ばあ
* * * * *
子供が生まれて三月が経った。
子供が生まれた時は暑かったのに、今はもう暑い日は少なくなった。
昼間でも涼しく、夜は肌寒くなり、暖炉に火を入れる時期も去年より早い気がする。
暖かな居間の中、ソファーに座ったリュシエンヌの腕の中に子供がいる。
最近『首が座った』そうで、寝転がっていても自力で頭を持ち上げられるらしい。
以前も時々、ふっと顔を上げることはあったけれど、首が座ってからは抱くのが少し楽だ。
ふにゃふにゃだった首に力が入り、自分で頭が動かせるようになると、子供はあちこちに顔を向けたり、腹の上でうつ伏せにしても起き上がろうとするような仕草を見せたりして、より動くようになった。
自分の手をジッと見たり、両手を自分で合わせたり。
あと、何故かシャンシャンやヌイグルミをよく投げるようになった。
投げるというか『放る』が正しいのかもしれないが、腕を振った勢いで手を離すのでよくベッドの柵の隙間からそれらが落ちる。ヌイグルミは遊ぶ時しかベッドに入れていないが、渡すとすぐに放り投げるくせに、渡さないとぐずるので嫌いというわけでもないようだ。
ベッドの中でもぞもぞと動いていた子供がジッとルフェーヴルを見上げた。
手に持っていたシャンシャンをポイと放った。
それは柵にぶつかって、シャン、と音を鳴らす。
侍女や主治医の話だと、これから段々と昼と夜の区別がつき、夜に起きる回数が減るそうだ。
子供の様子次第になるけれど、生後半年くらいから離乳食を始めるのだという。
完全に離乳するまではかなり個人差があるようだが、離乳食が始まっても、子供が欲しがればお乳も与えたほうがいいらしい。その離乳食も最初は丁寧に潰したもので、食材を一つずつ、子供の体質を見ながら食べさせる必要がある。
中には『体質によって食べられないもの』があって、それを与えると死んでしまう可能性が高いため、食べ物を与えるのが一番気を遣うと主治医が言っていた。
そういう『食べられないもの』は訓練でも改善しない。
むしろ、無理に食べさせると体が拒絶反応を起こしてしまう。
……そういえば、使用人の中にもそういうヤツがいたっけ。
確か、その使用人は果物の一つが食べられないと書類には書かれていた。幼い頃に食べて、全身に発疹が出て酷い目に遭ったそうだ。『食べられないもの』というのはそういうことなのだろう。
子供が手足をばたつかせて、声を上げる。
これまでは泣き声くらいしか声を出さなかったけれど、数日前から「あー」「うー」と発音が出来るようになり始めた。
ただ、正確に発音しているわけではなく、ただ声が漏れているだけのようにも感じられる。
「なぁに〜?」
ルフェーヴルは子供を抱き上げた。
首が座り始めると子供の体にも少しずつ力が入り、しかし、筋肉が成長途中のせいかまだ手足をばたつかせるばかりだ。
「うー、あ〜ぁ、ぅ」
「うんうん、そうだねぇ」
「あー」
何を言っているか全く分からないが、喋り始めた子供には反応を返してやるのがいいらしい。
たまにキュッとのけ反ろうとするので、抱え直して体勢を戻してやる。
「うー」
「ルドヴィク」
名前を呼ぶと顔をくしゃっとして子供が笑う。
「オマエ、笑うといっつもしわくちゃになるねぇ」
「う」
小さな手がルフェーヴルの胸元を叩く。
全く痛くもなければ衝撃もない、か弱いそれを放っておく。
どうせすぐに疲れてやめる。五、六回ルフェーヴルを叩いた後、子供は静かになった。
自分の指をしゃぶっているが、おしゃぶりを渡しても投げてしまう。口につけさせても自分で取って投げるので、何か気に入らないところがあるのだろう。
先ほど子供がリュシエンヌの膝の上で思いきり漏らしてしまい、リュシエンヌは着替えにいっている。
子供用のベッドに下ろすと指を咥えていないほうの手がこちらに伸びる。
ふと、ルフェーヴルは思い出した。
ルドヴィクを覗き込み、両手で自分の顔を覆う。
そうして、子供に向かって両手を開いてみせた。
「ばあ」
子供がキョトンと目を瞬かせる。
……コイツには意味ないかぁ。
と顔を引っ込めようとした時、子供が声を上げて笑った。
「あー!」
大きな声と共に手足をばたつかせて興奮する。
どうやら子供にとっては面白かったらしい。
