リュシエンヌ復活
年を越えて二月に入り、妊娠四ヶ月目の半ば頃。
ずっとつらかった悪阻が段々と和らぎ、ついに今日、ずっと薄く感じてた吐き気が消えた。
悪阻は人によるそうだから、完全に落ち着く人もいれば、なかなか治らない人もいて、中には妊娠後期に悪阻症状が出る人もいるらしい。
だが、とりあえずわたしは元気になった。
主治医の診察を終えて「悪阻の峠は越えたようです」と言われて、喜んだ。
「ふっかーつ!!」
拳を握って掲げれば、ルルが「良かったねぇ」と小さく拍手をする。
まだ妊娠中だし、安定期に入っていないので油断は禁物だが、悪阻が軽くなったのはありがたい。
ちなみに現在のわたしのお腹は膨らみ始めた。
『ちょっと太った?』とか『食べすぎたかな?』みたいな、僅かに膨らんでいるかもという感じだが、子供は確実に育ってきているようだ。
ソファーに座っているわたしの横にいたルルが、そっとわたしのお腹に触れる。
「ぜんっぜん、動く気配を感じないけどぉ、大丈夫なのぉ?」
「胎動……お腹の子の動きが感じられるようになるのは、もう少し先です。それでも、旦那様はお子様の魔力が大きくなってきていることは感じられるでしょう?」
「まあ、そうだけどさぁ」
主治医が真面目な顔で言う。
「いいですか、これからは『食べたいものを食べたいだけ』というのはいけません。以前も申し上げましたが、太りすぎると奥様の体に負担がかかりますし、塩気の摂りすぎにも気を付けてください」
「はい」
「吐き気が落ち着いて色々と食べたくなるかもしれませんが、どうしても空腹を感じる時は味付けが薄い野菜のスープや干した果物なら少しは食べても問題ありません。ただ、悪阻後も食べてはいけないものは変わらないので気を付けてくださいね」
「はい」
悪阻が終わったから『沢山食べるぞ!』というのはダメらしい。
……まあ、相変わらず匂いの強いものは体が拒絶してるし。
「レモンジャムの食べすぎもいけませんよ?」
「……はい」
酸っぱいものが欲しくてレモンジャムは必ず食べていたが、今後は制限がかけられそうだ。
ルルがわたしのお腹から手を離した。
「旦那様も侍女の皆さんも、これから奥様の性格が変わるかもしれません。イライラしたり、気落ちしたり、神経質になることもあります。浮腫みやすくなりますので、旦那様のマッサージは続けるように。体を冷やしたり、長時間立ち続けたり、重い物を持つのは絶対にやめてください」
「でもさぁ、このままだと体力まで落ちちゃわなぁい?」
「安定期に入れば軽い散歩などの運動は大丈夫です。奥様がたまに行っている体操も、座っている状態でしたら出来る範囲で行うのも体に良いでしょうが……それはもう少し先ですね。ああ、本日からお腹に化粧水や軟膏を塗っていただきます」
「お腹に、ですか?」
「はい。肌が伸びるよりも速くお腹が膨らむと皮膚が裂けてしまいます。そうならないように肌を柔らかくしておくのです。あと、便秘を避けるために毎日決まった時間にお手洗いに行ってください。入浴で体を温めて、水分をよく摂り、体調が少しでもいつもと違う場合は安静に」
矢継ぎ早に言われて頭の中で整理しているわたしの横で、ルルが頷く。
主治医が部屋から出ていくと、ルルは少しホッとした様子でわたしを見た。
「リュシーの悪阻が落ち着いて良かったよぉ」
悪阻が酷い時は食べても吐き戻してしまうこともあった。
戻したものでルルの服や床を汚してしまったり、それらの片付けを使用人にさせてしまったり、色々と迷惑をかけたのだけれど、みんなが「気にしないでください」「これくらい『汚い』うちに入りませんから」と対応してくれたおかげで精神的にもかなり助けられた。
むしろ、吐き戻したわたしのことをとても心配してくれて申し訳ないくらいだった。
「うん。まだ気持ち悪くなることもあるかもしれないけど……」
「そういう時は我慢せずに吐いていいよぉ。食べてみたけど、体に合わなかったって場合もあるかもしれないしぃ? 今は何か食べたいものはある〜?」
訊き返されて考える。
「……お肉、かも? 脂っぽくないところがいいなあ」
妊娠してから前よりも肉をよく食べるようになった。
特に、脂の少ない赤身部分を柔らかく料理したものは毎日でも食べたいと思う。
「肉は相変わらずなんだねぇ。他は〜?」
次に思い浮かんだのはチョコレートだった。
「チョコレート」
わたしの言葉にルルが笑った。
「さっき食べていいか確認すれば良かったねぇ」
「後ほど聞いてまいります」
「ヨロシク〜」
リニアお母様が言い、ルルが手をひらりと上げた。
まだ気のせいかと思うくらいにしかお腹は膨らんでいないが、ここにルルとの子供がいると思うと愛おしくて、嬉しくて、幸せな気持ちになる。
ルルがまたわたしのお腹に触れる。
最近はこうして触るのが癖になっているようだ。
黙ってわたしのお腹を撫でていたルルが「ん」と顔を上げる。
「魔力減ってきてるから、向こうに移動しよっか」
向こう、とルルがベッドを指差すとリニアお母様とメルティさんが一礼して寝室を出ていく。
ルルの手を借りて立ち上がり、ベッドに移動する。
ルルが靴を脱がしてくれて、わたしを抱き上げてベッドの中心に動かし、背中にクッションを差し込む。慣れた手付きだ。
…………うーん……?
