嵐の夜に
ついに妊娠十ヶ月目。もう、お腹が大きくて少し動くだけでも大変だ。
でも胸焼けのような吐き気も治まって、体調自体はそれほど悪くはない。
胎動もいつも通りで、ただ、違うとすれば最近頻繁にお腹が張ることだ。
主治医からは「それは自然なことで、体が出産に向けて準備をしているのです」と言われていた。
そうして、その日も、朝からお腹が張っている感じがあった。
いつものことだろうと思ったし、しばらくするとお腹の張りは落ち着いた。
今日は天気が悪く、外での散歩は無理そうだとのんびり過ごしていたのだが、昼前頃に突然下半身が濡れて慌ててリニアお母様達が主治医を呼んだ。
漏らしたわけでもないのに水のようなものが出てきて、量は多くなかったが止まらない。
「奥様、旦那様、ついに来ました。……これから出産となります」
水は出産前の、いわゆる破水と呼ばれる現象で、この後に陣痛がきて出産となる。
ただし、初産は子供が生まれるまで時間がかかるそうだ。
ルルに抱えてもらい、寝室から一階に移動する。一階にはお産用に整えた部屋があり、大量の布やお湯が必要なので、ここのほうが色々と都合が良いらしい。
ベッドに寝かされるけれど、いつもと違って眠気は全くない。
「奥様、食欲はないかもしれませんが、食事はしっかり摂ってください。これから食事を摂る暇はなくなります。食べておかないと体力が続かないので」
「分かりました」
そして、少し遅くなったが昼食を摂る。
心配そうにそばにつきながら、ルルも食事を摂った。
「お腹の張りが等間隔になってきたら陣痛が近い証拠です」
という主治医の言葉通り、破水してから三時間のうちにお腹の張りが繰り返され、段々と等間隔になってくる。
その間にルルは転移魔法で王城から宮廷医官とお父様を連れてきた。
「リュシエンヌ、大丈夫か?」
と、お父様に心配そうに声をかけられてわたしは頷いた。
「はい。少し痛いですけど、酷くはありません」
「私も近くにいる。離れていても、アリスティード達もお前を心配している」
「大丈夫です、わたし、苦痛耐性がありますから!」
お腹が張る度に下腹部に弱い痛みを感じた。
だが、それでもまだすぐに出産ではないそうだ。
陣痛と出産を促すために体を動かすほうがいいということになり、ルルに支えてもらい、散歩をする。その時にはかなり痛みが強くなってきていたのだが、まだらしい。
しばらくの間、軽く体を動かしてからベッドに戻る。
お父様もルルも、リニアお母様達もそばについてくれていて、屋敷のみんなもいつ出産が始まってもいいように清潔な布やお湯の用意をしてくれている。
そのうちお腹の張りが強くなり、痛みも強く、間隔が狭まってくる。
「本格的に陣痛が始まりました」
「侯爵様、伯爵様、どうか部屋の外に……」
とお父様とルルが促されたが、思わずわたしはルルの腕を掴んでしまった。
不安だった。きちんと産めるか心配だった。
それを感じ取ったのかルルが椅子に座り直す。
「オレはココにいるよぉ」
ルルがそばにいてくれることにホッとした。
お父様がルルの肩を軽く叩いた。
「立ち会いは任せた」
そうして、お父様はこちらを少し気にしながらも部屋を出ていった。
ルルがわたしの手を握ってくれて、つらい陣痛の合間にウトウトと微睡んでいるとルルの声が聞こえてくる。
「リュシーが寝ちゃってるけど大丈夫なのぉ?」
「今は問題ありません。むしろ、ここからは夫人の体力が大事なので、今のうちに少しでも休息を取られたほうが良いのです。陣痛が始まって生まれてくるまで最低でも数時間はかかりますから」
ルルの手が心配そうにわたしの手を撫でるのを感じながら、寝て起きてを繰り返す。
その中でもルルの存在をそばに感じ、手に感じる温もりやかけられる声に緊張と不安と痛みで強張っていた体から余計な力が抜けていく。
いよいよ痛みが強くなり、眠気どころではなくなってくる。
横向きになり、ルルがわたしの腰や背中をさすってくれる。
温かな手がさすってくれると少し痛みが和らぐ気がした。
気付けば、もうすぐ日が沈もうとしていた。
昼間より天気が悪いのか、窓に風が当たってビュウビュウ、ギシギシと音を立てる。
室内は暖炉とルルの魔法の明かりによって照らされ、医官や主治医がわたしの足元に待機し、リニアお母様達が忙しなく布やお湯を用意し、常に新しいものを使えるように用意する。
