誕生日と婚姻(2)/ 届かぬ思い
「三回目のダンスは初めてだねぇ」
ルルが小声で言う。
「うん、凄く嬉しい。夢みたい」
「夢じゃないよぉ」
「そうだね、分かってる」
これは夢じゃない。
……でも夢みたいに幸せ……。
幸せなダンスの時間を終えて、会場の一角でひと休憩する。
体が軽くて以前よりもあまり疲れていない。
それでもルルが甲斐甲斐しく飲み物や簡単に摘める食べ物を持ってきてくれて、それらを口にする。
「リュシエンヌ様、ニコルソン子爵」
「ご機嫌よう、お二方」
ミランダ様とハーシア様だ。
二人の傍にはそれぞれ婚約者がいる。
「こんばんは、久しぶりですね」
「こんばんは、リュシエンヌ様、ニコルソン子爵」
ミランダ様の横にはロイド様が。
ハーシア様の横にはリシャール先生が。
「ご機嫌よう、皆様」
「こんばんは」
そして四人がそれぞれ「ご婚姻おめでとうございます」「お誕生日おめでとうございます」「成人を迎えられましたね」などと声をかけてくれた。
わたしもルルも笑顔でそれに「ありがとうございます」と応える。
友人から祝福してもらえると嬉しさも倍だ。
「学生結婚なんてロマンチックですわ」
ハーシア様が言う。
「ニコルソン子爵は卒業まで待てなかったのか?」
「リシャール様」
リシャール先生が訊き、ハーシア様が婚約者の名前を呼んで咎めた。
しかしルルは気にした風もなく頷いた。
「待てませんね。私の妻をご覧ください」
ルルに手で示されて全員の視線がわたしへ集中する。
突然全員に見つめられたので少し恥ずかしい。
「こんなに美しくて、可愛らしくて、性格も申し分のない女性をそのままにしていては変な虫がついてしまいます」
リシャール先生が眉を寄せる。
「だが、まだ十六歳だろう?」
その言葉に、ああそうか、と気付く。
リシャール先生の中には多分、わたしよりも前世の記憶がハッキリと残っているのだろう。
前世の日本でも女性は十六歳で結婚出来るけれど、実際はまだ高校生なので、その歳に結婚することはまずない。
その感覚で言えば十六歳は子供なのだ。
いぶかしげな顔をするルルの腕を軽く引き寄せる。
「リシャール先生、わたしは十六歳になりました。そしてこの国では十六歳が成人で、成人したらいつ結婚しても構わない。そうでしょう?」
ここは前世ではないのだと暗に伝える。
リシャール先生はそれに気付いたのかハッとした表情をして「……そうか」と呟いた。
「先生からしたら生徒の方が先に結婚してしまって、少々落ち着かないのかもしれませんね」
そうフォローを入れれば、ハーシア様もミランダ様もロイド様も、なるほどという顔をした。
教師として生徒を思って言った言葉にしたのだ。
これなら違和感もないだろう。
リシャール先生が申し訳なさそうな顔をする。
「申し訳ない、つい……」
それに首を振った。
「いいえ、生徒思いの良い先生で素晴らしいと思います。ハーシア様も鼻が高いですね」
「ええ、時々暴走してしまうこともありますけれど、自慢の婚約者ですわ」
ハーシア様がにっこりと微笑んでリシャール先生を見上げ、リシャール先生が照れたように頭を掻いた。
その微笑ましい二人に全員で笑う。
「確かお式は学院を卒業してから半月後でしたね」
もう既に貴族達には招待状を送っているので、日取りは決まっているのだ。
「ええ、そうです。最近はドレスも決まって、早くその日が来ないかと待ち遠しい反面、卒業後は皆様とあまり顔を合わせる機会もなくなってしまうので残念ではあります」
卒業後はわたしは表舞台から消える。
昔から今まで、ずっとそうしようと思ってきたし、そうなることが決まっている。
社交が出来なくなることは別にいい。