「なんか、魔力の減る感覚が短くなってない?」
誤差の範囲と言われればそうかもしれないが、魔力を注いでから次までの間隔が僅かに短くなってきている気がした。
「あ〜、仕方ないんじゃなぁい? 子供はリュシーの体とも繋がってるからさぁ、魔力を注いでも流れてっちゃうしぃ、子供の体が成長すれば自然に魔力が足りなくなるんだよぉ」
「……器が大きいのに微妙に中身が漏れていっちゃうから、どんどん継ぎ足さないといけないってこと?」
「簡単に言えばそうだねぇ。子供も魔力欠乏症はつらいんじゃなぁい?」
「そっか……」
魔力欠乏症の貧血みたいな症状は確かにつらかった。
あれをお腹の中の子も感じるとしたら可哀想だ。
それにしても、わたしは子供の魔力を感じられないから分からないが、お腹がほとんど膨らんでいない今ですら四日の頻度で魔力を注いでいて、間隔がゆっくりと狭まっている。
……生まれてくる頃にはどれくらいの魔力量になってることやら……。
父親のルルですら相当量なので、子供も負けず劣らず魔力量が多かったとしても不思議はない。
ルルが空間魔法から魔力回復薬を取り出し、蓋のコルクを引き抜く。
キュポン、と小気味良い音がする。
差し出された魔力回復薬を受け取り、口をつける。
前に飲んだ時は『すごく不味い青汁』だった味が、今は『結構美味しい青汁』に感じるのだから、妊娠というのは不思議で、面白くて、すごいことなのだと思った。
* * * * *
悪阻が落ち着いてからのリュシエンヌはいつものリュシエンヌだった。
相変わらず食べられないものはあるけれど、悪阻中に比べると食事もしっかり食べるし、顔色も良くなって、ずっと微熱続きだったのも治まった。
代わりに更に眠気が強くなり、体もだるいそうで一日中寝ている日もある。
リュシエンヌが眠っている時でもルフェーヴルはマッサージを行ったり、子に魔力を与えたりしているのだが、それでも全く起きないので妊娠というのはかなり体に負担がかかるのだろう。
……この子供が生まれたら、その後は避妊薬でも飲もうかねぇ。
こんなに体に負担がかかるのに、二人目を孕んだらリュシエンヌがボロボロになってしまう。
主治医いわく、リュシエンヌの悪阻はまだ軽いほうらしい。
『妊娠と出産で父親が出来ることは少ないですが、子育ては授乳以外は男性でも出来ます。いいですか、旦那様。出産は命懸けで、産後の奥様の体は瀕死の状態と言っても過言ではありません。そこからゆっくり体調を整えていくのですから、旦那様も子育てに積極的に参加するという姿勢を奥様に示して差し上げてください』
という話だった。
『侍女達がいるじゃん』
『奥様は出来る限り子育てを自分でしたいと希望している上に、あんなにボロボロになりながら産んだ子に、父親である旦那様が無関心だったら……奥様、絶対に悲しみますよ』
『ええ〜?』
『もし私が奥様の立場だったとして、命懸けで産んだ子に対して夫が無関心で全く子育てに関わろうとしなかったら幻滅しますね。夫婦仲が悪くなるどころの話ではございません。私なら、そんな夫とは離縁します』
至極、真面目な顔で主治医はそう言った。
『……そんなにダメ?』
『ダメです。旦那様にとって、奥様は何よりも大切なものなのですから、その奥様が産んだ子も大切になさってください。奥様と同じように扱えというのではなく、関心を持ち、気にかけ、子が健やかに育つ手助けをすれば良いのです』
『子供が生まれる前にもう一回、王太子妃のところに行って子育てについても聞いてくるよぉ』
『そうされたほうがよろしいかと。子育てについてはメルティに訊くのもいいですよ。あの子は歳の離れた弟妹がいて、生まれたばかりの下の子の世話をしていた経験もあるそうなので』
そういうわけで、もうしばらくしてリュシエンヌの腹がもっと大きくなったら、今度は子育てについて王太子妃と侍女の一人から聞くことになるだろう。
