行方不明のわかと温かな粕汁・中
本当に、今日は風の冷たい日だ。
強く吹きつける風に体を丸めた客たちが、次々と店にやって来る。竈の火で温まった店内と、出されたお茶にホッとした顔を見せる客が多かった。そんな中、蕗谷亭でいちばん温まるだろう麺定食――けんちん蕎麦に、梅と鮭の握り飯、そして糠漬け――を、ほとんどの客が注文していった。
昼定食用に準備していた分よりも多く注文が入ったので、俺たちは出汁を追加で取りながら、ひたすら料理を提供することに集中していた。
長屋のみんなは、小さなわかを探しに出ていて、まだ帰ってこない。
外からは時折、「わか、どこだい?」「わかちゃん、出てきておくれ!」という長屋の住人の声が、風に乗って聞こえてきた。そのたびに、しのもりんさんも心配そうに顔を上げる。
昼定食が終われば、俺たちも探しに行ける――けれど、それよりも早く、どうか無事に見つかってほしい。俺は昼定食を作りながら、そう願っていた。
「ごめん、竈を一基借りるよ」
俺は使っていない竈で火を起こすために、隣の竈から火種を借りて薪をくべ、火を強くした。見つかったわかや探している人たちのために、温かいものを用意しておきたかったんだ。
火が安定すると、台所の隅に置いてある大きな新聞紙の包みを取りに行く。これは、薬研製薬からお歳暮としてもらった荒巻鮭だ。現代ではあまり見かけないもので、俺はここに来て初めて見た。鮭の腹を割いて内臓を取り出し、縄や藁で巻いて大量の塩に漬け込んだ保存食の一つだ。
塩漬けの鮭といえば北海道を思い浮かべるかもしれないが、意外にもこの時代の本州でも多く獲れていたらしい。俺たちが生まれるより前――明治十七年ごろには人工ふ化が成功していて、鮭が安定して手に入るようになっていたんだ。
ただ、冷蔵庫がないため、保存しやすいように塩漬けにされたものが多く流通していた。これは洗って塩を落とすが、それでもやっぱり塩気が強い。
鮭のうま味を逃さずに塩味を抜くには、二つ方法がある。塩水に漬けるのと、酒と味醂を合わせた水に浸ける方法だ。科学的な理由は正直よく分からないけれど、俺は叔父さんにやり方を教わっただけで、深くは知らない。荒巻鮭を目にしたのも、料理したのも、明治に来てからが初めてだった。
俺は、より早く塩味が抜けるように酒と味醂を合わせた手法を選んだ。塩で真っ白になった鮭を盥の水で洗い、水気を拭き取る。その盥に水と酒と味醂を加え、よく漬かるように手拭いをかけておく。
さて、次は野菜を切らないと。
常備しておいた胡蘿蔔、大根、牛蒡、里芋を使うことにした――そう、粕汁を作ろうと思ったんだ。粕汁は体を芯から温めてくれる。寒い中帰ってきた人たちが、ホッとするだろうと思った。
粕汁は関西を中心に、酒を造っている地域で食べられている郷土料理だ。奈良時代から食べられているというから、歴史ある料理だよな。現代の父さんが京都生まれだったから、母さんもよく粕汁を作っていた。明治でも、体を温めるために作る家庭が多いらしい。鎌倉町にある豊島屋っていう酒屋で、酒粕が手に入るんだ。
「兄ちゃん、あたしが野菜を洗って切っておくよ――粕汁を作るんでしょ? 足らないものがあるんじゃないの?」
俺が用意した野菜が入った竹籠に、しのが手を伸ばしてそう言ってくれた。店内を見ると、客足は少し落ち着いたらしい。目が合ったりんさんが、額に浮かんだ汗を手拭いで拭いながら笑いかけてくれた。外は凍えるほど寒いが、竈の前で作業をすると汗が流れることもある。
「あたしとしのちゃんで、今は大丈夫だよ。気にせず、今のうちに行っておいで」
「ありがとうございます。じゃあ、江戸味噌と油揚げを買ってきますね――急いで戻ります!」
二人に頭を下げると、俺は前掛けをつけたまま外に飛び出した。「急ぎ過ぎて転ばないように! 気を付けるんだよ!」と、りんさんの声を背中で聞きながら、俺は味噌屋に小走りで向かった。
「恭介」
江戸味噌と油揚げを抱えて帰る途中、名前を呼ばれて俺は道端で立ち止まった。
「尊さん、どうしたんですか?」
軍服に分厚い外套を羽織った尊さんが、博少尉と陸奥さんを連れて立っていた。赤坂の駐屯地に向かっているようだ。普段なら自動車か馬車で移動しているはずだが……薬研製薬にでも寄っていたのかな?
