胎動 / 本能?
「あ」
ソファーに座りながらルルに本を読み聞かせてもらっている時、気が付いた。
思わず声を上げたわたしに、ルルがこちらに顔を向ける。
「どうかしたぁ?」
「ちょっと待って」
もう一度お腹を撫でて、掌に意識を集中させる。
それからルルに声をかける。
「ルル、お腹に触ってみて」
ルルの手がそっとわたしのお腹に触れる。
「掌に意識を集中させて」
「………あ」
ルルもそれに気付いたのか、顔を上げてわたしを見る。
ルルの手のそばにわたしも手を置く。
微かだけれど、トックン……トックン……と鼓動を感じた。
一瞬わたしのものかと思ったけれど、鼓動の速さが違うし、お腹の中から感じられる。
ルルと顔を見合わせて、もう一度お腹に視線を落とす。
「リニアお母様、ヴィエラさんも来て、触ってみて」
手招きすると二人がそばに来て、屈み、ルルが手を離せば、リニアお母様が優しくわたしのお腹に触れた。
ヴィエラさんは恐る恐るといった様子で慎重に手を伸ばし、わたしのお腹を触って──……そうして、驚いた表情でわたしを見上げた。
「これは……お腹の子の……?」
ヴィエラさんの問いに頷き返す。
「そうみたいです」
「なんて小さくて……可愛い音なのかしら」
リニアお母様が優しい眼差しでわたしのお腹を見つめる。
二人が手を離すと、ルルがまたすぐに確かめるようにわたしのお腹に触れる。
その手に、わたしは自分の手を重ねた。
「わたしとルルの赤ちゃんが、ここで生きてるね」
「うん」
でも、とルルが苦笑する。
「リュシーにあんまり負担をかけないでほしいなぁ」
というルルの言葉に反応するように、お腹の中からポヨンと振動がした。
それに驚いた様子でルルが目を丸くする。
「……今、動いた?」
わたしに確認するルルに頷いた。
「多分、蹴ったんだよ。もしかしたら、もう音が聞こえてるのかも」
「蹴るって……痛くなぁい?」
「ちょっとくすぐったいけど、痛くなかったよ」
ルルがわたしのお腹を優しく撫でている。
初めて我が子の存在を直に感じたからか、ルルの戸惑いが伝わってくる。
「リニアお母様、オルゴールを持ってきてくれる?」
「はい」
持ってきてもらったオルゴールのネジを巻いて鳴らしてみる。
澄んだオルゴールの音が響く間は反応がなかったけれど、オルゴールが止まると、小さくポコンと蹴られる感覚がした。
蹴った場所が分かったのか、ルルがそこを指でつつく。
お腹が日に日に大きくなっていくのをルルも理解しているはずだ。
もう一度オルゴールのネジを巻いて鳴らし、澄んだ可愛らしい音で紡がれる音楽を聴いて過ごす。
「ねえ、ルル、楽しみだね」
「子供が生まれたら、しばらくはリュシーと二人でゆっくり〜とはいかないよねぇ」
「出来るだけ子育てはしたい。でも、ルルとの時間が一番大事だから、リニアお母様達にも子育てを助けてもらうつもりだよ。……まあ、今まで通りずっと二人でとはいかないのは確かだけどね」
「……子供が早く一人立ちすれば元に戻れるよねぇ?」
ニコリと笑うルルに不穏な気配を感じ、苦笑してしまう。
……生まれてくる子は大変そうだなあ。
だけどルルが子供を鍛えてくれたら、きっと優秀に育ち、生き抜く力も身につくだろう。
「手加減してあげてね……?」
わたしの言葉にルルは軽く肩を竦めたが、否定も肯定もしなかった。
それを責めるように、お腹の中の子がポコンとまた蹴る。
そこに手を置いたままだったルルがわたしのお腹を見下ろした。
「なぁに〜? 不満なのぉ?」
当然ながら子供の反応はないが、ルルは気にせずわたしのお腹から手を離した。
代わりに、ルルに抱き寄せられる。
「オレのリュシーを『共有させてあげる』のは少しだけだからねぇ?」
……なるほど、ルルはそういう感覚なのか。
わたしからすれば子供が生まれてもルルはルルだし、子供にルルを取られるという感じはなかったが、ルルは『わたしを取られる』という感覚だったらしい。
「わたしはルルのものだよ。……そのわたしから生まれてくる子も、ルルのもの」
「……オレがこの腹の子を殺したいって言ったら?」
ルルの手が、優しく、けれども明確な意図を持ってわたしのお腹を軽く押す。
その手を両手で包む。
「ルルがそうしたいなら、いいよ」
きっとわたしは泣くだろう。つらくて、悲しくて、寂しくて、苦しくて。
それでもルルを恨んだり、憎んだりはしない。出来ないだろう。
自然と笑みが浮かぶ。
