成長
ルドヴィクが生まれてから五ヶ月半が過ぎた。
這いずることを覚えたからか、ルドヴィクはベビーベッドの中で寝返りを打つと前進して、頭のほうの柵を掴んだりかじりついたりするようになった。
なかなか元気で落ち着きがない子なので、急いで柔らかな絨毯を買って、起きている間はその上で遊ばせるようにしている。
まだ腹這いのままなので大して速度もないルドヴィクだけど、ずり……ずり……と絨毯の上を移動して、転がっている積み木を掴んでは投げ、投げては取りにいってまた投げてを繰り返す。
……生まれて五ヶ月でこんなに動き回るんだなあ。
すくすく育つルドヴィクは、きっとこのままルルくらいに成長するだろう。
わたしも女性にしては背が高いほうだし、長身のルルとの子なので、小さいということはなさそうだ。
しばらく積み木で遊んでいたルドヴィクが、飽きたのか今度は積み木をかじり始めた。
口に入れても良いように色は塗ってないし、表面は丁寧に磨いてあるので、赤ちゃんの口を傷つけることもないけれど、とにかく何でも口に入れたがる。
メルティさんいわく『赤ちゃんや小さい子はそうですよ』ということなので、この子だけの動きではないらしい。
「ルド、そろそろお乳の時間だよ」
あぐあぐと積み木をかじっているルドヴィクを抱き上げれば、ポロリとそれが落ちる。
ソファーに移動して、胸元を寛げれば慣れた様子でルドヴィクがお乳を吸う。
主治医の話では、赤ちゃんは生後半年くらいから離乳食を与え始めるそうだ。
最近、よく物を口に入れたり、何も入っていないのにモグモグと口を動かす仕草をしたりするのも、その前段階の時期に入り始めているからなのだとか。
……もうしばらくしたらお乳は卒業なのかなあ……。
それはそれで寂しいと思ってしまう。
毎日頻繁にお乳をあげているから、これがなくなると何だかルドヴィクとの繋がりが減ってしまうような気がするのだ。
だが、離乳するというのはルドヴィクにとっては良いことなのだろう。
色々な物に興味を示す子だし、お乳もよく飲むから、食べられるものが増えればルルみたいに沢山食べる子になるかもしれない。よく食べ、よく寝て、よく遊び、健やかに育ってほしい。
「それにしてもルドはあんまりプクプクにならないね」
王女時代に公務で訪問した孤児院に、生まれたばかりの赤ちゃんと共に身を寄せていた人がいたけれど、その赤ちゃんはとてもプクプクでむっちりしていて可愛かった。
前世でも赤ちゃんといえば『ちぎりパン』と呼ばれるプクプクの腕が可愛いと話題だった。
けれども、ルドヴィクは赤ちゃんにしてはわりとスラッとしている。
「……もしかしてお乳の量が足りてないのかな……」
心配していれば、メルティさんが笑った。
「坊っちゃまはお乳の量は足りていると思いますよ」
「そう? じゃあなんでふっくらしないんだろう……?」
「うーん……坊っちゃまはよく動くから、筋肉質なのかもしれませんね」
ルドヴィクの口を片胸から離させて、反対側に誘導すればすぐに吸いついた。
……確かにルドって起きてる時はずっと動いてるかも?
「メルティさんの弟さんや妹さんはそうじゃなかったの?」
「一日中寝ていたり、泣いたりはしても、坊っちゃまほど元気ではありませんでした」
「そっか……」
赤ちゃんでも、ルドヴィクはもう美形の片鱗を見せている。
むっちりしていないから赤ん坊なのに顔立ちが整っていて、色彩はルルそっくりだけど、目に光が入ると微かに金色に煌めいてとても綺麗だ。
ルドヴィクの使用人達はいつでも入れる状態だそうで、最初はメルティさんの恋人でもあり、ルドヴィクの侍従になるランドローさんで様子を見ることになるだろう。
使用人との顔合わせでは泣かなかったが、どうだろうかと少し心配になる。
「痛っ」
胸から感じた痛みに思わず声を上げれば、ルドヴィクが驚いたのか口を離した。
「大丈夫ですか、リュシエンヌ様っ」
メルティさんが慌てて近づいてきて、わたしの胸元を確認する。
特に怪我はしていないと分かるとメルティさんがホッとした様子で小さく息を吐いた。
「まだ痛いですか?」
「ううん、大丈夫。痛かったのは一瞬だけだから……」
腕の中のルドヴィクがジッと見つめてくるので、微笑みかけた。
「ルド、ビックリさせちゃってごめんね。わたしは大丈夫だよ〜」
よしよしと背中を撫でて胸元に寄せれば、ルドヴィクがまた胸に吸いついてくる。
しばらく吸った後に満足したのかルドヴィクが口を離した。
