妊娠について
お父様とお兄様に妊娠の報告をしてから一週間後の夜。
通信魔道具をお兄様のものと繋げると、そこにはお義姉様もいて、多分お義姉様の離宮のほうにお兄様も来ているのだろう。
ヴェデバルド王国との戦争以来だったので数ヶ月ぶりの再会である。
「お久しぶりです、お義姉様。お兄様もこんばんは」
わたしの横でルルがひらりと手を振った。
お義姉様とお兄様も寄り添っていて、そんな様子は何度見ても嬉しい。
【お久しぶりです、リュシエンヌ様。それから、おめでとうございます】
「ありがとうございます。お義姉様もおめでとうございます」
【ふふっ、ありがとうございます。まさかリュシエンヌ様と妊娠時期が重なるとは思いもよりませんでしたが、とても嬉しいですわ。生まれてくる子供同士、仲良く出来ると良いですわね】
「ええ、本当に」
お義姉様とわたしで笑っていると、お兄様が少し呆れた様子で言う。
【まだ気が早くないか?】
【あら、十月十日と申しますけれど、あっという間にお腹が大きくなってあれこれ騒いでいるうちにアルベリクが生まれたこと、もうお忘れですの? 妊娠中は昼寝が欠かせませんから、一日なんて一瞬で終わってしまいますわ】
【そういえばアルベリクの時はとにかく大騒ぎだったな】
お兄様とお義姉様はその時のことを思い出したのかおかしそうに笑った。
けれど、言葉とは裏腹に二人からは余裕が感じられる。
二人目ともなれば、確かに一人目よりは勝手が分かっている分違うのだろう。
お義姉様がこちらに顔を向ける。
【リュシエンヌ様、体調はいかがですか? 気持ち悪くなったり、食欲がなくなったり、何か変化はございますか?】
「眠気と食欲があって、微熱と少しのだるさがあります。でも、他は特にはないですね」
妊娠が発覚してからも毎日しっかり食事を摂れているし、眠い時は寝て、無理せずのんびりと過ごしている。
逆にルルはわたしが心配で仕方がないらしく、妊娠が発覚した後に抱えている仕事を急いで終わらせようとしているみたい。恐らく、仕事を全部終えたら休暇を取るつもりなのだろう。
……そうだ、ギルド長さんにも報告したいな。
後でお兄様に訊いてみよう。
【と、いうことはまだ妊娠のかなり初期ですわね。いいですか、リュシエンヌ様。この後、もう少しすると悪阻が来ると思います。気持ち悪くなったり、食欲がなくなったり、眠気を強く感じるでしょう。それと匂いにも敏感になります。あとは……そうですわね、わたくしは頭痛や耳鳴りもありますわ】
はあ、と溜め息交じりに言うお義姉様に、ルルが「えっ?」と驚いた声を漏らした。
「悪阻ってそんな酷いの?」
思わずといった様子でルルが訊き返す。
【はい。わたくしも恐らくもうすぐ悪阻が来ると思いますが、常に馬車酔いをしたように気分が悪くて吐き戻したり、食べ物や飲み物も満足に摂れなかったりしますわ。それなのに空腹を感じて、しかし食事をしようとしても匂いで更に気持ち悪くなってしまう……中には食べることで気持ち悪さが和らぐという方もいるようですが、悪阻のせいでわたくしは確実に痩せましたもの】
「子孫を残すための妊娠なのに、母体がそんなに弱るっておかしくない?」
ルルの純粋な疑問の言葉に、お義姉様が小さく笑った。
【伯爵、お腹の中で子を育てるというのは、それほど大変なことなのです。どうか、リュシエンヌ様が心穏やかに、無理なく過ごせるよう、そばにいて支えて差し上げてくださいませ】
「もちろん、そのつもりだけどさぁ……」
【リュシエンヌ様も栄養や水気がなくなると余計に体調を崩してしまいますから、出来るだけお食事と水分は摂ってくださいね。主治医がいるなら、必ずその指示には従って……あとは朝起きてすごく気持ち悪い場合は飴を食べると楽になりますわ。つわりが始まったら食べ物の匂いを確認して、体が拒絶しないものを積極的に食べていくと良いかと】
きっと、お義姉様もそうだったのだろう。
「アルベリク君を妊娠していた時、お義姉様は何が食べやすかったですか?」
【ブドウジュースと鹿肉、果物に……あとは何だったかしら……?】
【バターの入っていないパンにレモンジャムをたっぷり塗ったものもよく食べていただろう?】
【ああ……そうでした、酸っぱいものがとても食べたくなりましたわ】
【私も付き合ってレモンジャムは食べていたが、あれはとても酸っぱかった……】
思い出したのかお兄様が遠い目をした。
そこでやめずに付き合って食べ続けるところは真面目なお兄様らしい。
今回もそうなるかもしれないと覚悟を決めたらしく、お兄様は苦笑する。
【まあ、それはエカチェリーナの場合の話だ。悪阻中に食べられるものや食べたいものはそれぞれ違うらしいから、最初は食べられるものを探りながらの食事になる】
「頑張ります」
【ルフェーヴルも、リュシエンヌと一緒にいたいなら同じものを食べたほうがいい。他のものを食べて、その匂いが少しでも残っていると嗅ぎ取って吐き戻してしまうから気を付けろ】
……お兄様、もしかしてやらかしちゃったのかな?