今日のリュシエンヌは午前中に久しぶりの散歩──短い距離だったが──をして、昼食中に眠気に負けて寝てしまったため、寝室のベッドに運んだ。現在はルフェーヴルの腕の中で気持ち良さそうに眠っている。
腹が重いのか、横向きに寝ることが増えた。
横向きで体を少し縮こませているリュシエンヌを、ルフェーヴルが後ろから抱き締めるような格好で寝ているが、片腕はリュシエンヌの下に通さずルフェーヴル自身の枕代わりに使う。もう片腕をリュシエンヌの腹部に回すが、重みはかけないようにする。
こうしているとルフェーヴルの体温でリュシエンヌの体が温まる。
意識をリュシエンヌの腹部に向ければ、そこに小さな魔力の塊を感じる。
大きさはリンゴよりも一回り小さいくらいだろうか。
動きまでは分からないが、魔力の流れは感じられるので生きている。
小さな魔力の塊から僅かにリュシエンヌの体へ魔力が流れているが、その魔力は長く留まれず、やがてリュシエンヌの体外に霧散してしまう。ルフェーヴルは子供の魔力量が半分近くまで減ると注ぐことにして、様子を見た。
リュシエンヌの貧血症状が消えたので、それで良いらしい。
……お前、ちょっと魔力量が多すぎなぁい?
最近は魔力を注ぐ時にルフェーヴルの魔力量の四分の一弱ほど与えている。
まだ成長途中でそれなのだから、生まれてくる頃の魔力量はもっと多いだろう。
今ですら一般的な貴族の成人と同等くらいの魔力量を注いでいるというのに、日を追うごとに子の魔力量の上限が増えていく。
親の魔力量が多いと、同じく魔力量の多い子が生まれやすいのだが、全く魔力を持たないリュシエンヌと魔力量が非常に多いルフェーヴルの間の子が一体どれほどの魔力量になるのか想像がつかない。
しかも、子供は洗礼を迎えるまで能力値が成長する。
膨大な魔力を持つ子が生まれたら、色々と気を配る必要がありそうだ。
場合によっては自分で物事が考えられる歳になるまで、魔力封じの魔道具を持たせて、魔法の使用を制限させなければ大惨事を引き起こすかもしれない。
物や屋敷を少し壊す程度ならばいいが、子のそばに一番いることとなるのはリュシエンヌだ。もしも子の魔法が暴走してリュシエンヌに何かあれば、たとえ己の子であっても容赦はしない。
……早い段階から教育しないといけないかもなぁ。
生まれてくる子が男でも、女でも、暗殺者の教育は施したほうがいいだろう。
感情を抑え、理性的に振る舞える人間にしなければ。
「……跡継ぎかぁ……」
子供には暗殺者の教育を施すが、伯爵位を継いでただの貴族として生きてもいいし、ルフェーヴル同様に両方で食っていってもいい。
しかし、たった一人だけに技術を継承するのはつまらない。
……孤児院から別の子供を引き取るのもありかもねぇ。
アリスティードのそばにロイドウェルがいるように、子のそばに従者として兄弟弟子を置くのも悪くないのだ。技術を磨くには競い合わせるのが効果的で、遊び相手でもある従者がいれば、子供がリュシエンヌにべったりすることもなくなるだろう。
貴族の中には子が一人だと寂しくないように養子を取ったり、慈善活動の一環として才能がありそうな孤児を引き取ることもある。
なかなかに悪くない案だとルフェーヴルは口角を引き上げた。
「……まだ生まれてもないのにねぇ」
こんなふうに先のことを考えている自分がおかしくて、ルフェーヴルは小さく笑った。
リュシエンヌと共に生きることを決めてから、未来を想像したり気にしたりする機会が増えた。
いつ死んでも不思議はない暗殺者の己が未来を見据えている。
だが、それが面白い。
リュシエンヌと過ごして十数年も経つというのに、いまだに新しい自分を見つけて驚かされる。
子が生まれてもきっとそうなのだろうと思えば存外楽しい人生である。
暗殺者の仕事とは異なるが、子育てもきっと愉快だろう。
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