餡かけ豆腐と突然の再会!・上
「兄ちゃん、大変!」
今朝のまかない食堂は、ほとんどの人が食事を終えていた。まだ食べに来ていないのは、おっかさん。それと珍しく、源三さんだった。源三さんは仕入れが早いから、朝はほとんど一番に来る。不思議に思ったしのが、さっき彼を呼びに行っていた。
その源三さんを呼びに行ったしのが、派手な音を立てて引き戸を開いて慌てて帰ってきた。
「源三さん、家で倒れてるよ! 兄ちゃん、来て! あたしじゃ、源三さんを起こせないよ!」
泣きそうなしのの声に、俺もりんさんもびっくりした顔になる。それでも、すぐに体は動いた。俺とりんさんは、前掛けや割烹着姿のまま揃って店を出た。泣きそうな顔のしのもその後に続く。
「あたしは、医者を呼んでくるよ! 恭ちゃんは、源三さんを頼んだからね!」
「すみません、お願いします!」
大通りに向かう別れ道に来ると、りんさんは下駄を鳴らして診療所がある道へと駆けて行く。俺としのは揃って、俺たちの長屋の並びの源三さんの家に向かった。
「源三さん!」
家の中に入ると、布団から立とうとして気を失ったのか源三さんが畳の上で倒れていた。俺たちの呼びかけに大きな反応はないが、胸が上下に動いているので息はある。はぁはぁと忙しない呼吸を繰り返していた。
「熱がある……風邪かな」
抱えようと触れた源三さんの体は、着物越しでもわかるくらい熱かった。俺が体を動かしても、やっぱり意識が戻る様子はない。
「そう言えば、最近咳をしていたね――あたし、お水汲んでくるよ」
しのは最近の彼を思い出すように小さくそう呟いてから、源三さんの家にあった桶を持って井戸に向かった。俺は敷きっぱなしだった布団に源三さんを寝かせて、薄い布団をかける。そうして、寒いこの部屋を温める為に竈に火をつけた。
食事はまかない食堂で食べているけど、竈付きの台所はちゃんとこの長屋全部にある。火鉢に置く火種を作るためだ。部屋を暖めたりお茶を飲んだり、明かりにしたり――火は、生活に欠かせないものだ。
「……よ……」
俺が火を起こした頃に、しのが桶を持って帰ってきた。帯に挟んでいた手拭いを素早くその桶に浸して、源三さんの熱い額を手際よく冷やしはじめる。清や治郎が熱を出した時に、仕事で手が離せないまつさんの代わりに俺たちがよく世話をしていた。だから、風邪の時の世話は慣れている。
熱で汗を流している源三さんの体を清めている時に、源三さんがうわ言の様に何かを呟いた。
「ん? どうかした? 源三さん」
「……お、……とよ……」
「おとよ?」
「源三さんの娘だよ! 本当だ、すごい熱だね。顔が真っ赤じゃないか!」
「わぁ!」
突然まつさんの声が聞こえたので、俺たちはびっくりして源三さんの汗を拭いていた手拭いを落としてしまった。いつの間にか家の中に入ってきたのは、間違いなく仕事に行ったはずのまつさんだ。
「医者を呼びに行くりんさんが、浜松商店の横を通った時にあたしに声をかけてくれたんだよ。あ、恭介火を早く持ってきておくれ。熱があっても、この寒さの中水で体を拭いちゃ体が冷えちまう。温かいお湯で体を拭って、顔は冷たい水で拭いておあげ」
やっぱり、まつさんはすごい。慣れているとはいえ、俺たちはあまりちゃんとした看病が出来ていたわけじゃないようだ。熱があるから水で拭けばいい、と思い込んでいた。確かに冷たい水で体を拭かれた源三さんの風邪がひどくなったら、大変だ。俺は火をつけた竈の上に置いていた鉄瓶で沸かしていたお湯を、しのが持って来た桶に入れてぬるめのお湯にした。そうして人肌より少し暖かくなったお湯で、しのが源三さんの体を拭く。その間にまつさんは荷物が少ない源三さんの箪笥の中から着物を取り出して、汗を拭き終えた源三さんに着替え直させた。
まつさんのテキパキとした指示のおかげで、俺たちは早めに源三さんをゆっくり休められるように出来た。
それから間もなく、医者を連れたりんさんはすぐに来た。やっぱり、風邪のようだった。源三さんはよく煙草を吸うから肺が少し弱っていて、体力がなくなって急に倒れたらしい。
「体を温めて、よく水分を取り、栄養のあるものを食べさせなさい」
医者はそう言うと、アンチピリン飲という紙に包まれた謎の風邪薬と忠勇征露丸という――多分、正露丸だよな? を俺たちに渡して帰っていった。この忠勇征露丸とは『中島佐一藥局』が、明治三十五年の、日露戦争前に売薬営業免許の証を取得して販売していた。俺が知っている会社と違うから、これから後で販売元が変わるのかもしれないな。熱で腹を下すかもしれない、という理由で置いて行ったのだ。
「まつさん、俺たち源三さんの家族の事知らないんだ。もし娘さんがいるなら、どうして一緒に住んでいないの? 別れた奥さんと住んでいるの? 俺たちが知らない間にお嫁に行ったの?」
医者を見送ってりんさんとしのがまかない食堂に戻ると、俺は源三さんの顔に流れる汗を冷たい手拭いで拭って神妙な顔をしているまつさんに、ずっと不思議に思っていたことを次々と尋ねた。
「おとよさんはね……九の時に、源三さんが知らない間に遠くの奉公に出されたのさ。別れた奥さんが、源三さんには黙ってね。おふささん……ああ、源三さんの嫁なんだけどね、おふささんは、破落戸の若い男と、おとよさんを打ったお金で、どこかに逃げたのさ」
俺は、びっくりした。源三さんにそんな過去があったことを、今まで知らなかった。誰もそんな事を言わなかったからだけど。
「今は、年季奉公も多分終えて……二十二、三歳になるんじゃないかな? 幸い女郎屋に行くことはなかったけど、年季が上がる十年は辛かったと思うよ。実はね、去年一度訪ねてきたことがあったんだよ。『磯野源三という方の八百屋さんはいまもありますか?』って、知らない娘さんがうちの店に来たのさ。それはまあ、綺麗な娘さんになってたよ。教えてあげたら、数日は源三さんの店を影からそっと眺めてた。満足したのか、それから帰りますって出て行ったよ」
「なんで? なんでその時に、源三さんに教えてあげなかったの!?」
俺は、病人が寝ていることを忘れて大きな声を上げてしまった。即座にまつさんに口を押さえられて、慌てて俺は口を閉じた。
「言わないでくれって、おとよさんに頼まれたんだ。でも、どこで住んでるかはちゃんと教えて貰ったよ。今は上野にある翡翠楼ホテルで、仲居さんをしているみたい――もしかしたら今が、話す時期なのかもしれないねぇ」
まつさんは、何故か複雑そうな顔をしていた。その時の俺は、まつさんの表情の意味が分からなかった。
「あたしは、店に戻るよ――恭介、すまないがしのと二人で看病してくれないかい? あたしは店に戻って、翡翠楼のおとよさんに電話をしてくる」
「ありがとう、まつさん! お願いします」
俺は、一人で寂しそうだった源三さんの家族が帰ってくるかもしれないことが嬉しくて、笑顔でまつさんに礼を言った。
外は、まだ寒さが残る三月だ。火鉢の火が消えないように気をつけながら、俺は後片付けを終えて交代に来てくれるしのを待っていた。




