ファイエット邸(1)
ルルに抱えられ、街中の屋根の上をいくつも越えて到着したのは大きな屋敷だった。
音もなく門の前に降り立ったルルとわたしに、屋敷を警備しているだろう人達が驚いて、身構える。
それにルルがわたしを片腕に抱え直した。
「待って待ってぇ、オレはリュシエンヌ=ラ・ファイエットを連れて来ただけだよぉ」
「話通ってるはずだけどぉ」とルルが言う。
ルルの手が前髪に触れて、持ち上げる。
広くなった視界の中で警備の人達が頷き合い、門を開けた。
それにルルは「どぉも〜」と片手をひらひら振って門を潜る。
近付くと屋敷は見上げるほどに大きかった。
「ここが新しいお家だよぉ」
ルルは正面玄関の扉の前に立った。
そうして多分ノッカーだろうものを掴むと、遠慮なくゴンゴンとそれで扉を叩いた。
内側から扉が開かれた。
扉を開けたのは使用人だった。
服装からして恐らく執事か家令か、五十代か六十代ほどの初老の男性だった。
男性はわたしとルルを見ると扉を大きく開けた。
「ようこそいらっしゃいませ、お嬢様。旦那様よりお話は伺っております。どうぞ中へお入りください」
わたしを抱えてルルが中へ入る。
屋敷の中は綺麗で、派手な調度品などはなく、どこか整然としている。
「初めまして、私はこの屋敷の執事を務めさせていたただいております、オリバー=イーストと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
男性に深々と頭を下げられて戸惑う。
リュシエンヌに、わたしにこのように頭を下げる人なんて今までいなかったから。
「リュ、リュシエンヌです。よろしく、おねがいします……」
男性、オリバーさんが頷いた。
「今日からお嬢様はこちらでお暮らしになりますが、何か御不便がございましたら遠慮なく仰ってください。……リニア、メルティ」
オリバーさんが後ろにいた女性達に声をかけた。
女性達は三十代くらいで、二人とも、足首まである黒いシンプルなワンピースドレスにフリルが少しついた白いエプロンをつけている。
「はい」と二人が同時に返事をした。
「この二人がお嬢様の侍女として身の回りのお世話をさせていただきます」
その言葉に女性のうちの一人が一歩前に出る。
「リニア=ウェルズと申します。お嬢様の侍女として、誠心誠意お仕えいたしますので、よろしくお願いいたします」
もう一人も一歩前に出る。
「メルティ=ラスティネルと申します。本日よりリニア共々お嬢様にお仕えさせていただきます。よろしくお願いいたします」
そうして二人同時にわたしへ頭を下げた。
こういう時、何て言えばいいのだろう?
頭を上げた二人にわたしは頷いた。
「えっと、よろしく、おねがいします……」
結局当たり障りのなさそうな言葉しか言えず、ぴしっと佇む侍女二人の視線を避けるようにルルにしがみつく。
「まずはお部屋に御案内いたしましょう」
オリバーさんが「こちらです」と歩き出すと、ルルがそれについて行き、更にその後ろを二人の侍女が歩く。
屋敷は外観通りに広かった。
わたしだけだと迷子になりそう。
しばらく歩くとオリバーさんが立ち止まった。
「こちらがお嬢様のお部屋でございます」
そして扉が開けられる。
中はとても広く、わたしが後宮で暮らしていた物置よりありそうだった。
質の良い家具に、全体的に淡い緑や白で統一された目に優しい色合いである。
……でも別の扉もある?
