授業(2)
何より、わたしはそのお父様の判断で救われた。
だからお父様を非難する気は全くない。
それどころかあの後宮から抜け出す機会をくれた上に、こうして何不自由ない暮らしを与えてくれた。
「リュシエンヌ様がそのようにおっしゃってくだされば、きっと陛下のお心も軽くなることでしょう」
ミハイル先生の言葉にわたしは小さく笑う。
……そうだといいな。
ルルが頭を撫でてくれたのでルルにも笑い返す。
細められる灰色の瞳の眼差しがどこかくすぐったく感じて、わたしは前を向く。
「それできぞくのしゃくいですが、身分にさがあると、してはいけないことや、ゆるされることもちがうと聞きました」
「ああ、それについてもご説明しましょう」
ミハイル先生も元の態度に戻ってくれた。
「貴族の中でも身分差があり、それは平民と貴族の差とは違いますが、格差があります」
手に持っていた表の書かれた紙を丸めながら、ミハイル先生が話し始めた。
「たとえば挨拶ですが、基本的に下の者から上の者に話しかけてはいけません。知人や友人であれば許されることもありますが、どうしても挨拶をしたい場合は誰かに中継ぎ、つまり紹介してもらう必要があります」
それに頷く。
だからお屋敷で使用人とすれ違っても、みんな頭を下げて、静かにわたしが通り過ぎるのを待つ。
わたしが話しかけない限り、口を開かない。
「そして、上の者が下の者に無礼を働いたとしても、多少のことであれば罪に問われないというものもあります」
「たしょうのぶれいとは、どういったことですか?」
「それは……」
ミハイル先生が一瞬言葉に詰まり、けれどそのまま言葉を続けた。
「多少の幅は人それぞれですので難しいですが、私が見てきた中では、公爵家の御令嬢が、伯爵家の御令嬢に暴力を振るっても罰されないということがありました」
「ぼうりょくは、はんざいです」
「ええ、その通りです。しかし、伯爵家は公爵家に睨まれるのを恐れ、身分の差もあり、口を噤みました」
「ただし暴力を振るっていた公爵令嬢は、そのせいかなかなか嫁ぎ先が見つからず、結局二十歳を過ぎてからやっとどこかの伯爵家に嫁いだそうですが」と付け加えた。
身分が下の者は、身分の高い者に従うしかない。
そうして理不尽なことにも耐えなければならない。
「でも、それはゆるされていることではないと思います」
「そうですね、被害者の方が力が弱く、それ故に告発されていないだけの話なのです。そしてこれは貴族と王族も同じです。貴族はよほどのことがない限り、王族には従わなければなりません」
「……わたしはそんなこと、したくないです」
……それはとても卑怯なことだ。
わたしが王妃達から受けていた虐待と変わらない。
「そのお気持ちを忘れないでください」
ミハイル先生の真剣な声に深く頷いた。
「……そういえば」
ふと唐突に別のことを思い出す。
「この国では男の人がけっこんして、つま以外に、女の人をめとることはできるんですか?」
ミハイル先生が目を瞬かせ、そして頷く。
「ああ、我が国は一夫多妻制が許されています。王であれば王妃の他に側妃や妾を、貴族であれば正妻の他に受け入れることは多いです。平民もそうですよ。ただ平民の場合は養えるだけの余裕がないので基本的に一夫一妻が多いですね」
法的に一夫多妻が認められているのか。
思わずルルを見上げた。
ジッと見つめるとルルが何かに気付いたように笑った。
「大丈夫だよぉ、オレはリュシー以外と結婚する気ないからぁ」
ついルルに聞き返してしまう。
「ほんと?」
「本当。オレがリュシーに嘘ついたことあった?」
「ない」
……そうだ、ルルは有言実行の人だ。
言わなくてもやりそうな人だけど。
ルルの言葉に安心する。
「失礼ですが、お二人はどのような御関係で?」
ミハイル先生がわたしとルルの顔を交互に見る。
その驚いた顔にルルが言った。
