寒い冬に温か茶わん蒸し・上
貨幣価値参考:明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい? (//manabow.com/zatsugaku/column06/)
芸者花代参考:花柳流の歴史 (//www.tokyo-geisha.com/html/article/history02.php)
牛鍋を食べた後、帰りの馬車を待っている間に薬研氏が執事の門田に何かを指示した。門田は頭を下げ、一度店の中に戻った。
そろそろ暗くなってきて街灯が点き始めているのを考えると、結構長い時間この店にいたようだ。
「よひら、今日は楽しかった。人気で中々お前さんの予約を取れないから、こんな機会でも嬉しかったよ――さて、これが本題だ。詫びとしてこれを貰ってくれないか」
懐から取り出したのは、少し厚い封筒だった。それを見て何かすぐ分かったそよは、首を横に振った。
「結構でございます。軍での事故を気にかけて下さり、また息子があんなにも喜ぶ牛鍋まで食べさせて下さっただけで、あたし達は十分満足でございます」
「貰っておきなさい。子供はこれから大きくなるし、あっても困るものではない――それに貰ってくれなくては、用意をしてくれた細君に怒られて儂が困る」
言い聞かせるようにそう言うと、薬研氏は封筒を更に押し付けた。そよは困った顔をして俺達を見る。俺としのは、安心させるように力強く頷いた。確かに、金はあっても困らないどころか俺達には必要だ。そよ一人働かせているのが、俺は申し訳なく思っていた。「俺」は薬研家が関係する馬に蹴られたのだから、これは正当な「謝罪金」だ。
まあ、きっと軍は何もしてくれないだろうから、薬研氏の気遣いが嬉しかったんだ。
「それでは、遠慮なく……ありがとうございます」
そよは受け取った封筒を、着物の合わせ目に挟んだ。俺たちがそんなやり取りをしているそこに、馬車が二台到着した。申し合わせたように、門田も店から出てきた――手に、新聞紙で包んだ何かを抱えている。
「あと、未来の料理人にお土産もある。恭介、儂は職人や商売人が好きだ。お前が立派な料理人になるのを、楽しみにしている」
「楽しかった、恭介に――しのだったか。また、何か美味いものを食わせてくれ」
薬研氏が馬車に乗り、尊がその後に続いた。門田が俺に手にしていた新聞紙に包まれたものを「どうぞ」と、渡すと馬車に乗り込んだ。そうして、馬車は三人を乗せて走り去った。
「お客さん、乗ってください。六軒長屋迄と聞いて、代金も頂いてます」
後ろの馬車から声をかけられて、俺達は慌ててその馬車に乗り込んだ。そこは広くて家族だけだったので、俺達は何となくほっとした。
「まったく――肝が冷えたよ。けど恭介があんなに食べてる姿は、初めて見るねぇ」
そよが、牛鍋を食べる俺の姿を思い出したのか、小さく笑った。しのも「兄ちゃん、前まで小食だったもんね」と、同じように可愛い顔で頷いた。
「そ、そうかな……あ、おっかさん。作ったコロッケ、尊さんが売ってくれと言うから売っちまった」
ふと思い出して、俺は着物の帯に挟んでいた一円札を取り出した。
「まあ、コロッケ四個で一円も貰ったのかい?」
そよが、驚いた声を上げた。俺はこの時代の貨幣価値がいまいちピンとこなかったので、曖昧に頷くしかなかった。大金を貰った、というのは反応で分かる。
「あたしの、一時間の花代より多いんじゃないかい――もしかして……」
慌てたようにそう言ったそよは、さっき貰った封筒を取り出した。そして、中身を出す。中から、一円札が二十枚出てきた――つまり、二十円。
「にじゅ……!?」
慌てて声を上げたしのの口を、俺は慌てて両手で塞いだ。二十円は、俺たち一家が贅沢をしなければ数年暮らせるほどだ……つまり、二十円は数十万のお金と考えられる。庶民に縁がない、大金。しかも、貧困層が多いこの時代だ。俺達のように貧しい長屋生活ででこんなに大金を持っていると周りに知られると、強盗に入られるかもしれない。だから、慌ててしのの口を塞ぐしかなかった。
「こんなに……それに、使いやすいように、一円札でくれたんだね」
そよや長屋の人はあまり薬研家を好かないようだったが、俺は俺の才能を認めてくれて応援してくれた親子に、好感が持てた。多分、お金持ちっていうのが、庶民には好かれない所なんだろうな。そんな人たちばかりに会っていると、そう思ってしまうに違いない。
「兄ちゃんは、何を貰ったの?」
そう言えば、執事から何かを受け取っていた。俺はしのの言葉にそれを思い出すと、新聞紙に包まれたものをがさがさと開いた。
「きゃあ!」
中身を見たしのが、そよに飛びつく。中には、絞めて羽をむしった鶏一羽に――獨活らしいものが包まれていた。春らしい食材だ。
「よほど気に入ったんだね、恭介の事。それに――今まで薬研の人たちは、お金持ちで高慢だって思い込んでいたよ。恭介、あんた料理人になりたいなら、頑張りなよ。応援してくれる人が、こんなにいるんだからね」
お金を着物の合わせに再び大切そうに挟んで、そよは瞳を細めた。長屋に近づくにつれて街灯が少なくなっていき暗くなって、その綺麗な顔が見え難くなってくる。
「うん――おっかさんとしのが楽な生活を送れるように、俺は頑張るよ」
ほぅ、とそよが溜息を零した。それは少し、泣いているようにも聞こえた。
「お客さん、着きましたよ。気を付けて降りて下さいね」
馬車が止まり、運転手がそう声をかけてきた。俺は先に降りて、しのとそよが降りやすいように手を支えた。
――しかし、美味かったな……牛肉。
石油ランプを付けて時計を見ると、もう午後五時前だった。やはり、牛鍋屋に長く居たらしい。俺が、お代わりをしたせいかもしれない。
「晩ご飯、どうする?」
時間的に夕飯だ。俺が二人に声をかけると、二人は首を傾げた。
「牛肉って、お腹いっぱいになるんだね。お昼が遅くなったこともあるし、食べるほどお腹に余裕ないかなぁ」
――ん? そうだ。
俺は二人に「少し待って」と言ってから、使わなかった煮物の小豆を取り出した。竈に火を点けると、小豆の鍋に残っていた牛乳と砂糖を入れて吹き零れないように温めた。
「はい。残り物でごめんな」
長火鉢の部屋で座って待っていた二人に、お椀によそった温かい牛乳ぜんざいもどきを渡した。砂糖を多めに入れたので、しょっぱさは牛乳の効果もあってあまり感じないはずだ。
「はぁー、温かいね。甘くて美味しい、お腹いっぱいな筈なのに食べれちゃうよ」
しのがそう言うと、そよも微笑んで椀に口を付けた。俺はその合間に、貰った鶏肉を寒い場所に置いた。それから竈の残り火を長火鉢と、そよの部屋にある丸火鉢に入れておく。
台所で動き回るそんな俺を、そよは優しく眺めていた。




