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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
八膳目

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24/67

交渉にはたまごサンドヰッチと青豆のスープ・中

 昼の一時を五分ほど前に、馬車は長屋に来た。

 降りてきたのは小豆色の、現代で言えばダブルの仕立ての洋装姿に丁寧に髭を整えた、薬研(やげん)尊さんの父親だ。懐中時計で時間を確認して、満足そうに頷く。牛鍋の時に会った、愛想のいい商売人――でも、今日は少し真面目な面持ちだった。以前にも会った執事は、やはり変わらず薬研氏に付き添っていた。


「先日の飯の時以来だな。改めて、薬研権蔵(ごんぞう)だ。よひらからの伝言で、会いに来たぞ――恭介、儂に話があるそうだな?」


 彼には長火鉢の部屋に座って貰い、その間にしのが温かいお茶を淹れてくれた。紅茶や珈琲なんて、洒落た贅沢品はうちにはない。おっかさんもしのも俺も、出来るだけ綺麗な着物に着替えた。失礼がない様に、部屋もきちんと掃除してある。おっかさんの隣に座った俺は、深々と薬研氏に頭を下げた。

 今日の薬研氏は、牛鍋の店の雰囲気とは少し違う。言葉も、標準語寄りだった。もしかして、仕事の雰囲気の時は、関西弁を使わないようにしているのかな?


「よくして下さっている薬研様に我儘を言ってしまい、申し訳ありませんでした。どうしても、俺達は困っていて――薬研様しか、俺には頼れる人が思いつかなくて……」

「ふむ……もしかして、長屋の立ち退きの話か?」

 俺をじっと見つめていた彼は、自分の髭をちょいと摘まんでそう口を開いた。

「そうです! でも、どうして薬研様が取り壊しの事をご存知なんですか?」

 意外な彼の言葉に、俺は顔を上げて彼を見つめた。おっかさんの表情は変わらず、しのはお盆を持ったまま部屋の隅に座っている。

「儂の商売仲間が、会食で『でぱあと』を建てる話をしていたんだ。どこに建てるのかと聞けば、この六軒長屋の辺りだというではないか。今月中に周辺住人を立ち退かせると言っていた。やはり、ここも立ち退きの区域になっていたか」

 難しい顔になった薬研は、しのが淹れた熱いお茶を一口飲んだ。

「新しい家を紹介して欲しいのか?」

「いえ! あ、いや、そうでもあるんですがそれだけではなくて……その……」

 やはり、大きな商売を取り仕切る余裕のある大人相手に、俺は少々怖気づいていた。意志の強そうな薬研氏の瞳を真っ直ぐに見返せなくて、思わずまた下を向いてしまった。


「恭介、しっかりおし!」


 おっかさんが、そんな弱腰の俺の尻をぴしゃりと叩いた。俺は驚いてビクリと身を(すく)めるが、それが勇気をくれた。思い切って、顔を上げる。そして、薬研氏の顔を真っすぐ見つめた。


「あの、俺としのは尋常小学校を卒業したら薬研様の所に奉公(ほうこう)に行きます! なので、同じような六軒長屋を紹介して欲しいんです! お願いします、俺達長屋の皆が同じ家に行けるように、お願いします!」


 まだ声変わりしていない俺の声は、少し甲高く静かな部屋に響いた。そして、擦り切れた畳に額を押し当てて頭を下げた。隣で、おっかさんも指先を揃えて丁寧に頭を下げている。どうやら、後ろでしのも必死に頭を下げているようだ。


 俺が思いついたのは、尋常小学校を出たら薬研会社に働きに行く。と、いう事だった。六軒長屋の住人みんなが住める場所を紹介して貰える対価を、俺は持っていない。それに紹介して貰っても――ここより、きっと家賃は高くなるだろう。おっかさんの負担を減らすためには、俺は働きに出た方がいいと覚悟していた。

 奉公に来る俺の為に、薬研氏はもしかすると少しは条件がいい長屋を紹介してくれるんじゃないか――そう、期待を込めて彼を呼び出したんだ。アルバイトなら、現代の俺にだって出来ていたんだ。