「う……っ」
感じた吐き気に口元を押さえれば、気付いたリニアお母様が桶を差し出してくれて、胃からせり上がってきたものを吐き出した。ほとんど胃液だったのが幸いだ。
「リュシー! ねぇ、コレ本当に大丈夫なのぉ?」
「陣痛は想像を絶する痛みです。痛みのあまり気を失ったり、吐き戻したりしてしまうことはよくあります」
「……そんなに……?」
ルルが呆然とした様子でわたしを見て、そっと背中をさすってくれる。
もう一度吐くと幾分かすっきりした。
メルティさんが用意してくれたレモン水を飲んで失った水分を補給する。
そこから更に一時間ほど痛みを感じながら過ごす。
陣痛でお腹に力が入っても医官や主治医に「今はまだですよ」と言われ、いきむことが出来ない。
体勢を変え、ルルに背中や腰をさすってもらい、等間隔でくる痛みに耐え、ついに出産となる。
背中に沢山のクッションを入れてもらって上半身を起こし、足を広げ、女性の宮廷医官達と主治医が忙しなく話しながら、わたしの様子を見ている。
ルルはわたしの手を握り、心配そうにわたしのお腹と顔とを交互に見る。
大丈夫だとルルに微笑みかけた。
「さあ、これからが本番です。指示に従って、陣痛がきたらお腹に力を入れていきんでください。陣痛がない時は力を抜いて……お子様が出てくるまで時間がかかりますが、それは普通のことなので心配せず、とにかく出産することだけに集中してください」
「オレに出来ることはある〜?」
「伯爵は夫人の手を握っていてください。力む際に掌が傷付いてしまうかもしれないので、もう片手には布を握らせて、夫人を励ましてあげてください」
「分かったぁ」
ルルがしっかりとわたしの左手を握り、リニアお母様が右手に厚手の布を握らせてくれる。
そこからはもう、地獄のような痛みと苦しみだった。
等間隔でくる陣痛は、下半身が裂けているのではと思うほどの激痛で、苦痛耐性のあるわたしでもこれなのだから、普通の人は恐らくもっと痛い。
陣痛に合わせて「いきんで!」と言われたら、痛くても力を入れなければいけない。
しかも「呼吸を止めてはいけません!」とも言われるので、痛みに耐えながら、力を入れるタイミングを見つつ呼吸を行う。自分でも訳が分からない状態だが、とにかく、呼吸をして、陣痛に合わせていきむ。
「あぁああっ……!!」
痛くて痛くて、涙は出るし、言葉にならない声が漏れる。
ルルの手と布を力一杯握っているのが自分でも分かるのに、手を離すことが出来ない。
どこかに縋って苦痛を逃さなければどうにかなってしまいそうだった。
「リュシー、痛いね、苦しいね。……我慢しなくていいから、オレの手を握って」
ルルがわたしの手を握り、乱れた前髪を除けてくれる。
陣痛は常に痛いわけではなく、一分ほどの痛みの間に少し空白があり、その時にしばし休憩が出来る。その時は全く痛くないため、陣痛がきた時は余計に痛く感じるのかもしれない。
「っ、うっ、痛いっ、痛い……っ!!」
「うん、うん」
「ううっ、ぁあ……!」
「苦しいね、痛いね」
わたしの悲鳴とも呻きともつかないようなものに、ルルが律儀に返事をする。
多分、ルルもどうしていいのか分からないのだろう。
力一杯ルルの手を握っていても、ルルは決してわたしの手を離そうとしない。
ハンカチで汗や涙を拭ってくれる。
「ルルッ……ルル……ッ!」
「オレはココにいるよぉ」
なりふり構っていられなくて、陣痛の度に泣いて、呻いて、叫んで。
時間の感覚すら分からなくて、ただただ『産まなくちゃ』という気持ちだけで。
でも、どんなにいきんでもなかなか出てこなくて不安を感じ始めた頃、医官が叫んだ。
「頭が見えましたよ!」
この痛みに終わりがある、産めるという希望に力がこもる。
その後も何度か陣痛がきて、いきみ、医官や主治医が「出てきています!」「頑張ってください!」と声をかけてくれて、ルルも珍しく「リュシー、頑張って」と言う。
思わず痛みに目を瞑ると「目は瞑ってはいけません!」と怒られてすぐに開ける。
不安と心配に満ちた表情のルルがいて、普段は温かい大きな手も、今は冷たい。
陣痛が僅かに緩む間、次にくる陣痛への恐怖と覚悟と、それ以上に色々な感情が込み上げてくる。
……絶対にルルの子を産みたい……! 赤ちゃんを抱かせてあげたい……!!
