングでの、それなりに深刻そうな話題である。さもありなんだ。一朗は、黙って続きを促した。
「ローズマリーを、自我を持った一個人として扱うところまで持っていくのが、難しい可能性がある」
「ん、」
一朗は目を瞑り、その言葉の意味を正直に受け取った。
「それは君の腕をもってしても?」
「あー、なんだな。ちょっと長い話になるが」
「どうぞ」
著莪は、灰皿にタバコを押し付ける。しばらくの沈黙があって、また口を開いた。
「まずは、ローズマリーに限らず、あざみ社長の開発した技術っていうのは大したもんでな。現行法で扱いきれる範囲を大きく超えちまっている。経済界に限らず司法界でもな、シスルのポジションっていうのはけっこうでかいんだ」
その台詞は、おそらくこれから続く〝長い話〟の大前提になるものだろうと、一朗は踏んだ。
あざみ社長が開発したのは、ローズマリーをはじめとした十賢者と、最新の仮想現実技術である。特に量子情報と脳波の共振によって、使用者を覚醒状態のまま仮想世界へと没入させるドライブ技術は、各界に衝撃を走らせた。
一朗は経済界における、著莪は司法界におけるその影響をよく知っているつもりだが、おそらく、そこだけではなかっただろう。例えば医学界においてドライブ技術がどのように扱われたかは、苫小牧を通して知ることができた。多くの医学関係者は、ドライブ技術が人体に及ぼす影響について懐疑的であったろうし、苫小牧はその懐疑が杞憂に過ぎなかったことを、文字通り身をもって証明している。
「実はもうかなり、ドライブ技術に関する法整備の不備を指摘する声が上がっている。例えば、だが。そうだな」
著莪は少し考えた後、このように話を続けた。
「おまえんちのメイドな。確か男のアバターを使っているだろう。声は当然、男の声だ」
「そうだね。桜子さんの好きな声優だと言っていた」
「だが別に、実際の声を録音してサンプリングしたわけじゃない。一部の声優は協力したらしいが、名義だけ貸し出されている声優ってのも多い」
その言葉の意味を理解するのには、さしもの一朗も時間を要した。
「あぁ、集合知集積システムか」
「そう。あれで、だいたいこの声優ならこんな喋り方をするだろうって共通のイメージが蓄積される。で、この信号通りの声を、脳が受信するわけだな。詳しいことは俺も知らんが。名義だけ貸してるっていうのはそういうことだ」
「故人の声も使えるね」
「実際、亡くなったあとに事務所から名義だけ貸し出された声優もいるって聞くぞ。不謹慎だが、やっぱりもう聞けない声ってだけで人気があってな。まぁ、俺の言いたいことも、わかるだろ?」
ドライブ技術による仮想空間を使えば、死者を喋らせることも可能である。おそらく、多くのプレイヤーは特に意識もせずに声を選択しているのだろうが、これが浸透し自然なものとなれば、今までに人間が築き上げてきた価値観も、徐々に崩れ去ってしまう可能性がある。
もちろんそれは懸念すべきことだが、法律家としての著莪が言いたいのは、おそらくそちらではない。
共通のイメージが作り上げた『声』を使用することに際して、イメージの元ネタである声優の名義が必要になる。このこと自体、現行法における『肖像権』の概念を根底から揺るがしかねない問題だ。
「と、声ひとつとってもこんな問題がある。〝イメージ肖像権〟っつってな。司法界ではいま、結構アツいテーマだ。シスルは穏便に済ませたかったから、開発の時点で、名義だけを借りる場合でも事務所に声優の使用料を支払っているんだが」
「今後、名義の使用料を支払わないVR娯楽が出てくる可能性がある」
「そういうことだ。じゃあ話を戻すぞ。こんな感じで、ドライブ技術に関して、司法の立場を明確にしようって声があるわけだ。現行法そのものにメスが入る可能性もある」
著莪の話は続く。
「日本は法典法主義だが、判例っていうのは相変わらず強い力がある。法整備が整ってない状態で、ドライブ技術関連の裁判が起きたとき、その判決結果が法整備そのものに影響を及ぼす可能性が出てくる」
話の意図が、一朗にも見えてきた。
ドライブ技術関連だけではない。ローズマリーに関する裁判においても、今後制定されるであろう法に対して影響が出てくる可能性があるということだ。事実だけを抜き取ってみれば、それは慎重に判決を下すべき問題である、というだけであるが、世間には闇があることを、一朗も知っている。