「……恭介」

 部屋に、沈黙が落ちた。薬研氏の側に置いた長火鉢から聞こえる炭の音が、やけに大きく聞こえていた。

 薬研氏はしばらく黙って俺達を眺めていたようだったが、静かに口を開いて俺に話しかけた。


「何故『六軒長屋の皆』なんだ? お前たち長屋の者たちは、親兄弟の関係でも親戚でもない。一緒に引っ越ししなくても、困らないんじゃないのか?」


 それは、最もな意見だと思う。俺は、先ほどより必死になって薬研氏の瞳を見返した。


「薬研様は、食事とはどうあるべきと思っているのでしょうか? ただ、腹を満たせばよいとお考えでしょうか?」

 質問に質問で返すのは失礼な事だが、俺の話はこれが重要だから仕方なかった。

 そんな俺の言葉に、薬研氏は少し驚いた顔をした。

「いや――美味いものを、食いたい。食事は、生活の中でも睡眠と同じく重要なものだ。家にいる時は家族と。仕事先では、仲間や部下と。誰かと語らい、腹を満たす」

 その言葉に、俺はゆっくり頷いた。


「この長屋に住んでいるのは、家族がいない人が多いんです。家族がいる家でも、仕事の為に片手間に済ませたり、仕事の時間に追われて食べる回数を減らしたり。外で食べようにも仕事で行く時間が無かったり、家で一人分を作ると材料を腐らせてしまう――だから、俺達が支え合えばその負担がなくなると思うんです。それに、それに……一人で食べるご飯は、とても味気ないんです。楽しいはずのご飯を、楽しめないんです。俺としのは、小さな頃からこの長屋の皆さんにお世話になっています。長屋のみんなは、家族みたいなんです! だから、みんなと……楽しい食事がしたいんです!」


 三度の飯を必ず一緒でなくてもいい。昼やたまには夜、全員分を一緒に作ったらみんなで食べられる。それに時間が合わず一緒に食べられなくても、食事は準備しているのであとで必ず食べられるはずだ。

 高藤さんや辰子さん、源三さんや小さな子供がいるまつさん達の顔が浮かんだ。(恭志)が恭介になる前から、この長屋で彼らに世話になっていたかもしれない。俺は、まだ明治(ここ)に来て知らない事が多くて、未だに不安だ。それにおっかさんやしのを守ろうにも、俺はまだ小さい。

 もう少しでいいから、知っている顔と一緒にいたかった。


「新しい長屋で、長屋の住人用の飯屋でも開くのか? うちの会社で働くなら、それは出来ないと思うぞ」


 薬研氏の言葉に、俺は思わず言葉を失った。奉公というものを、俺は現代のアルバイトのように考えていたんだ。奉公に出ても、休憩の空き時間に料理を作ればいい。そう思っていたが――どうやら、奉公とはそんな簡単な事ではないらしい。

 俺はまだこの時代の事情を、よく分かっていなかったのだ。子供の体で、大変な仕事を軽く考えていた。これは、誰に対しても失礼なことだ。


「あたしが! あたしが、兄ちゃんの分も働きます! どうか――どうか、お願いします! 兄ちゃんの願いを、聞いて下さい!」

「しの!」


 突然しのが前に出てそう声を上げると、俺の隣に座り泣きながら頭を下げた。

 俺は浅はかな考えで突っ走ってしまった事に、深く後悔した。大事なしのを泣かせてしまった、その俺の馬鹿さ加減と無知に思わず涙が零れた。


「はははっ! よひら、お前は子育てが上手い。良い子供に育てたな」

 薬研氏は大きく笑うと、隣に座る執事の門田に手を出した。すると、彼は即座に折りたたまれた紙を取り出して、主人に渡した。

 俺としのはさっきまで難しい顔をしていた薬研氏が明るい顔で楽しげに笑う姿を見て、何だか分からず涙を浮かべたままぽかんと間抜けな顔を浮かべた。

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