元々、そんなに好きではないから。
でも友人達と会えなくなるのは少し寂しい。
……ルルとどっちが大事かと言われたら迷わずルルを取るけれど、ね。
ルルはわたしの世界で、全てだ。
「あと半年、よろしくお願いしますね」
四人は笑顔で頷いてくれた。
* * * * *
ロイドウェル達と別れた後。
他の貴族のご令嬢達から祝福の言葉を受け、リュシエンヌは嬉しそうに彼女達と話をしている。
その様子をルフェーヴルは静かに見守っていた。
……今日のリュシーはご機嫌だねぇ。
それはルフェーヴルもだが。
いつもは控えめで穏やかなリュシエンヌも、今日は少しはしゃいでいる風に見える。
だが目が合うと幸せそうに琥珀の瞳が緩められる。
その喜色に染まった美しい瞳を見ると、かわいいなぁと思うのだ。
ルフェーヴルとの婚姻を心から喜んでくれている。
それが伝わってきて、ルフェーヴルの心は満たされた気持ちになった。
……こんなに良い気分は久しぶりだ。
暗殺者としての全てを教えてくれた師に勝った時ですら、これほど満たされた気分にはなれなかった。
いつもどこか足りないと感じていた。
その気持ちは昨夜以降は感じていない。
女神の祝福を受けた後、まるで初めからそんなものなどなかったかのようにルフェーヴルの心は満たされていた。
言葉に出来ないほどの充足感。
これまでもリュシエンヌと共にいる時は満足な気持ちがあったけれども、今日はその比ではない。
全てを手に入れたような気持ちだ。
幸福というのがどんなものなのか知った。
ただ傍にいるだけでも胸がいっぱいになる。
……大事に、大事にしよう。
この幸福がこぼれ落ちてしまわぬよう。
ルフェーヴル=ニコルソンは幸福を掴んだのだ。
* * * * *
オリヴィエは言葉が出なかった。
帰ってきた父親と母親から、王女の婚姻の話を聞かされて、それがリュシエンヌ=ラ・ファイエットの婚姻だとすぐには理解出来なかった。
ぽかんとしたオリヴィエに男爵は、いかにリュシエンヌ王女とニコルソン子爵が仲睦まじかったのか話して聞かせた。
男爵にとっては世間話のようなものであった。
王女と子爵の婚姻。
しばらくはどこの夜会やお茶会でもこの話題で持ちきりになるのは明白で、男爵も男爵夫人も娘が話題に乗り遅れないようにと話したのだった。
オリヴィエの顔が真っ青なことに気付いた母親が、心配して娘を部屋へ下がらせた。
そして自室に戻ったオリヴィエは遅ればせながら理解した。
リュシエンヌがルフェーヴルと結婚した。
その事実を理解した瞬間、オリヴィエは机の上にあった物を全て薙ぎ払った。
置かれていた手紙やペン、インク壺などが派手に床へ転がり落ちたが、使用人達は誰も見に来ない。
娘の癇癪が酷いことに頭を抱えた男爵が、これ以上の悪評を抑えるために、使用人達にオリヴィエの癇癪が始まったら部屋に立ち入らぬように厳命したのだ。
使用人達は誰もがホッとした。
特にメイド達は心底安堵した。
オリヴィエは手加減というものがない。
熱い紅茶でも味が気に入らなければかけられるし、癇癪の最中は物を投げつけられたり、暴力を振るわれたりする。
それで顔や体に傷を負ったメイドも少なくない。
「あああぁああぁっ!!!」
怒りのあまりオリヴィエの視界が真っ赤に染まる。
ずっと愛していた人が結婚してしまった。
それも自分の居場所を奪った悪役と。
「そこは私の場所なのに!!」
掴んだクッションを何度もソファーへ叩きつける。
そのせいであっという間にクッションは破け、中身が飛び散った。
それでもクッションを振り回し、殴り、蹴って、オリヴィエは抑えきれない怒りに吠える。
「ふざけんなよ!! あのクソ女ぁ!!!」
怒りというより、もはや憎悪であった。
