親となった子供達
* * * * *
明るい室内で、疲れた様子ながらも嬉しそうにリュシエンヌが微笑んでいる。
そのそばに、己の子を抱いたルフェーヴルが立ち、腕の中を見下ろしていた。
そんな二人の様子を見たベルナールは一瞬、足を止めてしまった。
ルフェーヴルの頬に伝ったのは、確かに涙だった。
長い間ベルナールはルフェーヴルと雇用契約を結んできたが、この男が涙を流す姿を初めて目にして、驚きと共にある種の感動に近い気持ちを覚えた。
雇い始めた頃のルフェーヴルは何事にも無関心で、冷徹な暗殺者であった。
全てのものに関心がなく、この男の前では何もかもが等しく無価値だったのだろう。
それは裏社会という暗く冷たい世界で過ごしていたからなのだが。
しかしリュシエンヌと出会い、共に過ごすうちにこの男は段々と感情を知って成長し、ルフェーヴル=ニコルソンという一人の人間性を得た。
……正直、不安だったが……。
リュシエンヌを第一に考え、リュシエンヌにのみ価値を感じるルフェーヴルが、子供の存在を容認出来るかどうかは賭けに近い。
本人は「リュシーが妊娠したよぉ」と呑気に言っていたが、生まれてきた子供を愛せるかどうか。育てられるのかどうか。そもそも、生まれたが関心を持てない親というのも存在する。
けれども目の前の光景を見て、ベルナールは安堵した。
「赤ん坊ってしわくちゃで、フニャフニャで、コレで生きていけるのぉ?」
「今はまだ首が据わっていないだけだよ。首が据わって、寝返りを打って、そのうち起き上がったり座ったりするようになって……立つのはもっと先だろうなあ」
ルフェーヴルとリュシエンヌが話している。
だが、腕の中で赤ん坊が泣き出すと、ルフェーヴルがギョッとした顔で主治医を見た。
「えっ、ちょ、泣き出したんだけどぉ?」
「そろそろ奥様のところに戻りたいのかもしれませんね」
「はいはぁい」
ルフェーヴルが慎重な手つきで子供をリュシエンヌの胸元に戻す。
そうすると、ぐずっていた赤ん坊はすぐに静かになった。
ルフェーヴルが袖で己の顔を拭う。
「なぁに〜? オマエもリュシーのこと好きなのぉ?」
と、ルフェーヴルはベッドの縁に腰掛け、赤ん坊を覗き込んだ。
「でもリュシーはオレのだからねぇ? 今は仕方がないから共有してあげるけどさぁ」
「赤ん坊と張り合うんじゃない」
思わずルフェーヴルに声をかければ、リュシエンヌが微笑んだ。
「お父様、お待たせしました……」
「泣き声が外まで聞こえてきたが、男の子だそうだな。おめでとう、二人とも」
抱きたい気持ちはあるが、それと同じくらい今はこの二人に親として、子供が生まれた感動をしっかり味わってほしかった。
それに、あまり近づきすぎるとリュシエンヌの肌を見てしまうことになる。
「子供の瞳の色は分かったか?」
「髪も目も、オレと同じだねぇ」
「そうか」
旧王家の『琥珀の瞳』を受け継がなかったことに安堵する。
「……ルフェーヴル、すまないが転移魔法で送ってもらえるか?」
「もう帰るのぉ? コレ、抱かなくていいわけぇ?」
「それはもう少し先の楽しみにしておこう。二人とも今はゆっくり休んで、我が子が生まれた感動をしっかり感じたほうがいい。……私も長居しすぎた。そろそろ戻らないとアリスティード達も心配で仕事が手につかなくなっているかもしれないからな」
「あ〜、報告は後日するけど、とりあえず無事ってことは伝えておいて〜」
「そのつもりだ」
ルフェーヴルが立ち上がると、リュシエンヌの額に口付ける。
「ちょ〜っと義父上を送ってくるねぇ。すぐ戻ってくるからぁ」
「うん、行ってらっしゃい」
ルフェーヴルと共に廊下に出て、転移魔法で王城にあるベルナールの新しい書斎に移動する。
国王の座を退いたことで政務からも離れたが、相談役として、日々アリスティードやその周りの側近達から相談を受けたり、彼らの仕事の手伝いをして過ごしている。
「それじゃあ、また今度ね〜」
と、ルフェーヴルがすぐさま転移魔法の詠唱を行う。
「お前達の息子は『ルドヴィク』という名前でいいんだな?」
先ほど、ルフェーヴルが我が子に向かって呟いた名前。
古き時代の名高き騎士と同じ名前。
「そうだよぉ。ルドヴィク=ニコルソン、オレとリュシーの子供だよぉ」
「どこかの孤児院に話を通しておくか?」
「いんやぁ、近くの町の孤児院を使うから要らないよぉ」
ルフェーヴルがひらりと手を振り、ベルナールも手を上げて応える。