何もしなくても自然にゲップをしてくれる。
首が座ってから、段々と自力でゲップができるようになり、今はもう促す必要はない。
ゲップ後に口をモグモグさせているので、そっと口に指を差し入れた。
「ちょっとごめんね」
口の中を見て、思わず「あ」と声が漏れた。
下の前のほうに小さいけれど白いものが僅かに二つ、覗いている。
「メルティさん、ルドの歯が生え始めてる」
「ああ、それで先ほど痛かったのですね」
「そうかも」
まだ先端が出たばかりの乳歯だけど、それでも、この子の成長を感じる。
しっかりと抱き直し、ルドヴィクの頭にキスをする。
「ルドは元気で良い子だね」
魔の三週間で大泣きしていたけれど、黄昏泣きも少ないし、空腹やおしめ以外はあまり泣かなくて、むしろ機嫌の良い時のほうが多い。
沢山お乳を飲むからか、このくらいの赤ちゃんの平均より少し大きいらしい。
太っているとかではなく、成長が少し早いようだ。
……まあ、ルルくらいに育つならね。
メルティさんにルドヴィクを任せて胸を拭って綺麗にする。
「歯が生え始めたなら、そろそろ離乳食も準備が必要ですね」
「もう? ……早いなあ」
「離乳食を始めても、完全に普通の食事が食べられるようになるまでは時間がかかります。その間はお乳と離乳食の両方なので、まだしばらくはお乳をあげてくださいね」
「うん」
それにホッとしてしまう。
……わたしのほうが子離れできなくなっちゃいそう。
気を付けないと、ルルが子供を嫌がるようになってしまう。
わたしの一番はルルで、それは変わらないけれど、ルドヴィクも大切だ。
あまり気持ちをルドヴィクに傾けすぎるとルルがやきもちを焼くだろう。
「……ルルが帰ってきたら、ルドの歯の話をしないとね」
メルティさんの腕の中でルドヴィクが気持ち良さそうに眠っていた。
* * * * *
ルドヴィクの乳歯が生え始めたと気付いてから数日後。
今日は、ついにランドローさんがルドヴィクの侍従となってくれる。
ソファーにルルと一緒に並んで座り、床の絨毯の上にはメルティさんとルドヴィクがいる。
扉を叩く音がして、ルルが「どうぞぉ」と声をかければ、扉が開かれた。
「失礼します」
落ち着いた藍色の髪は短く、切れ長の目つきは鋭い。どこか擦れた印象を感じるのはランドローさん独特の雰囲気だろうか。身長は多分百七十後半くらいで体は鍛えられている。
メルティさんとは十歳ほど離れていて、歳下だそうだが、仲は良いらしい。
ランドローさんが扉を閉めて一礼する。
絨毯の上にいたルドヴィクがランドローさんを見た。
「あぅ、う……あ!」
腹這いのまま、ずり、ずり、と絨毯の上をランドローさんのほうに移動し始める。
「はーい、坊っちゃま、それ以上は痛い痛いですよ〜」
絨毯の端のところでメルティさんがひょいとルドヴィクを抱き上げた。
ランドローさんが眩しいものを見るかのように、目を細めてルドヴィクを見つめた。
「以前より成長されましたね」
思わずといったその呟きにルルが頷いた。
「そうなんだよねぇ。もう乳歯も生え始めたしぃ、最近はこうして這って動き回るからぁ、監視兼世話役が必要なんだよぉ。一応、暖炉前には柵を置いてあるけどぉ、赤ん坊って結構力が強いから倒す可能性もあるしぃ?」
「かしこまりました。……改めまして、ティエリー=ランドロー、坊っちゃまの世話役としてお仕えさせていただきます」
「ヨロシク〜」
わたしも声をかける。
「これから、ルドをお願いしますね」
「はい、よろしくお願いいたします」
そうしてランドローさんは膝をつき、メルティさんが抱っこしているルドヴィクに声をかけた。
「ティエリーと申します。よろしくお願いいたします、坊っちゃま」
ルドヴィクは見慣れないランドローさんの顔をジッと見つめている。
泣かないかな……と心配するわたしを他所に、明るい声が響く。
小さな手をランドローさんに伸ばしているので、人見知りはないようだ。
手足をばたつかせるルドヴィクにランドローさんが微笑んだ。
「坊っちゃまはお元気ですね」
「そうなの、起きている間は動いてるから赤ちゃんにしてはシュッとしてるでしょ?」
「ああ、だから顔立ちがハッキリしているのですね」
そう言って、ランドローさんとメルティさんが小さく笑う。
この様子ならランドローさんをそばに置いても、ルドヴィクが不機嫌になることはないだろう。
メルティさんの中でルドヴィクはご機嫌な様子で手を伸ばしている。
