昼寝
クリューガー公爵領に到着して二日目。
今日は織物市を見に行く予定だ。
だが行くのは午後からで、午前中は時間が空いているため、借りた本を読むことにした。
王城の図書室にない本ばかりなので楽しみだ。
ソファーに座り、本を開く。
ルルはわたしの横に座っている。
片腕をソファーの背もたれに乗せて、もう片手でわたしの髪を弄っているが、そういうのはわりといつものことなので特に気にならない。
読みながら本のページを捲っていく。
……うん、著者が違うけど内容は王城にある本と似てるね。
思わず最後の方のページを見れば、見覚えのある本のタイトルがいくつか書かれていた。
……やっぱり参考にしたのはあの本かあ。
それならと流し読みしていく。
そしてこの本は参考資料の本達の内容を分かりやすくまとめたもので、特に新しいことは書かれていない。
時間の無駄だったかと本を閉じる。
横から、ふあ、と微かな声がした。
見れば珍しくルルが欠伸をしているところだった。
「ルル、眠いの?」
声をかけるとルルが振り向いた。
「ん〜、ちょっとねぇ」
そう言いながらもう一度欠伸をこぼす。
……もしかして。
「あんまり寝てないの?」
ルルはクリューガー公爵領に来てからも、変わらずわたしが眠るまで傍にいてくれるし、起きた時も一番に傍にいてくれる。
「まあ、そうだねぇ」
よくよく見ればルルの目の下に薄っすらと隈が出来ていた。
近くで見なければ気付かないほどだが、確かに隈がある。
それにハッとした。
こう見えて結構警戒心が強いのがルルなのだ。
いつもと同じように椅子に座って眠っているとばかり思っていたけれど、もし眠らずに起きていたとしたら……?
ここに到着したのは一昨日だ。
つまり、二日間徹夜しているということになる。
しかも徹夜したまま、昨日は一日船を漕いだり歩いたりしていたということでもある。
「ルル、ちょっとお話をしましょう」
「……何で急に丁寧な口調なのぉ?」
何か感じ取ったのかルルが若干身を引いた。
その分、ずいっと体を寄せる。
「正直に言って。公爵領に来てから寝てる?」
ルルが頬を掻いた。
いつもはへらへらして誤魔化すだろうに、ルルは視線を逸らして首を傾げた。
「あ〜、えっとぉ、寝てないかもぉ?」
「やっぱり!」
思わず声を上げたわたしにルルが「怒らないでぇ」と両手を上げて言う。
怒らない理由がなかった。
いくらわたしのためと言っても限度がある。
ルルが体調不良になってまで守られても、そんなの嬉しくない。
「ねえ、ルル。ルルが無理してでもわたしを守ろうとしてくれているのは分かる。わたしのためだってことも。何事にも絶対はないから」
そっと手を伸ばしてルルの頬に触れる。
具合があまり良くないのか少し体温が低い。
「でもね、わたしにとってはルルが一番なの。わたしの命よりも大事なの。無理をして命を削らないで。その分、一緒にいられる時間が減っちゃうかもしれない。……そうなったら悲しいよ」
ルルがハッとした様子でわたしを見た。
そして頬に触れるわたしの手に、自分の手を重ねて、すりっとわたしの手に頬を寄せた。
まるで大きな猫みたいだ。
「ごめん、リュシー」
ルルが囁く。
「公爵領が危険ってわけじゃない。むしろ他の領地に比べたら安心出来ると思う。でもここはリュシーの宮じゃない」
ルルが言う。
ここはわたしの宮でも王城でもない。
まだ来たばかりでルルもこの城の全てを知ってるわけでもないし、どのような人間が働いて、わたしのことをどう思っているかも分からない。
お父様やお兄様の庇護下から離れている今、わたしが狙われる可能性もある。
だから心配で目を離せない。
何かあった時にすぐに対処出来る位置にいたい。
そういうことだった。
「……ルルも不安なんだね」
「も?」
「実を言うとね、わたしもちょっと不安なの」
初めて王都を出た。
初めて王城の外で泊まった。
初めて、お父様やお兄様のいない場所にいる。
ルルがいるから耐えられる。
逆を言えば、ルルがいなかったら、不安ですぐに王都へ引き返してしまったかもしれない。
「初めてお父様とお兄様と離れたから」
「でもね」と言葉を続ける。
「結婚したら、そうなるよね? ルルだってお仕事に行くことがあるよね? ……わたしは、今、その練習だと思ってるよ」