お義姉様は微笑んでいるが、お兄様は申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
「へえ〜」
【特に匂いの強いものはその傾向が強い。場合によってはチョコレートもそうなるからな?】
「……オレの子ならチョコレートは大丈夫でしょぉ」
ルルの発言に、全員が沈黙した。
……ありえそう。
チョコレートが大好物のルルの子が、チョコレートを嫌うイメージが湧かない。
【お前なら問題ないとは思うが……とにかく、何もかもがリュシエンヌ中心の生活になる。仕事についても安定期に入るまでは休んで、そばにいてやったほうがいいぞ】
「そのために今急いで片付けてるよぉ」
【……そうか】
どこか含みのあるルルの言葉だったが、お兄様は何も突っ込まなかった。
その話題で先ほどのことを思い出す。
「お兄様、闇ギルドのギルド長さんに妊娠の件を話していいでしょうか?」
【そうだな、説明せずにルフェーヴルは休めないか。ヴァルグセインなら口外しないだろうし、構わない】
「ありがとうございます」
「じゃあ、明日仕事に行く時にでも説明しておくかぁ」
【ヴァルグセインは驚くだろうな】
お兄様が笑い、そして、その横でお義姉様が小さく欠伸をした。
……やっぱりお義姉様も眠いんだ。
わたしは昼間に沢山寝る時間があるけれど、王太子妃のお義姉様は公務などでそのような時間も少ないだろう。どうしても夜の睡眠時間が長くなってくる。
それに気付いたお兄様が微笑んだ。
【さて、とりあえず今日はこのくらいにしておこう。続きはまた今度、こちらから連絡しよう】
「分かりました。……おやすみなさい、お兄様、お義姉様」
お義姉様も微笑み、こちらに小さく手を振った。
【おやすみなさい、リュシエンヌ様、ニコルソン伯爵】
【おやすみ、二人とも】
「またねぇ」
通信が切れ、魔道具の蓋を閉じたルルがソファーの背もたれに寄りかかる。
「やっぱり悪阻で体調崩すの、おかしいよねぇ。子孫を残したいって思わせるなら、むしろ妊娠すると気分が良くなる〜みたいなほうがいいのにさぁ」
まだそこが納得出来ていなかったらしい。
それがおかしくて笑ってしまう。不思議と心は穏やかだった。
* * * * *
翌日、仕事のために闇ギルドに向かったルフェーヴルは、ギルド長室に立ち寄った。
相変わらずいつ見てもアサドは執務机の向こうで書類に埋もれている。
「おはよぉ」
声をかけるとアサドが顔を上げる。
「ああ、おはようございます。もう頼んでいた仕事が終わったのですか?」
「まぁね〜。あと、アサドに報告しておかなきゃいけないことがあってさぁ」
ルフェーヴルの言葉にアサドは不思議そうにしながらもペンを置いた。
聞く姿勢を取るアサドに、ルフェーヴルが言う。
「悪いんだけどぉ、またしばらく仕事を休ませてほしいんだよねぇ」
「それについては構いませんが……もしや、また戦争ですか?」
「いんやぁ、そういう『悪い話』じゃないよぉ」
ルフェーヴルなりにどう伝えたものかと考えたが、結局、そのまま伝えるのが一番誤解が生まれなくていいと思い直し、口を開いた。
「リュシーが妊娠したんだぁ。……オレ、父親になるみたぁい」
「…………え?」
アサドが目を丸くし、動きを止める。
数秒、ルフェーヴルの言葉を理解するまでに時間がかかったようだ。
恐る恐るといった様子で訊き返される。
「あなたが、父親に……? 陛下のお許しは……」
「もらってるよぉ。元々、子供が出来ても『琥珀の瞳』じゃなければどうとでもなるからさぁ、オレとリュシーの実子って公には言えないけどねぇ」
「そうですね、旧王家の血筋は何かと事件に巻き込まれてしまいますから」
「そぉそぉ。まあ、そういうわけで、リュシーが安定期に入るまで仕事を休みたいんだよぉ」
妊娠中は心身共に不安定になるというので、そばにいてやりたい。
ルフェーヴルは何も担ってやれないので、せめて近くにいて、出来ることは手伝いたい。
