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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
八膳目

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25/67

交渉にはたまごサンドヰッチと青豆のスープ・下

「うふふ、お褒め下さりありがとうございます」

 今度は隣のおっかさんも笑いだしたので、俺は本当に何が起こっているのか分からなかった。

「よひらに連絡を貰った時に、事情は先に聞いていた。同じような六軒長屋を紹介して欲しい――と。だが、理由は「恭介の口から聞いてください」と、よひらは言っていてな。お前から、確かにちゃんと理由を聞いた。そして、儂は納得した。お前にも、儂と同じように大事な『仲間』がいるのだな」


 俺は驚いて、おっかさんの綺麗な横顔を見つめた。

 確かに、俺の見た目は――周りが見れば、まだ十歳の子供だ。もしおっかさんも俺を子ども扱いしているなら、こんな無謀な行動を止めていただろう。俺の浅はかな計画を聞いて、薬研氏に連絡をすることはなかったはずだ。

 でも、おっかさんは薬研氏に「恭介から話させます」と言ってくれた。おっかさんは、俺が思っている以上に――信じて、助けてくれている。その事が、本当に嬉しかった。


「ここに来るまでに、門田に調べさせておいた。好都合にも、赤坂にここより少し広い六軒長屋がある。去年の末に建てたばかりで――幸い、まだ住人は決まっていない」

 そう言うと、薬研氏は門田さんから受け取った紙をちゃぶ台に開いた。どうやら地図のようだ。彼が指差す所に、六軒長屋が描かれている。ここと同じ並びで、井戸を挟んで向かい合う三軒の長屋が二つ。

「あの、でも――新しく建てたという事は、家賃がずいぶん高いんじゃ……」

 こっちの長屋は、もう年季が入った隙間風だらけの家だ。新築なら、俺が想像した金額よりずっと高くなるだろう。そうなると、長屋のみんなの家計への負担も大きくなる。

 俺が勝手に決めて、いいのか?


「儂がここを買い取ることにした――まあ、正式にはこれから買いに行く。向こうには朝早くに連絡をしているから、間違いなく購入出来る――そこで、恭介。儂と取引せんか?」


 薬研氏の楽しげだった顔が、ふと商売人の顔に戻った。

 俺は思わず背筋を伸ばし、涙を着物の袖で拭って真っ直ぐに彼を見返した。


「ここに、一軒の家があるだろう? 実は、前に茶屋を開いていたところらしくてな。店は閉めていて、誰も住んでない。それに裏手には、一()ほどの使われていない畑もある。お前の返事次第では、儂がこの茶屋跡と畑も買い取ろう。そうして、手入れをして長屋の者が食事をとるまかない食事処にしてやる。お前はここで、長屋の住人の食事を作ってやるといい。それと――長屋の家賃はここと同じ金額にして、値上げをしない。もちろんまかない食事処は、期限付きだが無料で貸してやる」


 六軒長屋を指差していた薬研氏の指が、少し離れた――と言っても、三軒分くらいしか離れていない所を指差す。その近くに、薬研製薬所の工場の名前もちらりと見えた。


 皆の食事を作れて、その食事を出来る場所を――期間限定だが、無料で貸してくれる? 期限がいつまでとは分からないが――いくらなんでも、俺達に好条件過ぎる。その対価として、彼は俺にどんな条件を出してくるのだろうか。


「儂の会社の工場が、ここにあるだろう? そこでは独り身の従業員が働いておってな。住み込み用の部屋を会社が用意している」

 薬研氏の指が、工場の隣の建物を指した。住宅のような建物がいくつも並んでいる――長屋のような造りだ。

「だが、今まで彼らの食事を作っていた料理人が、急に田舎へ帰ることになってしまった。――そこで、儂からの提案だ。長屋の食事と一緒に、彼らの分の食事も作ってもらいたい。お前がそれを引き受けてくれるなら、交渉成立だ。これなら、お前も妹も、無理をして薬研製薬で働かずに済むだろう」

