初めての旅(1)
旅行の許可が出て五日目。
その間に、わたしの旅行の準備をリニアさんやメルティさんを含む侍女達が大急ぎで行ってくれた。
旅程はクリューガー公爵領まで一日半かかる。
行って帰って三日、クリューガー公爵領に五日滞在がわたしの予定である。
お兄様は三日かけて行き、二泊三日し、また三日かけて王都へ帰ってくる予定だ。
つまりお兄様と一日半一緒に旅をして、クリューガー公爵領で五日泊まり、戻ってくるお兄様と合流してまた一日半かけて帰るということだ。
お父様とお兄様もわたしが増えたため、護衛の騎士などを増やしたり宿の部屋を追加してくれたり、色々と手配してくれたそうだ。
申し訳ない気持ちもあったけれど、お父様いわく、護衛に当たる騎士達の士気は高いらしい。
普段はわたしの護衛の担当ではない騎士達も、王女を間近で護衛出来るということで、やる気が出ているのだとか。
……まあ、いいけどね。
どうせ旅の間はほぼ馬車の中だ。
王族である以上は見られるのも仕事である。
そして本日、ついに旅に出る日となったのだ。
「初めての旅を楽しんできなさい」
見送りに来てくれたお父様の言葉に頷き返す。
「はい、一週間ほどですが、お父様もわたし達がいないからと言ってお仕事ばかりせず、適度に休息を取ってくださいね」
「ああ、そうだな、気を付けよう」
わたしの言葉にお父様が小さく笑う。
お兄様もそれに頷いた。
「私達がいないと父上は仕事に集中し過ぎて食事を抜くので、本当に気を付けてください。父上が休まないと部下も休めませんから」
「分かっている」
お父様は頷き、その斜め後ろに控えていた側近も何度も深く頷いていた。
十二歳になって王族として立つことが増えた当初、お父様の側近に「どうか陛下に休まれるようおっしゃっていただけませんか?!」と頼み込まれたことはまだ記憶に新しい。
元々、仕事熱心な人だろうとは思っていたけれど、わたしとお兄様が王族として表舞台に立つまで、王族の公務を一手に請け負ってくれていたそうで、お父様は寝食を削ってまで公務を行なっていた。
だが上司であり主人である国王がはたらいているのに、部下である側近や家臣達が休むわけにもいかず、側近達も働き詰めだったのだ。
お兄様とわたしが王族として公務を始めるまでと言っていたはずなのに、わたし達が王族になってもあれこれと仕事を続けるお父様に、ついに側近が切れたのは仕方ないことだろう。
それ以降、お兄様はお父様から少しずつ公務を教わり、仕事をこなしている。
わたしは王族としての公務は出来るけれど、国王もしくは王太子が行わなければならない仕事には手を出せない。
「お前達、我が国の王太子と王女を任せたぞ」
お父様の言葉に騎士達が剣を掲げる。
お兄様とわたしの近衛騎士隊長が揃って「この命に代えましてもお守りいたします」と答えた。
それにお父様が満足そうに頷いた。
馬車にわたし、お兄様、ルル、ミハイル先生の順に乗り込む。
そう、何とお兄様の側近の代わりにミハイル先生が同行するそうなのだ。
お兄様が学院を卒業して側近達が正式に決定したら、ミハイル先生はまた相談役に戻るが、それまでは側近のような立ち位置でいてくれているらしい。
扉が閉まり、騎士達が配置につき、そしてゆっくりと馬車が動き出す。
窓からお父様に手を振った。
後ろからはお兄様の従者達が乗った馬車や、リニアさんと侍女二名が乗った馬車、そしてそれぞれ荷物を乗せた馬車がついてくる。
そのため、騎士達もかなり大勢だ。
「お久しぶりです、ミハイル先生」
窓のカーテンを閉めて向き直る。
ミハイル先生が微笑んだ。
「ええ、本当にお久しぶりです。ですが私は色々な場所でリュシエンヌ様の功績を聞き及んでおりましたので、あまりそのような感じはしませんが」
「それは、その、お恥ずかしい限りです……」
「何も恥ずかしがることはありません。リュシエンヌ様は王族として素晴らしい功績ばかり挙げられていらっしゃるのです」
「むしろ誇るべきですよ」と言われても、なかなかそういう気にはなれない。
困って、苦笑して返すとミハイル先生に「謙虚なのはリュシエンヌ様らしいですね」とニコニコ笑っていた。
……いや、前世の記憶のおかげな部分が多いから、わたしの功績って感じがしないだけで……。
お兄様がミハイル先生の言葉に頷く。