きっとわたしはその時になったら不安で不安で仕方がなくなるのだろう。
お父様もお兄様もルルもいなくて。
もしかしたら泣いてしまうかもしれない。
不安で、ルルと同じように眠れないかもしれない。
でも、それにもいつかは耐えなくちゃいけない。
だから今はその練習中。
それにリニアさんもいる。
ルルだってこうして傍にいる。
わたしの感じてる不安は多分、杞憂なんだ。
「ルル、少し休んで」
膝の上に乗せていた本をテーブルに置く。
そして、代わりに膝を叩いて見せる。
ルルが不思議そうに首を傾げた。
……そっか、ルルは膝枕を知らないのか。
「横になって、ここに頭を乗せて」
ソファーの端に移動してもう一度膝を叩く。
灰色の瞳が丸くなった。
それから、恐る恐る体を横に倒して、わたしの膝の上に頭を乗せた。
足の上に乗ったルルの頭にそっと触れる。
ルルの肩がピクリと動いた。
「大丈夫、わたしはここにいるよ。控えの間にリニアさん達侍女や騎士達もいるから、何かあっても大丈夫。だから、ね、ちょっとだけ寝よう?」
見下ろせば、仰向けになったルルと目が合った。
安心させるように出来るだけ柔らかく微笑んだ。
ルルの胸元に優しく手を置く。
その手を一定のペースでぽん、ぽん、と動かして、ゆったりとしたリズムを作る。
そのリズムに合わせて歌う。
それは誰もが聞き慣れた賛美歌だ。
女神を讃える、神殿の聖なる歌。
相変わらず楽器は何一つ出来ないけれど、歌だけは褒められ続けたのだ。
だから歌にだけは自信がある。
ゆっくりと、静かに、囁くように。
……ルルが眠れますように。
ただそれだけを願って歌う。
わたしにとってルルの傍が一番安心出来るように、ルルにとってもわたしの傍が一番心安らげる場所であって欲しい。
わたしはルルが眠りに落ちるまで歌い続けた。
気付けば、膝の上のルルは寝息を立てていた。
「良い夢を」
眠るルルの額にそっと口付けた。
* * * * *
リュシエンヌが歌っている。
透き通る声が、控えめに、静かに、囁くように、誰もが知る賛美歌を歌っている。
それに合わせて胸の上の手が優しく体を叩く。
今までの人生で一番聞き慣れた声だ。
疲れもあってかやや強張っていた体から、ゆっくりと力が抜ける。
綺麗な声だな、とルフェーヴルは思った。
恐らく誰が聞いても美しいと感じるだろう。
昔からリュシエンヌは歌が上手かった。
楽器は全く扱えないのに、歌だけは音楽教師ですら感心するほどに上手い。
これまでは授業でしか聞くことがなかった。
リュシエンヌ自身は歌にあまり関心がないようだ。
それなのに、今、リュシエンヌは歌っている。
ルフェーヴルのために。
子守唄として。
ルフェーヴルは歌に誘われるまま目を閉じた。
膝枕なんて話でしか聞いたことがなかった。
幼い頃、まだ娼館で暮らしていた時でさえ、そのようなことをしてもらった記憶はない。
抱き締められることはあっても。
頭を撫でられることはあっても。
誰かの足に頭を預けるなんて初めてだった。
リュシエンヌの細い足にルフェーヴルの頭は重いはずなのに、一言もそんなことを漏らさない。
それどころか歌いながら微笑むばかり。
胸を優しく叩かれるのも、頭を預けるのも、どちらも急所であるはずなのに、不快感はない。
それは相手がリュシエンヌだからか。
ウトウトと微睡み、やがて感じる睡魔に抗えずに眠りに落ちる。
完全に意識が途切れる寸前、リュシエンヌの声がした。
「良い夢を」
そしてルフェーヴルの意識は眠りについた。
* * * * *
そろそろ主人の紅茶のおかわりが必要だろうと、リニアは新しい紅茶を用意して部屋の扉をそっと叩いた。
主人であるリュシエンヌは集中力が高い。
そのため、読書中はノックをしても気付かずに反応しないことが多い。
だからリニアは主人から前もって許可を得ていた。
静かに扉を開け、視線をソファーに巡らせて、そしてリニアは固まった。
ソファーにはリュシエンヌと、その婚約者であり護衛でもあり、侍従でもあるルフェーヴルがいた。
ただ、問題はそこではない。
主人であるリュシエンヌがルフェーヴルに膝枕をしているのだ。