「人見知りしなさすぎて逆に心配だなあ」
「そうだねぇ、警戒心がなさすぎるのは困るねぇ」
と、ルルも頷いて、でもその横顔は穏やかなものだった。
「これからルドヴィクのことを任せていくから、頼んだよぉ」
メルティさんとランドローさんが「はい」と返事をする。
二人は立ち上がるとルドヴィクを連れて隣室に移動し、その後をリニアお母様が追いかけていった。
授乳した後なので、きっとおしめを替えたり寝かしつけたりするのだろう。
ランドローさんにもおしめ替えや寝かしつけ、抱っこの仕方などを覚えてもらうことになるため、隣室でリニアお母様とメルティさんがそれらについて教えるのだと思う。
ふあ、と欠伸をすれば、ルルも同時に欠伸をこぼす。
顔を見合わせ、笑い合った。
「ルル、ちょっとお昼寝しよ?」
ルルが頷く。
「久しぶりにリュシーをしっかり独占できるねぇ」
これからは夫婦で過ごす時間も少しずつ戻ってくるだろう。
まだまだ子育ては大変だけど、使用人のみんなが入ってくれればわたし達の時間も余裕ができる。
……嬉しいけど、やっぱりちょっとだけ寂しいかも。
そんな気持ちに蓋をして、とりあえず、今は甘えん坊なルルに集中することにした。
* * * * *
今日、正式にティエリー=ランドローは新しい主人に仕えることとなった。
まだ生まれて半年も経たない赤子である主人は、ぱっちりとした灰色の目にやや癖のある柔らかい色合いの茶髪で、赤子の父親を容易に想像できる色彩だった。
ただ、見目の良い主人夫婦の子だけあって、赤子なのにもう整った顔立ちをしている。
「こうしておしめに触れて、湿っていたら取り替えるの」
恋人のメルティ=ラスティネルが言い、赤子の臀部に触れる。
「今は大丈夫そうね」
赤子──……坊っちゃまが「あー!」と元気に声を上げる。
伸ばされた手に触れれば、思いの外強い力で握られたので驚いた。
「赤ん坊ってのはこんなに握力があるんだな……」
「今は這いずりもできるようになったから、余計にね。それに坊っちゃまはいつも体を動かしてて、普通の子より筋力はあるかも」
「なるほど」
メルティの腕の中で手足をばたつかせている坊っちゃまは機嫌が良さそうだ。
もう一人の侍女、リニア=ウェルズが声をかける。
「メルティ、ランドローさんに坊っちゃまの抱き方やおしめの替え方を教えてあげてね」
「はーい」
「私はベッドを整えておくわ」
リニアはそう言って、子供用のベッドのほうに向かう。
「ティエリー、まずは坊っちゃまを抱っこしてみて」
メルティに教えてもらいながら、恐る恐る坊っちゃまを抱く。
温かくて、柔らかくて、意外と重くて、灰色の目がジッとティエリーを見つめてくる。
赤ん坊と接するのは初めてで慣れないけれど、小さな重みに何故か感動した。
……こんなに小さいのに生きている。
「そうそう、上手!」
メルティが嬉しそうに笑い、坊っちゃまの顔を覗き込む。
「坊っちゃまもご機嫌だし、ティエリーのことが気に入ったのかもね」
腕の中で坊っちゃまが明るい声を上げ、手足をばたつかせる。
さすがに落とすようなことはないが、柔らかすぎて抱える際の力加減が難しい。
ふにゃ、と顔いっぱいに坊っちゃまが笑う。
「……旦那様と色は同じだけど、全然似てないな」
初めて坊っちゃまを見た時はまだ首がすわっておらず、主人の肩に頭を乗せてかじりついていた。
長身の主人に比べるととても小さくて、か弱そうで、これが本当に育つのかと少し心配になるほどだったが、人見知りもしなければ泣くこともなかった。
赤子といえば、とにかく泣いているところしか思い浮かばなかったので、機嫌の良い坊っちゃまの様子は予想外だった。
「ふふ、リュシエンヌ様の色は受け継がなかったのよね。でも、目をよく見ると少しだけ金色が散って綺麗なのよ」
メルティに言われて、坊っちゃまの目をジッと見る。
確かに、光が入ると金粉をまぶしたように灰色の瞳が煌めいた。
「乳歯も生え始めたからもうすぐ離乳食を始めるだろうし、座ったり立ったりするかもしれないし……赤ちゃんってすごく素早い時があるから気を付けてね」
「分かった」
それにしても、本当に人見知りをしない子である。
ティエリーの腕の中で、坊っちゃまは楽しそうに両手を合わせて遊んでいた。
……俺の新しい主人、ルドヴィク=ニコルソン。
その成長を見守りながら過ごす生活も、悪くはないだろう。
* * * * *