次の瞬間にはその姿が掻き消え、書斎にはベルナールだけが残された。
……ルドヴィク=ニコルソン、か。
あのルフェーヴルに負けず劣らず、優秀な子に育つだろう。
「……アリスティード達にも早く知らせてやらないとな」
息子夫婦はリュシエンヌをとても大事に思っていて──特に嫁のエカチェリーナのほうは自分の出産よりも心配そうな表情だった──、きっと起きたまま報告を待っているだろう。
今日はエカチェリーナの離宮に行くと、アリスティードが昼間話していた。
夜の遅い時間だが、行っても追い返されることはないと思うが。
「もう、孫が三人か。……いつか曽孫も抱きたいものだ」
ベルナールは己の言葉に小さく笑い、書斎を後にしたのだった。
* * * * *
「赤ん坊って、こんなに何回も授乳が必要なんだねぇ」
ベッドの上で、リュシエンヌが赤ん坊にお乳をあげている。
赤ん坊が生まれてから数日経ったが、平均して二時間おきにリュシエンヌはお乳を与えていて、夜中でも赤ん坊が泣くので二人揃って起きて授乳する。
ルフェーヴルが起きていても何も出来ることはないのだが、何となく眺めてしまう。
「宮廷医官の話だと、生まれてから一月くらいはこうみたいだね。その後は四時間おきくらいに段々なっていくだろうって」
「大して違わなくなぁい?」
赤ん坊は食事も水分も全てお乳から得るためどうしてもそうなるらしい。
小さな我が子はリュシエンヌの腕の中で、その胸に吸いついて夢中で飲んでいる。
妊娠から九ヶ月を過ぎた辺りから、リュシエンヌは主治医の指示の下で胸のマッサージをしており、時々ルフェーヴルもそれを手伝うこともあった。
そのおかげなのか赤ん坊が生まれてすぐに授乳をしたが問題はなく、主治医の話によるとお乳の出も良いそうだ。
ベッドの縁に座ったままルフェーヴルが赤ん坊を覗き込めば、目を閉じてうっとりとした表情でお乳を飲んでいて、少し複雑な心境になった。
「はーい、そろそろ反対側だよー」
と、リュシエンヌが自身の胸に指を当て、上手く小さな口を離させ、抱き直す。
反対の胸に赤ん坊の頭を寄せれば、すぐに赤ん坊はお乳を飲み始めた。
その様子をジッと眺め、ルフェーヴルは疑問を投げかけてみた。
「そんなに吸われて痛くなぁい?」
「最初はすごく痛かったし、今もチクチクしてるよ。でも放っておくと胸が張ってもっと痛いから、吸ってもらったほうがいいかも。片方五分から十分くらいが目安なんだって」
「へぇ〜」
しかし二時間おきに十分から二十分の授乳をするというのはなかなかに手間である。
一度寝るとなかなか起きないリュシエンヌが、赤ん坊が泣くと驚くほどの速さで飛び起きるので、横にいるルフェーヴルも思わず反応してしまう。
ふあ、と欠伸をするリュシエンヌは少し眠そうだ。
だが、この屋敷には代わりにお乳をあげられる者がいない。
代用品もあるようだが、リュシエンヌは「どうせいるんだから」と授乳したがる。
主治医も「奥様の体調が良ければ問題ありません」と言うので、好きにさせている。
しかしリュシエンヌがあまり寝不足になったり体調を崩したりするようなら、代用品も併用したほうがいいとのことだった。お乳の出が少ない場合や母親の授乳が難しい場合などはよく使うのだとか。それぞれの事情に合わせて代用品は使えば良いらしい。
「それにしてもよく飲むねぇ」
主治医と宮廷医官の話によると、この子はやや小さいらしい。
だが健康面の問題はなく、むしろ驚くほど元気で食欲旺盛な子なのだとか。
一日の大半は寝ており、起きているのは授乳の時くらいで、その授乳中に胸に吸いついたまま眠ってしまったこともあってリュシエンヌは笑っていた。
「わたしは結構母乳が出るほうみたい。ルドもよく飲む子らしいから丁度いいね」
「ふぅん? ……お乳って美味しいのかねぇ」
ルフェーヴルがそっと赤ん坊の頬をつつくと、リュシエンヌの胸に触れていた小さな手が動き、ルフェーヴルの指を握った。何度経験しても握る力の強さに感心してしまう。
こんなに小さいのにしっかり掌になっていて、爪もある。
「……どうなんだろう?」
リュシエンヌも首を傾げ、胸元の赤ん坊を見下ろした。
赤ん坊は満足したのかリュシエンヌの胸から口を離した。
「相変わらず満足そうな顔するねぇ」
「分かりやすいよね」
満腹になったのか、赤ん坊がふにゃっと満足そうに笑う。
湯で濡らした布をリュシエンヌに渡し、代わりに赤ん坊を受け取る。
