ルルと勉強(3)
更に次の日のお勉強の時間。
わたしは一般的な常識を習うことになった。
ずっと後宮で暮らしていたリュシエンヌは知らないことばかりなので、この国や世界の常識を教えてもらう必要があった。
だけどさすがのルルもわたしが何を知っていて、何を知らないのかまでは分からないため、最初はお互いに質問していく雑談のようなものから始めるそうだ。
今回はその雑談である。
……確かに分からないことだらけかも。
「まずはオレから質問〜。リュシーは、他人にしちゃいけないことって何だと思う〜?」
最初から随分ふわっとした質問だ。
「えっと、人をころしちゃダメ。人をなぐったりけったり、いたいことをしちゃダメ。ものをなげちゃダメ。わるくいうのはダメ。人にうそをついちゃダメ。人のものをぬすんじゃダメ……わたしがいやなことは、人にしちゃダメ」
指折り数えながら言うと、ルルがうんうんと頷いて聞いてくれる。
控えていたメルティさんも何故か頷いていた。
「リュシーはちゃ〜んと分かってて偉いねぇ」
よしよしと頭を撫でられる。
それからまだ折っていない指にルルの手が触れて、ゆっくり、一本だけ内側へ折られた。
「じゃあこれも覚えようねぇ。……知らない人の髪を勝手に触ったり切ったりしちゃダメ。これはどこの国でもそうだよ」
「何で?」
「髪には魔力が溜まるって言われててねぇ、髪を傷付けるのはその相手の魔力を奪うってこと〜。昔は髪はとても神聖なものだったんだぁ。だから今でも髪に触れるのは親しい人か信頼出来る人、あとは契約してる髪結い師だけなんだよぉ。もし知らない人に触られそうになったら、相手の手を叩いて止めるんだよぉ?」
「うん、分かった」
今のところ、わたしの髪に触れるのはルルとリニアさんとメルティさんとお兄様くらいだけど。
そうだとしたら、わたしが髪を切られたのってかなり酷いことだったのかもしれない。
だから最初の時、リニアさんとメルティさんがわたしの髪を洗ったり乾かしたりする時に痛ましそうな顔をするわけだ。
ちょっと髪を切られただけで別に痛くもなかったから良かったなぁ、くらいに思っていたけど、どうやらそうでもないらしい。
……あ、ルルに髪切ってってお願いした時に、喜んでたのってもしかしてそれが理由?
勝手に触るのもダメってことは、切るのは更に親しい人ではないとダメだろうし、わたしがルルを親しい人だと認めた形になる。
それくらいで喜んでくれるならば、いくらでも切ってくれて構わない。
「じゃあわたしのかみを切るのはルルだね」
そう言えばルルがにこりと笑った。
「そっかぁ、それは嬉しいねぇ」
「ほんと? ルルうれしい?」
「うん、すっごく嬉しいよぉ」
ルルが「嬉しい」と口にするのは初めてだ。
灰色の瞳が嬉しげに細められた。
……ああ、ルルが嬉しいとわたしも嬉しい。
お互いにニコニコしながら話を続ける。
「人を傷付けたり殺したりしちゃダメだけどぉ、自分や他の人の命を守るためなら許されることもあるってことぉ」
最初に折ったわたしの指にルルが触る。
「例えばリュシーが盗賊っていう、人を殺して物を盗む悪い奴らに襲われたら、オレがリュシーを守るために盗賊を傷付けたり殺したりすることだねぇ。正当防衛ってやつ〜。反撃は許されるんだよぉ」
「はんげき……」
「そそ、自分の命を守るための抵抗はいいんだよぉ」
……そっか、リュシエンヌは抵抗することすら知らなかったんだ。
前世の記憶もあるのにどうして思いつかなかったんだろう。
自分の手を見ながら考える。
……抵抗したら何か変わってたのかな。
だが後宮で王妃やその子供である王女や王子達に逆らえば、もっと酷い扱いを受けていたはずだ。
でもきっとそれだけじゃない。
以前ルルが教えてくれたように、王妃がリュシエンヌの自我を壊そうとしていて、多分、本当にそれで抵抗する気が起きなかったんだ。
