公爵令嬢と男爵令嬢(1)
中期が始まって三週間。
エカチェリーナは珍しく困惑していた。
最近、妙にとある令嬢に絡まれている。
その令嬢とは、あのオリヴィエ=セリエール男爵令嬢である。
『耳』の一人の情報によると最初の一週間、男爵令嬢は早朝に通い、休み時間は姿を消し、放課後は誰よりも遅く帰っていたそうだ。
そうして別の『耳』の話では、どうやら第二校舎を監視しているというのだ。
どちらを見ているかは分からないが、男爵令嬢はどうやらアリスティードかリュシエンヌ、どちらかの行動を調べようとしているらしい。
朝は第二校舎の出入り口をこっそり覗ける場所に隠れており、休み時間は渡り廊下を第一校舎の空き教室から眺め続け、授業を終えると急いでまた第二校舎の出入り口を見張りに向かう。
一時は第二校舎の一階をうろついたこともあったが、二階は三年生の教室で、三階は生徒会室や三年生の上位十名に与えられた休憩室なので、さすがにそこまで行くことはなかった。
一週間、その行動を男爵令嬢は続けた。
その後、今度は何故かエカチェリーナの周囲に現れるようになったのだ。
最初は気付くと遠巻きに見られているだけだった。
他の子息令嬢達と交流を深めるために週の半分はカフェテリアで昼食を摂っているのだが、その時は高位貴族も下位貴族も混じるため、一階でテーブルを囲むのだ。
そうすると、たまに視線を感じる時がある。
それを辿ると大抵、あの男爵令嬢がいる。
しかし目が合うとビクリと体を跳ねさせて逃げ去った。
一年の教室へ用があって行くと、わざわざ隣の教室から出てきて、ジッとみつめられることもある。
その際も、やはり目が合うと怯えたような顔で慌てて教室へ引っ込むのだ。
あまりにわざとらしい動きなので、そのうち、嫌でも目に付くようになってしまった。
二年に知り合いがいるのか、たまに二年生の教室付近にいることもある。
エカチェリーナのことを見るくせに、近付くと慌てたような、怯えたような顔で逃げていく。
それが二週間目の間の出来事だった。
「……エカチェリーナ様、よろしいのですか?」
目が合ったのに目礼一つせずに逃げ去る。
そんな失礼な態度の男爵令嬢の行動を不快に思ったのだろう、ご令嬢の一人に問われた。
エカチェリーナと交流を深めようと周囲にいた子息令嬢達は、男爵令嬢の意味不明な行動を不可解に思い、そして未来の王太子妃、ひいては王妃になるであろう人物を凝視したり訳もなく怯えたりするものだから眉を寄せる者もいた。
「ええ、あの方は関わると少々疲れますので、放っておくのが一番害がありませんのよ」
「ですが、あまりにも無礼ではありませんか」
「あんな風に意味もなく一方的にジロジロ見つめたかと思うと、突然逃げ出して、非常に不愉快です」
「あの方、以前は王女殿下の悪評を広めようとなさって失敗したとか……」
「まあ、そんな不敬を?」
「とんでもないご令嬢ですね……」
周囲の子息令嬢の言葉にエカチェリーナは苦笑する。
「ご心配くださり、ありがとうございます。このまま続くようであれば、彼女と話してみるつもりですので大丈夫ですわ」
「そうなのですね」
「それならば良いのですが……」
エカチェリーナの言葉に子息令嬢達が口を噤む。
一番被害を受けているエカチェリーナが良いと言っている以上、自分達が口を出すことは出来ない。
彼ら彼女らは、きちんと自分達の立場を理解していた。
そうして三週間目、変化が訪れた。
朝の登校時、後ろから走ってきた女生徒がエカチェリーナの目の前で転んだ。
それも盛大に「きゃあ!?」と悲鳴を上げ、地面に両手と肘をついて。
驚いたエカチェリーナだが、すぐに助け起こそうと手を伸ばしかけて、顔を上げた女生徒があの男爵令嬢だと気付いてハッとした。
何故か男爵令嬢もハッとした表情を見せ、次に怯えたように何度も「ごめんなさい! ごめんなさい!」と謝罪の言葉を口にして、また走り去っていった。
周りの生徒の視線が集中している中で、エカチェリーナは困ったように曖昧に微笑むしかなかった。
それだけでも意味不明な行動だった。
学院に通うのは貴族が多い。
貴族は滅多に走ることがないので、自分の横を走り抜けられるだけでも驚きなのに、突然自分から地面に転がったのだ。
……あれは膝や手が痛そうね。
エカチェリーナは素直にそう思った。
