ルフェーヴルの日課 / 名前
* * * * *
朝、僅かな暑さを感じながらルフェーヴルは目を覚ました。
横を見ればリュシエンヌが背を向けて眠っている。
初夏に入り、リュシエンヌの腹は驚くほど大きくなった。
これでもまだ大きくなるというのだから、人間の体というのは不思議なものである。
そっと手を伸ばし、リュシエンヌの腹部に触る。服越しに触れた腹はみっちりと詰まっている感触がして、ここに己の子がいると思うとまだ変な感じだ。
少し前に義父を屋敷に招き、その後、子供の部屋を用意した。
緑を基調とした部屋に子供用の柵に囲まれた小さなベッド、柔らかな絨毯、まだ生まれてもいないのに子供用の玩具や家具が用意され、大量の服も見た。自分と同じ人間が着るものとは信じられないくらいとても小さくて驚いた。
暖炉の前には二重の柵が取り付けられて、室内に尖ったものや角張ったものは置かないようにし、子供の口に入ってしまいそうな小さなものがないかも確認させられた。
……出会った時のリュシーですら小さかったのにねぇ。
あれよりもっとずっと小さくて、か弱くて、意思疎通も出来ないだろう。
「……生まれてくるのはいいけどぉ、さっさと成長してよねぇ」
リュシエンヌと二人で過ごす時間はルフェーヴルにとって、何よりも大事なものだ。
その時間を減らし、リュシエンヌを共有するのは許すが、いつまでもリュシエンヌにべったりされるのは想像するだけでも面白くない。
……リュシーそっくりなら多少は許せるかもしれないけどさぁ。
だが、似ていてもそれはリュシエンヌではない。
リュシエンヌの腹部を指でつつくと、内側から控えめに腹部が押し返される。
リュシエンヌが起きている時は元気良くポコポコと蹴るくせに、こうして眠っている時や具合が悪い時は全く反応しないか、しても控えめなところが余計に不思議だった。
子供には外の音が既に聞こえ、判断が出来るくらいの思考があるのだろうか。
いつも先に起きるルフェーヴルはこっそり、毎朝リュシエンヌの腹部を触ってその大きさを確かめているのだが、それを知っているのかつつく度に控えめに押し返すのだ。
……他のと比べられないから分かんないんだよねぇ。
ただ子供の反応を見る限り、何かしらの思考は感じられる気がする。
つん、つん、とつつけば、控えめに指先が押し返された。
やはり明確にこちらに反応を示している。
「お前、オレの声が聞こえてるのぉ?」
全く反応はなかったが、それが逆に怪しく感じられる。
「まあ、いいけどさぁ」
ルフェーヴルはリュシエンヌを起こさないよう、その腹部を撫でる。
もう何も反応はなかったが、ルフェーヴルは気にせず撫で続けた。
しばらく撫でているうちにリュシエンヌが「ん……」と声を漏らした。
呼吸の揺れから、目を覚ますのだと判断し、手を止めた。
ルフェーヴルは起き上がり、リュシエンヌの顔を覗き込む。
長い睫毛が微かに震え、その向こうから琥珀の瞳が姿を現した。
寝起きのぼんやりとした瞳がルフェーヴルを見つめ、段々と焦点が合い、意識が宿る。
「おはよぉ、リュシー」
その額に口付ければ、リュシエンヌがふにゃりと緩く笑った。
「……おはよう、ルル」
ルフェーヴルはもう一度ベッドに寝転がり、後ろからリュシエンヌを抱き締める。
リュシエンヌの胸元に回した腕に、細い手が重ねられた。
妊娠後、寝起きにそうして過ごすのもルフェーヴルの日課の一つになった。
同時にリュシエンヌの体調が良いかどうかの確認をする時間でもある。
リュシエンヌの呼吸や顔色、体温が高くないか、低すぎないか。触れて、見て確かめる。
……うん、今日は体調が良さそうだねぇ。
「ルル、今日の仕事はいつ頃帰ってくる?」
眠気がなくなったハッキリした声のリュシエンヌに問われ、ルフェーヴルは少し考えた。
今日の依頼はさほど難しくもなく、とある場所から指定された書類を抜き取ってくるだけで、時間としては一時間もしないうちに終わるだろう。せっかくなので他の小さな仕事も済ませる予定だ。
「早ければ昼過ぎくらいには帰ってこられるかなぁ」
「分かった」
「帰ってきたら一緒に散歩しようねぇ」
「うん、楽しみにしてる」
起き上がり、ルフェーヴルはリュシエンヌのこめかみに口付けた。
それから起き上がろうとするリュシエンヌを支えてやり、後ろから抱き締める。
「ん、でも仕事行く前に魔力注いでくねぇ」