胸周りを拭くリュシエンヌを横目にルフェーヴルが赤ん坊を抱き、ベッドから少し離れる。
歩きながら赤ん坊を抱き起こし、背中をさすってやる。
小さな口から、微かだが下手なげっぷの音がした。
授乳後はこれが必要らしい。
子供部屋を用意したものの、夜間の授乳もあるため、赤ん坊用のベッドを急遽購入して寝室にも置いた。赤ん坊はお乳をよく飲むからか、下の世話も頻繁に必要だった。
ルフェーヴルは歩きながら赤ん坊のおしめを服の上から触り、微かな湿りを確認する。
赤ん坊は一、二時間おきに小をする。大は日に一回くらいらしいが、まだ飲むのがお乳だけだからか少ない。
腕の中でうごうごと動く赤ん坊にルフェーヴルは声をかけた。
「おしめ替えるから暴れないでよねぇ」
声を聞くと安心するのか、赤ん坊は静かになった。
* * * * *
ルルが、我が子のおしめを替えている。
その光景を見ると幸せな気持ちになる。
……抱くどころか、赤ちゃんのお世話までしてる……。
最初こそ涙を流したルルだったけれど、赤ん坊という未知の存在に対する警戒心があるらしい。
どんな行動をするのか、どう接すればいいのか、ルルは色々と考えあぐねたようだが、それでも説明を受けてからはきちんとルドヴィクの世話をしてくれる。
『授乳以外は旦那様にも出来ますので』
という主治医の言葉を聞き、授乳以外のおしめ替えや入浴など出来る範囲をルルがやっている。
おしめを替えることが多いからか、リニアお母様達に話を聞き、時はお腹をマッサージしたり足を動かしたりして小用や大きいほうを出やすくするなど気を遣って世話をしてくれているようだ。
それでいて、空いた時間にわたしのマッサージもしてくれるので至れり尽くせりである。
睡眠時間の短いルルは夜中も起きてルドヴィクの様子を見ているらしいが、それについてルルがわたしに何かを言ったことはない。
『よく坊っちゃまに話しかけたり、触れたりしていますよ』
夜のルルについてメルティさんがそう、こっそり教えてくれた。
「あ」
と声がして意識を戻せば、ルルが溜め息を吐く。
「またやられたぁ……」
わたしやリニアお母様達もおしめを替えるのに、何故かルルの時はよく小を漏らすらしい。
最初にそれを見た時はルルが怒るのではと焦ったが、わたしの心配を他所にルルは怒ることも嫌がることもなく、汚れた上着を脱いで濡れた部分を内側に丸め込むと床に置きルドヴィクのおしめ替えをそのまま続行した。
今も小のほうをかけられたというのに、同様にシャツを脱いで丸めて床に置いて、やっぱり息子の世話を優先する。
慣れた手つきでルドヴィクのお尻を上げて、汚れた下半身をお湯で濡らした布で丁寧に拭って汚れを落とし、保湿用のクリームを塗って新しいおしめを着ける。わたしがやるよりもルルのほうが早い。
ルルはルドヴィクを抱くとその顔を覗き込み、呆れた表情をした。
「って、寝てるし〜。……まあ、いいけどさぁ」
そうして、ベビーベッドにルドヴィクを下ろす。
わたしやリニアお母様達が寝ているルドヴィクをベッドに下ろして離そうとすると途端に起きて泣いてしまうのだが、ルルは起こさずに寝かせることが出来る。
ルルが汚れたシャツを拾い、空の桶に放り込む。
「コレ出すついでに汚れ落としてくるよぉ」
ヒョイヒョイと自分のシャツが入った桶に使用済みのおしめが入った小さな桶を重ね、お湯の入った桶も持つ。
「うん、いってらっしゃい」
そのまま、リニアお母様達のいる控えの間に繋がる扉を爪先で小さく蹴る。
外から開けられた扉の向こうにルルが消え、数秒後、メルティさんが入室する。
わたしが口元に指を立てて「しーっ」とすれば、メルティさんは静かに頷き、物音を立てないようにこちらに近づいてきた。
「今、授乳とおしめ替えが終わったところ」
小声で言えば、メルティさんがそっとベビーベッドの中を覗き込み、微笑んだ。
すぐにレモン水をグラスに注いで渡してくれたので、ありがたくそれを飲む。
授乳しているということもあってか喉が渇く。
メルティさんが静かにベビーベッドのそばにある椅子に腰掛け、ルドヴィクの様子を見てくれているので、その間はクッションに寄りかかってウトウトして過ごす。
少ししてベッドが小さく揺れたので目を開ければ、ルルが戻ってきていた。
「アイツ、よく寝てるから少し休んでも大丈夫だよぉ」
大きな手が頭を撫でてくれるので、それに甘え、もう一度目を閉じる。
ルルの手からは微かにルドヴィクと同じ匂いがした。