昔、娼館にいた頃、ルフェーヴルの他にも娼婦が産んだ赤ん坊がいたが、一年と経たずに死んでしまったことがあった。その時、母親の娼婦が赤ん坊にやっていた。
ただ顔を隠して出すだけなのに、子供にはこれが楽しいようだ。
ルフェーヴルはもう一度両手で顔を隠し、同じ動作を行った。
「ばあ〜」
子供が笑って手足をばたつかせる。
……何が面白いのかねぇ。
と考え、違うか、と思い直した。
生まれたばかりの赤ん坊にとっては何もかもが『初めて』で面白いのだ。
今度は子供の両手を持って、小さな顔の前に小さな手をかざし、広げさせる。
「ばあ〜」
これは反応が微妙である。
自分でやるのはあまり楽しくないらしい。
ルフェーヴルは子供から手を離し、自分の手で顔を覆い開いた。
「ばあ〜?」
「あー、うぅ!」
「コッチのほうが面白いのかぁ」
機嫌が良さそうなので、繰り返していると部屋の扉が開く。
それに顔を上げれば下から、ふぇ……、と子供の泣きそうな声がした。
慌ててルフェーヴルがもう一度遊んでやれば、子供は喜んだ。
「わ、ルルが『いないいないばあ』やってる……」
と、リュシエンヌが驚いた顔をした。
「ん〜、昔他のヤツが赤ん坊にやってるの見たことあってさぁ。効くのかなぁって思って〜」
「そうなんだ。どう? 効いた?」
「結構効くねぇ」
リュシエンヌが近づき、ベッドの中を覗き込んだ。
子供がリュシエンヌを見つけると手足をばたつかせる。
「あー」
「うんうん、ルドヴィク、母上だよ」
リュシエンヌが返事をして、両手で顔を隠す。
そうして、先ほどのルフェーヴルと同じ動作を行った。
「いないいな〜い、ばあ!」
「うー!」
子供が両手を何度も拍手をするように合わせて足をばたつかせる。
……こんな小さいのに意外とよく動くんだよねぇ。
喜ぶ子供にリュシエンヌが笑顔になる。
「楽しいね〜」
「あー」
「もう一回? ……いないいな〜い、ばあ〜!」
また子供が全身を動かして喜ぶ。
「ねぇ、リュシー、体操の歌やってよぉ」
ルフェーヴルの言葉にリュシエンヌが「え?」と振り向く。
子供の手をルフェーヴルはそっと握り、リュシエンヌを見れば、理解したのかリュシエンヌが歌い出す。
「ちゃーんちゃーか、ちゃんちゃんちゃんちゃん、ちゃーんちゃーか、ちゃんちゃんちゃんちゃん」
リュシエンヌが歌い出すと子供が灰色の目を瞬かせる。
それに合わせてルフェーヴルは子供の手を動かした。
子供が笑ったので、リュシエンヌの掛け声に合わせて手足を動かしてやると楽しそうにする。
やはりこの子供は体を動かすことが好きらしく、興奮した様子である。
しばらくの間、そうして遊んでやることにした。
生まれた時は小さかった体も今は倍以上あり、声も『あー』や『うー』といったものが出せるようになり、手足も以前よりしっかりと力強く動く。子供の世話をするようになってから、ここまであっという間だった。
……そろそろ仕事に復帰しないとねぇ。
顔いっぱいに笑っている子供を見ながら、ルフェーヴルは少し悩んでいた。
* * * * *
夜、ルドヴィクが寝た後。わたしとルルもベッドに横になった。
最近は昼と夜の区別がつき始めたのか、ルドヴィクが夜に起きる回数は減りつつある。
おかげで夜は一度の睡眠時間が少しずつ長くなってきて、寝不足なのはまだ変わらないものの、そのうち夜はしっかり寝てくれるかもと思えば頑張れた。
ルルに抱き寄せられ、わたしもその胸元にすり寄った。
「リュシー、そろそろオレは仕事に戻ろうと思うんだけどぉ、いーぃ?」
と、ルルにお伺いを立てられて考える。
……多分、大丈夫かなあ。
リニアお母様達もいるし、順次、世話役や遊び役の使用人達も入ってくれるという。
ルルがいないのは寂しいが、本職の仕事をいつまでも溜めているのも良くないだろう。
「うん、いいよ。ルルも仕事を溜めすぎると後が大変そうだし」
「そうだねぇ。それに今のうちに稼いでおきたいんだぁ。子供ってお金かかるんでしょぉ?」
「確かに、これからルドヴィクはどんどん成長するから服代だけでもすごくかかりそう」
顔を上げれば、見下ろしてくるルルと目が合い、苦笑してしまう。
子供は成長するものだから当然だが、お金はあって困ることはない。