少し乱れた寝間着の裾からするりと柔らかな太ももに手を這わせれば、リュシエンヌが少し気恥ずかしそうに俯きながら「……うん」と小さく頷く。
落ち着かない様子で両足をこすり合わせて身動ぐ姿にルフェーヴルは僅かに口角を引き上げた。
その細い首元に口付け、甘噛みをする。
「ついでに、ちょ〜っとだけ可愛がってあげるよぉ」
リュシエンヌの妊娠以降は本番をしていないものの、触れ合いはしているからか、欲求不満にはなっていない。
むしろ、妊娠前より敏感になっているリュシエンヌをかわいがるのはかなり楽しい。
「……ちょっとだけ、なの?」
問い返してくるリュシエンヌの声には既に熱がこもっていた。
口付けも本番も出来ないけれど、リュシエンヌに求められて心は満たされている。
「散歩よりコッチのほうがいいなら、帰ってきてまたかわいがってあげるから……ね?」
「ん……今日はルルとイチャイチャしたい気分……」
そう言われるとルフェーヴルとしても色々とやる気が出るわけで。
「じゃあ、急いで仕事終えて帰ってくるねぇ」
リュシエンヌの耳に口付けながら囁けば、かわいらしくコクリと頷き返された。
* * * * *
妊娠八ヶ月目に入り、だいぶお腹が大きくなった。
時々、急に動悸がしたり息が切れやすくなったりするが、妊娠中はそういうこともあるらしい。
あと爪や髪が傷みやすくてリニアお母様達が一生懸命、手入れをしてくれる。
毎日、数回ルルが全身をマッサージしてくれながら保湿もやってくれるおかげか、浮腫みはあるものの酷くないし、胸やお腹、太もも辺りの皮膚も裂けることもなく綺麗な状態を保っている。
ソファーに座り、ハンカチに刺繍を刺していれば、ルルが横からわたしの手元を眺める。
これもここ最近ではよくある光景だった。
以前は刺繍などの針仕事が苦手だったのだけれど、こうして指先を動かしていると不思議と落ち着くので、ハンカチにルルやわたしのイニシャル、伯爵家の紋章などを刺して過ごすことが多い。
あまりやりすぎると疲れてしまうから、ほどほどで休憩したり水分補給がてらおやつを食べたりしながら、ゆっくりとやっている。刺繍をしたハンカチはルルが欲しがるのであげる。
「そろそろ、この子の名前を決めないとね」
ルルが子供部屋を用意する際に手伝い、わたしはそれを眺めていたが、小さな家具や服を見る度に驚いた様子で目を丸くしていたルルはかわいかった。
……ルルは特に背が高いから、余計に小さく感じるんだろうなあ。
そのルルだって生まれた時は当然、赤ちゃんで、このお腹にいる子がルルくらいまで育つかもしれないと思うと人間の成長はすごいなと感じた。
「どういう名前がいいかねぇ」
ルルも名前を一緒に考えてくれるが、基本的にはそれほど名前に関心はないらしい。
もしかしたら、ルルにとっての『名前』は『識別番号』みたいな感覚なのかもしれない。
そもそも、わたしやお兄様以外の人の名前を呼ぶこと自体、ルルは少ないのだ。
ヴィエラさんのことは『泣き虫』で、クウェンサーさんは『女たらし』で、リニアお母様やメルティさんには『ねぇ』という声のかけ方──なんなら手を上げる動作のみで呼ぶこともある──だ。そういえば闇ギルドのギルド長さんは名前で呼ぶが、使用人などは結構『アレ』『アイツ』『オマエ』『コイツ』で名前を言わない。
でも、覚えていないわけではなく、意図的に呼ばない気がする。
「せっかくなら愛称のある名前がいいよね。ルル、リュシー、みたいに短く呼べるの」
「そうだねぇ。愛称は特別だから、いいんじゃなぁい?」
意外にもルルは愛称について好意的な考え方らしい。
「それならさぁ、男ならオレみたいな愛称に、女の子ならリュシーみたいな愛称になる名前をつけるってのはどう〜? 覚えやすくて良くなぁい?」
「いいかも! ルルとわたしの名前から一文字ずつ取った愛称がいいなあ」
「オレなら『ル』で、リュシーなら『リ』か『シ』が入るってことだねぇ」
ルルがわたしを抱き締め、小さく笑う。
「たとえば『キャシー』『セシー』『ジェシー』辺りが響き的に似てていいと思うけどなぁ」
キャシーだったらキャサリン、セシーならセシリア、ジェシーならジェシカといった感じの名前になるだろう。どれも可愛い名前である。
「『リジー』ならエリザベスとかもあるよぉ」
「うーん……エリザベスはちょっと……何て言うか、仰々しくない?」