虐待されるのが当たり前になってしまって、抵抗しようと考えることすら知らなくて。
ただ痛い時間が過ぎるのを待つだけだった。
「だから、これからはリュシーに痛い思いをさせようとする奴はやり返していいんだよぉ」
ルルの言葉にハッとする。
「いいの?」
「うん、リュシーはリュシーを守っていいんだよぉ」
「……つぎからは、わたしもちゃんとイヤなことはイヤって言う」
「そうだねぇ、言葉にするのは大事だよねぇ」
抵抗するとか、反撃するとか、相手とぶつかることは正直に言うとすごく怖い。
もし怒鳴られたり手を上げられたりしたら、きっと、わたしは何も出来ないだろう。
想像するだけでも体が強張ってしまう。
それでも嫌なことは嫌だと言える勇気を持とう。
多分、それが最初の一歩になるはずだから。
「次にぃ、平伏することぉ」
ルルがまたわたしの指をそっと折る。
「それもダメなの?」
「ダメだよぉ。特にリュシーはこの国の王族なんだから、平伏なんてしたら、王族の権威も落ちちゃうし、相手の方が処罰されかねないからねぇ」
「そうなの?」
「それはそうでしょ〜。王女サマに平伏させるなんて、それこそ王家に対して不敬だし、逆心ありって思われても仕方ないことだよぉ」
「でもわたし、おにいさまにしちゃったよ」
「あ〜、あれはナシってことでぇ。他の人は見てないし、坊っちゃまはリュシーの兄、つまり第一王子で一応身分は上だからぁ。でも王族同士だってよっぽどのことがない限りは平伏なんてしないよぉ」
……それもそっか。
じゃあ、もしわたしが平伏するとしても、お兄様と義理の父となる国王陛下だけってことになる。
うっかりやらないように気を付けないと。
「あたまは下げていいの?」
「浅くならいいけどぉ、深く下げるのはやめた方がいいかなぁ。あとは他国の王族に失礼なことをした時とかは深く下げてもいいよぉ」
「みぶんが同じだから?」
「うん、まあ、そんな感じだねぇ」
「その辺りは坊っちゃまに聞いた方がいいかもぉ」とルルが言う。
王族同士の礼儀や身分差となると国勢や状況によるので、ルルでも判断が難しいらしい。
……よし、これは今度お兄様に聞こう。
頭の片隅にメモしておく。
「で、人にいきなり抱き着くのも、手を繋ぐのもダメ。貴族は相手の許可なく触るのはほぼダメだねぇ」
「うん、ルルにしかしてないよ」
「ならいいよぉ」
今度は反対に折ってある指を一本立てられる。
今のところは前の世界とそう大きな違いはない常識ばかりなので、大丈夫そうだ。
更に指を一本開かれる。
「それから、自分の使える魔法やスキルは極力人に教えないことぉ。逆に人の使える魔法やスキルを聞くのもあんまり良くないよぉ」
「スキルはまほうとちがうの?」
「スキルは魔法と違って、魔力を使わなくても使える魔法みたいなやつのことぉ。……ちなみにオレは認識阻害のスキル持ちなんだぁ。オレのことが気付き難くなるスキルってことだねぇ」
「だからルルのことだれも見えなかったんだね」
「まあでもリュシーには見破られちゃったけどねぇ」とルルが言った。
魔法はいくつでも習得出来るけど、スキルは普通一人一つらしい。貴族や王族は二つくらい持っていて、三つは稀なんだとか。神様からの贈り物だそうだ。
……スキルは沢山持てないんだ。
「わたし、まりょくないけど、スキルあるのかな」
「うーん、多分あると思うけどぉ、そういうのは教会で調べないと分からないからねぇ」
「きょうかいなら分かるの?」
「うん、教会にステータスを調べる特別な水晶があって、それに手をかざすと自分のステータスが分かるんだよぉ」
「へえー……」
……そこはゲームっぽいなあ。
それにしてもステータスとかあるのか。
ゲームでは選択肢の他には攻略対象の好感度を上げるアイテムとか、服装を選ぶとかあったけど、ステータスについてはなかったはずだ。
