魔の三週間
ここ数日、ルドヴィクの機嫌が悪い時が多い。
今までも夕方から夜に少しぐずる時はあったものの、空腹とおしめ以外では泣かなかったルドヴィクが、何もないのによく泣く。
授乳後やおしめ交換後に泣くこともあれば、寝たと思った次の瞬間には起きて泣くこともあり、ここ三週間ではなかった反応なので驚いた。
しかし、メルティさんが深刻な表情で言った。
「ついに、魔の三週間が来てしまいましたね……」
よく泣くけれど毎日ではないし、抱いていればすぐに落ち着くので、常に誰かがそばについて泣き始めたら抱いてあやすというやり方でしばらく過ごすことになりそうだ。
授乳後、ルルがルドヴィクを抱えてその背中を下から上に撫でる。
頭は肩に置かれており、そこにはきちんと布も敷いてあった。
最初、げっぷを出させた時にルドヴィクが少し吐き戻してルルの服を汚してしまったため、それ以降は肩にしっかり布を敷いてからやるようになった。
ちなみに、その時のルルは驚いていた。
『え? 吐いた? ……これ大丈夫なのぉ?』
と汚れた肩と随分スッキリした表情をする腕の中のルドヴィクを交互に見て、ルルは目を瞬かせた。
おしめも替えてくれるし、吐き戻しても気にした様子がなく、どうやらルドヴィクに対して『汚い』という感覚はないらしい。粗相されても驚いていたが怒ってはいなかった。
ルルの肩越しにルドヴィクがこちらに顔を向いていて、げっぷをする。
やっぱりスッキリした顔をしていた。
げっぷを済ませるとルルがルドヴィクを抱き直す。
そのままルドヴィクの背中をポン、ポン、と一定のリズムで大きな手が優しく叩く。
最初は何をやるにも戸惑っていたルルだが、今はもう手慣れている。
……わたしよりお世話、上手だしなあ。
それでもルドヴィクには手を焼かされているようだ。
「暴れないで寝なよぉ」
ルルは寝かそうとするけれど、ルドヴィクは手足をばたつかせて元気である。
しかし、ルドヴィクはそのまま泣き始めてしまった。
すぐにルルの手がおしめに触れたが、何もなかったようで小首を傾げた。
けれども、ふと顔を上げて辺りを見回したルルが言う。
「ちょっとカーテン閉めて〜」
ヴィエラさんがカーテンを閉めると室内が薄暗くなる。
するとルドヴィクの泣き声は小さくなり、ルルの腕の中で眠った。
ルドヴィクが眠った後も様子を見ながらルルがしばらく抱いていたが、起きる気配がないので、ベビーベッドにそっと下ろす。
ルルが腕を引き抜こうとした瞬間に「あ」と漏らす。
次の瞬間、またルドヴィクの元気な泣き声が響き渡り、ルルが慌てて抱き上げる。
「いつもは寝ててくれるのにぃ」
「それが『魔の三週間』の恐ろしいところなのです」
ルルのぼやきにメルティさんが答える。
「これっていつまで続くのぉ?」
「個人差はありますが、三週間から一、二月ほどで落ち着くそうです」
「いつ泣くか分からない緊張感でそれは大変だねぇ」
どこか他人事のようにルルが言い、泣いているルドヴィクをあやす。
ジタバタと暴れるルドヴィクを、何故かルルはベビーベッドに下ろしてしまう。
「何だっけ? 赤ん坊包むやつ貸して〜」
「『おくるみ』ですね」
ルドヴィクはよく動き、おくるみで包んでもすぐ解けてしまうし、包むと機嫌が悪くなりやすいのであまり使わないのだが、メルティさんが用意する。
ルルがルドヴィクを抱き上げ、ベビーベッドにおくるみを広げ、そこにルドヴィクを下ろすとルルが手早く包む。
不思議なことにルドヴィクはピタリと泣き止んだ。
胸の清拭を終えたので服を整えて、ソファーから立ち上がり、ベビーベッドに近寄る。
中を覗き込むとルドヴィクは既に眠っていた。
「おくるみ、いつもは嫌がってるのに……」
「今はそういう気分なんだろうねぇ」
二、三時間おきの授乳に加えてルドヴィクがよく泣くので少し疲れていたが、落ち着いてくれる方法が見つかったのは良いことだった。
おくるみに包まれて気持ち良さそうにルドヴィクは眠っている。
うっすら生えている髪も、瞳も、ルルにそっくりの色彩で可愛い。
男の子なので、もしかしたら成長すると見た目もルルそっくりに育つかもしれない。
