安定期と色々
妊娠五ヶ月目、ついにわたしは安定期に入った。
これまでと注意点は変わらないが、それでも色々と変わったところもある。
まず、散歩と体操が解禁となる。
無理をしてはいけないけれど、妊娠してから今まで安静していた分、体力も落ちてしまっている。それを取り戻すためにも毎日散歩をしたり、体を軽く動かしたりするのはいいらしい。
お腹もよく見れば分かる程度には膨らみかけており、少し胸も大きくなった気がする。
主治医の話ではもうそろそろ、胎動を感じられるようになるそうだ。
妊娠してからは体を締めつける服は避けていたが、本格的にマタニティードレスを揃えた。
胸元からストンと落ちる形のワンピース風で可愛いし、体を冷やさないために生地が厚めなので暖かく、コルセットも着けないからすごく体が楽だ。
体重に気を付けなければいけないが、食事には毎回肉を出してもらい、日に一つか二つならチョコレートも食べていいというのでおやつにしている。
精神的に不安定になりやすいという話だったが、イライラしたり、気落ちすることもない。
「むしろ気分が良くて楽しいくらいなんだけどなあ」
ルルと一緒に散歩をしながら呟けば、ルルが小さく笑う。
「リュシー、自分のスキル覚えてる〜?」
「え? ……あ、そっか」
すっかり忘れてしまっていたが、わたしには『精神的苦痛耐性』『肉体的苦痛耐性』『毒耐性』の三つのスキルがあり、常時発動している。
つまり精神的なストレスに強いし、痛みにも強いし、毒も効きにくい。
妊娠中に起こりやすい精神的な不安定さも出にくいのかもしれない。
「ただ、肉体的苦痛耐性については気を付けないとねぇ。リュシー自身がそれほど痛みを感じてなくても、体に異常があるかもしれないからぁ、ちょ〜っとでも違和感があったら言うんだよぉ?」
「うん、そうするね」
そういえば、今まで月のものが来てもイライラしたり不機嫌になったり、お腹が痛いということもなかった。少しだるかったり眠かったりというのはあったが、その程度だった。
……これ、陣痛も痛みを感じにくかったりしないよね……?
陣痛が来てるのに気付かなくて、突然出産しちゃいました、なんてことにならないよう、自分の体調には今まで以上に気を配っておいたほうがいいだろう。
雪が溶け、まだ寒い日も多いけれど、冬の一番寒い時期は過ぎたようだ。
もうすぐ春が訪れる。
「十月十日ってことは、リュシーと同じ夏生まれになるんだねぇ」
わたしに合わせてゆったりと横で歩くルルが言う。
「予定通りに生まれてくれたらそうなるね」
「……安定期に入ったら仕事しようって思ってたけどぉ、リュシーから離れるのが不安だよぉ」
「ルルがいないとわたしも少し不安だけど……でも、ギルドランク一位の凄腕暗殺者をずっと独り占めしていたら、依頼したがってる人達に恨まれそう」
庭先を軽く回り、屋敷に戻る。
わたしの散歩が解禁となってから、真っ先に行われたのが散歩ルートの確認だった。
途中で休めるようにベンチが設置され、足元の石畳も確認して出っ張りや欠けがあれば修繕し、匂いの強い花などは庭の中でも別の位置に植え替えられた。
そこまでするのかと驚いたものの、ルルが指示する前に庭師達が率先して動いてくれたらしい。
おかげで散歩道は歩きやすくて負担が少ない。
「リュシーはそんなこと気にしなくていいよぉ。急ぎの案件なら他にも回せるしぃ、そういうヤツらの中には見栄でオレに依頼したがるのも多いんだぁ」
「見栄?」
「『自分はギルドランク一位に依頼出来るだけのコネと金がある』って自慢したいんだろうねぇ」
「ええ……?」
……そんなことのためにルルに仕事を依頼したがるの?
