息子、歩く / 夫婦の時間
* * * * *
「あ」
柵を掴んで伝い歩きをしていた子供が、不意に何も掴まずに歩き出した。
思わず、ルフェーヴルは声を漏らして浴室のほうを見た。
まだリュシエンヌは入浴中で出てこない。
……あーぁ、せめてもうちょ〜っと待っててくれたらいいのにぃ。
子供が歩くのを楽しみにしていたリュシエンヌが、初めて歩く姿を見られなかったと知ったらガッカリするだろう。
子供はその場に座り込んで、また四つん這いになって今度はこちら側の柵に来る。
世話役や侍女達も黙ったまま、微妙な空気が漂っていた。
「あ〜、今の見なかったことにしといてぇ」
ルフェーヴルの言葉に全員が静かに頷き返す。
リュシエンヌが『初めて見た』なら、それを『最初』にしてしまえばいい。
どうせ子供は言葉が通じないのだ。
子供が柵を掴み、また立ち上がる。
浴室に繋がる扉が開き、リュシエンヌが顔を覗かせた。
立っている子供を見て、琥珀の瞳が優しく細められる。
「ルド、立つのが上手になったね〜」
嬉しそうにこちらに歩いてくるリュシエンヌに子供が手を伸ばした。
そうして、一歩、二歩、と掴まらずに歩き出す。
リュシエンヌが目を輝かせ、口元に手を当てた。
「えっ、ルド……!? ルル、見て、ルドが歩いてる……!」
「やっと歩いたねぇ」
ルフェーヴルは子供が何をしてもさほど反応を示さないので、リュシエンヌは気にしていないようだ。
世話役や侍女達が拍手をしながら「おめでとうございます!」「良かったですね」と口々に言う。先ほどの件は全員の中でなかったことにされていた。
ふらふらしながらも子供がリュシエンヌ側の柵まで歩いていく。
柵に手がつくと、リュシエンヌが子供を抱き上げた。
リュシエンヌにとってはかなり重いだろうに、ギュッと抱き締める。
「頑張ったね、ルド。初めてでこんなに歩けるなんてすごいね」
と、リュシエンヌが子供に笑いかけ、子供もキャッキャと声を上げる。
ルフェーヴルも立ち上がり、リュシエンヌのそばに立って子供を引き取る。
ずっしりと中身が詰まっているような重さを感じながら抱え直した。
「これからは駆け回るようになるんだろうねぇ」
「うん、多分」
「手の届く場所に置く物は気を付けたほうが良さそうだねぇ」
立ち上がった子供は意外と背丈があり、手を伸ばせばローテーブルの上の物くらいは簡単に掴めるだろう。世話役が見張っているとはいえ、子供は何をするか分からない。
……ナイフとかもだけど、薬なんかも置いておけないかなぁ。
それどころか触れたら落ちるようなものは片付ける必要がある。
視線を侍女達に向ければ、静かに頷き、動き出す。
テーブルの上のペンやインク壺、本、低い飾り棚の上の花瓶などが片付けられていく。
「ちゃんと歩けるようになったら柵は必要なくなるけどぉ、オマエ達もよく監視しといてねぇ」
世話役二人が「かしこまりました」と一礼する。
柵の中に子供を戻せば、また柵を掴んでスッと立ち上がる。
立つことに慣れたようで、手を伸ばし、よろよろと絨毯の上を歩く。
「あう!」
自分の足に躓いて前にべしゃりと転んだ。
「ルド、大丈夫っ?」
リュシエンヌが慌てて駆け寄り、子供を抱き起こす。
しかし、子供は泣くこともなくキョトンとした顔をしていた。
リュシエンヌは子供の体を確認して、怪我がないと分かるとホッとした顔になる。
子供は魔力を持っているので怪我をしても治癒魔法をかければいいのだが、リュシエンヌは自分が治癒魔法が効かない体質のせいか、少し心配性なところがある。
子供はまた手を伸ばして反対の柵まで歩いていく。
楽しいのか明るい声を上げながら子供が歩くのだが、歩幅が小さいので時間がかかる。
リュシエンヌや世話役達が見守っているのをルフェーヴルは静観する。
歩き出したなら、今後は遊びの中に体を動かす訓練を取り入れなくては。
「ルド〜、あんよが上手、あんよが上手〜」
リュシエンヌが子供の歩く速度に合わせて手を叩く。
子供もそれが嬉しいのか、拍手に合わせて体を揺らしながら一歩ずつ歩いている。
柵まで辿り着くと振り返り、またリュシエンヌのほうに向かって戻ってくる。
歩いている間に慣れてきたのか段々と不安定さがなくなっていくのが分かるし、足を出す速度も上がって、拍手に合わせて歩く姿はなんだか間が抜けて見える。