わたしが不思議に思っていると説明してくれた。
「こちらは寝室で、あちらの扉は浴室に繋がっており、隣室には侍女の控え室がございます」
何と浴室付きらしい。
……ちょっと嬉しい。
「ところであなたは……」
オリバーさんがルルへ視線を向ける。
それにルルが言う。
「あ、オレ今日からファイエット家に雇われることになったからぁ。オジョーサマの侍従、よろしくねぇ」
ルルの言葉にオリバーさんが一瞬、物言いたげな顔を見せたけれど「そうですか……」と呟いた。
「旦那様がお決めになったことでしたら、そのように手配しましょう。……それではリニア、メルティ、後は任せますよ」
侍女二人はやはり同時に返事をした。
それからオリバーさんは「私は失礼させていただきますが、ゆっくりとお寛ぎください」と言い残して退室していった。
室内にわたしとルル、侍女二人の四人が残る。
「お嬢様、もしお疲れでなければ入浴するのはいかがでしょうか? 既に用意はしておりますので、私共でお手伝いさせていただきます」
……入浴かぁ。
思わず自分の体を見下ろす。
……うん、あんまり綺麗じゃないもんね。
だけど初めて来た場所で知らない人達に囲まれるのは少し怖いし、ルルと離れるのは不安だ。
……お風呂には入りたいけど……。
思わずルルの服を掴んでしまった。
「リュシー、どうかしたぁ?」
ルルに顔を覗き込まれる。
……言ってもいいのかなぁ。
だけど言えばルルも侍女二人も困るだろう。
考えているとルルが「リュシー?」と呼ぶ。
「怒らないから言ってみなよぉ」
ルルの間延びした声に背を押される。
確かに言ってもルルは怒らないかもしれない。
「あのね、ルルといっしょがいい。……はなれるのこわい」
そう言えば侍女二人が顔を見合わせた。
「あ〜、そっかぁ、そうだよねぇ。初めて来た場所で一人になるのは怖いよねぇ」
ルルに頭を撫でられる。
侍女が少しだけ眉を下げた。
「……では、浴室内に仕切りを作り、そちらの方はそこにいていただく、というのはいかがでしょうか?」
その顔にはありありと困惑が滲んでいた。
……そうだよね、ルルは男の子だし。
でもわたし、水浴びした時とか手当してもらった時とかに体はもう見られてる。
その辺りは今更である。
うん、と頷けばリニアさんの方が「少々お待ちください」と言い、メルティさんに「こちらへお座りになってお待ちになってください」とソファーを勧められる。
ルルがそこにわたしを抱えたまま座った。
「そうだ、水もらえるぅ?」
ルルの言葉にメルティさんが頷き、部屋に用意されていた水差しからグラスに水を注ぎ差し出した。
それをルルが受け取り、わたしの手に握らせる。
「リュシー、今日はあんまり水飲んでないでしょ? 渡した水筒の中身、減ってなかったしぃ」
「すいとう?」
「あれ、気付かなかった?」
……全然気付かなかった。
「うん、おきてすぐルルが来たから。あのすいとう、いっしょに入ってたんだ……」
「そうだよぉ」
グラスを両手で持って口をつける。
……あ、リュシエンヌがきちんと椅子に座ってこうして飲み物や食べ物を口にするって初めてかも。
口の中に水が入ってくる。
ほんのりと果物の香りと甘みがする。
一口飲み始めると、喉が渇いていたのかあっという間にグラスの中身を飲み干してしまった。
空になったグラスをルルが取り、差し出すと、メルティさんがまたそこに水を注ぐ。
そしてまたグラスが手元へ戻ってくる。
わたしが二杯目を半分ほど飲んだところで、リニアさんが戻ってきた。
「準備が整いました」
ルルがわたしを見る。
「水、もうい〜ぃ?」
「うん、ありがとう」
わたしの手からグラスを取り、メルティさんに渡し、ルルはわたしを抱えて立ち上がった。
リニアさんが開けてくれた扉の中へ入る。
浴室も広く、大きな猫足のバスタブがあって、部屋の隅の方に椅子が置かれて、それを囲むように衝立があった。
ルルはわたしを浴室の中に置かれていた背もたれのない椅子に下ろす。
「それじゃあ、オレはこっちにいるからねぇ」
小さく手を振り、ルルが衝立の向こうに消えた。
姿は見えないけどそこにいるという安心はある。
「まずは服を脱ぎましょう」
リニアさんが椅子に座ったわたしに言う。
