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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
六膳目

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19/67

めでたい誕生日に美味しいカツレツを・下

「ただいまー!」

 次の日。俺はしのの手を引っ張り、いつもより足早に帰って来た。おっかさんは起きたばかりのようで、眠そうな声で「おかえり」と言ってくれた。俺は昨日からウキウキとしていて、尋常小学校で授業を受けていても、料理の事で頭が一杯だった。


「兄ちゃん、豚肉は逃げやしないよ」

 呆れた顔のしのにそう言われても、俺は嬉しくてたまらない。昨日、薬研家から届いたのは、豚肉の塊だった。しかも、ヒレ肉の部位だ。本当ならロース肉の方が、脂が多くて美味しいかもしれない。だが、一緒に食事をするのが朝ごはんになる様なおっかさんや、肉をまだ食べ慣れていないしのには、脂が多くなくあっさりと食べられるこの部位が最適だ。

 何を作ろうかずっと考えていて夜寝るのが遅くなったが、俺は先生に借りた本に載っていた『豚のカツレツ』をその本の通りに作ってみようと思ったのだ。俺が知っている現代風ではなく、当時の味を知るのも必要だな、と思ったからだ。まあ、俺の性格上多少はアレンジするだろう。


 しかし。貰った豚肉の塊は、俺達の分にしては多すぎる様な気がする――もしかして、あの人も来るのかもしれない。俺は、そう予想して四人分作る事にした。

 早速、昨日おっかさんに買って貰った三徳包丁を取り出す。研がずにすぐ使えると聞いていたので、洗って寒い所に置いていた豚肉を取り出した。

「しの、申し訳ないけど買い物に行ってくれないか? それで、帰ってきたら豆腐の味噌汁作ってくれ」

「いいよ! 何買ってきたらいいの?」

 しのは腰が軽く、俺の頼みを嫌と絶対に言わず積極的に手伝ってくれる。本当に有り難い、賢い妹だ。今朝は昨日の残りの一番出汁でうどんを食べたので、味噌汁を作っていなかった。

「浜松商店で、ウスターソースと赤茄子(とまと)ソース、牛乳とバタ(バター)。隣の豆腐屋で、木綿豆腐一丁を頼む」

「ソースなんて、贅沢品だけどいいの? まつさんに言ったら出してくれるよね、行ってきます!」

 俺から代金を受け取ると、しのは元気よく豆腐を入れる小さい鍋と風呂敷を手に下駄を鳴らして表通りに走って行った。ソース二本に、バタ、牛乳。しのが言う通り、かなり贅沢なものを今日だけで買うな。でも、節目の誕生日だし――いいよな? 尊さんに貰った一円の残りは、まだ十分にあるんだし。

 しのの後ろ姿を見送った俺は(かまど)に火を点けて、井戸から水を汲んで来る。次にその水を鍋に入れて、馬鈴薯(じゃがいも)を三個ほど茹でる。その間に、昨日閉店間際の浜松商店に駆け込んで譲ってもらった、古いパンをすり鉢で粉にしておいた。その時に、ソースを用意して欲しいと頼んでおいたんだ。


 下ごしらえを済ますと、早速大きな豚肉を切る。買って貰った包丁はすっと軽く切れて、ガタガタの切れ方をしない。うん。刃物の町である大阪の(さかい)のものらしく、良い包丁だ。そのまま塩と胡椒を振り、メリケン(こむぎ)粉をまぶす。本当ならチーズを挟みたかったが、あまり突拍子もない事はしないでおこう。紫蘇(しそ)も季節外れで、手に入らない。ソースをアレンジして、カツ自体は普通にすることにした。


 溶き卵を付けてコロッケの時と同じ手作りのパン粉をまぶしていると、しのが荷物を抱えて帰って来た。

「じゃあ、味噌汁を作るね」

「ああ、ありがとう」

 俺としのは、俺の魂が違っても身体は双子だ。空気で、相手のリズムを感じれているみたいに思う。相手の言いたい事が、なんとなく分かるのだ。そのおかげで、連携が取れやすい。

 茹で上がった馬鈴薯をザルに上げると、熱さに耐えながら皮を剥く。それをすり鉢に入れて、おっかさんとしのに任せてペーストになるまで()ってもらう。そう、マッシュポテトを作るのだ。牛乳とバタ、塩で味を調えてクリーム状にする。

 そうしてる間に今度は鍋にラードを入れて、パン粉がカリッと撥ねるまで熱した。長屋なので、火の扱いにはちゃんと気を遣っている――十分に熱した油にパン粉にまみれた姿の豚肉を入れると、ジュワ! と大きな音が上がり沢山の泡が鍋にあふれて、香ばしい香りが漂う。