あの女が憎い。許せない。
……殺してやりたい。
そう思った瞬間、ふっとオリヴィエの体から力抜け、その体がガクリと傾く。
そうして瞬きの間に表情が変わった。
「……そんなことはさせないわ」
それはオーリだった。
オリヴィエのストレスが限界に達したため、そしてオリヴィエの殺意を感じて、無理やりオーリが表に現れたのだった。
自室の中で自分だけとは言えど、もしもオリヴィエは今の感情を口に出してしまったらとんでもないことになる。
扉の向こうには使用人の控え室があり、そこでは使用人達が耳を澄ませ、気配を押し殺しているだろう。
もしも「王女を殺してやる」などと口にすれば、それは使用人達の口から漏れてしまう。
ただでさえ両親にはオリヴィエが流そうとした噂のせいで迷惑をかけているというのに、更に事態を悪化させるわけにはいかない。
オリヴィエの精神が削られていたからこそ、オーリが慌てて出てこられたのは笑えない話だ。
……それにしても、王女殿下であらせられるリュシエンヌ様に殺意を抱くなんて……。
オーリはゾッとした。
オリヴィエの感情や思考は嫌でもオーリに伝わってくるが、どうしてもその思考が、価値観がオーリには理解出来なかった。
オリヴィエの記憶もオーリは知っている。
けれども決してそれは好ましいものではなかったし、自分本位なそれがオーリは苦手だった。
同じ体にあるはずなのに、明確に伝わってくるのに、全く理解が及ばないオリヴィエの思考は一種の恐怖すら感じられた。
同時に、現実の世界を生きられない憐れな人だとも感じていた。
ゲームに執着して、自らの人生をダメにしている。
きちんとここで生きていければオリヴィエにはオリヴィエなりの幸せだって掴めたかもしれないのに。
オリヴィエは頑なに現実を見ようとしない。
自分の理想ばかり追いかけている。
「そのせいでお父様にまで捨てられそうになってるのに気付かないなんて」
オリヴィエも最近父親である男爵に以前ほど可愛がられていないことは分かっているようだ。
だが、それが自分の行いのせいだと結びつけることがない。
それどころか王女殿下が悪いなどと、見当外れも甚だしいことを考えている。
……でも、いっそ勘当された方がセリエール男爵家のためになるのかも。
そうすればオリヴィエは学院にも通えなくなるし、問題行動を起こしても助けてくれる人もいなくなり、平民として生きていくだろう。
このオリヴィエが平民の暮らしに戻れるとは思えないが、もしかしたらそのストレスで、オーリに主導権が移るかもしれない。
思えば、男爵家に引き取られてから段々とオリヴィエの方が表に出てくることが増えていった。
平民として育ったオーリには、貴族のご令嬢という暮らしは正直あまり性に合わなかった。
「……このことをリュシエンヌ様に報せないと」
オリヴィエが明確に王女殿下へ殺意を持った。
その殺意はオリヴィエの中にある他の感情よりもずっと強く、苛烈で、恐らくそうすぐには消えないものだ。
今はオリヴィエの方は眠っているため、彼女が何を考えているかは伝わってこない。
それでも今まで同じ体にいて、思考や感情を知っているからこそ、オーリにはオリヴィエが考えそうなことは予想がつく。
……きっとリュシエンヌ様を害そうとするはず。
これまでは近付かなかったが、今後は積極的に近付いていくだろう。
オリヴィエは王族への不敬がどのような結果を生むか本当の意味では理解していない。
自分はヒロインだから大丈夫などという、何の根拠もない自信を持っている。
それ故にどのような行動をするか……。
オーリは想像してブルリと体を震わせた。
……そうだ、今ならお父様かお母様にお願い出来るかもしれない!