意味不明だが、ぶつかられたわけでもない。
何だったのだろうかと疑問に思いつつ、授業を受け、そして昼休みになり、子息令嬢達とカフェテリアへ向かった。
昼時のカフェテリアは人が多い。
だからエカチェリーナは周囲の人々に気を付けていたし、周りの子息令嬢達も出過ぎた真似はしないようにしていた。
そうしたら、また似たようなことが起こった。
目の前を女子生徒が早足で通った。
エカチェリーナの踏み出した足に、女生徒の足が引っかかった。
「あっ……!」
「きゃあっ?!」
女子生徒が転んだ拍子に足を踏まれてしまった。
その痛みにエカチェリーナ思わずよろけ、周りのご令嬢達が慌ててエカチェリーナを支えた。
女生徒は床に転んでいた。
今度は顔を見なくても誰か分かった。
「痛っ……」
膝を押さえて床に座り込んだのは、オリヴィエ=セリエール男爵令嬢であった。
それを見た子息令嬢達も慌てた。
「大丈夫ですか、エカチェリーナ様?」
「足が引っかかったようですが歩けますか?」
「お怪我はございませんか?」
エカチェリーナが頷き返す。
「ええ、わたくしは大丈夫です」
そうして男爵令嬢へ手を差し出した。
「あなたも大丈夫ですか?」
男爵令嬢は差し出された手にビクリと震える。
そして少し後退る。
「あ、だ、大丈夫です……っ」
目に涙を溜めて立ち上がると逃げて行った。
それに子息令嬢達が不快そうに顔を顰めた。
「何だ、あれ?」
「エカチェリーナ様の足を引っ掛けておいて謝罪の一つもありませんでしたわね」
「それどころかまるでエカチェリーナ様が悪いかのような態度でしたね」
「自分から走ってきたのに、何様ですの?」
他にも今の様子を見ていた生徒達も騒めく。
それをエカチェリーナは美しく一礼した。
「お騒がせしてしまい申し訳ありません。どうぞ、皆様、ごゆっくりとご昼食をお楽しみくださいませ」
その美しい所作に誰もが見惚れた。
一瞬、水を打ったように静まり返る。
そしてまた元の穏やかな騒めきが広がった。
エカチェリーナ達もそれ以上は騒ぎを起こさないように、周りの迷惑にならないように気を付けて昼食の時間を過ごした。
……本当に困った人だわ。
そんな感じの出来事が既に三度は繰り返された。
エカチェリーナは全く何もしてない。
だがエカチェリーナを、クリューガー公爵家を良く思わない者達はこのような噂を立て始めた。
公爵令嬢がとある男爵令嬢を虐めているらしい。
背を押したり足を引っ掛けたりして転ばせ、男爵令嬢に恥をかかせているようだ。
男爵令嬢はその身分差故に虐めに耐えているのではないか。
根も葉もない噂である。
それを聞いて、エカチェリーナよりも、エカチェリーナの周囲にいた子息令嬢達の方が怒りを覚えていた。
彼ら、彼女らはエカチェリーナをよく知っている。
公爵令嬢で、気の強そうな外見をしているが、エカチェリーナは本質的には優しく、非常に寛容で、他者を虐げることを嫌う側の人間だ。
彼女の周囲にいる子息令嬢達が高位貴族と下位貴族、そしてよくよく見れば平民も混じっていることからしても、分かるだろう。
身分で態度を変えたり、下に見たりしない。
王太子の婚約者という立場になって、むしろよりいっそうエカチェリーナは寛容な人間になった。
もちろん、優しいだけではないが。
ただ優しいだけでは王太子の婚約者は務まらない。
しかし王太子の婚約者。
未来の王太子妃、やがては王妃となる人間の醜聞は人々の関心を引いてしまったのだった。
* * * * *
「エカチェリーナ、大丈夫か?」
アリスティードにそう言われてエカチェリーナは頷いた。
「ええ、わたくしは大丈夫ですわ」
噂を立てているのは口さがない者達ばかりだ。
だが、これ以上は見過ごせない。
「そろそろ一度注意をするつもりですの」
「そうか、あの男爵令嬢はかなりしつこいぞ」
「存じ上げておりますわ」
何せアリスティードやその友人のロイドウェルから、あの男爵令嬢のこれまでの行いは知っている。
……でもまさかわたくしに来るとは思いませんでしたわ。
しかも自分が虐められているように振る舞うなんてハッキリ言って悪手である。
貴族の中には身分差がある。
たとえば家格が上の貴族は家格が下の貴族をある程度、従わせることが出来る。
たとえば家格が上の貴族が家格が下の貴族を虐げたり、行いを戒めさせたりしても、多少は許される。