でも自分の能力が数値化されるってある意味ではキツい気がする。努力が報われればいいが、努力しても全然伸びなかった時はへこみそう。
「それと、身につけてるものを異性、リュシーの場合は男に渡すのもダメ。困ってる人にハンカチを貸すくらいならいいけどぉ、リボンとか欲しがられてもあげちゃダメだよぉ」
また指を立てられる。
貴族の間では、異性が身につけているものを望むことは求婚と同じ意味で、それを渡してしまうと求婚を受け入れるという意味になってしまうそうだ。
ただハンカチやペンを貸すくらいはいいらしい。
……貴族の常識って面倒くさい。
でも知らない相手にいきなり「あなたのつけているリボンをください」と言われたら、それはそれで怖い。
ルルの言葉にしっかり頷いておく。
「あとはぁ、身分の下の者から上の者に話しかけるのはダメかなぁ。知り合いだったらいいけどねぇ。もし知らない人と話したいなら誰かに紹介してもらう必要があるんだよぉ」
「わたしは?」
「リュシーは王女サマだから、国内のどの貴族にも話しかけていいんだよぉ」
「分かった」
だけど、自分からは知らない人に話しかけることはあまりないだろう。
……知らない人はちょっと怖い。
「こんなところかなぁ。何か分からないこととか、疑問に思ったこととか、気になったらその時に聞いて〜」
「うん」
わたしも自分が何が分かって、何が分からないのか正直理解出来ていない。
これから疑問が沢山出てくると思う。
とりあえずはどの常識も覚えられそうで良かった。
……教会でステータスの確認が出来るのかあ。
わたしのステータスは物凄く低いんだろうな。
でも気になるから、どこかで調べたい。
……魔力はないんだろうけど。
魔法を使えないことは残念だけど、それに関しては前のわたしの記憶があるから、魔法が使えないことで卑屈になるようなことはない。
だって前はそれが当たり前だったから。
魔法が使えないのもわたしの個性だと思えばいい。
それにないものはないんだから仕方がない。
「……あ、こんやくって、としがはなれててもできるの?」
「ん〜? 出来るよぉ。貴族の中には政略結婚で親子ほど年齢が離れてるってこともたまにあるしねぇ」
「ルルいくつ?」
「オレは17だよぉ」
ということは、わたしと十二歳差。
わたしが結婚出来る十六歳になった時、ルルは二十八歳ということになる。
二十八歳のルルが想像つかないけど、恐らく、いや、絶対かっこいいことだけは確かだ。
……成長したリュシエンヌの姿は知ってる。
ダークブラウンの髪に琥珀の瞳、色白で細身で、背が高くて、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでる美女になる。
ゲームの中ではキツい顔立ちの美人だったけど、今の子供のわたしはどちらかと言うと垂れ目がちだ。
ぽんやりした可愛らしい顔立ちである。
もしかしてゲームの中のリュシエンヌはあえて化粧でキツい顔立ちにしていたのだろうか。
それとも成長していく中で変わっていくのか。
「そっか……」
年齢の差が問題にならないのは嬉しい。
安堵の溜め息を零したわたしに、ルルが「なぁに〜?」とニヤニヤと笑う。
頬をぷにぷにつつかれた。
「もしかして年の差とか気にしてるのぉ?」
図星を突かれて思わず言葉に詰まった。
「……う」
「え? 本当に?」
黙ったわたしにルルの灰色の目が丸くなる。
まじまじと見つめられて少し居心地が悪くて、前髪を弄って顔を隠す。
ルルの手が伸びてきてわたしの頬を両手で挟むと、ルルの顔が近付いて、額に柔らかな感触がした。
「かわいい」
そのままギュッと抱き締められる。
気にしていたのがバレて、ちょっとだけ気恥ずかしかった。
でもルルが嬉しそうにしてるのを見ると、恥ずかしさなんてすぐにどこかへ吹き飛んでしまう。
……わたしって単純だなあ。