今、オーリは体の主導権の大半を握っている。
いつオリヴィエに戻るかは不明だが、すぐではないことは確かだ。
オーリは急いで自室を出た。
そしてそのまま居間へ向かった。
夜会から戻った両親は一度着替えた後、よく居間であれこれと話し込んでいるからだ。
そして思った通り、両親はそこにいた。
「お父様、お母様!」
ノックも忘れてオーリは扉を開けたので両親は振り向いた。
「オリヴィエ? どうしたんだ?」
「まあ、オリヴィエったら羽毛だらけじゃない。それに髪やドレスまで乱れて……。淑女として恥ずかしいですわよ」
父親は驚き、母親は酷い格好の娘に眉を寄せた。
平民出身の母親は貴族らしさにこだわっている。
だからオーリの乱れた格好を良く思わなかったし、そんな格好で現れた娘に注意をしたのだ。
けれどもオーリはそのまま両親に駆け寄ると、床に膝をついて懇願した。
「お父様、お母様、どうか私を修道院へ入れてください!」
その言葉に両親は仰天した。
「何を言ってるんだ!」
「一体どうしたの?!」
思わずといった様子で立ち上がった両親に、オーリは泣きながら頼み込んだ。
これ以上二人に迷惑をかけたくない。
大切な家族を路頭に迷わせたくはない。
「お願いです、私の中には悪い私がいるんです! この前、王女殿下の悪評を流そうとしたのもその悪い私です! このままでは取り返しのつかないことをしてしまうかもしれません! そうなる前に私を王都から離れた規律の厳しい修道院へ入れてください!」
「馬鹿者! 何を訳の分からないことを! そのようなことをしたら我が男爵家の体面を傷付けることになる! それに我が家にはお前しか子供がいないのにどうする気だ?!」
初めて父親に怒鳴られたオーリはビクリと震えた。
それでも、と必死に食い下がる。
「ですがお父様! 悪い私は王女殿下を害そうと思っています! 何をするか分かりません!」
オーリは父親に取り縋った。
しかし父親はそれを振り払うと使用人を呼びつける。
「誰か、娘を部屋へ連れて行け! オリヴィエ、頭を冷やすんだ!! 夏期休暇が終わるまで部屋から出ることは許さん!!」
「お父様……!」
使用人のメイド達がやってきて父親からオーリを引き剥がす。
「お父様、お母様! どうか私の話を聞いてください!! お母様!!」
オーリが母親へ視線を向ける。
けれども、思っていたものとは違う母親の冷たい眼差しにオーリは硬直した。
いつもオリヴィエに向けられる優しい目ではない。
「あなた、きっとこの子は怖い夢でも見て錯乱しているのですわ。私が休ませてきますわ」
「おお、そうか、そうしておくれ」
「さあ、オリヴィエ、部屋に戻りましょう」
ぐい、とメイド達に引っ張られて居間から引きずり出される。
オーリが何を言っても聞いてもらえず、自室へ連れ戻されてしまった。
そうして部屋に戻されたオーリが放り出されて床に尻餅をつくと、目の前に母親が立った。
「オリヴィエ、いいこと? あなたは貴族の殿方を射止めて、どこかより良い家に嫁ぐか、婿を取るのよ。高貴な血を入れる必要があるの。それが出来なければ、あなたも私も旦那様に捨てられてしまうわ」
淡々と言葉を発する母親の目は冷たいまま。
オーリが「でも」と口を開けば、ピシャリと平手で頬を打たれた。
「また平民の暮らしに戻りたいの? 私は嫌よ! 家族を、男爵家を、私を大事に思うなら言うことを聞きなさい!」
オーリは打たれた頬を押さえ、呆然とする。
父親も母親も少々傲慢なところはあるけれど、家族には優しい人だと思っていた。
今まで、ずっと、オリヴィエは甘やかされてきた。
だからオーリが懇願すれば聞いてくれると思った。
王女殿下に不敬を働こうとするような娘だから、きっと、修道院へ行きたいと自ら願えばその通りにしてもらえると。
「おかあ、さま……」
「ああ、しまった、顔を打ってしまったわ。そこの者、今すぐ冷やすものを持ってきなさい。……オリヴィエ、あなたには失望したわ。これ以上私と旦那様に迷惑をかけないでちょうだい」
言うだけ言って、母親は部屋を出て行った。
残されたオーリは床に座り込んだまま動けなかった。
……迷惑をかけないために、言ったの……。
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
意識が遠退いていく。
……わたしはどうしたらいいの……?
オーリの意識が闇に飲まれ、床へ倒れ込んだ。
そしてパチリと目を覚ます。
「……何よ、これ?」
涙で濡れ、痛む頬にオリヴィエは顔を顰めながら起き上がったのだった。