「出来るだけリュシーやルドヴィクと過ごす時間が作れるよう、夕方から夜くらいの仕事を中心にやっていくよぉ。オレがいない時は代わりに、侍女を寝室に入れていいからねぇ」
「うん、分かった」
寝室は清掃などの時以外、侍女であってもあまり長居することはないのだが、今回ばかりはそうも言ってはいられない。わたしだけで夜にルドヴィクの様子を見るのは不安が大きい。
大きな手がわたしの頬を撫で、頭を撫でる。
……ああ、そっか。
ルルがルドヴィクに上手く対応出来ているのは、わたしと過ごした時間があるからだ。
出会った時のわたしは四、五歳だったとはいえ、か弱い子供だった。
そう考えると、本当にわたし達は長い時間を共に過ごしてきたのだなと思う。
「ねえ、ルル」
「なぁに〜?」
ルルにギュッと抱き着いた。
「せめて、ルドヴィクが成人するまでは生きていようね」
ルルの仕事柄、そんな約束なんて出来ないかもしれないけれど。
それでも、わたし達の子が成人して、きちんと自分の道を歩めるようになるまでは二人で見守りたい。
ギュッとルルに抱き締め返される。
「頑張るねぇ」
そこで『うん』とも『そうだね』とも言わないところがルルらしい。
確約は出来ないけど、ルルなりに努力してくれるという意味だ。
昔からルルはわたしに嘘は吐かない。
ただ、生きる努力をすると約束してくれただけでいい。
「それにしても、子供の成長速度ってすごいね」
「日に日にでかくなってくのは面白いよねぇ」
「このままだとすぐに抱っこ出来ないくらい大きくなっちゃいそう」
「まあ、そうなったら膝の上にでも乗せてやればいいんじゃなぁい?」
「そっか、それなら大丈夫そう」
七、八歳くらいまでなら膝の上に乗せることは出来るかもしれない。
ただ、ルルが長身なので、子供にそれが遺伝しているとしたら、その年齢でも同年代の子より大きくて難しくなる可能性もあるが。その時は沢山抱き締めて、沢山愛情を込めて育てよう。
「そういえば、最近よくルドヴィクに体操させてるけど、あれも訓練の一環?」
「そうだよぉ。小さいうちから体を動かして運動神経を養っておくっていうかぁ。本格的な訓練は七歳くらいからやる予定〜。でも今のうちから出来ることは覚えさせておきたいんだよねぇ」
そうはいっても、ルドヴィクはまだ生まれて三ヶ月だ。
「小さなうちから出来る訓練って?」
「今は手足を動かすことから慣れさせてるけどぉ、孤児院でやってた『かくれんぼ』とか『追いかけっこ』は動けるようになれば出来るでしょぉ? 遊びの中に取り入れようと思って〜」
「それなら自然に色々覚えそうだね」
「文字を覚える時にも周辺国の文字は叩き込んでおきたいしねぇ」
いくつかの国の文字を覚えるのは大変だろうけれど、仕事上でも、貴族の教養としても重要なことなので、そこはわたしも頷いた。
「礼儀作法とかはいいけど、歴史みたいな教養系の勉強はどうしよう?」
「ん〜、今度、義父上かアリスティードに訊いてみよっかぁ。一応闇ギルド経由で教師も雇えるしぃ、まだ急ぎじゃないから保留ってことで〜。ルドヴィクの成長を見てから決めても遅くはないと思うよぉ」
「それもそうだね」
ルルの手がわたしの頭を撫でる。それがとても心地好い。
うとうとと眠くなってくるのは、ルルがそばにいると安全だと体が覚えているからだろう。
ベビーベッドのルドヴィクも静かなので、よく眠っているのだろう。
ルルの声を聞きながら目を閉じ、体の力を抜く。
いつも眠る時、この瞬間がすごく幸せだ。
ルルの腕の中で、ルルの体温を分けてもらいながら微睡む時間は、贅沢さすら感じる。
「リュシー?」
控えめにルルがわたしの名前を呼ぶ。
もう瞼も体も重くて返事が出来ない。
でも、ルルは返事がなくても気にしなかった。
「……今夜も良い夢を」
ルルの低く、静かな声が耳に馴染む。
安心感に包まれながら、わたしは眠りに落ちた。
「悪役の王女に転生したけど、隠しキャラが隠れてない。」
書籍9巻&新漫画1巻発売中です!
TOブックス様オンラインストアにてポストカードも発売しております。セット購入していただくと特典が盛りだくさんです。
そしてオーディオブック2巻配信開始( ˊᵕˋ* )
本日よりオーディオブック3巻のご予約も開始しましたので、是非よろしくお願いいたします。