……色々な意味で将来有望だなあ。
ルルと同程度の魔力量に、もしルルとそっくりな見た目に育ち、爵位を継ぐとしたらきっとすごく目立つだろう。降嫁した王女の子という話題性もあるから余計に人々の注目を引くと思う。
「……『魔の三週間』かあ……」
思わず呟けば、ルルに抱き寄せられる。
「みんなで世話するんだし、大丈夫だよぉ」
元々メルティさんいわく『坊っちゃまはあまり手がかからない子』だそうで、むしろ今までがすごく育てやすかっただけらしい。これから『魔の三週間』で赤ん坊を育てる大変さが分かるのだとか。
ここ数日ルドヴィクがご機嫌斜めになるだけでも大変だったのに、これが三週間近く続くと思うと本当にリニアお母様達の存在がありがたい。ルルも子育てをしてくれるので、多分わたしはかなり楽なほうだ。
「そうだね」
「リュシーは無理せず休むんだよぉ? まだ瀕死なんだしさぁ」
さすがに言い過ぎ……と笑いたいところだけど、出産は本当に死ぬかと思うほど痛かったし、苦しかったし、産後もまだ体調が戻らなくて疲れやすい。主治医からもまだしばらくは無理をしないようにと言われている。
ルルに促されてソファーに戻れば、横にルルが座った。
代わりにメルティさんがベビーベッドのそばに控える。
「治癒魔法が効けば良かったんだけどね」
産後に治癒魔法をかけることで体調や体型を戻すことも出来るそうなのだが、わたしの場合は魔法がそもそも効かないので使えない。自己治癒能力に頼るしかなかった。
……そう思うとルドヴィクに魔力があって良かった。
わたしは前世の記憶があるから治癒魔法で傷を治せなくてもそれが『普通』だけど、ルドヴィクも魔力なしだったら、きっと将来とても苦労しただろう。
魔力があって、健康に生まれてくれただけで十分、親孝行な子だ。
「リュシーが無事ならいいんだよぉ」
とルルに抱き締められ、わたしも抱き返す。
そうしているとルルの体温がわたしに移り、まだ残暑が残る時期だけれど温もりにホッとする。
うとうとし始めたわたしに気付いたルルが膝掛けをかけてくれた。
「リュシーも少し眠っていいよぉ」
「……うん……ありがと、ルル……」
その言葉に甘えて目を閉じる。
心地好い眠りに身を任せ、少しの間、わたしは休むことにした。
* * * * *
それからの三週間弱は大騒ぎだった。
ルドヴィクはよく泣いて、そのせいで疲れてしまうのかお乳の飲みが悪くなったり夜中に急に泣き出したりするし、最初の数日以降はリニアお母様達が抱いても泣き止まなくて──……わたしかルルが抱くまでルドヴィクは泣き続けた。
昼間はわたしが、夜はルルが主に抱いたが、今までよりも大きな声でルドヴィクが泣く。
途中、あまりに泣くのでルルがお義姉様のところに対処法を訊きに行った。
そうして、起きている時にお腹周りなどを優しく触ってくすぐり遊びをしたり、オモチャを鳴らしたりしてあげると機嫌を保つことが出来た。
どうしても泣き止まない時はわたしやルルのお腹の上に乗せると落ち着くことも分かった。
ただ、ルルのほうだと落ち着くまでに時間がかかる。
「まあ、オレは硬いしぃ? リュシーのほうがいいのは当然でしょ〜」
とルルは言っていた。
それでもルルの上に乗るとルドヴィクは上機嫌でルルのお腹や胸を叩いて、元気に動く。
息が苦しくないように顔を横に向かせていてもルドヴィクの涎で服が濡れるが、やっぱりルルは気にしていない様子だった。
夜中も寝ているわたしの横でルルが寝転び、そうしてルドヴィクのご機嫌を取っていたようだ。
二、三時間おきの授乳が二ヶ月近くなるとさすがに完全な寝不足で、夜、授乳している時にうとうとしてしまい、気付くとルルがわたしを後ろから抱き締めてルドヴィクを抱く腕を支えてくれているという状況も増えた。
昼間は明るいからか、それほど眠気はひどくないのだけれど、どうしても夜は眠くなってしまう。
そういう時、ルルはわたしの肩に顎を乗せて後ろからわたしの腕を支えつつ、ルドヴィクがお乳を吸うのを黙って眺めた。相変わらず我が子の観察を続けているらしい。