……でも、そんな心配をする必要はない。
お腹からルルの手が離れ、わたしの頬に触れる。
「そんなこと出来ないよぉ」
真剣な表情で見つめられる。
「何があっても、オレはリュシーを傷付けない。……最期の時まではね」
「うん」
ルルの手に頬をすり寄せる。
……この手に殺される瞬間まで、わたしは死なない。
後宮で出会った時にこの命はルルに渡した。
また、今度は先ほどよりも弱く、お腹の中で子供が蹴った。
……わがままでごめんね。
いつまであなたと一緒に過ごせるか分からないけれど、わたしやルルがいなくなってもこの屋敷があり、お兄様やお義姉様、その子供達もいる。
たとえわたし達が死んでもきっとあなたは孤独にはならない。
だからどうか、わがままなわたし達を許してほしい。
* * * * *
リュシエンヌの腹が大きくなってきた。
安定期に入り、先日、初めて『胎動』というものをルフェーヴルは知った。
ルフェーヴルが望むなら子供を諦めてもいいとリュシエンヌは言ったが、リュシエンヌの腹の中で生きる子供の鼓動と動きを感じた時、最初に思ったのは『もっと稼ごう』だった。
リュシエンヌが不自由しないよう。子育てをしても余裕を持って過ごせるよう。
それまでは『自分の子供』と聞いてもピンとこなかったが、子供の存在が確かなものだと感じて、ルフェーヴルは『必要なのは金と安全』と考えた。
……こういうのが『本能』っていうのかねぇ。
危機を察知した時、無意識に体が動く瞬間の感覚に近い。
理論的な思考ではない。
だが、ルフェーヴルは直感や本能的な動きを重要視している。
人間という生き物は多くのことに意識を向け、常に思考する代わりに誤認をしやすい。
多少の違和感や齟齬があっても己の望む結果に繋がる道を正しいと認識し、進んでしまうことがある。その『間違っているかもしれないと感じる瞬間』を見逃してはいけないのだ。
そして、ルフェーヴルはその瞬間を見つけた。
リュシエンヌに『子を殺してもいいか』と問うた時、リュシエンヌは微笑んだ。
とても綺麗に、優しく、心からルフェーヴルを信じていると分かる表情だった。
もしもルフェーヴルが子を殺せば、二度とその表情は見られないだろうと直感が告げた。
冗談で言ったわけではないが、あの問いは『間違い』であった。
……もう、ああいうことを言うのはやめないとねぇ。
数ヶ月ぶりに仕事着を身に纏い、ルフェーヴルは転移魔法で闇ギルドの最上階に出た。
ギルド長室の扉を守護しているゾイが反応する。
相変わらず大きなローブを着て、目深にフードを被っていて、容姿が分かりにくい。
「久しぶりぃ。今、中に誰かいる〜?」
「いない」
ゾイが扉を叩けば、中からベルの音がした。
その音にゾイが頷き、ルフェーヴルはギルド長室の扉を開けた。
中は薄暗い。この部屋の窓は昼間でも締め切られ、遮光性の高いカーテンが重くかけられていて、魔法で灯された明かりがある。大きな机はいつ見ても書類の山で満たされていた。
顔を上げたアサドがルフェーヴルを見て、微笑む。
「そろそろ仕事を再開しますか?」
ルフェーヴルは机に近づき、空いている端に腰掛けた。
「うん。安定期に入ったしぃ、子供が生まれたら子育てもしたいから、今のうちに稼げるだけ稼いでおこうかなぁって思って〜」
「そうなのですか? 貴族は基本的に乳母に子育てを任せますが……」
「リュシーは『出来るだけ自分でやりたい』んだってぇ。それにオレも子育てすれば、独占は出来なくても、リュシーと過ごす時間は減らないでしょぉ?」
書類の山に肘を置き、ルフェーヴルは笑った。
「この前さぁ、リュシーのお腹の中で子供が動いたんだよねぇ」
「ああ、胎動ですね。どうでしたか?」
「心音も動きもまだ体も小さいのに『生きてる』んだから不思議だねぇ」
「私も、あなたも、皆がそうして生まれてくるんですよ」
アサドが小さく、微笑ましいというような顔をする。
「でも、何でかなぁ。その胎動ってヤツを感じた時に『オレが稼がないと』って思ったんだよねぇ。あそこは安全面は問題ないから、維持するためにも、子育てのためにも『金が要る』って。……父親ってみんな、こんな感じなのかなぁ」
ルフェーヴルの疑問にアサドが答えた。
「陛下や王太子殿下にお訊きしてみてはいかがですか?」
「どうだか〜。あの二人は生粋の貴族だしぃ、そういう気持ちはないんじゃなぁい?」