「そうだな、そこがリュシエンヌの良いところでもある。高い地位でいると、どうしても謙虚さを忘れてしまうからな」
「アリスティード殿下はもう少し謙虚になられた方がよろしいのではございませんか?」
「馬鹿を言うな、多少の謙虚さは必要だが、王太子が腰が低くては他国に攻め入られるだろう」
二人とも、軽口を叩き合っている。
……何だかああいうの、いいなあ。
男同士の気安い感じっていうのが伝わってくる。
窓の外の騒めきにお兄様が気付いた。
そしてカーテンを開けて良いか問われ、頷くと、ミハイル先生とルルがカーテンを開けた。
大通りの左右に大勢の人が立ち、カーテンが開くと、どよっと一際大きく騒めきが広がった。
外から「王太子殿下!」「殿下お気を付けて!」と声が聞こえてくる。
五日前にわたしの同行が決まったため、恐らく王都の民達にはわたしのことは知らされていないのだろう。
お兄様の向かい側に座るわたしを見た、民が驚いた顔をする。
……そうだよね。
わたしが国民の前に公式に出るのは年に数回だから覚えられていないのは当然だ。
でもすぐに笑顔で手を振られた。
「リュシエンヌ、手を振ってやってくれ」
お兄様に促されて手を振る。
するといっそう騒めきが大きくなった。
その中には「王女殿下だ」「お美しい」というものに混じって「初めて見た」という声もあった。
それについ笑ってしまう。
とても素直で、分かりやすい反応だった。
けれど「行ってらっしゃい!」と声がすれば嬉しくなる。
「行ってきます!」
窓を開けて、手を振れば、民達が大きく手を振って返してくれる。
中には子供を抱えている人もいて、小さな子が、よく分かっていない様子ながらも周りの人々の真似をして小さく手を振っている。
……可愛い。
大変だったけれど、わたしもお兄様も、王都を出るまで大通り沿いにいる人々へ手を振り続けたのだった。
おかげで少し腕が痛い。
二の腕を摩っているとルルに「大丈夫ぅ?」と訊かれた。
「大丈夫。こんなに長く腕を振ることがなかったから、ちょっと疲れちゃっただけ」
「腕貸してぇ」
「? うん」
横にいるルルに腕を差し出すと、そっと掴まれる。
そしてその大きな手が優しくわたしの腕をマッサージしていく。
「あー、ちょっと張ってるねぇ」
痛過ぎないけどちょっと痛いような力加減だ。
……気持ちいい。
思わず座席に背中を預け、ルルに完全に腕を任せてしまう。
ぐたっとするわたしにお兄様とミハイル先生がクスクスと笑っている。
どうせカーテンはもう閉めてあるのだから、多少気を緩めてもいいだろう。
ルルもふふ、と笑いながらわたしの腕をマッサージしている。
これが他のご令嬢と子息なんかであったなら、婚前なのにそんなに触れ合ってと言われるかもしれないけれど、わたしとルルは解消も破棄もないため気にすることはない。
……まあ、それでも人前ではここまでベタベタしないけどね。
お兄様やミハイル先生など、わたし達のことを理解してくれている人の前だからこそ、普段通りに出来るのだ。
「お兄様がこれから向かうバウムンド伯爵領はどのような場所なんですか?」
お兄様が視察に行くバウムンド伯爵領はクリューガー公爵領より更に一日半街道を東に進んだ先にある領地だ。
地図で見ると山の多い領地であった。
「ああ、今回はワイン造りとブドウ畑の視察だな。バウムンド伯爵領はワイン造りが有名でな、なかなかに美味しいものを作っていて、王家にも納めているほどだ」
「そうなのですね」
わたしはまだお酒を飲める年齢ではない。
この国は十六歳になれば飲酒が可能だが、お兄様も普段はあまり好んでは飲まないそうだ。
付き合いで多少口にすることはあるようだけれど、お酒よりも、果実水やジュースの方が好みらしい。
甘いものはそんなに沢山食べないのに。
「私達が飲むブドウジュースもあそこのものが多い」
「まあ……。もしかして王家主催の夜会で必ず出る、あの甘くて少し渋みのあるサッパリしたものですか?」
「そうだ」
普段は果実水をよく飲むわたしだけれど、夜会などでは周りのワインを飲む大人に合わせて、リンゴやブドウのジュースを口にすることが多い。
その中でも、甘いけれど、ほのかに渋みもあって、後味のスッキリとした美味しいブドウジュースがある。
それが夜会での密かな楽しみでもあったりする。
普段から飲むことも出来るだろうけれど、特別なものは、滅多に飲まないからこそ特別感がより出るのだ。