「そーぉ?」
この世界ではエリザベスも普通の名前なのだろうけれど、前世の記憶があるからか、その名前は王族というイメージが強い。実はお義姉様の名前を聞いた時も似たものを感じたのだが。
その後もルルがいくつか候補を出してくれたけど、結局、最初に出してくれた『セシー』か『ジェシー』が可愛くて良いということになり、どちらを選ぶか考える。
「ルルはどっちがいいと思う?」
「オレ? …………ジェシカかなぁ」
ルルにしては珍しく熟考してから答えたので、更に訊いてみた。
「理由を聞いてもいい?」
「オレが覚えてる中で、一度も『殺したことがない名前』なんだよねぇ」
「そうなんだ。ある意味、運のいい名前なのかもね」
ルルは暗殺者として大勢の人間を殺してきた。
その中で、覚えている限りは殺したことがないというのは『死から遠い名前』とも言えるかもしれない。もしかしたらルルなりに自分が殺したことのある人間の名前は縁起が良くないと考えているのだろうか。
「ジェシカ……ジェシー…………うん、可愛いし、愛称も名前もいいと思う」
「じゃあ女の子が生まれたら『ジェシカ』ってことでぇ」
「幸運に恵まれて長生きしそうだね」
これで女の子の名前は決まった。
次は男の子の名前だが……。
「『ル』が入るならどういう愛称がいいかなあ。『ルイ』『ルー』『ルディ』『ルド』……」
「『アル』『エル』『シル』とかもあるよねぇ」
「最初が『ル』のほうが『ルルの名前から一文字取りました!』って感じが出ない?」
「まあ、確かに『アル』だとアリスティードの子供と被っちゃうしねぇ」
ルイならルイーズかルイス、ルーは……ルークやルーベルトだろうか。ルーデウスもルーと呼べそうだ。ルディはルドルフ……ルドルフは『ルド』のほうが分かりやすい気がする。
二人でうーんと考える。
ふとルルが「あ」と何か思いついたように言う。
「ルドヴィクはどーぉ? 昔いた有名な騎士の名前〜」
「ルドヴィク……ってことは、愛称は『ルド』かな?」
「そぉそぉ」
……ルドヴィク、ルドヴィク……ルド……。
心の中で呟くと、不思議なくらい合っていると思った。
なんだか、パズルのピースがぴったりはまった時のような気持ちになる。
「うん。ルドヴィク、かっこよくていいと思う」
ルルの子だから、男の子ならきっと強くて立派な子に育つだろう。
どちらもとても良い名前だ。
お腹を撫でながら、そこに話しかける。
「名前が決まったよ。女の子ならジェシカ、男の子ならルドヴィク。……どっちでも大切なわたしとルルの子だから、元気に生まれてくれればそれでいいからね」
よしよしと撫でれば、内側から元気にポコンと蹴られる。
「使用人のみんなにも、それぞれの名前を教えておかないと」
「しばらくは子供の名前の話題で持ちきりになるだろうねぇ」
それはそれで嬉しいことだ。
控えていたリニアお母様が「皆に伝えておきます」と言う。
どちらに似て生まれてくるだろうか。それともわたしとルルの特徴をそれぞれ受け継ぐのか。
前世では隔世遺伝というものがあったから、もしかしたらわたし達には似ないかもしれないが、そうだとしてもわたし達の子に変わりはない。
……ただ『琥珀の瞳』だけは受け継がないでほしい。
この子が日の当たる場所で俯かずに歩けるように。
もうあと二ヶ月あるかどうかといううちにこの子は生まれてくるかもしれない。
お腹が大きいととにかく大変で、体操もやりにくくなって、少し動くだけでも疲れてしまう。
ルルも仕事を沢山受けているけれど、必ず一日の間でわたしのそばにいる時間を作ってくれていて、朝から仕事の時には夕方には帰ってきて夜は一緒にいてくれるし、夜に仕事があると朝起きる前には戻ってきてくれる。
わたしが不安を感じないように気を配ってくれているのが分かり、それだけでも安心する。
「生まれてきてくれるのが楽しみだね」
早く、この子の名前を呼んであげたい。
抱き締めて、名前を呼んで、ルルに抱いてもらいたい。
「オレはリュシーさえ無事なら、それでいいんだけどなぁ」
ルルの手をそっと握る。
この手に、この人の血を引く新しい命を抱かせたい。
その時、ルルがどんな顔をするか想像もつかないけれど、我が子を抱くルルが見たかった。
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