「前も思ったけど、ルルはそれ、嫌じゃない……?」
腕を信頼してではなく見栄のためなんて、ルルは不愉快ではないだろうか。
しかし、ルルは気にしたふうもなく頷いた。
「別に〜? そういうヤツらの仕事ってそんな難しくないけど金払いはいいからぁ、コッチとしては『楽に稼がせてくれてどぉも〜』って感じぃ。いい金ヅルだねぇ」
そう言ったルルの表情は普段通りだった。
「ルルが嫌じゃないなら良かった」
「やる気がなかったら断るよぉ」
……そっか、仕事は自分で選べるんだっけ。
屋敷の中に戻り、靴の土を軽く落として、手を洗ってからルルに抱き上げられる。
わたし達の居住区である三階まで上がるのはさすがに大変なので、ルルに抱えられて上がってもらう。毎日、散歩の度にそうなるので申し訳ないが、ルルは楽しそうだ。
ルルがわたしを抱えて慣れた様子で階段を上がっていく。
軽い散歩だけで疲れてしまうくらい体力も落ちているし、妊娠中は息が上がりやすいらしい。
何となくルルの顔を眺めていれば、それに気付いたルルがニコリと微笑み、またすぐに視線を前に戻した。わたしを落とさないだけでなく、自分の足元にもかなり気を付けているようだ。
三階に着き、後ろにずっと控えていたヴィエラさんが扉を開けてくれて、居間に入る。
ソファーに降ろしてもらい、ルルも横に腰掛けた。
部屋に控えていたリニアお母様がレモン水を用意してくれる。
ルルが一口飲み、頷いて、わたしに差し出した。
飲み慣れたそれで水分補給をしてから、お手洗いに行き、やっと一息吐く。
当たり前のようにルルの手がわたしのお腹に触れた。
「ほんとに大きくなるんだねぇ」
と言うルルにわたしは笑ってしまった。
「多分、もっと大きくなるよ」
「……確かに、赤ん坊にしてはまだ小さいかぁ」
どうやらお腹の中の子供の魔力を探っているようだ。
試しにルルに訊いてみる。
「今、赤ちゃんがどれくらいの大きさか分かる?」
「ん? うん、リンゴよりちょ〜っと大きいくらいかなぁ」
「…………出産するまでお腹が裂けないのが不思議だよね……」
リンゴくらいと言われて、子供の成長はここからが本番なのだろうと覚悟を決める。
こまめにお腹に化粧水や軟膏などを塗り、マッサージをして肌を柔らかくしているおかげかまだ何ともないが、ここから先は子供の成長に追いつかなかくて肌が裂けるかもしれない。
……いや、そういう意味の『裂ける』じゃないんだけどね。
元の世界でも赤ちゃんの平均的な大きさは二キロ半から三キロといわれていた。
それだけの重さと大きさに育つ子がわたしのお腹にいるというのが不思議な感覚だった。
「裂けないように化粧水とか塗ってるんでしょぉ?」
キョトンとした表情のルルに言われて、わたしは苦笑した。
「うん、まあ……これからもっと大きくなったら、大変だなあ」
「そうだねぇ」
リニアお母様がルルに耳打ちをして、ルルが頷いた。
「そろそろ、お腹のマッサージしよっかぁ」
「うん」
ルルがわたしを抱き上げて寝室に移動する。
寝室には既に必要なものが揃えてあり、ベッドの縁に降ろされ、靴を脱がしてもらう。
ルルが準備をしている間にベッドの真ん中に移動した。
暖炉に火が入っているおかげで室内は十分暖かい。
濡らした布を手に振り向いたルルが、雑に靴を脱ぐとベッドに上がる。
後ろに座り、足の間にわたしを入れたので、マタニティードレスの裾を上げてお腹を出す。
ぽっこりしたお腹にルルがそっと濡れた布を広げて当てる。お湯で絞ったそれは温かく、肌の表面をマッサージするように拭われるとホッとする。
ルルに寄りかかって身を委ねていれば、丁寧にお腹を拭いた後、ベッドサイドの棚に畳んだそれを置いて、今度は化粧水を手に取る。
掌に出した化粧水はすぐにつけず、掌全体に広げて温めてからお腹に塗られる。一気に沢山はつけずに、少量ずつ肌に浸透させていく。ルルの掌の温もりと大きな手で行われるマッサージは気持ち良くて好きだ。
化粧水でしっかり潤ったお腹に、今度は軟膏を塗る。
こちらも掌で温めてから塗るので伸びが良く、肌がしっとりする。
…………ん?
気持ち良くてうとうとしていたのだが、ふと感じた体の異変に目を開けた。
「どうかしたぁ?」
目を開けただけなのにすぐにルルが気付く。
ルルの手が止まり、わたしは首を横に振った。
「ううん、何でもない」
「そ〜ぉ?」
ルルの手がまたお腹に軟膏を塗り、マッサージをしていく。
……気持ちいいのはいいんだけど……え、どういうこと?