「リュシー、リュシエンヌは十六歳になったらオレと結婚してぇ、オレのところに来るんだよぉ。王サマも了承済み〜」
ルルの言葉にミハイル先生が目を瞬かせる。
「……その、あなたはどこの家の方でしょうか? 申し訳ありませんが、見覚えがないのですが……」
その顔が「それにしては礼儀作法が……」と物語っている。
けれどルルはからりと笑う。
「いんや〜、オレは貴族じゃないよぉ。貴族の血は入ってるらしいけどねぇ」
……それは初耳だ。
「ルル、きぞくのちが入ってる?」
「一応ねぇ」
ミハイル先生が憮然とした顔でルルを見る。
「何故、王女殿下であらせられるリュシエンヌ様があなたと婚姻することになったのですか?」
どこか疑わしい様子で問うミハイル先生に、ルルが鬱陶しそうに手を振った。
まるで虫でも払うみたいな動作だ。
「あ〜、そういうのはオレじゃなくてぇ、許可を出した王サマに言ってよねぇ。オレはオネガイしただけぇ。どうするか決めたのは王サマだよぉ」
ミハイル先生が眉を寄せた。
何だか険悪な雰囲気が漂い始める。
……え、何で?
「えっと、ミハイル先生、ルルはわたしがこうきゅうにいたときに、たすけてくれたんです。それにわたしはルルが好きです。だからおとうさまがゆるしてくれたのだと思います」
わたしが口を挟むとミハイル先生の眉間のシワが消える。
「後宮に……」
「そうそう〜、オレ達ちゃ〜んと認められた仲なんだからぁ、文句言うのはやめてよねぇ」
ルルの言葉にミハイル先生の眉がまた寄った。
……この二人、もしかして気が合わない?
二人の顔を交互に見てどうしようと思っていると、わたしに気付いたルルがにこりと笑う。
「リュシーは気にしなくていいよぉ」
よしよしと頭を撫でられる。
「陛下のお許しがあるのであれば、私が口を出すことではありませんでした。申し訳ございません」
ミハイル先生が眉間のシワを消す。
その場の空気を払拭するかのように咳払いをした。
……ああ、良かった。
よく分からないけど、険悪な雰囲気はもうなくなっていた。
「他に質問はございますか?」
「いえ、ありません」
もし疑問が湧けば、その時にまた質問するだろう。
ミハイル先生が頷いた。
「丁度良く王族に関する話に触れたので、現在の王族の王位継承権についてもお話ししておきましょう」
少しだけ声を落としたミハイル先生が言う。
「おういけいしょうけん……」
「次の王になる権利です。継承権には順位があります。これは貴族と同様に、正妻、王家では王妃の子から継承権を得ることになります」
「そくひが、先に子どもを生んだらどうなりますか?」
「その際でも王妃の子の順位が優先されます。血筋の問題ですから」
生まれた順に第一位、第二位ではないのか。
「第一王子が側妃の子、第二王子が王妃の子であった場合、我が国では、第一王子のみの時には第一王子が第一位、王妃の子である第二王子が生まれたら、順位が入れ替わり、第一王子が第二位、第二王子が第一位となります」
「だいさん王子がおうひの子だったら?」
「第一王子は第三位、第二王子が第一位、第三王子が第二位となるでしょう」
王妃の血筋が優先されるということか。
それだと側妃の子は王妃の子が生まれるほど順位が下がっていくので、王位からは遠退く。
「しかし現在はこの限りではありません」
ミハイル先生の言葉に首を傾げる。
「どういうことですか?」
「王位継承権は血統を重んじています。しかし、新王家は違います。貴族の血と王家の血の両方を受け継いでおりますが、先に申し上げた通り、数代ほど直系の王族の血を入れておりませんので、王位を継承するには少々問題があるのです」
「……ちすじで考えると、他のこうしゃくけの方がちすじがこいから?」
「はい、そうです。ですが今回は旧王家の血筋から離れる目的もあるため、公爵家は除外され、現国王陛下の御子であるアリスティード様に継承権が優先されます」