 それは、思ってもいなかった言葉だった。

 俺は地図から顔を上げ、薬研氏を見つめる。食事処の対価として、確かに彼に損はない。だが――俺はおっかさんへと視線を向けた。その仕草に気づいた薬研氏は、少し表情を緩める。

「もしお前たちが働いて、その給金をよひらに渡したいと思っているのなら――月五円を二人分、薬研製薬が支払おう。お前たち二人の給金としてな」


 つまり、食事を多く作ればいいということだ。それなら、俺にも出来そうだ。薬研製薬に奉公に行かずに済み、予定通り長屋のみんなの食事を用意できる。おっかさんに、生活費も渡せる。――だが。

「その従業員さんの食費と、作る人数は?」

「食費はもちろん、薬研会社が負担する。食事処の家賃は、お前たちの労働の対価の一部ということにしよう。人数は、今のところ八人だ」


 八人……。正直、俺は出来るか不安になった。しのは手伝ってくれているが、料理人ではなく、まだ子供だ。そんな俺たち二人で、八人分と長屋の住人の食事を作れるのか……。


「ちょいと失礼しますよ!」


 その時、不意に女性の声がして建付けの悪い引き戸が開けられた。どうやら、長屋の住人が聞き耳を立てていたようだ。ちらりと源三さんやまつさん夫婦の顔が見えた。

 それより。前に出て俺たちの家の中に入ってきた女性の顔には、あまり馴染みがなかった。年の頃は、二十代の半ば頃だろうか。美人ではないが、愛嬌のある顔立ちの人だった。薄く残るそばかすが、可愛らしさを引き立てていた。

「あたしは、活動弁士の間宮勝吉の妻のりんです。勝手に聞き耳を立てちまってすみません。そのまかない作り、あたしも手伝いますよ。そよさんの子供達だけに、あたし達の生活すべてを任せる訳にはいかないからね。三人なら、何とかならないかい?」


 それは、思ってもいない助けの言葉だった。同じ献立(メニュー)を作るのは簡単だが、人手が足りなかった。突然名乗り出てくれたりんさん――今はよく知らない人だけど、この長屋の住人なら多分頼りにしてもいいだろうな。

 りんさんが手伝ってくれるなら、きっと俺達で出来る――いや、やるんだ!


「交渉成立です! 俺としのとりんさんで、長屋と薬研製薬の飯屋をやります!」


 興奮して赤くなった俺の顔を見て、薬研氏は満足げに頷いた。外にいたまつさん達から、わっと歓声が上がった。

「よし、交渉成立だ。後で書面を作成して、きちんと契約する。「出来ませんでした」は、子供でも通らんからな?」

 その一言に、さすが商人だと苦笑いした。俺は「はい」と、素直に頷いた。


「薬研様、お昼はまだお済ではないですよね?」

 そこに、おっかさんが声を挟んだ。その唐突さに、薬研氏は少し面食らったようだ。

「あ、ああ。まだだが」

「そうですか――ほら、恭介もしのも直ぐ用意しな。薬研様。この子たちは自分たちの腕をご覧いただくために、朝から頑張って作っていたんですよ」

 その言葉に、俺としのは立ち上がって竈へ向かった。火が通り過ぎないように脇に置いていた青豆のスープの鍋を、火を残していた竈に戻す。この火のついたままの竈は、薬研氏の為に部屋を暖めていたのもある。でも一番の理由は、スープを温め直せるためだ。

 汁椀には、青豆のスープ。それから、パンが乾かないように載せていた濡れ布巾を取り、たまごサンドヰッチが乗った皿を盆に載せる。


「どうぞ」

 しのはお盆に乗せて運んだそれらを、ちゃぶ台に並べた。

 サンドヰッチとスープ――現代では、普通の食事だ。でも、この時代ではまだまだ目新しい。それに、俺は現代風にアレンジもしているけどね!

