珍しい組み合わせ
* * * * *
政務を終えたアリスティードは馬車に乗り、妻の離宮を訪れた。
エカチェリーナの妊娠についてはまだ公表していないが、もう少しして、悪阻が顕著になったら発表する予定である。
悪阻の間もそうだが、妊娠中から産後しばらくはアリスティードがエカチェリーナの公務を出来る限り担う。それに関しては夫として当然だと思うし、妊娠中のつらそうな妻の様子を見ると『自分が代わってやれるものなら……』と思う時もある。
……しかし、あのレモンジャムだけはどうしてもきつい。
砂糖も入っているはずなのに、口にした瞬間、言葉を失うくらい酸味の強いレモンジャムだ。だが、妊娠中は味覚も変わるそうでアルベリクを妊娠していた時のエカチェリーナは「酸味があって美味しいですわね」と喜んでいた。
ちなみに、出産後に食べたらあまりの酸っぱさに驚いていたが。
だが、また食べたいと言えば料理人は作るだろうし、アリスティードとしてもうっかりエカチェリーナの体に合わないものを食べて匂いをさせてはいけないので、妊娠中は同じものを摂ることにしている。
せめてもの情けでクリームは許されたものの、あの酸味の前ではクリームのほうが負ける。
味を思い出すだけでも口の中が酸っぱくなるような気がして、想像してしまったレモンジャムの存在を頭の中から追い出した。
離宮に到着し、執事に出迎えられ、その案内を受けながら話を聞く。
まだ悪阻は来ていないそうで、今日もエカチェリーナはいつも通り公務をこなしたらしい。
居間で寛いでいるというのでそちらに向かう。
途中で手を洗い、上着も執事に預けておく。
扉を叩き、開けて、そして驚いた。
「ルフェーヴル?」
居間の暖炉の前の揺り椅子に腰掛けているエカチェリーナの近く、手を伸ばしても互いに届かないが話すのには問題はない程度の位置に椅子を置いて、ルフェーヴルが座っていた。
椅子の背もたれを前にして座り、背もたれに両肘を置いて座る姿は相変わらず行儀が悪い。
ルフェーヴルの場合はそうと分かってやっている節があるので、今更注意はしないが。
それよりも、エカチェリーナとルフェーヴルという組み合わせは予想外だった。
ルフェーヴルがひらりと手を上げた。
「お疲れぇ」
とりあえず扉を閉めて、アリスティードは二人に歩み寄った。
「珍しい……というより、エカチェリーナとルフェーヴルがこうして話しているのは初めてじゃないか?」
学生時代はこの二人の間にリュシエンヌが必ずいた。
その三人でいる姿は時々見かけていたので違和感はないが、エカチェリーナとルフェーヴルという組み合わせは不思議な気分になる。この二人を繋ぐのは『リュシエンヌ』の存在だけだったから。
「ええ、わたくしも驚きましたわ。ニコルソン伯爵が突然現れて『妊娠について教えてほしい』とおっしゃるものですから……今は丁度、悪阻の説明を終えて、お腹の膨らみ始める時期の話をしていたところですのよ」
「リュシーもオレも初めてのことだしさぁ、知識くらいは入れとかないとって思ってぇ。妊娠中の症状って人によって結構違うらしいけど、知らないより良いしぃ?」
どうやら、リュシエンヌの妊娠を知り、経験のあるエカチェリーナから情報を得ようと考えて話を聞きに来たらしい。昔から行動力のある男だったが、リュシエンヌのためならどんな労力も厭わないところは素直にすごいと思う。
エカチェリーナの侍女が用意した椅子にアリスティードも腰掛けた。
「そのわりには、私には何も訊かないんだな?」
「別にアリスティードは妊娠出来ないし、訊くことなんてなくなぁい?」
「父親として出来ることとか、子供との接し方とか、あるだろう」
「そもそも、ソッチは子育てなんてほぼ乳母任せでしょぉ? リュシーのことだから『子育ては出来る限りやりたい』って言うと思うしぃ、生まれてからは実践で覚えていくからいいよぉ」
全くもってその通りだったので、アリスティードは返す言葉がなかった。
「まあ、それはともかく、腹が膨らみ始めてからは〜?」
ルフェーヴルがエカチェリーナに顔を向け、エカチェリーナが頷いた。
「その頃になると恐らく悪阻は治ってくるでしょう。お腹が膨らみ始めると胸が張ります。体を締めつけない服がいいですわね。これくらいからなら軽い散歩をしても大丈夫だそうで、体調が良ければ散歩はしたほうがいいかもしれません。体力が落ちると出産も大変ですから」