「いい匂い!」


 しのが、うっとりとした声を上げた。確かに、この香ばしい匂いには俺の腹も小さく鳴った。そうして大体火が通ったら、綺麗な上げ色のカツを油から早めに取り出す。余熱の事も考えたからだ。その間に、甘藍(かんらん)を千切りにする。

 皿に甘藍の千切り、マッシュポテト、食べやすいように切ったカツを乗せる。「あれ? 兄ちゃん皿が多いよ」としのは首を傾げたが、俺はにっこりと笑い返しただけだ。


 急いで、ソース作りだ。ウスターソースに赤茄子ソース――まだ一般には広まっていなかった――を入れて、少しの砂糖と醤油で味を調える。それと、あっさり食べて欲しいおっかさん用の梅ソース。水で洗った梅干しを刻んで、酒とみりんと少しの醤油を入れて混ぜる。この時代の梅干しは本当に塩味が強く酸っぱいので、砂糖も少し加えたんだ。はちみつ梅なんて、まだない時代だからね。


 よし、出来た!

「こんにちは」

 丁度、そこで声が聞こえた。本当に、ベストタイミングだ。

「尊さん、どうぞ入ってください」

 俺が呼びかけると、おっかさんもしのも驚いた顔を見せた。「ああ、それで多いんだ」と、しのは納得している。

「よく俺が来ると分かったな」

 建付けが悪い玄関の戸を上品に開けたのは、やはり薬研尊さんだ。先日のとは違う洋装を着ていた。それも、よく似合っている。

 彼は家の中に漂う香りに、くん、と鼻を鳴らした。

「美味そうな匂いだ。今日は何を作ったんだ?」

「カツレツです! さ、尊さんどうぞ座ってください。お肉を有難うございました」

 俺がそう勧めるとおっかさんに招かれて、尊さんは美味しそうなもので溢れているちゃぶ台の前に座った。

「じゃあ、頂こうかねぇ」

 おっかさんのその言葉に、尊さんは綺麗に座ったまま両手を合わせた。俺としのも、慌てて手を合わせた。


「いただきます」


 椀に盛られた二種類のソースを見た尊さんは、先ずはウスターソースの方を匙ですくってカツにかけた。そして、熱々をすぐに口に入れる。サク、といい音が聞こえた。

「うん、このソースは美味いな! ウスターソースは食べた事があるが、これには他にも入ってるな? しょっぱくなくて、食べやすい。それにカツもサクッとしていて、美味い」

 尊さんは、気を遣って褒める事をしない人だ。素直に、心からそう思って味を褒めてくれたはずだ。俺も、同じように口に放り込む。サクッとした衣の中から、ジュワっと油が丁度いい具合にあふれて来る。しょっぱいウスターソースも、トマトのお陰でマイルドだ。

「この馬鈴薯、美味しいね! 今まで食べたことないよ。あたし、これ好き!」

 しのは、マッシュポテトが気に入った様だ。口の端につけても気にせず、パクパクと食べている。

「うん、梅がいいタレになってるね。酸っぱい梅が甘酸っぱくなって、揚げ物を爽やかにしてくれる。これなら、胃が脂っこくなくならずに食べられそうだ。甘藍があるのも嬉しいねぇ」

 やっぱり、おっかさんは梅ソースを気に入ってくれたみたいだ。

 甘藍――現代で言うなら、キャベツだ。キャベツは、実は最近食べられるようになったんだ。江戸時代からあったんだけど、観賞用だったらしい。それを食用に新種改良して、岩手県で盛んに栽培されてるんだ。今までは煮物として使われていたんだけど、洋食屋で生の千切り甘藍が出されてから食べ方が変わってきた。俺のアレンジじゃないよ。


「いい食卓だな。誕生日おめでとう、恭介にしの」

 俺達の和やかな食卓に、尊さんは目を細めた。俺は、一般的には母子家庭の貧しい方なのかもしれない。だが、お金だけでは手に入らない幸せな家族を褒められた気がして「はい!」と、元気に返事をした。尊さんが乗った馬車を見送り、おっかさんが仕事に行くまで俺は初めて三人で昼寝をした。もしかしたら、俺がここに来るまではこんな光景があったのかもしれない。けど、『俺』は初めて三人で並んだんだ。

 本当の家族になった気がして、俺は嬉しくてニコニコと笑ってしまう口元を袖で隠した。


 それは、本当に幸せな時間だった。十歳という、俺の実年齢の半分の誕生日。しのと手を繋いで、しのは反対の手でおっかさんと手を繋いで。薄い布団をかぶって、少しの時間三人で寝ころんで。


 ケーキなんかない。けれど――ずっと心に残りそうな、本当に幸せな俺としのの十歳の誕生日だった。

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