思いもよらない感覚に戸惑ってしまう。
軟膏を塗り終え、マタニティードレスの裾を戻したルルが、わたしの顔を覗き込んできた。
つい、ジッとルルの唇を見つめてしまった。
妊娠が発覚して以降、ルルとはキスをしていない。
妊娠中は体が弱っているので病気にならないよう、キスや夫婦生活の制限があり──……魔力を注いでもらう時にルルに触れられるが、実際はそういう行為はせず、子供に魔力を注いだら何事もなかった様子で終わる。
まだその行為も恥ずかしいのだが、それ以上に……。
「……なんか、すっごくムラムラする……」
妊娠中にこんなに『ルルと触れ合いたい』と感じることがあるとは思わなかった。
言うのは恥ずかしいが、体の変化がどのような影響があるか分からないため黙っているわけにもいかない。
わたしの言葉にルルがまたキョトンとした顔で小首を傾げた。
「ムラムラ?」
訊き返されて、我ながら語彙力のなさに申し訳なくなった。
いつも感覚的な表現をしてしまい、ルルが上手くそれを感じ取ってくれているのだが、さすがに今回はそうはいかなかった。説明をしなければと考えて恥ずかしくなる。
「えっと……ルルと触れ合いたいというか、その、夜のあれこれみたいなことがしたいな……なんて。もちろん、そういうことはダメだって言われてるのは分かってるけど、なんか、すごく、ムラムラする……」
見上げると、ルルと目が合い、驚いた表情をしていた。
すぐにルルの喉元がゴクリと動く。
しかし、ハッと我に返った様子のルルが即座に手を伸ばしてベルを鳴らした。
その動きはとても速かったし、ベルの音もいつもより大きかった。
音の違いを感じ取ったのかリニアお母様だけでなく、ヴィエラさんまで来て、リニアお母様の後ろから顔を覗かせる。
「今すぐ、急いで、主治医を呼んできて」
「かしこまりました」
「泣き虫はコッチ来て、オレのこと見張ってて」
「……かしこまりました」
リニアお母様が主治医を呼びに下がり、ヴィエラさんが入室して近づいてくる。
ルルの指示の意味が理解出来ないというふうに少し訝しげな表情をしたヴィエラさんが、わたしとルルがいるベッドのそばに来て、置きっ放しの椅子に腰掛ける。
ベルを元の位置に戻した後もルルの手は彷徨っていた。
まるで、わたしに触れていいのか判断がつかないという様子だった。
その手の片方を取って頬擦りをする。
体の内側にじんわりと、けれども確実に感じる熱は、一度自覚してしまうと無視出来ない。
「……ん、ルル……」
手は既に拭ってあるようだが、ルルの掌から僅かに化粧水や軟膏の匂いがして愛おしい。
匂いが付くのを普段は嫌がるのに、わたしのためなら構わないという、それが嬉しかった。
思いの外、甘えるような声が出て、ルルが硬直したのが伝わってくる。
ルルの掌にキスをすると、コホン、とわざとらしいほど大きな咳払いが響く。
目を開けてそちらを見ればヴィエラさんと目が合い、ギョッとした顔をされた。
ヴィエラさんがわたしとルルを素早く交互に見る。
「……こういう状態なわけでさぁ……」
「旦那様、理性を強く保ってください」
「分かってるよぉ。今、人生で一番我慢してるってぇ……」
珍しく……というか、初めて聞く弱々しい声のルルに驚いた。
顔を上げれば、ルルが困り顔でわたしを見ている。
「リュシー、オレの理性を試さないで。……忍耐力はあるほうだって自負してるけどぉ、我慢するのはそんなに慣れてないんだよぉ? 食べられないのにご馳走並べられてるようなものなんだから……」
「ごめんなさい……」
本当にルルを困らせてしまったと気付いて謝った。
反省しても、それでこの熱が治まるわけもなく、落ち着かなくて身動いだ。
それも良くなかったのかルルがお腹を避けてわたしを抱き締めた。
そうしていると扉が叩かれ、ルルが入室を許可すれば主治医が入ってきた。
「奥様、お身体の調子は大丈夫ですか?」
「体調は多分いいと思います……けど……」
「けど?」
気恥ずかしさを感じながらも主治医に説明する。
だが、主治医はわたしの話を聞くとホッとした顔で言った。
「妊娠中に性欲を強く感じることはありますよ。悪阻と同じで人それぞれ、感じたり、なかったりしますが、普段よりも性欲を感じてどうしても……という方もおります」
この欲求が変なことではないと分かって、わたしも心底ホッとした。
「でもさぁ、妊娠中にヤるのは良くないんでしょぉ?」
「深く繋がったり、最後までしてしまうと子が流れる危険性もあります。……ですが、逆を言えば再妊娠するようなことを避ければ問題ないでしょう。実際、魔力を注ぐために似たようなことはしておりますから、奥様が疲れない程度の戯れであれば良いかと」
「え、リュシーをかわいがるのはいいってこと?」
「旦那様は『触れるだけ』ですよ。口……粘膜接触は控えてください」
ルルの目が輝いた。元気になったのが伝わってくる。
「それでも構わないよぉ」
上機嫌でルルが言い、ニッコリと微笑んだ。
その後、魔力を注ぐ時間がとても長くなったのは言うまでもない。
わたしと過ごす時間は増えても、そういった触れ合いの時間が減って、それがルルの中ではストレスになっていたのかもしれない。肉体的な繋がりだけでなく、精神的な繋がりをルルも感じたいのだろう。
……それにしても、妊娠中ってこういうこともあるんだなあ。
別作品ですが「死にたがり令嬢は吸血鬼に溺愛される(旧題:吸血鬼は死にたがり令嬢を生かしたい〜死のうとしたら一目惚れされました〜)」のコミカライズが各書店様でも公開されました(*^-^*)
是非お楽しみいただけますと幸いです!