それは身分差故に存在する上下関係だ。
だからそれは法に反するものではない。
家格の低い者が、家格の高い者に刃向かう。
そんなことをすれば家格の高い家から圧力がかけられたり、家格の高い家と繋がりのある他の貴族達から敬遠される。
そういうこともあり、普通はしない。
だがオリヴィエ=セリエールはそれを理解していないように思う。
……そもそもリュシエンヌ様の悪評を広めようとした時点で分かっていたことだけれど。
「気を付けろよ」
アリスティードの言葉にエカチェリーナは頷いた。
それから数日後、エカチェリーナは件の男爵令嬢を呼び出して、一対一で話をすることにした。
学院の裏庭にて待っていると男爵令嬢が現れる。
「あ、あの、何のご用でしょうか……?」
まるで肉食動物の前に差し出された小動物のように震え、一定の距離以上近付いてこない男爵令嬢にエカチェリーナは呆れと感心を覚えた。
こんな、あまり人目のない場所でも続けるつもりのようだ。
「わたくしは今日、話し合いを行うために参りましたの」
「話し合い、ですか……」
俯き、手を握る姿は怯えて見える。
確かに何も知らない者が見れば、エカチェリーナがこの男爵令嬢を虐めているように見えるだろう。
けれどもエカチェリーナは怯まなかった。
「何故、わたくしに虐められているふりをするのでしょうか? わたくし、正式にあなたと言葉を交わすのは今日で二度目だったと記憶しているのですけれど」
男爵令嬢は返事をしない。
家格の上の者に話しかけられて返事をしないのは、貴族の間ではかなり失礼な行いだった。
この男爵令嬢の態度はエカチェリーナでなければ怒りを覚えたはずだ。
エカチェリーナは我慢強い方であった。
「あなたはわたくしに虐められていると思っていらっしゃるようですが、わたくしは自らあなたに近付こうとは思っておりません。これまであなたはわたくしの前で転んだり、わたしの足に自分の足を引っ掛けたりなさいましたね。これは貴族として叱責を受けても仕方のないことだとお分かりですか?」
グワッと、男爵令嬢が顔を上げた。
目を見開き、怒りに満ちた顔にエカチェリーナは表情に出さなかったが驚いた。
けれどもそれは一瞬で、すぐに男爵令嬢はわっと顔を両手で覆うと泣き出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい! 私が悪いんです! アリスティード様に近付こうとしたのは謝りますから、どうかこれ以上酷いことをしないでください!!」
泣きながらそう言われてエカチェリーナは目を丸くした。
同時に、話の通じなさにゾッとする。
全く会話が噛み合っていない。
人の声が聞こえて顔を上げれば、第二校舎の窓から数人の生徒がこちらを見下ろしていた。
「私はただ、王太子殿下が素晴らしい方だから一言だけでもお言葉を交わしたかっただけなんです! あなたから王太子殿下を奪うつもりなんてありません!」
「……セリエール男爵令嬢、わたくしは話を……」
「ひっ、ごめんなさい! もう叩くのはやめてください!」
一歩近付いたエカチェリーナに男爵令嬢が顔を庇うように両手を上げて半歩下がる。
頭上から、ざわ、と生徒達の声がする。
ついに男爵令嬢は泣きながら地面に座り込んでしまった。
エカチェリーナはそれに困ってしまった。
近付けば余計に泣かれるだろう。
だが放っておけば、何故手を貸さないのかとエカチェリーナが怪しまれる。
しかし声をかけようとすれば、貴族の子女らしくない大声でありもしないことを声高に叫ぶのだ。
「何をしている」
その声にエカチェリーナは振り返った。
いつの間にか、少し離れた場所にアリスティードが立っていた。
エカチェリーナはすぐに礼を執る。
だが男爵令嬢はまだ泣いたままだ。
貴族が人前で感情的に泣くだけでもあまり褒められたものではないのに、その上、王太子が来ても礼を執ろうとしない。
アリスティードも眉を寄せたが、努めて冷静にエカチェリーナへ問いかけた。
「これは何の騒ぎだ?」
「はい、実はこちらのセリエール男爵令嬢がどうやら勘違いをなさっておられるようで、殆ど面識のないわたくしが、自分を虐めていると思っていらっしゃるのです」
エカチェリーナが言うと、顔を覆った手の隙間から、男爵令嬢がこちらを睨んだ。