それにリュシエンヌの侍女達に「一番不安なのはリュシエンヌ様なのですから、旦那様はそばにいて不安を和らげてあげてください」と言われた。
事実、妊娠が発覚してからのリュシエンヌは動きが変わった。
腹部を庇うような動きも増えたし、昼寝の時間も増えて、まだあまり感情面での不安定さは見られないものの、ルフェーヴルと共に過ごしたがっている。
だからルフェーヴルも抱えている仕事を早急に終わらせてきたのだ。
「確かに、そのほうが良いでしょうね。とりあえず安定期に入るまでは確実に休むということでいいですか?」
「うん、最低半年は休むかも〜って考えておいてぇ」
「分かりました」
アサドが微笑み、机に両肘を置く。
「それにしても、あなたが父親になるとは……時の流れは早いものですね」
結婚をしたのだから子供が生まれても不思議はない。
だが、アサドの言いたいことは何となく伝わってきた。
アサドとルフェーヴルは、ルフェーヴルが師匠に『もう一人前だ』と放り出されてギルドに正式に所属してから関わっているので、もう二十年近い付き合いである。
暗殺者は孤独に過ごし、孤独を好み、孤独に死ぬ。
結婚しているほうが珍しく、その子供が出来るとなれば更に珍しい。
「正直、オレも驚いてるよぉ。まだ実感も湧かないしぃ」
「男は孕めませんからね」
「孕むっていうとさぁ、悪阻について聞いたんだけど、アレおかしくなぁい? 子孫を残すために育てるのに、体調崩してたら母体のほうが危ないじゃん」
「腹の中で育てるのですから、仕方がありませんよ。食事も、睡眠も、何もかもが二人分必要でしょう? 本来は一人で良いところに新たな命が宿ることで、負担が大きいのですよ」
アサドが苦笑し、机の引き出しからまとめた書類の束を取り出した。
その中身を確認して顔を上げる。
「今日の仕事で最後になりそうです。半年ほどなら止められますので、夫人に集中しても大丈夫ですよ。……ああ、復帰後も妊娠中は『血の気』の多い仕事は避けておきましょうか? 妊娠中は匂いに敏感になると聞いたことがあるのですが」
「あ〜……ん〜、その時によるけど、とりあえずはそうしよっかなぁ」
「では、そのように手配をしておきます」
アサドは書類の束から一枚だけ取り、こちらに差し出してくる。
それを受け取り、素早く内容を確認してアサドに返した。
「ふぅん? これなら今日中に終われそうだねぇ」
「報告が済めば、そのまま休暇に入ってください」
「りょ〜かぁい」
休暇を取る機会は増えたものの、ギルドランク一位のおかげで仕事量も報酬も増えて金には困っていない。半年ほど休んで、リュシエンヌが安定期に入って、問題なければまだ稼げばいい。
……子供に必要なものってなんだろうなぁ。
そういったものを訊くのに丁度良さそうな人間がいるので、話を聞きに行ったほうがいいだろう。
リュシエンヌは屋敷から動けないので、そういうのはルフェーヴルの仕事である。
「じゃあ、終わったら報告に来るねぇ」
ギルド長室を出て、転移魔法で外に移動する。
……子供が生まれるなら金も稼がないとなぁ。
リュシエンヌとルフェーヴル、そして、そこに新たにもう一人入るのだ。
生活費もそうだが、子供は成長が早いから衣類などもすぐに使いものにならなくなる。
きっと必要なものを揃えるだけでもかなりの額になるだろう。
今までの人生で『これから』についてこんなに悩むことはなかったし、こんなふうになるとは思いもよらなかった。
それを嫌だとか面倒だとか思う気持ちはなく、ただ、不思議な気持ちが心を占めていた。
……オレの子……オレの子かぁ……。
自分の子供を抱くことなんて想像すらしたことがなかった。
だが、リュシエンヌが妊娠して、子を産みたいと言う。
リュシエンヌが望むなら叶えてやりたいし、リュシエンヌとの子なら興味が湧くかもしれない。
「……ほんと、リュシーに似てたらいいんだけどなぁ」
それならきっと、ルフェーヴルも子供を可愛がれる。
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