……コレがオレの息子なんだよねぇ。
もう少しすれば子供が生まれて一年になるが、いまだに自分の子というのは変な感じがする。
色彩だけでなく顔立ちも似てきたとリュシエンヌは言うけれど、ルフェーヴルから見ると『自分はこんなに間抜けな顔ではない』と思う。どの辺が似ているのかよく分からない。
ただ、血が繋がっているからか、リュシエンヌを共有することは許容できる。
立ち上がり、膝をついているリュシエンヌの横にルフェーヴルも屈んだ。
「ようやく人間って感じがしてきたねぇ」
まだ喋ることはできないが、食べて、座って、立って、歩いて、小さな人間になった。
柔らかな頬をつつくと「う、う、う」と声を出す。
「もう少し安定して歩けるようになったら散歩とか遊びとか、もっと外に出していいよぉ。ただし遊び役と護衛は必ずつけてねぇ。これくらい小さいと門の鉄柵くらいなら通り抜けられそうだしぃ」
「はい、気を付けます」
世話役の男が返事をした。
「外に? 大丈夫かな……」
「怪我してもルドヴィクは治癒魔法が効くんだしぃ、問題ないよぉ。それにあんまり過保護にしてるとぉ、何が危険で何が安全か分からなくて逆に危ないからさぁ」
「そっか……」
リュシエンヌが少し考えるようにした後に頷く。
「確かに、わたしだとどうしても過保護になっちゃうかも」
リュシエンヌも自覚はあるらしい。
「でしょぉ? ルドヴィクに関してはオレに任せてよ〜」
「うん、分かった。……でも、あんまりいじめないであげてね?」
「そうだねぇ、最初はかなり手加減するつもりだよぉ」
いくら魔力量がルフェーヴルと同等に近いとはいえ、まだ子供だ。
ある程度の訓練は必要だが、体を酷使すれば使いものにならなくなってしまうだろう。
……そう考えると『師匠』ってのは考えることが多そうだねぇ。
もう会うことのない暗殺の師を思い出し、ルフェーヴルは小さく笑う。
昔は師匠を追いかけていたのに、今度は自分が同じ立ち位置になると思うと面白いものだった。
* * * * *
ルドヴィクがしっかり歩けるようになると、昼間に外へ出ることが増えた。
世話役の二人と遊び相手、護衛に連れられてルドヴィクが中庭に行く。
遊ぶのは大抵午後で、昼食後にランドローさんに抱えられて一階まで下りるようだ。
まだ階段の上り下りは危険なのでさせていないが、部屋に箱を置いて段差を下りる練習は始めたから、そのうち自力で階段を下りることができるようになるだろう。
外に出て、二時間ほど遊ぶのが日課である。
最近は少し暑いので心配だが、そこはメルティさん達がついているので大丈夫だと思う。
時々わたしやルルもついて行くけれど、できるだけルルと過ごす時間をつくることにしている。
「そろそろリュシーとまたイチャイチャしたいなぁ。……ダメ〜?」
と、甘えてくるルルのために、すぐに時間を確保した。
……わたしもルルとゆっくり過ごす時間がほしいし。
まだ激しい行為は控えるようにとは言われているものの、わたしの体調が良ければ問題ない。
ルルはわたしとイチャイチャしたくなると、ルドヴィクの世話役達におやつを持たせて庭で食べてくるように言い、その間にわたしと過ごすという方法を覚えた。
ルドヴィクはいつも少し早めの昼食を摂り、子供部屋で遊んだ後に二時間ほど昼寝をしてから外に遊びに行く。おかげで四、五時間ほど余裕があるのでルルと過ごす時間をしっかり確保できる。
歩けるようになったルドヴィクは活発で、まだ意味のある言葉は話せないものの、目につくもの全てに興味を示している。好奇心旺盛で、相変わらず人見知りもないので使用人達と接しても泣かず、庭で追いかけっこやかくれんぼをするのが好きだ。
ただ、メルティさん達の話では『時々ルドヴィク様の姿が一瞬消えて見える時がある』らしく、もしかしたらルルの認識阻害に似たスキルを持っているのかもしれない。
ルルがスキルを使うと『姿が消えたように見える』とよくお兄様が話していたので、きっと、幼いうちから無意識にスキルを発動させてしまっているのだろう。
……あんまり何度も消えるようならハーネスも検討しないと……。
そんなことを考えているとルルにキスされた。
唇が離れて、ルルが不満そうな顔をする。
「リュシー、今はオレだけに集中してよぉ」