「今、軍内で風邪が流行っていてな。薬を頼みに薬研製薬に行っていたんだ。お前は? 今、店は忙しいんじゃないのか?」
言いながら、尊さんは外套を少し払ってズボンのポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認している。前に使っていた懐中時計は独逸に行く前に俺にくれたから、新しいものだ。
「足りない食材を買いに、ちょっと出ていました――もしお時間があるなら、寄りませんか? 粕汁を作っているんです。温まりますよ」
「粕汁? いいね、温かそうだ」
博少尉が、尊さんの返事を待つ前にそう声を上げた。博少尉は食いしん坊ではないが、やはりこの寒さで暖を取りたかったのだろう。着物に下駄姿の俺より温かそうなのに、なんて少し思ってしまった。
「まだお時間はありますよ」
陸奥さんの言葉に、尊さんは柔らかく笑った。そうして、帽子の鍔を持ってかぶり直す。
「じゃあ、少し寄らせてもらおう。恭介は、すっかり俺の部隊の胃袋を掴んだな」
「胃袋を掴むのは、お嫁さんだけでいいんですよ」
俺は笑いながら、尊さんと並んで蕗谷亭に向かった。クスクス笑いながら、博少尉と陸奥さんも続いた。
「しかし、少し騒がしいな。何かあったのか?」
近くまで帰ってくると、わかの名を呼ぶ住人たちの声がする。怪訝そうな面持ちで、尊さんは通りに視線を巡らせた。
「八百屋の源三さんの孫のわかが、朝から出て家に帰ってないんです。長屋のみんなで、今探しに出ています」
「わかちゃんって、まだ小さい子じゃなかった?」
博さんが、心配そうな顔になって俺たちの会話に入ってきた。蕗谷亭に来る時に、長屋の前で遊んでいるわかたちを何度か見ていたので、記憶にあったのだろう。
「はい。そう遠くには行っていないと思って、この辺りを探しているんですが……」
俺は買い物に行く前に、源三さんに声をかけた。俺も少し探すと言ったのだが、源三さんは首を横に振った。「今の人数で十分だ」と。
「――心配だね。僕たちも探そうか? それとも、警官に……」
「いたぞー! わかがいた!!」
大きな声を上げたのは、勝平さんだった。俺たちは、無意識にその声の方へ走り出していた。
「わか!」
探しに出ていた住人たちも、その声に向かって集まった。おとよさんは、源三さんの手を取って泣きながら駆け寄っていく。
わかは、蕗谷亭の横の畑の奥――雑木林の手前にいた。俺が畑の野菜を霜から守るために置いていたござの束の間で、すやすやと眠っていたんだ。
「……え?」
一番近くにいた勝平さんが、わかの様子を確かめようと覗き込み、そんな言葉を口にした。
「猫だ。子猫がいる」
勝平さんの声に、皆がわかの側へ近づいた。眠っているわかの懐には、ふわふわした毛の子猫が二匹、寄り添うように眠っていた。三毛猫と――真っ黒な猫。子猫たちは、わかの胸に顔を埋めるようにして、まるで彼女を温めているみたいだった。
「もしかして、わかを温めてくれていたのか? お前たち……」
寒さで頬が赤くなった清が、わかの側に駆け寄った。
博少尉がまっすぐにわかの傍へ行くと、髪をかき上げるようにしてその額に手を当てる。冷えてはいるが、凍えてはいなかった。
「よかった、温かい……この子たちのおかげだね」
「わか……よかった、本当に良かった……ごめんよ、目を離しちまって……」
その声に、おとよさんは口元を押さえて涙をこぼした。
「とりあえず、家に帰りましょう。失礼しますね」
「ありがとうございます。わかは蕗谷亭に連れて行ってもらえますか? 竈の火がありますし、皆にゆっくりしてほしいんです」
博少尉が、わかを抱き上げた。もちろん、子猫を落とさないように優しく。博少尉と俺の言葉に、長屋のみんなも安心したように頷いた。まだ泣いているおとよさんを支えるように、源三さんがしっかり肩を抱いて歩き出す。
本当に、わかが無事に見つかってよかった。わかを抱えて歩く博少尉に続いて、勝平さんと清がついていく。松吉さんは、源三さんと並んでおとよさんに「よかったなぁ」と笑いかけていた。
「すまない、役に立たなかったな」
俺と並んで歩く尊さんが、申し訳なさそうに小さく呟いた。
「いいんです。俺たちが探す前に、わかが見つかったんで! ありがとうございます」
俺の言葉に、尊さんは小さく笑う。
「そうだな。では、みんなでお前の粕汁を飲んで温まるか」
吹く風は、また冷たくなった。本当に、粕汁を用意しておいてよかった――あ、子猫たちに何か食べさせないと。
俺は、わかの命を救ってくれた猫たちに、何をあげればいいかと思案しながら蕗谷亭に向かった。
明治三十七年に醸造試験所(現在の独立行政法人酒類総合研究所)が作られて、酒造り技術が安定しました。
豊島屋本店:慶長元年創業。神田鎌倉河岸(千代田区内神田)で酒屋・角打ちの店として創業しました。