現行法に手が加わることを、快く思わない人間は存在する。利権が絡むこともあれば、絡まないこともある。もし裁判によってローズマリーの人格が認められるようなことがあれば、自我を持ったプログラムに関する法の制定は免れない。それでは困る連中がいるということだ。無論それは、ローズマリーの問題に限らず、ドライブ技術関連の問題にも同じことが言える。
「判決結果に圧力をかけて、その後の法整備を自分たちに有利なものにしようって一派は、存在するって話だ。俺が言いたいのは、そういうこと。ローズマリーの件が難しいってのは、そういうことだ」
「そのこと、あざみ社長には?」
「言ってない。あの人も、自覚がないだけで台風の目だからなー。いつか知ってもらわなきゃならないんだが」
一朗は、内ポケットからスマートフォンを取り出した。先ほど、父親から届いたメールは、まだ開いていない。
小心者で陰謀屋だが、一朗のことを強く信頼する父親が、わざわざメールを送ってくる事態。それは親としての、ちょっとした忠告のようなものだろう。一朗の直感は、父からのメールと著莪の話を、自然と一本線で結びつけていた。
もうひと波乱、あるかもしれないな。
そう思い、一朗は再び携帯をしまい込む。
「まぁ、今回の件で、君のそのタバコが不味くならないことを祈るよ」
「祈るだけじゃなくて尽力しろよな」
著莪はもう一本吸おうとしたが、付き合うのは一服という話だったので、一朗はさっさと店内に戻った。
ポニー・エンタテイメントの本社ビルは、東京都港区に存在する。その最上階に、最高経営責任者たる彼は座り込んでいた。年相応の皺が刻み込まれた顔には険しい表情を浮かべ、卓上に無造作に置かれた自社製品を、ミライヴギア・Xを眺めている。
彼には微かな苛立ちがあった。禁煙生活をはじめてから、感情を持て余すことが増えたように感じる。寂しい口元を紛らわすため、引き出しをやや乱暴に開けて、中に入っていたロリポップキャンディーを取った。
「どう思うかね、秘書山くん」
彼がたずねると、部屋の入り口に備え付けられたデスクでキーボードを叩いていた女性が手を止める。
「あのヨザクラとかいうアバターのプレイヤーだよ。シスルの方から何か連絡はあるのか?」
「いいえ、特には」
「ふむ」
男は、キャンディーの包装をはがし、掲げてみる。室内の光を透過し、棒の先端に取り付けられた紅い球体が安っぽい輝きを見せた。
「あの弁護士の小僧が余計な口添えをしたのかな。件の人工知能は解体処分したんだろう?」
「そう伺っております」
「ふーむ。石蕗の息子にしてはやることが迂闊だと思ったが、そういう顛末かァ。これはシスルにもペナルティが要るなァ」
シスル本社のサーバーに対して行われた不正アクセスの件は、どうやら石蕗一朗の家からされているらしいという報告を、今月の半ばごろに受けた。その時の衝撃と言ったらもう。彼はデスクに飛び乗って小躍りしたい気分であった(実際にやった)。何しろあの石蕗の顔に泥を塗る絶好の機会である。努めて冷静に、彼は各方面へ指示を出した。そのアクセス経路が複雑に欺瞞されたものではないのかどうか。すなわち、これがヌカ喜びでないのかどうか。
石蕗一朗宅からの不正アクセスが、どうやら間違いないとの確証が得られたところで、彼はこの件を警察へと通達した。相手が相手なので警察も二の足を踏んだが、上層部には知り合いも要る。極めてスムーズに。合法的に。石蕗一朗は逮捕されたわけだ、が。
件の人工知能の仕業ともなれば、話の流れは変わってくる。石蕗一朗は完全な冤罪であり、誤認逮捕だ。客観的に見て、ポニー社の知りうる限りの情報を合算すれば、そのような通報をせざるを得なかった事実はあるが。少なくとも、ポニー社が受ける社会的ダメージは、今のところ最小限で済む。その事実だけが彼の平静さをつなぎとめていた。
「ただ、あの人工知能は放ってはおけんなァ。秘書山くん」
「はい」
「解体されたものは、解体されていなくちゃぁならんなァ。秘書山くん」
「はい」
「秘書山くん、ひょっとして眠い?」
「はい」
この秘書は、優秀だが少々マイペースなところがある。
「まァいいや。仕事が片付いたら、少しレベル上げを手伝ってくれんかね」
「かしこまりました」
男は、しばらく眺めていただけのロリポップキャンディーを、ようやく口にくわえた。どうにも甘ったるくて仕方ない。もう少し、刺激が欲しいなァ。と、思いながら、彼はキャンディーを舐め回し続けた。