「確かに、お二方は金銭面や安全面の心配はなかったかもしれませんね」
貴族であり、王族であり、妻が妊娠したと聞いて喜んだだろうが、今のルフェーヴルのように金や安全の心配はそれほどなかったと思う。
……それに、あの二人に訊くのはなぁんか嫌なんだよねぇ。
とりあえず、また王太子妃の下に行って安定期から出産までの話を聞いておこう。
年末年始はあちらは忙しいと分かっていたため、ここ最近は連絡を取っていなかったが、そろそろ落ち着いてきた頃合いだろう。王太子妃も既に安定期に入っているはずだ。
「とにかく、今は稼ぎたいんだよぉ」
それにアサドが頷き、書類の束を出す。
分厚いその束を受け取り、素早く目を通していく。
仕事内容は情報収集や特定物の奪取だけでなく、暗殺も含まれていた。
……血を浴びなければ何とかなるかなぁ。
やはり、一番稼げるのは暗殺だ。
「お好きなだけ受けていただいて結構ですよ」
先ほどとは違い、アサドはやや腹黒さを感じる笑みを浮かべる。
「いつもより割高な報酬だねぇ」
「『休暇中のランク一位を動かすのに必要な額』ですから」
……ほんっと、コイツって昔っから先を見る目があるんだよねぇ。
だからこそ闇ギルドのギルド長の席を任されたのだろうが。
「もしかしてオレが金を欲しがるって予想してたぁ?」
別に予想されたことに不満はない。欲しい仕事を受けられるならそれでいい。
付き合いも長いので、ルフェーヴルの行動を予測することも可能である。
ルフェーヴルは己が気紛れだという自覚があって、だからこそ、他者が自分の言動を先読みして、それが当たった時が面白い。
「あなたに限らず、結婚して子供が出来ると誰でも金銭面を心配するので。特にあなたは『金』の重要性をよく理解していますから、高額の依頼を受けたがるのではと思って用意しておきました」
「いいねぇ」
しかも仕事内容は絞られていて、危険なものは多いがルフェーヴルの実力ならば何も問題なく遂行出来る上に、先ほども言った通り報酬が高額だ。
このリストにある全ての仕事を行えば、しばらく働かなくても困らないだろう。
「じゃあ、とりあえず上からやってくよぉ」
「それはこちらとしてもありがたいです」
中には敵対し合う商人同士が互いに暗殺依頼を出しているという面白いものも混じっている。
それについては依頼料は前払いになっており、対象の暗殺後、何が起こってもギルドもルフェーヴルも関与しないということも取り決めてある。
……オレは両方殺せばいいだけってねぇ。
どちらも依頼は『相手の暗殺』であり、そこに依頼主の身の安全については何も書かれていない。
片方を暗殺した段階で契約は完了するので、その後に依頼主を殺せば済む。
恐らく暗殺の依頼を出したのは初めてなのだろう。
慣れた者ならば対象の暗殺依頼と共に己の身の安全のために、護衛依頼も行う。
ふと書類の中に見慣れた文字を見つけ、ルフェーヴルは呆れた。
「何この依頼〜?」
それは義父からのもので、とある日付けを指定して『護衛』の依頼が出されていた。
「ああ、陛下の件ですね。近々、陛下が王太子殿下に譲位なさるのではという話が出ておりまして……恐らく、その日に陛下の退位と王太子殿下の戴冠式を行うのでしょう」
「『お前だけでも見に来い』ってことかぁ」
「日付けを考えると夫人が見に行くのは難しいかと」
恐らく、その頃にはリュシエンヌの腹はもっと膨らんでいるだろう。
だから、せめてルフェーヴルだけでも見に来てくれと言いたいのは分かるが、わざわざ依頼にすることのほどではないと思う。適当な理由をつけて、こちらに金を渡したいという気持ちが透けて見えた。
「まあ、楽な仕事だから受けるけどねぇ」
そう、金はいくらあっても困らない。
ついでに退位と戴冠式の様子を見て、教えれば、リュシエンヌもきっと喜ぶ。
「では、そのように伝えておきますね」
アサドが微笑み、ルフェーヴルは書類の束をアサドに返した。
「とりあえず上から順にやってくから、手続きヨロシク〜」
「分かりました」
机から立ち上がり、ルフェーヴルはひらりと手を振って部屋を出る。
久しぶりの刺激的な仕事に少しだけ気分が高揚している。
扉を閉めれば、珍しくゾイが声をかけてきた。
「今更だが、おめでとう」
何が、と訊き返さなくても分かった。
「どぉも〜」
まだ生まれてもいない我が子について祝われるというのは不思議で、しかし思いの外、悪くない気分だった。
* * * * *