「わたし、あれが大好きなんです」
お兄様が目を瞬かせた。
「そうなのか?」
「そういえば、リュシーってブドウジュースを夜会の時に飲んでるよねぇ」
ルルが思い出した様子で言う。
それに頷き返す。
「周りがワインを飲んでるからね。見た目だけでも似たようなものを持ってた方が話の種になるし、何となくその方が良さそうでしょ?」
「それに美味しいし」と言えば、ルルが「確かにあれは美味しいよねぇ」と笑う。
「そんなに好きなら厨房に言えば普段から飲めるぞ?」
お兄様に不思議そうに言われて首を振る。
「すごく美味しいものは時々口にするから美味しいんです。毎日口にしていたら、一口目の感動を忘れてしまいます」
「なるほど、そういうものか」
「はい、そういうものです」
お兄様が若干首を傾げたまま、ふむ、とこぼす。
……その辺りの考え方はお兄様はわたしとは逆かもしれない。
お兄様は好きな食べ物や飲み物などは頻繁に口にするし、気に入ったものもすぐに手元に置きたがる。
わたしが時々接してゆっくり楽しみたいのに対し、お兄様は常に近くに置いて楽しみたいといった感じなのだ。
だからわたしの感覚はお兄様には分かり難いかもしれない。
「バウムンド伯爵領は他には何が有名なんですか?」
「そうだな、有名というならば療養地としても有名だな。山から独特な臭いのする温かい水が湧き出ているんだが、それが病や怪我に効くと言われていて、貴族の間では観光と療養の両方の面で有名だ」
山から湧き出る独特な臭いの温かい水……。
「それって温泉ですかっ?」
「ああ、よく知っているな」
「あ、えっと、本で読みました。確か美容にも良いって書いてあったので」
「そういえばそんなようなことも聞いたな」
……この世界にも温泉がある!
「一度行ってみたいです!」
全員がこちらを見た。
ルル以外の二人の不思議そうな顔に慌てて言い募る。
「その、大きい湯船なんですよね? 美容にも体にも良いなら、一度くらいは入ってみたいかなあって」
ミハイル先生が微妙な顔をする。
「リュシエンヌ様、恐らく王城の王族専用の浴場の方が温泉よりも湯船は大きいと思いますよ」
「あ」
王族専用の浴場は大きい。
ハッキリ言って、ちょっとしたプール並みの大きさで、いつも一人でぽつんと入っているのだ。
一応、浴場には専属のメイド達がいるけれど、一緒に湯に浸かるわけではない。
あの広い湯船に一人というのは贅沢というより寂しさの方が強くなる。
「それに王族となれば警備上の問題で貸し切りだから、他の客にも迷惑がかかるだろう」
「そうですね……」
それならば王城の浴場の方が良い。
誰にも迷惑をかけないし、広いし、効能はないけれど、専属のメイド達が全身を隅々まで磨いて、オイルマッサージなんかもしてくれるので、結果的には似たようなものかもしれない。
そんな風にのんびりと話をしながら馬車は騎士達に守られながら街道を進んでいった。
そうして昼頃に一旦、休憩のために停車する。
ミハイル先生、ルル、お兄様、わたしの順に馬車を降りる。
小川がすぐ側を流れており、木々が拓け、見通しの良い空き地になっている場所だった。
リニアさん達がテキパキと動いて木陰に布を敷き、昼食の用意を整えてくれる。
その間、わたしは固まった体を動かしたくて、騎士達の目の届く範囲の中で、ルルとのんびり空き地を歩いた。
小川を覗き込むと小さな魚達がいた。
「ルル、魚がいる」
「本当だねぇ」
座り込んだわたしの横にルルも屈む。
ただの川魚だが、わたしは今生で生きている魚を見たのは初めてである。
ほとんどは料理になっているか、市場に並んでいるため、死んでいる。
十五年生きて、初めて生きた魚を目にしたのだ。
感動もなかなかのものである。
ルルはそんなわたしに笑ったりせず、わたしが何か言う度に、頷いたり相槌を打ってくれたり、よく話を聞いてくれる。
「わたし、初めて生きてる魚を見たよ」
「あー、それはそうだよねぇ。お忍びも王都内だし、大きな川は橋を渡るくらいだしぃ?」
「水の中で鱗がキラキラしてて綺麗だね」
「うん、綺麗だねぇ」
リニアさんに呼ばれるまで、わたしとルルは小川を泳ぐ小さな魚を眺めて過ごしたのだった。
……綺麗だけど、あの魚、食べられるのかな。
こっそりルルに聞くと「あれはあんまり美味しくない奴だねぇ」と教えてくれた。