エカチェリーナの話に、ルフェーヴルが小さく頷いている。
その表情は真剣で、リュシエンヌの妊娠と自分の子について真面目に考えてはいるようだ。
「それから、安定期に入りますが、あくまで『流産しにくい』だけで可能性がなくなるというわけではございません。無理な運動や体勢、重いものを持つなどお腹に負担のかかる行動は絶対にさせないように。悪阻が治ると食べすぎてしまうこともありますので、食事は体重を見て、主治医と相談してくださいませ」
「食べたい分だけ食べさせたらダメなのぉ?」
「太りすぎると体への負担が大きくなってしまいますから。子供と言っても……ええと、そちらにあるピッチャーに水が入っている状態で二つ分くらいですので、現在の体重にそれくらいの重さが増える分には問題ないかと」
「子供って腹の中でそんな大きくなるのぉ? ……それって本当に出せるわけぇ?」
出産について疑念を抱くルフェーヴルに、エカチェリーナが苦笑する。
「ですから、大きい子ほど出産が大変ですわ。どうしても自力で産むのが難しい場合は切開して取り出すという話になりますが、リュシエンヌ様は治癒魔法が効かないのでその選択は出来ません。……自力で産むしかないのです」
シンと室内が静まり返る。
アルベリクはやや小さい子として生まれてきてくれたのでエカチェリーナは自力で出産出来たが、リュシエンヌの子もそうとは限らない。子供が腹から出てこなければ、母子共に危険な状況となるだろう。
それをルフェーヴルも悟ったのか、口を開いた。
「もしリュシーと子供のどっちかを選ぶとしたら、リュシーを助けるよぉ。それについてはリュシーも了承してるし、主治医にも伝えてあるからさぁ」
「そうなのですね」
エカチェリーナが複雑そうな顔をした。
妊娠中のリュシエンヌの内心については、ルフェーヴルよりもエカチェリーナのほうが色々と気付いている部分があるとは思うが、二人の決めたことに口出しをすべきではないとも分かっているのだろう。
ふと、ルフェーヴルが何かに気付いた様子で言った。
「でも、どうしてもリュシーが助からないってなったら、オレがリュシーを殺す」
淡々とした声で確定事項として話すルフェーヴルにエカチェリーナは驚いていたが、アリスティードは『そうだろうな』という気分だった。
昔からリュシエンヌとルフェーヴルにとっては互いこそが全てであり、リュシエンヌも「死ぬ時はルルに殺されたい」と言っていたこともあったので、むしろ、とても自然なことのように感じられた。
もちろん、危なくならないことが一番良いが、リュシエンヌの出産は命懸けとなる。
「リュシーを殺したらオレも死ぬから、もし子供だけ生き残った時はソッチで上手く面倒見てやってくれる〜? 子供が爵位を継ぐかどうかは本人の好きにさせればいいしぃ」
「……分かった。だが、出来るだけ生きる道を選べよ?」
「そのつもりだよぉ。リュシーとの間に鎖は繋げてあるけどぉ、やっぱり今の暮らしがいいしぃ、また離れ離れは嫌だからねぇ」
……死ぬつもりがないならいいが……。
「鎖とは?」
訊き返せば、ルフェーヴルが己の胸を指差した。
「隷属魔法を書き換えたヤツをオレにかけてあるんだよぉ。リュシーが主人で、たとえ死んで生まれ変わってもリュシーしか愛せないようにって。魂に魔法で刻みつけたから、すっごく痛くてさぁ。痛みには強いほうだと思ってたけどぉ、アレはさすがに死ぬかと思ったぁ」
あは、と笑うルフェーヴルに呆れた。
普通はそのような自殺行為をしようなどとは思わない。
「お前は本当にどうかしている……」
魂に魔法を刻むなど、想像を絶する痛みを伴うに違いない。普通は死ぬ。
「うるさいなぁ。って言っても、死にかけた時に女神サマにちょ〜っと怒られちゃったんだよねぇ。結果的には上手くいったけどねぇ」
「『女神をも恐れぬ所業』とはまさにこのことか……」
頭が痛くなってきて、思わず額に手を当てて天井を見上げた。
エカチェリーナも言葉を失っているようだった。
「だからさぁ、リュシーの出産も大丈夫じゃなぁい?」
「そんな無責任な……と言いたいところだが、ありえそうだ」