「ここまではよろしいですか」と問われて頷いた。
本来は血統を重んじる王位継承権だが、クーデターにより王位を簒奪され、新しい王となったので今までの血統が基準ではなくなった。
そして旧王家の血筋が濃い公爵家の者は外された。
「わたしはどうなりますか?」
旧王家の生き残りである。
「リュシエンヌ様は継承権第二位となります」
「でも、わたしは前の王家のちすじです」
「恐れながら家庭教師になる際にリュシエンヌ様の出自に関して聞き及んでおります。血筋で申し上げればリュシエンヌ様は公爵家よりも下に位置します。理由はお母君が伯爵家のご令嬢であるからです」
「こうしゃくけと王家のあいだに生まれた子と、はくしゃくけと王家のあいだに生まれたわたしでは、わたしの方がけっとうがひくいんですね」
「はい、おっしゃる通りです」
いくら王家が王女としてわたしを引き取っていたとしても、血筋では公爵家と王家の血を引く子供の方が血統が良い。
わたしは伯爵家と王家との子供だ。
「けれども、現在リュシエンヌ様は王家の養女となっております。たとえ公爵家と王家の間に生まれた子でも、公爵家は公爵家、臣下に変わりはありません。そしてリュシエンヌ様は第一王女です。王女と臣下では王女が優先されます」
「……けいしょうけん、だいいちいは、おにいさま?」
「はい。現在、第一位は第一王子であるアリスティード様です」
ええっと、もう一度整理してみよう。
本来、王位継承権は血統を重んじる。
だけど今回のクーデターでリセットに近い状態になり、ファイエット家が新しい王家の血筋になった。
それにより旧王家の濃い血筋から離れなければならないため、王家より降嫁もしくは婿入りの多い公爵家は継承権を下げる必要があった。
そして直系の血筋を数代入れていないファイエット家の嫡男、今の第一王子であるお兄様は継承権第一位。
そこに、血筋は濃いが養女になった第一王女のわたしが継承権第二位となる。
恐らく公爵家の継承権はあったとしてもその下。
「わたし、けいしょうけん、いらないです」
王様になってもわたしに良いことはない。
「リュシエンヌ様がそのようにお考えで、国王陛下のお許しがいただけるようでしたら、継承権の放棄も出来ます」
「ほうきしたら、けいしょうけんはなくなりますか?」
「はい、なくなります。そして継承権を放棄すると、リュシエンヌ様は王位を得ることはありません」
……よし、継承権放棄しよう。
ルルを見上げれば、ルルがうんうんと頷いた。
そもそもわたしは将来子供を残すことも良しとされていないので、早々に継承権を放棄すれば、お兄様の立場を脅かす心配もない。
……王様ってすごく大変で面倒そうだしね。
「王位継承権を放棄しても、王族であることに代わりはありませんが、十二歳の準成人までは継承権を放棄することは出来ません」
「じゃあ十二さいになったら、ほうきします」
それまでは第二位だけど、王位に興味ありませんって主張していれば大丈夫だろうか。
まあ、血筋の問題を考えればわたしはない。
だってわたしを王位に据えてしまったら、結局、また旧王家の血筋に戻ってしまう。
「それでは、一度休憩にいたしましょう」
ミハイル先生の言葉にホッと肩の力を抜いた。
最初の授業はこんな感じで進んでいくらしい。
ちなみに授業は一時間区切りで、違う内容を並行して学んでいく、学校の授業と同じ形式だった。
何でも学院と同じようにしているそうだ。
そうすれば、学院に入学した時に、授業の時間割などで戸惑うことがないのだとか。
「休憩を挟んだら算術について学びましょう」
……算術って算数だよね?
五歳だし、そんなに難しいことはないと思う。
そういう点では前世の記憶があって良かった。
リュシエンヌは記憶力がいいようだから、あんまり勉強面で心配することはなさそうだけど。