そう思うと体の内側から力があふれてくる気がした。
次の陣痛がきて、医官が叫ぶ。
「いきんで!!」
それに合わせて思いきりいきむと、今までで一番の痛みを感じた。
「ぁあああぁあっ!!!」
「リュシー!」
ルルが立ち上がり、わたしの頬に触れる。
「頭が出ました! 力を緩めて!!」
医官の言葉に、何とか呼吸を繰り返し、体の力を抜く。
まだ痛みが尾を引いている気がするけれど、実際は陣痛は引いていた。
痛む腹部や下半身、息苦しさがつらい。
医官と主治医が小さく話し、主治医がルルに声をかけた。
「旦那様、少し手をお借りしたいのですが……」
「うん、オレは何をすればいいの?」
「腹圧……奥様のお腹を押してください。中の子を押し出すように、あまり強くない程度にお願いいたします。私も一緒に行いますので」
「分かった」
主治医の両手とルルの片手がわたしのお腹に手を当てる。
「奥様、体の力を抜いてくださいね」
呼吸を意識して、体から力を逃す。
医官と息を合わせ、主治医とルルがわたしのお腹を押した。
瞬間、ズルリと体の中から大きなものが出ていく感覚と痛みがあった。
* * * * *
ふゃ、とか弱い音が聞こえた。
ルフェーヴルはそれにハッと息を呑み、リュシエンヌの顔を見れば、琥珀の瞳が見返してくる。
次の瞬間、室内に赤ん坊の泣き声が響き渡った。
人間の泣き声というには動物的に感じるそれに、ルフェーヴルは驚いた。
「おめでとうございます! 元気な男の子でございます!!」
「体に異常もなさそうですよ!」
医官達の言葉に、主治医が心底ホッとした表情をする。
ルフェーヴルはもう一度リュシエンヌを見たが、リュシエンヌはジッと医官の動きを目で追っている。
医官達が泣いているそれを布に包み、ルフェーヴルの向かいにくる。
主治医がリュシエンヌの胸元を寛げると、そこに医官が慎重な手付きで腕の中のものを差し出す。
リュシエンヌの手がそれに伸びた。
小さな布の塊がリュシエンヌの胸元に置かれ、細い手がそれをしっかりと抱く。
初めて見た、生まれたばかりの赤ん坊はとても小さかった。
その頭はルフェーヴルが片手で簡単にわし掴みに出来そうだったし、全体的に赤っぽく、顔もしわくちゃで──……リュシエンヌに抱かれて肌が触れ合うと泣き声が落ち着いていく。
生まれたばかりなのに母親を認識しているようだった。
リュシエンヌが赤ん坊を見て、泣きながら笑った。
「……髪の色、ルルとそっくり……」
うっすら生えている髪だろう毛は、確かにルフェーヴルの髪色と似ている。
しわくちゃで顔立ちも分からないし、赤っぽいし、可愛いかどうかと訊かれたらルフェーヴルの感覚では『全く可愛くない』のだが、どうしてか呼吸が震え、乱れる。
リュシエンヌの腕の中で赤ん坊がうごめく。
恐る恐る覗き込めば、頭でっかちな赤ん坊の瞼が僅かに開いた。
「……ああ……良かった……」
リュシエンヌの安堵の呟きが響く。
赤ん坊の瞳は、ルフェーヴルと同じ灰色だった。
少ししか開いていないので色の濃さまでは分からないが、確かに灰色である。
この子供は『琥珀の瞳』を受け継がなかった。
それはすなわち、子供は己の将来を好きに選べるということだ。
主治医が「陛下に伝えてまいります」と部屋を出ていき、医官がリュシエンヌの足元で慌ただしくあれこれしている。痛かったのかリュシエンヌが「うぅっ……!!」と呻いたが、それでも、疲れ切ったその表情には喜びの色がある。
「……ルルに……ルルに抱いてもらっても、いいですか?」
リュシエンヌの問いに医官が頷き、抱き方をルフェーヴルに説明する。
それを聞いて、気を付けながらリュシエンヌから赤ん坊を受け取った。
義父が言った通り、小さいくせに見た目よりもずっしりと重い。
両腕で抱え、肘の辺りで頭を支え、体にくっつけるようにゆっくりと抱き上げる。
腕の中でもぞりと赤ん坊が動き、ルフェーヴルの顔のほうに手を伸ばした。
驚くほどに小さな手が彷徨うように動いたので、ルフェーヴルは片腕で赤ん坊をしっかり抱えながら、もう片手を赤ん坊に手に寄せてみた。
すると赤ん坊はルフェーヴルの指を力強く掴んだ。
この小さな体のどこにそれほどの力があったのかと思うほど強かった。
「……しわくちゃな顔だねぇ」
赤ん坊の手はルフェーヴルの指を掴んだまま、離さない。
リュシエンヌを見れば、柔らかく微笑み返される。
「ルル、名前を呼んであげて」
それに声を出そうとして、喉が詰まったように一瞬、声が出せなかった。
腕の中を見下ろせば、小さな命がそこにいる。
ぽたりと赤ん坊を包む布に染みが出来た。
どうしてかは分からないが、胸が苦しくて、頬を雫が伝う。
「……ルドヴィク」
ルフェーヴルとリュシエンヌの子が、ここにいる。
「お前の名前は『ルドヴィク』だよぉ」
己の血を引く、我が子が生まれた。
それは言葉として表現出来ない、不思議な、けれども歓喜に近い感情で。
「オレとリュシーの、子供……」
ルフェーヴルの呟きに返事をするように、赤ん坊の手が、指をギュッと握る。
部屋の扉が開き、義父が「リュシエンヌ!」と慌てた様子で入ってくるのを聞きつつ、腕の中の赤ん坊をルフェーヴルはジッとみつめた。
嵐の夜、この日、ルフェーヴルは父親となった。
* * * * *