それだけでも驚くことなのに、あのルフェーヴルが、リニアが部屋の扉を叩いて開けても、ピクリともしない。
ちょっとの物音でも聞き逃さないルフェーヴルが。
ソファーの上で横になり、リュシエンヌの膝に頭を預けて、まるで幼い子供のようによく眠っているのが遠目にも分かった。
膝枕をしているリュシエンヌも眠っている。
……あれは昼寝でいいのかしら。
二人があまりにも気持ち良さそうに眠っているので、リニアは起こさないようにそっと、音を立てずに扉を閉めた。
……この紅茶は私達でいただきましょう。
また頃合いを見て新しい紅茶を淹れようと考え、控えの間に戻ると、共に公爵領に来ていた後輩の侍女二人が不思議そうに首を傾げた。
「あれ、リニアさん、どうされましたか?」
「リュシエンヌ様、紅茶は要らないと?」
その問いにリニアは首を振った。
「いいえ、リュシエンヌ様はニコルソンとお昼寝中だったわ。よく眠っていらしたから起こさずに戻ってきたのよ」
二人の侍女の目が輝いた。
この二人、あまり似ていないが実は双子である。
そしてまだ二十前半で、仕事は出来るのだけれど、恋愛に関することが大好きなのだ。
この二人は伯爵家のご令嬢だったが、リュシエンヌとルフェーヴルの様子を夜会などで見かけて「これだ!」と思ったらしい。
驚くことに、リュシエンヌとルフェーヴルの二人の様子を見るためだけに難しい試験を越えて侍女としてやって来た人種だ。
「まあ、それはどのような光景でした?」
「二人でお昼寝! 同衾ですか?!」
二人の鼻息が荒くなる。
それにリニアは呆れを含んだ息を吐いた。
「いいえ、リュシエンヌ様がニコルソンに膝枕をされていらしたわ」
「まあまあまあ……!」
「ああ、その様子を見たいです! 見に行ってもいいですか?」
「やめなさい。リュシエンヌ様はともかく、ニコルソンを起こすと後が怖いわよ?」
リュシエンヌの侍女、そしてリュシエンヌの宮のメイド達はルフェーヴルを恋愛対象として見ていない。
何故ならルフェーヴルはリュシエンヌしか見ていないからだ。
そして、ルフェーヴルに近付こうとする女は皆、リュシエンヌの警告を受け、それでも諦めないと別の場所に飛ばされる。
以前、リュシエンヌの警告を無視してルフェーヴルを誘惑しようとしたメイドがいたが、即刻クビとなった。
主人の婚約者に色目を使うような使用人など、使用人として当然失格だが、それ以上に他の使用人達も自分達がそのような人間と同じに思われるのではと不安も感じていた。
だがリュシエンヌはそうではなかった。
そのメイドをクビにした一方で、使用人達に「他の人はそうではないと分かっているわ。いつも頑張って働いてくれてありがとう」と優しく声をかけた。
それにどれだけの使用人が安堵したことか。
ちなみにリュシエンヌは侍女達に自分の恋愛について騒がれても、特に気にしていないようだった。
……まあ、気にしていたら侍女達の前であんなにニコルソンとべったりしないわよね。
侍女達の中には二人の大恋愛に憧れて、まるで劇の俳優のファンのように二人のことを見ている者もいる。
この二人もそういった類いである。
とにかく、リュシエンヌとルフェーヴルの恋の行方や普段の様子が知りたくて仕方ないのだ。
「ああ、私が持っていけば良かったですわ……!」
双子の姉の方が心底残念そうに言う。
「その場面を画家に描いてもらいたいです! お二方のイチャイチャを見たくてここまで頑張ってきたのに!」
妹の方が悔しそうに言う。
仕事も出来るし、普段は気の利く良い娘達なのだが、これだけが彼女達の問題点でもあった。
それでも主人達に聞こえないように小声で騒いでいる辺りは器用である。
「ほら、紅茶でも飲んで落ち着きなさい」
このままでは無駄になってしまう紅茶をティーカップへ注げば、二人は騒ぐのやめて素直に近付いて来た。
それぞれにティーカップを渡すと椅子に戻り、静かに飲み始める。
……こうしていればご令嬢らしいのだけれど。
存外、元気いっぱいな双子にリニアは苦笑しつつ、自分用の紅茶を用意して席に着く。
左右から感じる視線に気付かないふりをして、ティーカップに口をつけたのだった。
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