「でしょぉ? 元々リュシーは風邪一つ引かないくらい健康だしぃ、今のところも元気そうだしぃ、出産まで弱らないように気を配るのが大事だと思ってるよぉ」
そう言って、ニッと口角を引き上げるルフェーヴルに呆れてしまう。
「まあ、何か困ったことがあれば声をかけてくれ」
アリスティードに出来るこどなど、ほぼないだろうが。
ルフェーヴルは「りょ〜かぁい」といつも通りの軽さで返事をする。
……これで本当に父親になれるのだろうか。
一抹の不安と心配を感じながらも、アリスティードはそれ以上の口出しは控えたのだった。
* * * * *
「ただいまぁ」
屋敷に戻り、しっかりと入浴を済ませてから、ルフェーヴルは居間に入った。
暖炉の前の揺り椅子に座るリュシエンヌに、先ほどまで会っていた王太子妃を思い出す。
……本能的に居心地の良いところに行くのかねぇ。
手元の本に集中しているらしく、リュシエンヌは気付かない。
あえて足音を立てて近づけば、ようやくリュシエンヌが顔を上げた。
「おかえり、ルル」
「読書はいいけどぉ、ほどほどにしておきなよぉ?」
リュシエンヌの額に口付けると、くすぐったそうに琥珀の瞳が細められる。
「うん、読書は一時間ごとにお昼寝を挟んでるよ。……それで、お義姉様から話は聞けた?」
靴を脱ぎ、リュシエンヌの足元の絨毯に座り込む。
細い手を握りながら頷いた。
「とりあえず必要そうな情報は聞いてきたよぉ。あと、コレももらって来たぁ」
空間魔法からルフェーヴルは一枚の紙を取り出し、リュシエンヌに向かって掲げた。
それにリュシエンヌが目を通して首を傾げる。
「……レモンジャムのレシピ?」
「妊娠すると酸っぱいものが食べたくなるんだってぇ。王太子妃が妊娠中によく食べてたレモンのジャムの作り方教えてもらったけど、アリスティードが言うにはすっごく酸っぱいらしいよぉ」
「そう言われてみれば、確かに酸っぱいもののほうが食べやすい……かも?」
と、リュシエンヌが考えるように言う。
「じゃあ、明日にでも作ってもらおっかぁ。オレも休み取れたしぃ、しばらく一緒にいられるよぉ」
「本当? ……良かった。やっぱりルルがそばにいてくれるのが一番安心するから」
繋いだ手がキュッと握り返される。
ルフェーヴルとしても妊娠中のリュシエンヌから離れるのは心配だった。
せめて安定期に入るまでは、そばにいる時間を作りたい。
……多分、子供が生まれたら最初は手がかかるだろうしなぁ。
安定期から出産前まではまた稼ぐために仕事に戻ることになるだろうが。
「酸っぱいジャム……オレンジより酸っぱいかなあ」
「レモンだから酸っぱいんじゃなぁい?」
「……想像したら、なんだか口の中が酸っぱくなってきた気がする」
言って、唇を引き結ぶリュシエンヌにルフェーヴルは笑った。
「王太子妃はバターの入ってないパンにつけて食べてたらしいよぉ」
「バター入りだと酸味がまろやかになっちゃうから? ルルは酸っぱいもの平気?」
「物にもよるけどぉ、食べられないってことはないねぇ」
修行の時に口にしていたものに比べれば、大抵のものは美味しいし、食べられる。
好みはあるが、必要なら好きではないものでも食べる。
「明日は一緒にレモンジャム、食べてみようね」
嬉しそうに笑うリュシエンヌに、ルフェーヴルも笑顔で頷いた。
「パンはバター入りとバター抜き、両方作ってもらおっかぁ?」
「うん、どっちがいいか比べてみたい」
リュシエンヌの妊娠という問題は出たものの、穏やかな日々であることに変わりはない。
……むしろ、子供はいたほうがいいのかもなぁ。
ずっと二人だけのほうがルフェーヴルには嬉しいが、毎日変わり映えがないとリュシエンヌが飽きてしまうかもしれない。
子供がいればルフェーヴルがいない間は寂しくないだろうし、刺激もある。
「そうだねぇ、何が食べやすいか色々試してみよう〜」
そう思えば、子供もそんなに悪いものではないと言える。
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別作品ですが「元戦闘用奴隷ですが、助けてくれた竜人は番だそうです。」コミックシーモア様にて本日コミカライズ更新日です!
是非こちらもお楽しみください(*^-^*)