頷いて、服の裾を掴んで持ち上げようとすると、そっとリニアさんの手が触れて止められる。
「お手伝いいたしますので、お嬢様が自らなさらずともよろしいのです」
わたしの手を服から離し、リニアさんが丁寧にボロボロのワンピースをわたしから引き抜いた。
二人の侍女が息を呑む音がする。
わたしの体は痣だらけで、ルルに手当てしてもらったままなので、驚いたのだろう。
それでも二人とも、慎重な手付きで傷に当てていた布を剥がしていく。
次に足の布も剥がされる。
最後に下着や肌着を脱ぐ。
二人とも、わたしを痛ましそうに見た。
別の椅子に移動すると、少しずつ温かなお湯を体にかけられ、もこもこに泡立った泡で洗われる。
ちょっと泡が沁みる。
でも洗うとビックリするくらい泡が茶色くなって、一度流すと肌の表面に垢みたいなのが残っていた。
もう一度、今度はしっかりと洗われる。
だけど思ったよりも傷や痣が痛くないので、加減をしてくれているのだと思う。
バシャバシャとお湯がかけられて泡が流れていく。
それから前髪を上げて顔も洗われる。
……マッサージみたいで気持ちいい。
ふわっふわの泡で二度洗われ、水気を取ると、ぺたりと顔全体にパックみたいなものを貼られた。
「さあ、お嬢様、こちらへどうぞ」
顔と体を洗い終えるとバスタブへ移動する。
脇に手を入れられて持ち上げてもらい、バスタブへ入れば、湯の中に足場があった。
これならうっかり滑って沈むことはなさそうだ。
足場の上に寝転がると丁度体が湯に浸かる。
バスタブの縁に頭の付け根を置くと、リニアさんとメルティさんが二人がかりで髪を洗ってくれる。
水浴びはしていたけれど、やっぱりそれだけじゃダメで、何度もお湯をかけて汚れを落とすと、髪用のシャンプーか何かを泡立てて、丁寧に洗われる。
あちこち引っかかって大変だろうに絡んだら髪を解しては洗い、解しては洗いを続けている。
わたしは今生で初めてのお風呂にホッと肩の力が抜け、湯船の中でぼんやりと天井を見て過ごしていた。
気持ちよくてウトウトしている間に髪の泡を落とされ、また別のもので洗われる。
それも終わると布で髪を拭かれ、何やら良い香りが漂ってきた。
その良い匂いがするものが髪に塗られる。
……ヘアオイルかな?
丁寧に髪に馴染ませ、ブラシで梳いて、絡んだ部分は解いて、また馴染ませてというのを繰り返していく。
それが終わる頃にはわたしの体は芯から温まって、ぽかぽかと心地好くなっていた。
髪を布で纏められてバスタブから出される。
素早く布で拭かれ、バスローブのようなものを着せられる。
最初の椅子に戻ると顔のパックみたいなものが剥がされた。
それから色々と顔に塗られた。
体にも塗られ、下着と肌着、服を着せられる。
服は白くてちょっとだけフリルのあるワンピースだった。袖が長く、手首の辺りが膨らんだ後にキュッと絞ってあり、裾は思ったよりも長くて、床ギリギリだった。
ちょっと大きいかもしれない。
髪を乾かし、またブラシで何度も何度も梳られた。
「そろそろ終わったぁ?」
ルルが衝立の向こうから声をかけてくる。
リニアさんが頷き、衝立を退かした。
「はい、終わりました。お嬢様、お疲れ様でした」
ルルが椅子から立ち上がり、わたしに近付いた。
伸びてきた手が髪に触れる。
ルルの手の上をダークブラウンの髪がサラサラと流れ、今までみてきた中で一番美しくなっていた。
「うんうん、良かったねぇ」
髪の手触りに満足したのかルルが頷く。
そしてひょいと抱え上げられる。
浴室を出て寝室に戻るとルルはまたソファーに座って、今度はルルが水差しから水を注いでグラスを渡してくれた。
わたしはもう一度グラス一杯分の水を飲んだ。
ぽかぽかした体のおかげかとても眠い。
うとうとしていると柔らかい場所に寝かされる。
多分、ベッドだろう。
寝室には天蓋付きの大きなベッドがあった。
何とか目を開ければ、ルルがベッドの縁に腰掛けて、こちらを覗き込んでいる。
「……るる」
手を伸ばしてルルの服を掴む。
「大丈夫、ここにいるよぉ」
大きな手に頭を撫でられる感触がする。
……ああ、もう後宮に戻らなくていいんだ。
心の底からホッとするのと同時にわたしは意識を手放した。
完全に落ちる寸前、ルルの声が聞こえた気がした。
「おやすみぃ、リュシー」
* * * * *