しかも授乳は片方五分から十分で交代というのも覚えていて、それくらい時間が経つと「リュシーそろそろ反対の時間だよぉ」とか「もう終わりだよぉ」と声をかけてくれるのでうっかり微睡んでいても目が覚める。ルルタイマーが優秀すぎる。
だが、さすがのルルも少し寝不足気味らしい。
ルドヴィクを抱いてあやしつつ、欠伸をしている時がある。
今も、おしめを替えてルドヴィクをベビーベッドに下ろしたルルが小さく欠伸をした。
「ルル、眠かったらお昼寝してもいいよ?」
「ん〜……もうしばらくしたら仕事に復帰しちゃうからさぁ、今リュシーに負担がかかると後がきついでしょぉ? もちろん、仕事に戻っても世話はするけど、どうしても今よりオレが関わる時間は減っちゃうしぃ、負担がかかってたらリュシーの体調も戻らないしねぇ」
ルルはそう言いながらルドヴィクのお腹を優しく指先でこちょこちょとくすぐり、遊んでいる。
ルドヴィクも楽しいのか手足をばたつかせて元気に動く。
それに合わせてヴィエラさんが木製のオモチャをカラコロと鳴らす。
こうするとほどよく疲れるのか、遊んだ後は必ず寝てくれるし、機嫌も良い。
それに遊びながらルルがルドヴィクのお腹をマッサージしてくれるため、この子はいつも快便である。
泣く時間もあるが、少しずつそのタイミングも減ってきている気がする。
レモン水を飲みながら、それを用意してくれたメルティさんに訊いてみた。
「『魔の三週間』はそろそろ終わりかな?」
「ぐずりが酷くなってもうすぐ三週間ですから、落ち着いてくるかもしれませんね」
「メルティさんの弟さんや妹さんの時はどうだったの?」
その当時のことを思い出したのか、メルティさんが苦笑する。
「弟は『魔の三週間』がとても軽くて短かったのですが、妹は酷くて、常に誰かが触れていないとすぐに泣いて、それがかなり長かったですね。……後から『魔の三週間』ではなく、赤ん坊特有の『黄昏泣き』と呼ばれるものだったと知りました。本当に、とても大変でした」
頬に手を当て、メルティさんが大きく溜め息を吐いた。
ルドヴィクの世話はこの三週間でも大変だったのに、更に長い期間を想像したら、気が滅入りそうになった。
……わたし、本当に恵まれてるなあ。
「メルティさんもいつもありがとう。ルドヴィクのために出来るだけそばについていてくれるでしょ?」
「いえいえ、私は坊っちゃまの『世話役』ですから! ティエリーも『早く坊っちゃまの顔を見たい』って言っていました。毎日元気な泣き声が響くから、みんな坊っちゃまに会いたくてソワソワしているみたいです」
さすがにこの状態のルドヴィクを連れて使用人食堂に行くと、大泣きしてしまいそうだったので、この『魔の三週間』が終わったら使用人と会わせる予定だ。
ルドヴィクが生まれて六週間。
まだ暑い日が続くが、季節の上ではもう秋である。
ルドヴィクの『魔の三週間』が過ぎたら、少しずつ散歩をして外の景色を見せてあげたい。
もうあと一月ほどすれば木々も紅葉し始めて、暑さも和らぎ、過ごしやすくなるだろう。
ルドヴィクが生まれてバタバタしているうちにわたしの誕生日も過ぎてしまった。
……でも、全然嫌じゃない。
今年の誕生日プレゼントは可愛い息子だと思えば十分だ。
ベビーベッドのほうからルドヴィクの泣き声が響く。
「ん? ……あ〜、またしちゃったかぁ」
おしめに触れたルルがそう言い、ルドヴィクを抱き上げておしめ替え用の台に移動する。
お腹のくすぐり遊びとマッサージでまた小用が出たのだろう。
ヴィエラさんも慣れた様子で汚れたおしめを入れる桶を用意する。
ルルが空間魔法から新しいおしめとお湯が入った桶、布を取り出し、慣れた手付きでおしめを替えて汚れたルドヴィクの下半身を綺麗にする。ヴィエラさんは汚れたおしめと布を回収して下がっていった。
おしめを替えるとルドヴィクはすぐに泣き止んだ。
ルルはまたルドヴィクをベビーベッドに戻し、今度は指先でその小さな眉毛や額を撫でる。
それを繰り返しているうちにルドヴィクは寝たようだ。
息子が寝ても、ルルはベビーベッドに寄りかかって様子を眺めている。
……ルルは多分気付いていないだろうけど。
その横顔はきちんと『父親』に見えた。