 門田さんは、主人と並んで食べる訳にはいかない。と、困ったように薬研氏に視線を向けた。だが、薬研氏は「お前も食べろ」と言って、パンを手にした。


「――ん?」

 一口サンドヰッチを齧った彼は、それを喉に流し込んでから不思議そうに瞳を丸くした。

「恭介、これはたまごサンドヰッチの筈だな? 儂が知っているものと、随分違う――まろやかで、美味い。ぱさぱさとしていない」

 そりゃ、マヨネーズはまだ普及してないからなぁ……玉子サンドヰッチに混ぜられるのは、まだまだ先の世だ。バタを塗っただけのパンに、辛子を混ぜただけのたまごは口がもさもさするに違いない。


「実は、本で読んで作ったソースです。西班牙(すぺいん)のもの、との事です」

 確かマヨネーズは、地中海の島が発祥で仏蘭西(ふらんす)人が広めた筈だと記憶していた。そんな本は読んでいない。恭志である俺の、現代の記憶だ。しかし、それが一番自然だろう。と、そう口にした。あまり不自然がないように、この時代風に辛子も少し混ぜている。


「まったりとした触感で、僅かな酸味と塩気がいい塩梅だ。刻んだ茹でたまごとよく合う。うん、辛子もいいアクセントだ。乾いたパンに沁み込んで、食べやすい」

 瞳を伏せて噛み締めて食べる薬研氏の隣で、許可の出た門田さんも遠慮気味に口にした。しかし一口食べて、彼も満足そうに俺に笑いかけた。

「本当に。大変美味しゅうございますね」

「ふむ。青豆のスープも美味い。青臭さを感じずに、牛乳とバタでまろやかに喉を通る。青豆は、実はあまり好物ではなかったが……不思議に、これなら食える」

「青臭いものは、塩を多めに使うといいんです。干し青豆を茹でる時に、多めの塩を使いました。ですから、味付けはバタに入っている塩だけです。風味は、よりまろやかにしてくれる牛乳です」

 干し青豆は、茹でてからすり鉢で擦ってペーストにした。それを、牛乳に混ぜてスープにしている。綺麗な緑色だ。この時代、干し青豆でこんなスープを出すのは、限られた店でしかないんじゃないのかな?

 

 説明する俺に頷きながらも、薬研氏と門田は料理を綺麗に食べてくれた。


「美味かった、御馳走さん。これなら、安心して食堂は任せられそうだ。では、儂はそろそろ長屋の買い取りに行ってくる。飯屋の手入れの手配もしなければならんしな」

 満足そうに腹を撫でてから、薬研氏と門田さんは立ち上がり家を出た。長屋の皆は、馬車に乗る彼らに深々と頭を下げていた。


「あの、薬研様。どうして、俺達によくして下さるんですか?」

 俺は、一番謎だったことを尋ねてみた。どう考えても、俺達に得な事ばかりだ。

 薬研氏は彼の息子が乗る馬車の警護の馬に蹴られただけの俺に、どうしてここまで世話をしてくれているのだろうか。二十円も慰謝料をくれて、普通ならそれで終わったはずだろう。


「それなら、尊に感謝すると良い」

 馬車の窓から俺を見下ろす薬研氏は、彼の別の息子の名を口にした。俺は整った顔立ちの、人懐っこいが大人びた尊さんを思い出した。

「尊が、恭介は大物になるから今のうちに育てるのがいいと言っていた。まぁ、今なら俺もそう思う。期待しているぞ」

 薬研氏の、その言葉を残して馬車は走り出した。


 薬研尊。彼はコロッケを大金払って買ってくれた上に、俺の将来を期待してくれている――俺はおっかさんとしのの他に、大切な恩人が出来た。


「兄ちゃん、約束!」

 馬車が消えた途端、しのが思い出したように声を上げた。そう言えば、サンドヰッチを食べさせる約束をしていたな。

「一口ずつになるんですが、皆さん食べませんか?」

 俺は、先ほど薬研氏たちに出した残りのサンドヰッチを半分に切って、見守ってくれていた長屋のみんなに声をかけた。


「これは美味い!」

「洋食かい。珍しいねぇ」

 皆は一口分のサンドヰッチだったけど、食べて笑顔になってくれていた。


 そう。彼らのこの笑顔の為に、俺はこれからも頑張ろう。おっかさんとしのと――尊さんの為に!

(※一畝は、三十坪ほど。六畳の部屋十部屋分くらい)

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