と、言われて反省した。
「うん。……ごめんね、ルル」
お返しにわたしのほうからキスをした。
ルルの手がわたしを抱き寄せる。
ほのかに明るい寝室のベッドで縁に腰掛け、体を寄せ合っていた。
十六歳で婚姻してからもう六年経つのに、どうしてもドキドキしてしまう。
二人でそのままベッドに倒れ込んだ。
ルルの手がわたしのお腹に触れる。
「もう戻ったねぇ」
「そうだね」
「あんなに膨らんでたのに戻るなんて不思議だよねぇ」
本当に心底不思議がっているルルの声に笑ってしまった。
「わたしも、自分の体だけどビックリしてるよ」
ルドヴィクがこのお腹の中で育って、生まれて、もう少しで一歳になる。
お腹の中にいた時は気持ち悪くなったり腰が痛かったりして大変だったのに、産んだ後はなんだか軽くなったお腹が寂しくて、ルドヴィクが何かできるようになる度に感動する。
そして時々、またお腹の中に戻せないかなと思うことがある。
あんなに痛い思いをして産んだのに不思議な話だ。
「でも、戻って良かった」
「リュシー、体操とか頑張ってたよねぇ」
「弛んだままは嫌だったから。……わたしはやっぱり綺麗な姿をルルに見てほしいの」
夜の夫婦生活の許可が出てから既に何度も肌を重ねているけれど、いつもお腹を見られるのがちょっと恥ずかしかった。
出産で弛んでしまったことをルルは全然気にしていなかったし、労ってくれていたが、やっと完全に元に戻ったのでもう気にする必要はなくなった。
ルルにギュッと抱き締められる。
「リュシーはいつでも綺麗だよぉ」
「ルルってわたしに甘いよね」
「今更気付いたのぉ?」
顔を見合わせ、ベッドの上で小さく笑い合う。
ルドヴィクのことは気になるけれど、こうしていると本当に出産前に戻った気分だった。
笑って、見つめ合い、どちらからともなく唇を重ねる。
ルルと過ごしたくて夜着に着替えたけど、昼間なので少し気恥ずかしい。
「……それにしても懐かしいの着てるねぇ」
ルルの手がわたしの腰を撫でていく。
「これ、覚えてる?」
「もちろん。リュシーとこの屋敷に移った日に着てたでしょぉ? 婚礼衣装と同じ白の夜着で、オレは『汗を流しておいで〜』って意味だったのに、リュシーが薄着で来たから驚いたんだよねぇ」
メルティさんとヴィエラさんが夜着について話して、ピンクと白とどっちにするか迫られた時に白のほうがまだ生地があったからそっちを選んだのだ。
でも、それがルルのお気に召して、ベッドの上で話している間もずっと抱き締められていた。
そして二度目の結婚式のあとも着た夜着だ。
「オレ、実はあの時に握りすぎてグラスにヒビ入れちゃってさぁ」
「え、そうだったの?」
「そぉそぉ。『買ったばかりのグラスなのに』って女たらしにぼやかれたっけぇ」
……それは知らなかった。
起き上がれば、寝転がったルルが見上げてくる。
ルルの胸元に触れて、頬に移動させれば、ルルが機嫌の良い猫みたいにすり寄ってくる。
「ね、ルル……」
ルルの上にゆっくりと自分の体を重ねる。
薄いシャツ越しにルルの筋肉質な体つきを感じる。
それだけでドキドキして、期待してしまう。
「今日はいっぱい愛してほしいな」
授乳の関係で二、三時間おき、長くても四時間おきだったけれど、ルドヴィクは離乳も進んで、今日はもうわたしが動けなくなっても問題はないだろう。
ルルの手がわたしの腰に回される。
「仕事あるから、それまでになっちゃうけどいーぃ?」
「……うん」
ルルは相変わらず夕方から夜にかけて仕事をして、昼間は家にいた。
でも、いつまでそれが続けられるかは分からない。
ルドヴィクに使用人がついて世話をする機会も減り始めたので、そのうち仕事に専念するだろう。
ルルの手がわたしの頬に触れて、唇を指が辿る。
「帰ってきたら続きはしてあげるから……ね?」
微笑むルルにわたしはもう一度「うん」と言う。
仕事を終えた後──……特に人を手にかけた後のルルは普段より少し気が昂っている。
そういう時でも優しいけれど、ちょっと意地悪で、満足するまで離してくれないこともある。
実を言えば、そういう時のルルの冷たい雰囲気にもドキドキしてしまう。
「オレも今日はいっぱいリュシーを愛したい」
……今夜は眠れないかもしれないなあ。
* * * * *




